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お使いと記念写真
ただいまーとドアを開けても返事が返ってこないことはある。
海原・みなも(うなばら・みなも)はリビングに鞄を放り出し菓子鉢に入っていた煎餅を一枚つまむ。どうやら本日の帰宅一番乗りは自分であるようだ。
煎餅を咥えたまま玄関へと舞い戻る。一番最初に帰宅したものが郵便受けを確かめる。それがなんとなく出来ている『家族のお約束』だからである。
「あれ?」
みなもは郵便受けを覗いて小首を傾げた。
あるのはダイレクトメールが何通かと、そして、
「……なんかしわしわだなあ」
葉書が一枚。良く良く見れば消印が南極とある。南極に郵便局があるのかは謎だが、もはやみなもには署名を見ずともその葉書の差出人がわかってしまっていた。
「おとうさんだな」
しわしわだったり時折焦げていたり。
そうした珍妙な郵便物を持ち込むのは『お父さん』と相場が決まっている。
「なんだろう?」
小首を傾げながらも、みなもは葉書の内容に目を通した。
頃は秋。不審に思われないように人目をしっかり確認してからみなもはどぼんと海へと飛び込んだ。するりと変化する身体は人魚のもの。背中に防水仕様のリュックを背負っているのが中々コミカルではあるが。
父親からの葉書には端的に物を届けて欲しいの一文のみが記されていた。場所はと言えば、
「到達不能域って……」
水中でみなもは頭を抱える。海に面した総ての陸地から最も遠いとされる場所。故に到達不能と言われる訳だが、そんなところへと謎の物体のお使いを頼む父親とは如何なものか。
実行できてしまう娘にも色々問題はありそうだが。
みなもは海中を行きながらほっと溜息を吐く。呼吸は陸上の感覚とあまり変わらないからこんな事もできるわけだが。
兎に角さっさと済ませてしまおう。
尾ひれで水をかきわけながら、みなもはそう思った。
予想に反してというか予定通りというか。
みなもはあっさりと南極へと到着した。『どこにもない』山の頂上で父親にその謎の物体を手渡す。それでお使いは完了だ。一々箱の中身や謂れを聞いたりはしない。聞いても分かりはしないからである。
「なんだかあっさり行き過ぎるなあ?」
帰りの水中でみなもは小首を傾げる。
何かが起って欲しいわけでは勿論ないがなにごともないと言うのはそれは不安になる。すっかり事件癖がついているのだろう。
もちろん何事も起ってくれないはずなどなかったが。
ひやり。
冷たい水の感触が更に増す。
水はそもそも冷たいものだが、みなもにとってはあまりその冷たさは害を成さない。勿論適度に暖かい海水の方が好きではあるが。
しかしその感触は確かにみなもに『害意』を感じさせた。
「なに……?」
水中の中で目を凝らすが分からない。ただそれは上から来る。それだけはわかった。
ここで行かなければ或いはその『害意』から逃れられるかもしれないが13歳中学生の好奇心は残念ながら避けて通るという無難な選択を選び取りはしない。
尾ひれでぐんと水をかき、みなもはするすると水上へと登る。
「ぷは」
呼吸の感覚が入れ替わる。酸素を水からではなく宙から受け入れる感覚にみなもはふはっと深呼吸する。
刹那、
「つめたっ!」
肺から凍るほど外気は冷たい。最早異常なほどに。
既に頃は夜。水面は真っ黒に波立っている。月が映って揺らめいてはいても、その光は海の闇を打ち払うには弱すぎる。
その月光を透かし空中に揺らめくもの。
単なる夜霧ではないだろう。冷たく、意志を持ったそれは外気を冷たく、何処までも冷たくしていく。
「……な、なに?」
体中の感覚がみなもに逃げろと伝える。しかし相手がなにかもわからないのにただ闇雲に逃げても墓穴かもしれない。
「っつ!」
反射的な行動だった。みなもは体の周囲に水の羽衣を張り巡らせる。水はみなもの盾であり武器。意のままにみなもを守ろうと展開する。
だが、
「つ、つめた……」
その存在もまた水の変化したもの。みなもが纏った水の中に入り込めば追い出されてはしまうのだろうが、みなもが纏った水の外にあるものもまた、水。
「え、え、えっ! う、嘘っ」
きょろきょろと首を巡らせても外気の冷たさも水温の冷たさも変わらない。
ただ害意を持って。
寒さと冷たさを押してくる水。
その冷気にみなもの意識は沈む。海溝の底へ招かれでもしたかのように。
妹に見せられた記念写真は写真立ての中。
題して氷の彫像海原みなも編とでも言うべきだろうか。
気付いた場所は自宅で、更に姉と母の説教付き。妹は写真を片手に楽しそうに踊っているというあきれるほどの日常風景の中だった。
写真立てに収められたそれを眺め、みなもは溜息を吐く。
「……なん、だったんだろう?」
次に会う事があったらおとうさんにも少し話を聞いてみよう。多分理解出来ないが。
そう思いつつ、みなもは写真を指先でつついた。
それはこの出来事がまあいいか、になるくらいには、綺麗な写真だった。
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