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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


あなたがいつか私を殺す日


SCENE[0] 君が呉れた物語の始まり


「お久し振りです」
 そう言って碇麗香に微笑んでみせたその人は、高嶺にひっそりと咲く一輪のクロユリの如く、気高さの裡に淡いぬくもりを宿したような存在感の女性だった。暗紫褐色のふわりとした長い髪を容の佳い左耳朶の下で一つに束ね、秋物の薄手のコートを羽織って背筋も伸びやかに佇む彼女は、ここアトラス編集部室にあってはあまりにも異邦人然と匂い立っていた。
「……黒薙さん、よね。薬剤師の」
 麗香が言うと、女性はこくりと肯いて、「雲切病院でお逢いしました」と、また微笑した。
 黒薙ユリ。
 以前、麗香が虫垂炎で病院の世話になった時に出逢った薬剤師である。
 柔らかな声でやたら理路整然と話し、物事を鋭角に切り取る様が小気味よく、折に触れて言葉を交わすうちに親しくなった。が、所詮それも病院内での話である。体調も回復し、もとの生活に還った後は、日々の忙しさの中で彼女のことも忘れてしまっていた。
 だからまさか、自分の職場に黒薙ユリが姿を見せようとは、夢にも思わなかった。麗香にとってユリは、いつも白衣を着て病院という特殊な領域の中にだけ生息する存在の筈だったのである。
 その彼女が今、何か四角い箱を大事そうに胸に抱え、編集部室に足を踏み入れている。
 この場でユリと相対することに、別段不都合はないのだが、それでもなぜか麗香は落ち着かなかった。
 何となく、不穏なものを感じる。
 大体、病院関係者が昼日中から唐突に訪れて来るそのこと自体、薄ら寒いものを覚えるではないか。一体、何用なのだろう?
「とりあえず、こちらへ」
 麗香は三下忠雄から渡されたばかりの原稿を、斜め読みの上で彼に無言で突き返し、ユリを奥の応接ソファを据えた一角に案内した。「へんしゅうちょぉおぅ」という情けない声が背を追ってきたが、いつものこととあっさり無視した。
 小さなテーブルを挟んで向かい合わせに腰かけ、麗香は「それで」とユリに話を促した。
「あまり時間もないから、早速伺うけど。用件は何?」
「これです」
 無味乾燥な言葉で核心に斬り込んだ麗香に怖じることなく、ユリは持っていた箱をテーブルの上に置いた。どうやら、双方ともに、持って回った社交辞令や互いの心を解すための軽い会話など必要としない質なのらしい。ウォーミングアップなしでいきなりのスタートダッシュである。
 ユリは箱の蓋を開け、中身を麗香に見せた。
「……石、ね」
「ええ。石です」
「同じ色の石が二つずつ……全部で六個あるわね」
「紅葉、菖蒲、松葉」
「色の名前?」
 麗香が、箱の中に並ぶ赤、紫、緑色の小さなまるい石を順に指した。
「そうです。この他に、山吹もあったんですけど……昨夜、使ってしまって」
「使った、っていうのは」
 麗香に訊かれて、ユリはすいと右手を差し出した。
 その細い手頸に、真白い包帯が巻かれている。
「それ――――」
「何気なく、二つあった山吹色の石を左右の手でそれぞれ持ったら、まるで石が吸い込まれるように掌の中に消えてしまって……。その後、突然左手が、机の上にあったペーパーナイフを右手頸に突き立てたんです。右手は右手で、何かしようとはしたようですが、ナイフが刺さった瞬間に動きを止めました」
 麗香はソファの硬いスプリングを軋ませながら脚を組み、顳に指をあてた。
「……その一件、どう考えればいいのかしら。つまり、人の手に触れた同じ色の石同士が、何らかの作用によって、互いを攻撃しようとした……?」
「多分、そうでしょうね。私の意思とは無関係に動きましたから、右手も左手も」
 ユリが言うには、この石は先週末、山歩きに出掛けた際に出逢った初老の男からもらったものらしい。薬剤師という仕事柄のせいか、それとも単なる趣味なのか、一人山野に分け入って生薬となりそうな草花を摘むのがユリの有意義な休日の過ごし方である。ゆえに薬草や毒草の知識は人並み以上にあり、また華奢に見えて意外と足腰は丈夫に鍛えられてもいる。
「お腹が痛いと言って蹲っていたから、薬を渡してあげたら、そのお礼にと石をくれたんですけど……まさか、こんなに特別な石だとは思わなくて。ただ、その人が説明してくれた石の名前がきれいだったから、受け取っただけだったのに」
 紅葉、菖蒲、松葉、山吹。
 確かに、美しい名の石ではある。
 しかし。
 物騒に過ぎる。
 ユリの場合は、手近にあったのがペーパーナイフだったからこの程度で済んだのだろうが、これが出刃包丁や銃だったらどうなっていた?
