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<PCシチュエーションノベル(グループ3)>


そうだ、京都へ行こう ─遭遇編─

 身体を浸している湯舟の熱さと、頬に当たる秋の冷たい空気の感覚が心地良い。
 不意に吹き抜けた風が、赤く色付いた紅葉を数枚、水面に落として行った。
 それを掬い上げた彼女達は秋の夜風の微笑ましい悪戯に微笑みを交わした。

──ようやく、落ち着ける。

──────……
 
 時間軸は更に一週間程、遡る。
 2003年11月、観光旅行シーズンである。この時期、三方を囲む山々が紅葉し、古都京都は絶景だ。
 仏教的に、蝋燭を象ったその姿を京都駅ビルの総ガラス張りの壁に映した京都タワー、展望室の回転式レストランで三人の女性がランチを摂っている。
 イヴ・ソマリア、ルーンティアリ・フォン・ハウゼン(愛称ルゥリィ)、ウィン・ルクセンブルク。
 明らかに外国人観光客の一団と思しい、1人は緑色の瞳、1人はブロンド、1人はプラチナブロンドの女性三人だが、やや興奮気味な所為か普段よりは声高に交わされる彼女達の会話は全て流暢な、それどころか昨今の乱れた若者言葉に比べれば美しい程の日本語である。
 それと云うのも、彼女達の現住所は押し並べて東京だ。普段はそれぞれアイドル兼異世界調査員や某国際秘密研究所員兼大学生やドイツにあるホテルの日本営業所の女将兼大学生を営む彼女達が、以前からずっと温めていた京都旅行を絶好の紅葉シーズンに決行したのである。因みに、今を時めくトップアイドルであるイヴは仕事用の分身(!?)を東京に残して来ているし、本業は学生であるルゥリィとウィンは優秀なので、少々講義を欠席しても単位に差し支えは無い。ついでに云うならば、金銭的にも余裕があって有り余る三人連れである。これから一週間程、京都の紅葉や歴史的建築や仏像、更には古より鎮座まします京都ならではの妖怪の類の調査(……)、そして何と云ってもメインイベントの温泉をゆっくりと満喫する心積りだ。
 先ずはランチを兼ねて、三方を囲む山々が紅葉した京都の景色を展望、食後の休息時間を珈琲と共に過ごしている所だ。余裕があり過ぎるが故にまだ詳細の極まっていないスケジュールの計画を話し合いがてら。
「今日の所は一先ず、旅館でゆっくりしたいわよね。観光タクシー貸切りの予約は、明日からなの」
 交通手段と宿の手配を全て引き受けていたウィンが浮き浮きと云う。
「直前に柊屋を7泊も予約出来ちゃうなんて、流石ウィンお姉様☆」
「京都は学生の街でしょ、大学に結構コネがあったのよ。それにしてもイヴの情報のお陰よ、ありがとー!」
 柊屋、とは旅館にせよ何にせよ老舗の多い古都京都の中でも、創業から180年を誇る老舗旅館である。
 近年、観光の影響で京都の旅館と云うブランドを売り物にした、名前だけの適当で安っぽいホテルや民宿以下の旅館も多くなって来た。中には勿論、昔ながらの格式を保ち、サービスも建物も最高級の旅館が残ってはいる。が、他所者にはなかなか理解できない独自の連帯感を持つ京都人のそうした実情は、東京都民にはなかなか理解出来ない。
 折角念入りな計画を立て、金銭的にも時間的にも節約する必要の無い旅だ。下調べを怠って「外れ」宿を掴まされては適わない。各自が以前からアンテナを張って他人の意見を聞いたりしていたのだが、ある時イヴがたまたま、友人宅で京都出身者に遭遇し、「京都一番の老舗旅館と云えば柊屋」との情報を得て来たのである。但し、普通の方法で他所者が部屋を予約出来る筈は無い、然しコネクションさえあればいくらでも融通が効く筈だ、という京都人の内状も含め。
 そうとなれば後はウィンに任せれば良いだけの話だった。果たして、労せず彼女は一週間の予約を取り付けた、老舗の旅館相手に。
「ホテルでも良いけれど、どうせなら、よね! ね、ルゥリィ?」
 ウィンの言葉に、先程から遠慮勝ちに黙っていたルゥリィも莞爾と微笑んで頷いた。
「ええ、わたくしは京都ならではの日本文化を体験したいと思っていた所ですし。カール大帝の時代から存在する町の歴史の重み、龍との関わりも深い街と聞きますし……古都ならではの怪談ですとか」
 元々大人しいルゥリィだが、最後の一言は特に低声になった。然し、全員が今回の京都旅行を楽しみにしているのは間違い無い。ウィンは殊更明るい声を張り上げた。
「時間は沢山あるもの、名所くらいなら全部でも回れるわ! それにね、タクシー会社には名所だけではなくて、特に穴場や隠れ家情報にも強い人を頼んであるのよ」
「辻利のパフェと鉤善の葛きりは絶対、食べに行きましょうね!」
 京都ならではの甘味所を、と云うのは前々からのイヴの希望だった。
「勿論、間に何回ティータイムがあると思ってるの? その時には是非お勧めの店へ寄って呉れるようにお願いしましょう、」
「楽しみですね、本当に」
 ルゥリィも静かに同意した。

