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<東京怪談ノベル(シングル)>


『思い出』

 視力が弱いのは、人魚だった頃の名残のようなものだ。その分あらゆる感覚が鋭いので、苦労することはほとんどない。
 ただ――読書だけは違っていた。
(本は何も喋らない)
 どんな音も発しない。
 ただそこに存在しているだけ。
 気配もない。
 だから内容を読み取るには、感覚以外の何かが必要だった。
 本棚から、1冊選んで手に取る。
(今日はこれにしましょう)
 いつもの場所でいつもの椅子に座り替えてから、おもむろに表紙をめくった。
 読書は私の日課――日常の一部だった。
 目を瞑って、活字をかたどったインクに指を滑らせる。けれどそれは、インクを読みとっているわけではなかった。
(ああ……今日も声がする)
 触れるとまず目蓋の裏を、文章が通り過ぎる。それから誰かの読む声が聴こえてくるのだ。もしそこにあるものが図形や写真であったなら、画像のみで終わるけれど。
(優しい声)
 本当はそれが聴きたいがために、本を読むのかもしれない。

     ★

 それが誰の声であるのか、考えたことはある。
(――いや)
 むしろ私は答えを知っているのだろう。
 何故ならその声に、聴き憶えがあるからだ。
 ずっとずっと、遠い昔に。



  ――コン コン
 控え目なノックとともに、使用人の声。
「ご主人様、お荷物が届いておりますが」
 私の中にだけ響いていた声は途切れ、私は目を開けた。
「どうぞ入って、置いていって下さい」
「はい。失礼します」
 使用人は入ってくると、机の前までツカツカと歩いてきて、四角いものを机の上に置いた。意外と小さい。
「何かな?」
「本、のようです。差出人はありませんでしたが、中身はX線で確認してありますのでご安心を」
 使用人はさらりと言った。つまりレントゲン写真を撮ったと言うのだ。
 私は思わず笑う。
「そうでした。そういう”きまり”でしたね」
 私宛ての荷物・手紙に限らず、リンスター宛てに届くすべてのものに何らかの検査が入ることになっているのだ。財閥というものは大きければ大きいほど、敵も逆恨みも多い。
「では安心して開けましょうか」
 私は箱を手に取ってよく見てみる。確かに一般的なハードカバーの本と同じサイズだ。1枚の包装紙でラッピングしたように包まれている。
「わたくしはこれで失礼致します」
 私が中身を確認するより先に、使用人はそう告げるとドアの方へ引き返していった。
「ありがとう」
 その背中に告げる。
 ドアの音。使用人は多分、こちらを向いて一度頭を下げただろう。
「面白い本でしたら、あとでお貸ししましょう」
 付け足すと。
「楽しみにしています」
 半分笑った声が返ってきた。
 ドアが閉まる。
(さて……と)
 本はもう半分見えていた。私は残りのテープを剥がすと、大きな紙になった包装紙を丁寧に小さく折る。別にあとは捨てるだけなのだが、ついキレイに折ってしまうのは性格だろう。
 中から出てきた本は、真っ白い表紙の(案の定)ハードカバー本だ。中央よりやや上の方に、『思い出』の文字が見える。作者の表記はない。
(思い出?)
 そんなタイトルの本は、それこそ腐るほどあるし読んできた。だがこの本に見覚えはない。
(中は―― !)
 ペラペラとページをめくってみて、呆然とした。どんなに視力が弱いといっても、そこに何か書いてあるかいないかくらいはわかる。
(白い……)
 全ページ白かった――つまり何も書かれていなかったのだ。
(もしかしてこれ、今流行りの自分史本ですか?)
 こういうちゃんとした形の本に、自分の日記などを書いていけば、あっという間に自分史になるというタイプのもので、今は色々な種類のものが発売されている。次々に発売されるということは、好評だということだろう。
 しかし私は、この本を注文した憶えはない。
(一体誰が……?)
 適当なページを開いたまま膝の上に乗せて、少し考えてみる。
(まさかさっきの娘が)
 買ってきたわけではないだろう。包装紙には宅配の伝票などもついていなかった。誰かがわざわざこの屋敷までやってきて、郵便受けに入れていったということになる。
(ずいぶん面倒なことを)
 包装紙の指紋でも取ってみようか。
 などと考えているうちに、いつの間にか私の手は本の上に載っていた。
(―― 一応確認してみましょうか)
 もしかしたら薄い灰色の文字で、何かが書いてあるのかもしれない。……そんな読みにくい本に意味があるとは思えないが。
 目を閉じて、ゆっくりと集中してみる。
「………………えっ?!」
 思わず声をあげた。
 聴こえるはずのない声に、耳を疑う。