 いや――――物でなくとも、能力。
 現在の東京には、様々な特殊能力を持った者達が多く集っている。もし彼らが何の警戒心もなくこの石を手にしたらどうなるか。しかも、ユリのように自身の両手に石を握るとは限らないのだ。他人同士がそれぞれ同色の石を手にしたその時、何が起こるかは、想像に難くない。
「危ないわね、この石」
 麗香が呟くと、
「ええ。だから、早く使い切ってしまわないと」
 ユリが応えた。
 数秒措いて、麗香が「え?」と眉を顰めた。
「ちょっと待って、今なんて」
「一度使った石は、消滅します。この石がもたらす危険を去るためには、使ってしまうのが一番でしょう?」
 ユリは麗香に笑貌を向け、そのためにあなたに逢いに来たんですから、と言い切った。
 麗香は、そういえば、自分の担当する雑誌は最近怪奇関係の記事で鳴らしているとユリに喋ったことがあったのを思い出した。
 口は災いのもと、かもしれない。


SCENE[1] 甘い誘惑―SIDE:トオル―


 佐和トオルは、「Virgin−Angel」開店前のセッティングが済んだテーブル中央にひょいと手を伸ばし、波の揺らめきを象ったようなバカラのジベルニーボウルの中から一つ、トリュフを口に放り込んだ。
 その様子を、フロア隅のソファにどっかと腰を下ろして見ていた廣瀬秋隆は、
「おい、トオル、またチョコレートか? おっまえ、さっきもザッハトルテ食ってただろ」
 そう言って笑い、手慣れた仕種で煙草に火を点けた。
 トオルは舌の上に拡がってゆく上品な甘さに口もとを緩めつつ、肯いた。
「デメルのザッハトルテ、好きなんだよね。スポンジの上にアプリコットジャムを塗ってからザッハグラズュールでコーティングしてあるのが絶妙で。舌触りもいいし。生クリームなんて添えたらもう、五号サイズを丸ごと一個食べられそう」
「……聞いてるだけで胸焼けする」
 秋隆は薄く紫煙を吐き、眉根を寄せて舌を突き出した。
 そうして、ふと何か思い当たったように、そういえば、と天井を仰いだ。
「おまえをホストにスカウトした時も、あれ、半分くらいチョコレートで釣ったようなモンだったか?」
「多分ね。俺、腹減ってたし、あの時」
 トオルは素直に認め、十年前、初めて秋隆と出逢った日のことを懐かしく脳裡に喚び起こした。
 高校卒業後、この街で自分をどうやって生かしていくか――――考えながら歩いていたところを、秋隆に呼び止められた。それがホストのスカウトだと気が付くのにさほど時間はかからず、さらにそのスカウトに乗るのに大した葛藤が生じることもなかった。
 誘われて、少し興味が湧いた。ホストという職に別段偏見を持ってはいなかったし、人を愉しませ、悦ばせる接客業だと言われれば、成る程それも悪くはないという気にもなる。
 それに。
 声をかけてきた秋隆その人に、何となく惹かれるものを感じた。すでにホストとして店で働いているという彼は、日々女性ばかりを相手にしているにもかかわらず、どこか男くささを匂わせ、頼り甲斐のある兄のような雰囲気を漂わせていた。一種の、眼力、というのだろうか、眼もとに力強い魅力のある男で、トオルは「この人がいる世界なら、覗いてみるか」とスカウトを受けることに決めたのだった。
 あとは、チョコレート。
 飽くまでおまけ程度の動機だが、ちょうど時期的にバレンタインを過ぎたばかりだったせいで、店に山とチョコレートが積まれていると秋隆がこぼしたのだ。その後、秋隆に付いてホストクラブに出向いたトオルは、チョコレートの山と対面を果たし、好きなだけ食えと言われるままに賞味した。あの時のチョコレートの味は、今も忘れられない。そのせいで、甘いもの好きに拍車がかかったのではないかと思っているくらいだ。