「柊屋へようこそお越しやす、」
 意外にも町中に位置して居た、黒塗りの壁に囲まれた中の旅館の玄関口では着物姿の板に付いた女将が丁寧に手を付いて頭を下げた。
 土地の所為か、ウィンが趣味で仲居のアルバイトをしている旅館ともまた違うようである。「凄い、老舗って感じよね」とはしゃいだ視線を交わすウィンとイヴの後ろで、ルゥリィは遠慮勝ちに「こちらこそお世話になります」と礼を返していた。
 三人の荷物は、駅前で拾ったタクシーの運転手がここまで運んでくれ、後を仲居が引き受けて行った。
 普通、旅館では若い女性だけの客を歓迎しない。独り者なら尚更で、三人であればそちらの心配はされないが扱いは冷たく成り勝ちである。ウィンのコネクションから紹介があったとは云え、一見客となればその対応は客の人間のレベルに依る。
 女将が触り気無く、彼女達を値踏みするような視線で伺ったのを三人は見逃さなかった。然し、次ぎに顔を上げた時には女将の笑顔は友好的だった。どうやら、お眼鏡に適ったらしく安心と判断されたようだ。
「ほな、お部屋に案内させて貰います」
 そう、促しかけた女将をウィンは急いで制止した。
「あの、取り敢えず荷物を置きに来ましたの、今から少し出たいのですけど、構いませんかしら」
「構しまへん、どちらにお出でです?」
「錦市場、と云うのが近いと聞いたのですけど」
 京都の台所と云われる錦市場だ。観光は明日からにするとして、土産物として京都の名物や珍味を先に物色して置きたい。最終日は温泉へ移動する事だし、土産物の心配があると観光にゆとりが失われる。この際、今日行ってしまおうと云う事になったのだ。