『……ら、待ちなさい。そんなに急いだら危ないわよ』
『だいじょーぶだよ。はやおよぎとくいだもん』
『得意だから危なくないなんて理屈は通らないのよ。もしそうなら、プロは誰一人死なないわ』
『あ、そーいえばそっかぁ』
『わかったならゆっくり行きなさい』
『はーい……』

 ぱちり。
 目を開けると声が消える。それはまるで夢からの目覚めのようだ。
(今のは……記憶?)
 ”同じ声”だ。
 いつも本を読んでくれる声と。
 同じ優しい声。
 しかしそれは、あまりにも遠い。
(”本物”なんて、もうしばらく聴いていないのに)
 それでも私の頭は、忠実に再現していたというのか。
「……ははは……」
 思わず声に出して笑った。
(そうだ)
 私は気づいていなかったわけじゃない。ただこんなふうに真実なのだと突きつけられるまで、それを認めたくなかっただけのこと。
(こんな歳になってまで)
 まだ”恋しい”などどは、思いたくない。
 けれど心は正直だったようだ。
(本当は、恥ずかしがることなどないのですけどね)
 もともとは一つだった母と子だ。懐かしいと思うのも、還りたいと思うのも当然だろう。
 私はもう一度、目を瞑った。

『――、あなたは人間になりなさい』
『にんげん? どうして? どうやってなるの?』
『あなたには誰よりも広い視野を持って欲しいの。そのためには水中にいてはいけない』
『どうしてさ』
『海の方が広い。けれど陸の方が、世界は動いている』
『……わかんないよ』
『永く生きなさい。人にならなければ生きていくことのできない環境で。それはとても辛いことでしょうけれど、負けてはいけませんよ』
『でもぼくっ、このままでいたいよ……?』
『ダメなのよ、――。あなたには特殊な力がある。このままここにいたのではきっと……永く生きられないわ』
『?! どーゆーこと?』
『あなたのためなの、――。あなたの……』

 あの時泣いていたのは、どちらだったろう。
 人間になることを選んだ私は、今ならその理由がよくわかる。
(私は――)
 人魚としても異端だったのだ。両親はそんな私をかばって苦労ばかりしていた。しかしその時の私はまだそれを知らなかった。
 私が人となることを決心したのは。
(それが母のためだと)
 父に言われたからだった。
 自分のためと言われてもしっくりこなかったが、母のためと言われれば違う。
 私は自ら旅立った。
(思い出――)
 それは確かに、私の思い出だ。久しく思考にのぼることのなかった、遠い記憶。
 目を開けると、改めて本を眺める。
(この本は、思い出を呼び起こす本なのですね)
 だから何も書かれていない。それは読む人の心の中にあり、人により違うから。
 何も、書くことができない。
(いい本をいただきましたね)
 これならば、使用人たちが読んでもきっと楽しめる。ただ普通の感覚しか持たない人が読んで見れるのかどうかは、わからないが。
 私は満足して、その本を机の上に置いた。
 その頃にはもう――贈り主が誰であれどうでもよくなっていた。





(終)