 結局、一歩足を踏み入れてみたらば、この業界は想像以上に水が合い、しかも己の特殊能力が遺憾なく発揮できる場だと知った。日を追うごとに女性の扱いにも慣れ、永久指名の数も増え、ビジターからの好意でプレゼントとして受け取る品物のグレードも上がった。
 気が付いた時にはナンバーワンの称号を貰っており、独立して店を持った秋隆とともにクラブのオーナーとして就任して、現在。共同経営とは言うものの、トオル自身は現場で働く方が気に入っているので、結果経営方面の諸事は秋隆に任せっきりである。
「ま、甘味好きなのは構わんが、メシも食えよ?」
 秋隆が口の端を上げ、トオルを指さした。
 家に帰れば愛娘が待っている秋隆は、その風体に似合わず、妙に食事関係に煩い。ホストクラブ経営者として不規則な生活を送っている分、娘と自分の健康管理には気を遣うらしい。そのくせ、どれだけ娘に窘められ、冷視線を向けられようとも、煙草だけは已められないでいる。
「じゃ、アキさん、そろそろ――――」
 トオルが言いかけた時、店の電話が鳴った。
 秋隆に軽く顎で促されて、受話器を取ると、電話の相手は碇麗香だった。すでに顔馴染みの、月刊アトラス編集長である。
『あら……、まだ時間が早いから、店にはいないかと思ったんだけど』
 いないだろうと思うなら、携帯に連絡を入れてくれればいいのに。
 麗香の行動を多少不透明に感じながら、トオルは腕時計に眼を遣った。午後四時半。確かに、いつもならまだ入店していない時刻だ。
「今日はちょっと特別なんですよ。ウチのホストが二人、誕生日重なってて。せっかくだから常連のお客様にも集まってもらって盛大に祝うかってことで、早めに店内の準備を。これから一旦帰って出直す予定なんですけどね。何せ開店は零時過ぎですから」
『そう。何にしても、つかまってよかったわ。あなたに頼みたい仕事があるの』
「俺に?」
『ええ。できれば、他にも誰か信頼できそうな人を連れてきてほしいんだけど』
 信頼できそうな人。
 トオルは、ちらりと秋隆を見遣った。


SCENE[2] 一堂に会す


 碇麗香、黒薙ユリ、そして今回の一件に関わることを余儀なくされた協力者六名は、三下忠雄の机上に置かれた箱を囲んで、ぐるり並び立っていた。箱の中には、三色一対ずつ計六つの石が、丁寧に収められている。
「な、なんで、よりによって僕のデスクで、怪しげなこと始めるんですかあぁあ」
 麗香の背後、三歩下がった位置で、三下が泣き声を上げた。
「その方が何かと面白いことになりそうだから、ですよ」
 ケーナズ・ルクセンブルクが、三下を見遣って、ほの笑んだ。
「……それにしても、物騒な石だな」
 香坂蓮が眉を曇らせた。
「使う、以外にどうにかする方法はないのか?」
「たとえば?」
 ユリが、軽く頸を捻って右隣の蓮を見た。
「たとえば……叩き壊すとか」
「叩き壊す? 試してみても構いませんけど、でも」
「巧く壊せたとしても、割れた石の欠片がそれぞれ同じ力を有したままだったら、余計に困ったことになるね、それは」
 蓮とユリの間に顔を覗かせた佐和トオルが言った。
 さりげなくユリに向かって微笑みかけているトオルを見、蓮が力なく息を吐いた。
「……どうして今日この時間この場所でホストに逢わなきゃならないんだろうな」
「随分な言いようだね、香坂クン? 俺も一応仕事依頼を請けてここに来てるんだけど。逢えて嬉しい、くらい言ってくれてもいいじゃないか」
「逢えて嬉しい? 一体、誰が誰にだ」
 天気で言えば、重苦しい雨模様。そんな表情の蓮に、トオルがもう一言、言葉を継ごうとしたところへ、
「本当に愛想のない弟子で、すみませんね」