 ──錦市場は碁盤の目に走る京都の横の通り、錦通りのある区間内を指す。市場とは云え一筋だけだが、その賑わいようは流石である。彼女達のような観光客から、周辺の料亭から買い出しに来る料理人、いわゆる「おばんざい」を求める地元民でごった返していた。
 威勢の良い掛声と喧噪の中、一際高い歓声が上がる。 
 イヴだ。
「見て、ウィンお姉様、ルゥリィ、豆腐ソフトクリーム! あれ、有名なんですって、食べて行きましょ☆」
「待って、イヴ、逸れないで!」
 笑顔で答えながらもウィンは、この喧噪の中で身体の弱いルゥリィが人酔いを起してはいないかを気遣っていた。
「ルゥリィ、大丈夫?」
「大丈夫です。楽しいですから、それ所ではありませんね、ウィンお姉様、どうかお気遣い無く」
 早速、その豆腐ソフトクリームを買い込んで店先のスツールで休憩に入った。
 では土産物探しと行きますか、と立ち上がり、再び喧噪の中に身を投じたイヴとウィンは少しして足を止め、はたと顔を見合わせた。
「ルゥリィ?」
 慌てて背後を振り返る。倖い、逸れた訳では無くルゥリィはとある一件の店先を覗き込み、顎に軽く片手を当ててじっと考え込んでいた。
「ルゥリィ!」
 イヴと手を繋ぎ、ウィンは急いで引き返した。ルゥリィが顔を上げる。
「……あ、ごめんなさい、ウィンお姉様。つい、」
「吃驚したじゃない、どうしたの、何か気に入ったものでも?」
「いえ」
 ルゥリィの短い返事の意味は、倣って彼女の覗いていた店の看板を見る事で理解出来た。その店鋪は、ある香辛料の専門店であるが──。
『七味ソフトクリーム』
「……、」
 豆腐ソフトクリームは、有名だけあって未だ美味しかった。……が、これは、どうだろう。
「七味……って、あれよね?」
 イヴの呟きは不安そうだ。
「有名ですね、京都の七味は。そうした本物こそお土産に最適かも知れません」
 ハウゼン嬢、そういう問題では無い。
「……試す?」
 ウィンが珍しく遠慮勝ちに提案したが、「どうどす?」と云う店主の愛想良い売り込みの声も空しく返事は無い。
「いえ、……そちらは結構ですわ、代わりに、ほら、そちらの。七味と一味と山椒のセット、お土産に頂けません?」
 ウィンは円滑に辞退し、この際別に土産を買う事にした。「毎度」と手際よく包装をしながら、然し店主は未だ七味ソフトクリームを勧めたい物と見える。
「日本語お上手どすなあ、お嬢ちゃんやら別嬪さんやし、サービスしますえ?」
「折角ですけど、先刻頂いた所ですの」
 七味セットの料金だけを支払い、ウィンは微笑んだ。そんな得体の知れない食べ物をサービス増量されては堪ったものでは無い。
「珍味って……八ツ橋だけじゃ無かったのね」
 京都の商売人の口上を上手く躱すウィンの背後では、イヴとルゥリィがぽつねんと立ち尽くしていた。イヴは以前、「京都名物生八ツ橋にはチョコレート味やシナモン味やワイン味や果てはソーダ味がある」と聞き齧っていたのだ。
「そのようです、近年の風潮でしょうか。それにしても、京都とは伝統を重んじ、大胆な革新は避ける土地だとばかり思っていましたが。わたくし、認識を新たにしなければ不可ませんね」
「ありがとう、……じゃ、行きましょ」
 苦笑いを浮かべ、包装された箱を受け取ったウィンがそそくさと二人を促した。

 二度目に旅館の框に立った時には、出迎えた女将が流石に目を見開いていた。
「いや、えらい仰山のお土産もんどすなあ、」
 イヴ、ルゥリィ、ウィンは苦笑を交わすしか無かった。彼女達の両手に抱え切れない程の、屋号を印刷した紙袋やビニール袋。全て、この数時間の内に買い込んで来た土産物である。
「ええ、すみませんけど、段ボールか何か頂けませんかしら? それと、後で宅急便をお願い出来ます?」

「……ほんと、大分買い込んでしまったわね……」
「いいじゃない、ウィンお姉様の所に送ったら、どうせ直ぐに無くなってしまうわよ」
「そうね、八ツ橋なんかは特に早めに発送しないと」
「……お兄様達や皆さんに、喜んで頂けると良いですね」
 各自、夕食までの時間を自分の作業に費やした。

 イヴが小さな紙袋を空け、中身を取り出すと涼やかな鈴の音が立った。
 鈴の付いた携帯ストラップである。くっついているのは鈴だけに在らず、擬人化、デフォルメされた某猫のキャラクターのマスコットもだ。それが複数、それぞれ衣装が違い、舞妓、新撰組、写経中の僧衣姿等。
 所謂「御当地物」だ。可愛い物好きで職業柄流行の物には敏感なイヴは、密かにこれを集めていたのである。京都に来たら、「キティラー」の名に恥じないよう京都限定ものを制覇しようと決心していた。
 満足気にそれらを携帯電話に追加して行くイヴに、土産物の箱詰め作業をしていたウィンが話し掛けた。
「良かったわね、先ず最初に見つかって」
「ええ☆ これが気になってたら観光中も気が散る所だったわ。……はい、これはウィンお姉様の分よ☆」
 そうしてイヴは、自分用に買ったものと同じ中身の紙袋をウィンにも差し出す。ウィンは苦笑しながら受け取った。
「私に? 私も携帯に付けるの?」
「勿論♪」
「ありがとう、……後で付けるわ」
「みんなの分も買ってあるの☆ これは持ち帰りでもかさ張ら無いわよね。ルゥリィ……、あら、何処へ行ったのかしら?」

