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<東京怪談ノベル(シングル)>


2冊目の225ページ


 昼過ぎに降り始めた雨は、みなもがようやく下校し始めた頃にはひどい大降りになっていた。
 水は好きだ。
 友でもある。
 海原みなもは、水を味方につけることも、退けることも出来た。だが日常生活の中でその特性とも言える能力を使う気にはならなかった。陸に上がっているうちは、自分は人間なのだし、人間の摂理に従って生きようと考えていた。それに何より、天候を操るのは重労働だ。
 秋の空は女心だ、
 商店街の肉屋のおばさんがそう言っていたのを思い出す。
 みなもはそのとき、意味がわからずに訊き返した。
 女心は変わりやすいもの、秋の空はまさしく変わりやすいのさ、おばさんはそう言って笑うと、豚ロースを30グラムばかりおまけしてくれたのだった。
 この夜の雨は、それにしてもひどかった。
 夜――
 そう、今は夜である。日が沈んだのはとうの昔で、月も星も隠れた夜空が頭上に広がっていた。みなもは時折、部活に入っていたことを思い出す。それは決まって、部長に見つかったときだった。自他ともに幽霊部員だと認めているみなもは、部員であることを思い出したとき、部活に出ずにはいられなかった。この日も遅くなるまで部活動をすることになったのだ。部活に打ちこんでいるときは大して苦痛も感じていなかったが、帰路につく今のみなもはうんざりし始めていた。部活などに行かなければ、こんな雨に降られることもなかったのだ。
 蒼い傘が役立たずになるほどの大雨だった。
 雨の音しか聞こえないほどの雨だった。
 ――早く家につかないかな。ここが海だったら、泳いでいけるのに。そうだ、町が沈むまで降ればいいのよ。ここが海になったら、あたしは、のびのび泳げるんだもの。
 ローファーの中はとっくに水浸しになっていた。ソックスはずぶ濡れで、足首から下の感覚がなくなってきている。秋の雨は厄介なほどに冷たい。歩くたびに、ガプガプと何かが溺れているような足音がした。傘をさしているので(まったく役にも立っていないのに)、全速力で走ることも出来ない。みなもはすっかり、うんざりしていた。

 ぱしゃ、ぴしゃ、ぱしゃ、ぴちゃ、ぐちょ、ずるっ、ぱしゃ、ぴしゃ――

「……?」
 みなもは足を止めた。
 雨音と足音だけが聞こえているはずだった。
 その中に巧みに紛れこんだ、不快な音――
 そして、感触。
 背中が冷たい。だが、いまさら冷たさを感じるのはおかしなことだ。すでにみなもの身体は、役立たずの傘のおかげで――いや、強すぎる雨のおかげで、濡れ鼠だったのだから。いまさら背中がはじめて濡れるはずがない。
 みなもは嫌な予感がして、自分の背中に触れてみた。
 ぞっとする、未知の感触がもたらされた。

 自家製ゼリーをスプーンで叩いたときの、あの何とも言い難い感触だった。
 手は濡れていないが、しっとりと湿った感触が残る。
 背中の感覚がない。
 足の感覚は、だいぶ前からなくなっている。
「やだ……なに……?!」


 思い出したのは少し前の出来事。
 『本』を見た。タイトルは忘れてしまった。
 総天然色の挿絵がついた怪物図鑑。
 ガーネットの海へ還ろうとする自分の身体。
 海の水面に映った、みなもではないみなもの顔。
 薄れていく、自分の帰り道の記憶――


 みなもの身体が、どろりと地面に崩れ落ちた。足が、不定形の意思持つゲルとなり、みなもの意思を離れてしまったのである。
 降りしきる水を浴びて、身体は意思とは裏腹に歓喜する。
 ああ、自分は、水そのもの。
 そう思った瞬間に、みなもは身体を何とか取り戻した。身体はみなもの意思に従ったのだ。
 青い髪、青い目の女子高生の姿が、今一度暗い夜道に浮かび上がる。
「か、か……帰らなくちゃ……」
 みなもは役に立たない傘を捨て、鞄だけはしっかりと持って、よろよろと歩き始めた。身体は雨を吸い続けた。足は、前に踏み出すと同時にべちゃりと広がり、持ち上げると、何とかローファーを履いたみなものものに戻るのだ。
「も、もう少し……もうすこしで……いえだもの……」
 あたしの家。
 みずの町の中にうかぶ。
 いもうとがいる。
 あたしのいえ。
 ぐちゃり、
 あともうすこし。
 あと5ふんもかからない。
 5ふんってどれくらい?
 ぐちゃり、
 あたしの、いえ。
 いえはここ。
 どこでもいえで、どこでもそとなの。
 あたし、みず。
 うかぶの。
 まちに。
 いえ。

 どろり、とその青い髪が、地面の上で溶けて広がった。
 感覚が死に、意識が消えた。

 だが、彼女に語りかけてくる声はあった。
 たとえ言葉を最早理解できなくても、呼びかけられたという事実は確かなものだ。
『危なかったです』
 声の主は、ほうと安堵の溜息をついた。
『もう少しで魂まで溶かされるところでしたよ。今なら、食べられた部分も取り戻せます。さあ、安心して下さい。大丈夫、もう貴方は貴方です』


 秋の空は女心。
 雨は、午後8時には止んでしまった。昼過ぎに降り始め、日が沈んだ頃には土砂降りになり、ひとりの少女を溶かすほどだった雨は――止んでしまった。
 みなもが横たわっていたのは、自宅が見える歩道の上。傘はなく、鞄だけがそばにあった。ずぶ濡れになった身体は冷え切っていた。
 何が起きたのだろう。
 悪い夢のようだ。悪いことが起きたのは間違いないのに、おぼろげな記憶しか残っていなかった。
 ずっと家のことを考えていた。それは間違いない。
 だが、自分に一体何が起きていたというのだろう。
 覚えていては、いけないことなのだろうか――。
 みなもはびしょ濡れの髪をひと房、耳にかけながら立ち上がった。
 地面を踏みしめた感触は、ひどく不愉快なものだった。ローファーの中は水浸しだ。
「……乾かさなくっちゃ。お風呂入れて……あったまろ」
 明日も学校がある。
 自分には、明日も家もあった。
 一瞬思い出した、世界のすべてが『家』だという奇妙な感覚――翠の目、赤紫の髪、優しい声。
 それらを振り払って、みなもはあと5分の帰路を急ぐのだった。




<了>