 ラスイル・ライトウェイが、やれやれと肩を竦めた。
 実際には、愛想がないというよりこれはご機嫌斜めというのが正しいのだろうが。
 トオルはラスイルに「慣れてますから」と笑い、心の裡に、さして年齢の変わらないように見えるラスイルと蓮が師弟関係にあるというのはどういうことだろう――――と密かに疑問の色を灯した。
「まあ、確かに……石が割れて数を増やし、それを手に取る人間が多くなった場合、一対一の戦闘どころか無差別攻撃の惨事に発展しかねないな」
 ケーナズが静かに話を石に戻し、それに廣瀬秋隆が肯いた。
「だろうな。そうなると、今、俺達でこの石を使っちまうのが一番安全ってことか?」
 その声に、どこか好戦的な響きがあった。
 ユリは、
「そうですね。お一方に石一つずつ、ちょうど六人分。数は合いますし」
 そう言って、六人それぞれに順に視線を合わせていった。

 ちょうど数が合うも何も、数合わせに六人この場に呼んだんだろう。

 全員がそう思ったが、誰も声には出さなかった。
 蓮、トオル、ラスイル、秋隆、ケーナズ、そして――――雨柳凪砂。
 これまでずっと黙って事の成り行きを見守っていた凪砂は、ユリと視線が合った瞬間、「あの」と右手を控えめに挙げた。
「六人って……やっぱり、あたしも入ってるんですよね、その中に」
 凪砂は、麗香に声をかけられて集まった他の五人と違い、アトラス編集部に何か自分にできそうな仕事はないかと伺いに来て、この一件に巻き込まれてしまった。当然、本人の意思を無視して戦闘に駆り立てる石の話など寝耳に水で、しかもその戦闘が今から始まるところだと言われてもなかなか現実感が湧いてこない。
 その上。
 見たところ、凪砂以外は全員男だ。
 それはそうだろう、戦うことになると分かっていて、わざわざ女性を呼ぶようなことはしないものだ。これは男女平等云々の問題とは一線を画す事態なのだ。
「そうねえ、どうしようかしら。あなたが居合わせなかったら、三下君を参戦させるつもりだったんだけど」
 麗香が腕を組んだ。その後ろで三下が必死に頸を横に振っていた。
 ふと、凪砂は、いいことを思いついたとばかりに両手を拍ち合わせた。
「あ、じゃあ、参加したら何かお仕事いただけますか?」
「仕事?」
「はい。お金とか現物支給はいいですから、代わりに、何か……記事を書くとか、そういうお仕事をいただけたらなあって」
「記事、ね」
 麗香はじっと凪砂をみつめ、それから「分かったわ」と彼女の申し出を承けた。
「雨柳さん、この石の一件が解決したら、それをまとめて記事にしてくれるかしら。面白い内容に仕上がっていたら、ウチの雑誌に掲載させてもらうわ」
 商談成立、である。
「んじゃァ、次は、対戦相手をどうするかだな」
 秋隆が、ボルドーレッドのシガレットケース片手に言った。
「いや、その前に」
 トオルが困惑気味に凪砂を見た。
「女の子と戦うっていうのは、やっぱりちょっと」
「ああ、その点は大丈夫だと思いますよ」
 ケーナズがあっさり言い切った。
「え?」
「この状況をこれだけすんなり受け容れたのをみると、それなりに腕に覚えあり――――というところかと」
 ケーナズの視線を受けて、凪砂は素直に「はい」と応えた。
 どこをどう見ても、黒髪麗しい大和撫子然とした妙齢の乙女。インドアの似合いそうな容姿のわりには、体躯から敏捷そうな気配が漂っているが、とても戦闘に向いているようには思えない。が、本人が諾と言っているのだ、納得するしかあるまい。
「……とすると、問題なのは凪砂さんより、香坂の方か?」
 トオルが、指先で蓮の腕をつついた。
「そうですね」
 蓮が口を開くより早く、ラスイルが応じた。