 ルゥリィは建物の観察が主である。創業から180年だ。本国ドイツの歴史ある建物は色々見て来たが、日本の建築は未だ未経験の部分が多い。失礼にならない程度に数寄屋造りの客室の掛け軸や坪庭の様子、雰囲気等を観察しては持参した手帳に書き込んで行く。特に、欄間や其処此処の衝立等に見られる龍の標題は彼女の興味を引いた。
「龍との関わりがこれ程深く根付いているとは、一体どうした謂れでしょう……」
 霊的な要素をも持つ京都の龍の謂れ。『エストラント』の改良の為に何か良い知識が得られるかも知れない。ルゥリィは明日からでも、その点を注意して観察して行こうと書き留め、足音を忍ばせて廊下を歩き回った。
 ……つい、こんな時にまで心から観光を楽しむよりは研究意欲が顔を出してしまうのは悪い癖かも知れない、とは思いつつ。研究者の性分なので仕方無い。

 夕食は当然ながら純和食である。懐石料理はそうそう経験は無く(如何に金銭感覚の崩壊した兄の許で贅沢な洋食を食べさせられ慣れたウィンと云え)、湯葉や京野菜も満喫した。給仕の仲居が驚いたらしく、「皆さん、日本語もですけどお箸使わはるんもお上手どすなあ」と感嘆していた。
「ありがとうございます」
 彼女達は笑顔で答えて置いた。外国人観光客と思われても仕方の無い三人連れである。
 夕食後、落ち着いてから槇の風呂で疲れを取った。温泉も楽しみだが、普段は経験出来ない木の湯舟で熱い湯に浸かるだけでも大分気分が落ち着く。
 湯舟に浸かる習慣に未だ慣れず、元々の身体が弱いルゥリィは湯当たりを起して迷惑を掛ける前に、と思って自分から早めに上がって行った。
「大丈夫?」
「ええ、イヴさんとウィンお姉様はどうぞゆっくり為さって下さい」
 元気そうなルゥリィの笑顔に、では遠慮無く、とイヴとウィンは再びバスタオルを巻いた身体を湯に沈めた。ここの所、東京ではトラブルや事件や兄妹喧嘩や、騒動続きだった。日頃の疲れも纏めて流す積もりで、二人は充分に温まってから上がった。
 その後は先に部屋で浴衣に着替えて涼んでいたルゥリィも含め、明日朝からの寺院巡りに備えて早めに就寝した。

「行ってらっしゃいませ」
 翌朝、三人は仲居や女将の笑顔に見送られて旅館を出た。
 イヴは矢張り変装している。東京程使う必要は無いだろうが、一応は緑のままの目に丸眼鏡を掛け、野暮ったくはならない程度に大人しいデザインのジャケットとスカートで、髪は昨日と同じく茶色にして編んである。ルゥリィもジャケットにスカートだが、ロングブーツを合わせ、ボウを結んで粋なベレー帽を被っているのが古風な女学生らしく、この街にはよく似合いそうだ。ウィンはカジュアルにジーンズのジャケットとロングスカートで、白いウェスタンブーツを履いていた。
 今日は貸切ったタクシーで移動する。小さな手荷物だけを持って早めに通りへ出ると、タクシーはもう脇に車を寄せて待っていた。外に立っていた運転手がドアを開けて呉れる。三人はややはしゃぎながらタクシーへ乗り込んだ。  

「……ちょっと素敵じゃない?」
 イヴがこっそりとウィンの手を引き、耳許で囁いた。
 運転手は、未だ年若い男だ。口数は少ないが、だからと云って無愛想でも無く、落ち着いた雰囲気が良い。顔色が少し青白く不健康そうな印象はあるが、日中をタクシーの紫外線遮断ガラスの中で過ごしている所為だろう。
 イヴはその端正な白い横顔をちらりと盗み見ながら、自分の恋人には到底及ばないけど、でも女3人旅行の間の目の保養と割り切れば、とはしゃいだ声を上げる。
「そうね、」
 ウィンはつい、複雑な心境から手放しには同意出来なかったがバックミラー越しの運転手はなかなかの美青年だと思っていた所だ。軽く微笑んで頷く。
「……、」 
 イヴが次ぎに視線を向けたルウリィは何も云わず、目を合わせないように俯いていた。が、多少は興味があるらしい、何と云ってもお年頃の女性である。時折、ちらりとシート越しに運転席の方を伺っていた。
「……今日は仏像巡りと云う事ですが、先ずどちらへ行かれます?」
 不意に、その運転手から訛りの無い口調で声が掛かってイヴははたと黙り込んだ。代わりに、仏像巡りが目的であるウィン本人が後を継いだ。
「そうね、絶対に行きたいのは広隆寺に三十三間堂に東寺なの。急がないから、観光を兼ねたコースでゆっくり回って下さる? 時間が余れば他にお勧めの場所へ行って頂きたいわ」
「畏まりました。……では、先ず三十三間堂からで宜しいですか?」
「お願いします」
 運転手は笑顔でこうも付け加えた。「東寺は毎月21日に縁日が出ていますから、若し滞在して居られたらその日の朝から行くと良いですよ」。
「縁日って、お祭りみたいな?」
 イヴが身を乗り出した。
「弘法さん、と呼ばれてまして、彼の弘法大師、空海の命日に因んだ祭です。出ている店も屋台と云うよりは個人がフリーマーケットのように他愛無い骨董を出していて、楽市楽座のようで面白いと思いますよ」
「極めた! ばっちり滞在中だわ、東寺はその日にしましょ!」
 ウィンは声を上げながら、ルゥリィに「良いわよね?」と目で同意を求めた。穏やかな微笑が返った。
「勿論です、それこそ京都ならではですね、楽しみです」
 ウィンは満足気に頷いた。──良いじゃない、この運転手。最初は少し陰気な雰囲気がしたけど、屹度色が白い所為だわ。人当たりも良いし、中々詳しいし。その点、タクシー会社には特に念を押しただけあって適材を回してくれたみたい。
 ──そして、タクシーは先ず京都市東山区に在る三十三間堂を目指した。 

「女将さん、」 
 仲居の一人に声を掛けられ、玄関口で華を活けていた女将は何か、と笑みで応じた。
「あの、昨日からお泊まりの三人さんですけど、……タクシー会社から電話があって。予約の観光タクシーを寄越したんに全然来やはらへんけどどないなっとるんやろって。……お取次ぎしても構しまへん?」
 女将の表情が曇った。
「……そら、構わへんけども……、……せやけど今は無理やで? ……あの三人さん、つい先刻今日は三十三間堂やら広隆寺やら、お寺さんを行けるだけ見て回る云うて出やはったところやわ」
「え?」
「……確か、観光タクシーで行かはったんちゃうやろか。出しなに、予約しとったタクシーが来たやら何やら騒いではったから……」
「でも、指定の場所に来ないってタクシー会社が、」
 旅館業五十年、熟練の女将の落ち着いた表情にも流石に混乱の様子が見える。気味悪そうに言葉を切った仲居と彼女の間に、無気味な沈黙が流れた。
「……どういうこっちゃろ」