「ヴァイオリニストが腕に傷でも負ったら、洒落にならないよな?」
 トオルに言われて、蓮は短く、ああ、と肯いた。
「俺の意思に反して、手で相手を殴りつけるのも困るな。殴った手にもダメージが残る」
「つくづく戦闘向きじゃないよね、キミ。ま、俺もヒトのことは言えないんだけど」
 トオルが苦笑した。
 二人のやりとりを聞いていた麗香は、
「そう……、香坂君なら、相手に下手に重傷を負わせることもないかと思って声をかけたけど、考えてみれば香坂君自身が怪我したら困るんだったわね」
 今更そんなことに思い至っていた。
「石を手にしたら、本人の意識とは別なところで勝手に体が動いてしまうということのようですが……とりあえず、蓮の腕と顔あたりは無事だと有り難いですね。その他の部位はともかく」
 ラスイルが、箱の中の石を見下ろしながら言い添えた。
「あー、男の顔は大事だからな」
 秋隆が悪怯れもせず言うのへ、凪砂が、
「そ……そういうのは普通、女の人に対して遣う言葉じゃ……」
 つい言いかけて、何となく蓮と眼が合い、更に他の男性四人の視線をも一身に感じた。
 ――――この状況で、女性がどうのと言うのは、如何にも分が悪い。
 女が美しいということ以上に、男が容姿端麗であるというのは、小さな驚きを伴って衆目を集める。
 どうして。
 どうしてこう、揃いも揃って。
 もし違う場所で出逢っていたら、羞ずかしくて眼も合わせられないような佳麗な男性が今ここにずらりと肩を並べているのだ。しかも、ホストクラブを経営しているらしい秋隆に男の顔は重要だと言われては、反論のしようがないではないか。いや、敢えてする必要もないのかもしれないが。
 困惑の中で眼を回しそうになっている凪砂に、ユリが救いの手を差し伸べた。
「確かに、顔面は急所には違いないし、それに将来のあるヴァイオリニストさんの腕に怪我させるのも避けたいところです。……香坂さん」
 呼ばれて、蓮が迷想を含んだ眼差しをユリに向けた。
「先ずあなたから、好きな石をどうぞ、手に取ってください」
 紅葉、菖蒲、松葉。
 箱の中で息を潜めている三色を眺め、蓮は、
「……菖蒲を」
 ここで悩んでも仕方ないと思い決めて、菖蒲色の小石をひょいと指先で抓み取った。
「そんな簡単に……っ」
 トオルと凪砂が思わず身を乗り出したが、石を握った蓮にそれらしい変化は見受けられなかった。
「大丈夫ですよ」
 ユリがにっこり笑った。
「……成る程、対の石が人間に触れていなければ何事も起こらないというわけですか」
 ケーナズが納得のいったような表情で、箱の中に残っているもう一つの菖蒲を見遣った。


SCENE[3] 香坂蓮 VS 佐和トオル


「麗香さん、何ですか、それ」
 トオルが、麗香が意気揚々と持ち出してきた細長い物体を見据えて、言った。
「見てのとおり菜箸よ」
「……え、ええ。そうみたい、ですね」
 菜箸。
 調理をする時や、総菜を取り分ける時に便利な箸。
 ここアトラス編集部にそれが常備してあるとは思わなかったが――――それ以上に、そんなものが今ここにあって何の役に立つのだという疑念が湧く。
 訝しげに眉間に皺を寄せた面々に構わず、麗香は、菜箸の先で器用に、箱の中の菖蒲石を抓んだ。
「え」
 そういう手段に出たか。
 微妙な雰囲気の中、麗香に「佐和君」と呼ばれ、トオルは菜箸から彼女の顔に視線を移した。
「はい?」
「あなたなら、人を傷つけることはなさそうよね」
「は……、あ、ええ、まあ……」
 そう応じてから、トオルはハッと体を緊張させた。
 麗香が何を言わんとしているのかが分かったからだ。
 同時に、それだけはダメだ、という己の心の声を聞いた。