 天台宗蓮華王院、通称三十三間堂。
 此処の目玉は何と云っても、その数千躰と云われる千手観音像である。
 薄暗い本堂にずらりと並んだ観音像は、仏教徒で無くとも圧倒される。
「……凄い数ねえ、本当にこれ、千もあるのかしら?」
 パンフレットを片手にしたイヴが溜息を吐いた。実は、専らの所彼女の興味は本堂に入った時から感じられる一種壮絶な気迫に在ったのだが。──何かが出るやも、出るやも……。異世界調査員の血が燃える。
「本当に、ずっと見たかったのよ。……感動だわ、」
 仏像に興味がある人間が、此処へ来て感動しない訳は無い。ウィンは背筋が震えそうになるのを感じて両腕を掻き抱きながら、恍惚とした笑みを浮かべて呟いた。
 一体一体を喰い入るように眺めては一歩引いて全体を見回し、また近寄って細部を見詰め、としていたウィンは暫し千躰の千手観音の世界に浸っているだろう。だがルゥリィもパンフレット片手(一応、日本語と英語両方を貰って来たが残念な事にドイツ語は無かった、微妙なニュアンスまで理解したかったのだが)の鑑賞は楽しく待つのは苦痛では無い。イヴは観音像群の向こうに感じる気迫に向けて「出るやも、出るやも……」と喉の奥で呟き続けた。
「……ウィンお姉様、」
 振り向くと、ルゥリィがパンフレットから顔を上げ、優しい笑みを向けていた。
「なあに、ルゥリィ?」
「この千躰の観音像、じっと眺めていると、中に一体は必ず逢いたい人の顔をしたものがある、と云うことです」
「……、」
 ウィンが明らかに狼狽えた。実は彼女、現在片思い中で今はその相手を東京に残して来た所なのである。「お土産を買って来てあげるから、大人しく待ってなさい!」と素直になれない言葉を突き付けて。
 イヴがようやく顔を二人へ向けた。
「ちょっと、何云い出すの急に? ルゥリィ、」
「いえ、」
 ルゥリィはあくまでも穏やかな表情と声だった。
「……何となく、今ウィンお姉様に教えておきたい気がしたものですから」
「……、」
 ウィンは再び観音像群全体を眺めた。──在るかしら? 見たい顔が。
「そうなの? じゃ、ウィンお姉様なんか特に良く探して置かなくちゃ☆ これから一週間ですものね♪」
「何云ってるのよー、イヴまで。あなたこそ探してみた方が良いんじゃない?」
 ウィンは誤摩化すよう、思わず、殊更明るく大きな声を伽藍に響かせて口を噤んだ。
「……在れば良いけど、……いくら千種類あってもそれは無理かも……、」
 ……純日本人顔の観音像の中に「彼」の顔があっては適わない。ルゥリィと合わせて妙に納得し、軽く頷きながらもウィンは手近な一体の観音像に、兄の顔をコラージュしたイメージを浮かべて吹き出した。 

「そろそろお茶の時間じゃない?」
 三十三間堂を出た後、近くの大仏殿や智積院で桃山時代の障壁画を鑑賞して回り、国立博物館を外観だけ眺めて車中に戻ると、ウィンがタイミングよく切り出した。午後三時少し前、確かに。
「どこにする? 最初だから、イヴに任せるわ」
 ウィンの言葉に、ルゥリィも笑顔で異論の無い事を示した。
「えー、そうねえ、やっぱり辻利のパフェが良いかしら。此処からだと遠いかしら?」
「若し良ければ、他に良い所がありますよ。……有名所は、いつでも行けますし」
 運転席から、笑みを含んだ返事が返った。期待に満ちた三人の視線を受け、彼は思わせ振りな口調で後を継いだ。
「壬生寺、御存じですか」
「聞いた事があるような……、」
 記憶を辿るイヴの傍から、ルゥリィがぽつりと「新撰組」と呟いた。
「そうです、お好きですか。割合若い女性にファンが多いみたいで、観光にも良く見えますが」
「ファンと云う訳では。でも、剣道に興味がありますから、その辺は何とか」
 プラチナブロンドの大人しそうなルゥリィがそんな事を云うと意外だが、凛とした雰囲気をも漂わせる彼女には剣道の精神も似合いそうではある。
「壬生寺の向かいに武家屋敷、と云うカフェがあるんですが、その名の通り昔ながらの武家屋敷を茶所として利用しているんです。重要文化財で、当時のままの台所なども見学出来ますよ。出るのは珈琲位ですが、如何です?」
 ──願っても無い、お願いするわ、とウィンが決断した。

「次はどちらへ?」
 武家屋敷の散策は思った以上に面白く、壬生寺や周辺の幕末遺跡を回っている内に、早い晩秋の日は大分暮れていた。
「そろそろ、戻った方が良いかしら?」
 ウィンが二人の意見を聞いた。あまり数は回れなかったが、それぞれを堪能できたので今日の所はまずまずだ。
「そうですね、多くの寺院の拝観時間も過ぎたようですし、ウィンお姉様とイヴさんさえ宜しければ、わたくしは」
「あの〜、」
 イヴさえ、とルゥリィが微笑を向けた所でイヴが遠慮勝ちに、然し好奇心に溢れた目で切り出した。
「お尋ねしたいんですけど……、暗くなった事だし、若し近くに回れる心霊スポットがあれば手短にでも寄って頂ければと……、」
「心霊スポット」
 大して面喰らった風も無く、運転手は考え込むように復誦した。運転席のシートに後ろから抱き着くような姿勢のイヴは元より、ウィンとルゥリィもつい、そうした「穴場」に詳しそうな運転手の返事に期待を寄せてしまう。
「……手前味噌な話で構わないでしょうか?」
 ややして、彼が淡々と話し出した。
「深泥池と云う、川と繋がらない池があるんです。地元では有名な心霊スポットですよ。……特に、タクシーやバスの乗客に関する怪談が多いんです。どれも眉唾ですが、恐がりな運転手の中には厭がる連中も居ますよ。少し北になりますが、その分着いた頃には日も暮れているでしょうね。……怖い事は怖いと思いますよ」
 思わせ振りな、含みのある笑みが彼の横顔に浮かんだ。
「厭だ、怖ーい!」
 真っ先にそう叫んだのはイヴだが、好奇心に満ちた彼女の瞳が「行く行く!」と即決の意を告げている。
「私も、興味が在ります」
 ルゥリィの同意を得て、ウィンは運転席へ向けて頷いた。
「お願いするわ。多少遅くなっても構わないから」
「では、」
 では、と進行方向を北へ向けた運転手の背中に、ルゥリィが囁くような質問を投げた。
「……あなたは、そこで何かに遭遇されたのですか?」
 返事は無かった。無視したのか、聴こえなかったのかは判断が付かない。ルゥリィもそこで追求する事無く、口を閉じた。

 車内は賑わっていた。
 ──怖い、と云いながらも本当に何かが起こるとは考えず、楽しさが勝るのは女性特有の怖いもの観たさから来る好奇心である。

「普通の池って感じよね」
 深泥池に着いた時には、運転手の言葉通り周囲は夜闇に包まれていた。町中から離れた住宅街、明りも少なくそれなりに無気味ではあるが、車内から窓越しに見る限りそうそう異様な雰囲気も無い。拍子抜けしたようにイヴが呟いた。
「降りて見る?」
 ウィンが提案し、池の周囲を行ける範囲で歩いてみようと云うことになった。肝試しの乗りである。
「すみません、じゃ、少し待っていて下さい」
 浮き浮きとルゥリィの手を引いて飛び出したイヴに続いてタクシーを降りながら、ウィンは運転席へ向けて頭を下げた。バックミラーに映った、笑みを浮かべた運転手の紅い口唇が妙に印象的だった。

 それなりに、無気味な場所ではあった。何より、湿度と冷気が尋常では無い。自殺の名所だと云うこともあって、恐らくはそれなりに「何か」居た事は居たのだろう。
 ──が、肝試しよろしく身を寄せあって姦しい声を上げて闊歩する女性3人連れの前には、幽霊の方で遠慮したものと見える。……何より、曲がりなりにも妖怪であれば魔界の女王の妹の前に下等霊がそうそう気楽に姿を現せたものでは無かっただろう。特に、何事も無かった。
 問題が起こったのは、その後である。──タクシーが、消えていたのだ。あの運転手ごと。一応近くを探して回ったが、車両どころか人間一人、姿が見えなかった。