 蓮が腕に怪我をしては困るから、先ずは優先的に石を取らせた。
 そして。
 若きヴァイオリニストに暴力的な行為を働きそうにない相手に、同じ色の石を渡せば、事は丸く収まる。
 その発想は間違ってはいないが、思考の裡から、大切なことが一つ抜け落ちている。「トオルの戦い方」という一点が。
 麗香が予想したように、トオルは物理的に相手に深手を負わせるような術を持ってはいない。トオルの能力は、対象の身体ではなく心を傷つける質のものだ。
 人間の心の奥に沈み、普段は無意識に蓋を被せてしまっている冥い欲望や、思い出したくもない深い闇。それを的確にとらえてトラウマを抽き出し、囁きかけ、輪郭も露わに当人に突き付ける。問答無用に己の最も見たくない部分を浮き彫りにされることは、物理的な攻撃を受けるより余程、手酷い後遺症が残ることが多い。
 トオルも昔は、幾度かその能力を用いて喧嘩に踏み切ったことがある。むろん、後には後悔しか残らなかった。今ではもう、どんな場面であろうと、そんな戦い方をすることはなくなった。
 それだというのに。
 (……冗談じゃない)
 石の力で自らの意思を封じられ、よりによって。
 そう、よりによって、蓮を攻撃しろと言うのか。
 同じ孤独を知る友人を、傷付けろと言うのか。
「……おい、佐和?」
 いつになく顔を強張らせ、唇を噛みしめているトオルの様子に不審を覚え、蓮が彼の肩に右手を置いた。もう一方の手には、菖蒲を握っている。
「どうかしたのか」
「いや……」
「……何だ、俺の相手はできない、か? 厭ならそう言えばいい」
 蓮に言われて、トオルは残る四人を眺めた。
 ケーナズ。ラスイル。秋隆。凪砂。
 秋隆に蓮の相手をさせるのは自殺行為だろう。高校時代は名の知れた不良、夜の世界に入ってからは組関係の人間とも渡り合ったことがある人だ。しかも喧嘩っ早い。ケーナズと凪砂はともに得体の知れぬ力を体内に抱え込んでいそうだし、ラスイルは――――より一層正体不明な気がする。理性さえあれば弟子に痛手は負わせないだろうが、石の力がどれほどのものなのか分からない今、師弟対決も楽観はできない。
「……香坂」
 トオルが溜息交じりに低く蓮を呼んだ。
「ああ」
「あのさ、腕が折れるのと、精神的にキツいのと、選べって言ったら、どっちがまだマシ?」
「……そういうのを愚問って言うんじゃないのか?」
 蓮が呆れた声を上げた。
 トオルは「だよね」と苦笑い、次いで、仕方ないか、と呟いた。
 そして、改めて蓮をみつめ、体調の悪そうな彼の顔色に眼が止まった。
「……風邪?」
「え? ああ、ちょっとな」
 その返答を聞いた途端、やっぱりダメだ、という思いに胸が塞ぎ、一度固く眼を瞑った。
 トオルは振り向きざま、麗香に向かって、
「麗香さん、やっぱり俺じゃダメだ――――」
 言い終える、前に。
「……って、え?」
 菜箸の先から、トオルに向かって、菖蒲石が転がり落ちてきた。
 考えるより先に、反射的に体が動き、掌が石を受けとめてしまった。
 刹那。
 ぐらりと脳が揺さぶられるような眩暈を覚え、何か、キィー……、と弦の引き攣るような音が響くのを聞いた。
 その音は、蓮の耳にも聞こえていた。
 外から流れ込んできた音ではない。
 鼓膜から音波を受けることなく、聴覚細胞が直接にそれを取り込んだかのように、勃然と姿を現した不快な音。
 (……これは……)
 ヴァイオリンを習い始めたばかりの子供が鳴らすような、奥歯に厭な緊張感をもたらす歪な音。金属質な軋んだ一弓。そこへ、一気に畳み掛けるように、カイザー、クロイツェル、パガニーニの練習曲が錯綜し、数十秒の後、何の脈絡もなく協奏曲に融けた。
 (何なんだ、一体……!)