「悪戯の積もりかしら。それにしても、こんな車一台通らない所で置き去りにするなんて、悪質にも程があるわ」
 ウィンは携帯電話を取り出した。タクシー会社へ連絡を取り、容赦なく訴えてやる積もりだ。
「……それにしても、いつ発車したのでしょう」
 ルゥリィに引っ掛かるのは、その点だ。こんな静かな中で、いくらはしゃいで居たとは云え車の発車に気付かない等と、あり得るだろうか?
「──すみません、本日から一週間の予定で貸切りのハイヤーを予約していた、ルクセンブルクですわ。その事で、申し上げたい事がありますの」

「そう云われても、うちも困るんですわ。一応、一日貸切り云うことで車も運転手も空けてた訳ですし」
 十数分の後、現れたタクシーは同じ会社のものだったがあの車両とは別のものだった。運転席から現れ、開口一番京都弁で文句を返した運転手も全く別の中年男性である。
「困るのはこちらですわ。私達は朝、指定の場所と時間にあなた方の会社のタクシーに乗ったんですのよ。今日一日、そのタクシーで観光しましたわ。キャンセルなどしていません。良くして頂きましたけれど、こんな時間にこんな場所で置き去りにされては総べて台無しですわ」
 淀み無く云い返すウィンも負けてはいない。当然だ、彼女達は被害者である。何も、問題のある事はしていない。
「せやけど、私かて云われた通りの待ち合わせに伺うたらお客さんも見えませんし、旅館に聞いても出やはった後で連絡の取りようが無い、云われて一日、空いてしもたんですわ」
 本心から困惑したような中年男性は云い訳がましくも無く、嘘を云っているようには見えない。彼女達三人と、その新しい運転手の間に「何かがおかしい」と云う空気が流れ出した。
「騙されたのかしら? タクシーを装った誰かに」
「詐偽にしても妙よ、だって、貸切りの料金は纏めてタクシー会社に振り込むのだし、お金や荷物を盗って行った訳でも無いわ。それなのに、タクシー会社の者だと偽って一日観光に付き合うなんて、酔狂も良い所よ」
 ふと、運転手が口を開いた。
「車のナンバーか何か、分かります?」
「……、」
 イヴとウィンは顔を見合わせた。まさか、こんな事態になるとは思いもしないし、タクシーのナンバープレートに注意もしない。その時だ。
「京都××、ら××─××、です」
 ルゥリィである。
「覚えて居たの?」
「はい、駐車場などで、同型のタクシーが複数台並んでいる事もあると思って、間違えては不可ないですから」
 つい、はしゃぎ過ぎて其処まで気の回らなかったイヴとウィンは感心して、冷静なルゥリィの横顔を見詰めた。
「……、」
 そして、三人揃って運転手へ視線を向ける。──何故か、ここへ来て彼の顔色が一瞬で青ざめ、身体がガタガタと震え出した。
「何か?」
「……それ……、」
 運転手は素早く周囲に視線を走らせ、深泥池を認めると身体の震えを一層強く来し出した。
「早よ、乗って下さい」
 俄に新しいタクシーの運転席へ転がるように飛び込み、彼女達を促した。戸惑いながらも全員が乗り込むと、慌てたエンジン音を響かせてタクシーは走り出した。震えたままの手でハンドルを取る彼の運転は、ややサービス業失格と云えそうな速度である。
「ちょっと、どうなさって?」
 ウィンは混乱したまま、運転席へ上体を乗り出した。彼は、未だ震えたままである。
「……その、運転手ですけど、こう、未だ若い男やなかったですか、京都弁や無うて、訛りの無い」
「そうですわ、……ええ」
「……そのタクシー、」
 ようやく街灯に照らされた町中へ出てから、運転手は低声で呟いた。
「……確かにうちの会社のもんですわ。……今年の始め、事故で……、……深泥池に突っ込んで運転手ごと、仏になった」
「……、」
 短い沈黙が訪れた。これが現場ならば、そうそう動じる彼女達では無い。が、後になってから真相を知ると怖さも倍増するものである。

「──……きゃあぁぁぁぁぁぁ!!」