 蓮は思わず、手で耳を押さえ込んだ。否、押さえ込もうとした。そうしようと思った。だが、気が付くと己の両手はトオルの胸ぐらを捻り上げていた。握っていた筈の石は、掌に潜り込みでもしたのか、すでにそこにはなかった。
「…………っ」
「……香坂……!」
 トオルが、蓮の手頸を掴み、しかしその手に力が入るのを必死で堪えてでもいるのか、彼の指先が小刻みに震えていた。
 不意に。
 ――――れん。
「……え……?」
 呼ばれた気がして、蓮が、心裡を過ぎった影を追うように虚空に視線を彷徨わせた。
 れん。
 そう呼ぶのは、誰だ?
 誰が――――誰の声が――――。
「……ダメ、だ……、香坂、俺の前で何も考えないでくれ! 何も……思い出すな!」
「何を……」
 分からない、という顔つきで、蓮はトオルの体を突き放すと、ヒュッと右足を飛ばして彼の長い両足を払った。トオルはバランスを失って倒れかけ、三下の机上に烈しく肘を打ち付けながらも何とか立位を保った。
「佐和」
 蓮は一瞬トオルを助け起こしたい情に駆られた。が、その思いを、深い亀裂が遮った。
 斜陽。
 地に堕ちた影。
 息苦しいほど閑疎な部屋。
 座り込んだ床の冷たさ。
 イエス・キリストの。
 教会の鐘の音に撥ね返るスピッカート。
 Kazui-Kousaka' Del Gesu'。
「――――要らない」
 机に腕を突き項垂れたままのトオルの言葉に、蓮がぴくんと反応した。
「要ら……ない?」
「ああ。必要とされてない。それなのに追い求めて何になる? 結局、縋ってるだけじゃないか……」
 無理矢理に喉から押し出したような掠れた声で囁き、トオルは、次に続くべき一言を自分の口から発することを、心の底から憎んだ。
 これ以上、操られて、言ってたまるか。
 知らない倖せだってある。
 気付かずに手に入れる平穏だってある。
 抗うことすらできない相手の背を押して、心の闇に突き落とすような真似だけは、絶対に……!
「! な……何してる、バカ!」
 蓮が声を荒げ、トオルに駆け寄ると、その顎に手を掛けた。
 唇の端から、鮮血が滴っている。
 石の力に依遵することを嫌悪したトオルが、他に術なく己の舌を力の限り噛んだのだった。
「口を開けろ!」
「……んん」
 トオルは口中に溜まった血を飲み込んで顔を顰め、それから覇気なく笑った。
「はは……、解けた」
「何?」
「石の呪縛」
 噛んで裂いた舌が巧く回らないのか、辿々しくトオルが発音した。
「……あ……」
 言われてみれば。
 蓮は、トオルの血を見た瞬間に彼の行為を止めようと思い、実際そのように体が動いた。つまり、トオルが石の導きを意思の力でもって断ち切るべく舌を噛んだ時に、決着はついていたということか。
 トオルは蓮の手を借りて机から身を起こすと、スーツに付いた汚れを払いながら、
「……悪い」
 蓮から視線を逸らし、疲れた声で言った。
 ――――必要とされてない。それなのに追い求めて何になる? 結局、縋ってるだけじゃないか……
 トオルの言葉が蓮の胸中に甦った。
 そして、トオルが石に言わされる筈だった、その後の一言も、予想はついた。
「……別に」
 蓮はいつもと変わらぬ調子で告げ、
「あんまり、見縊るな。数年俺より長く生きてるからって」
 そう続けると、ふいとトオルに背を向けた。
「それより……、おまえ、俺のこと呼んだか?」
「え?」
「蓮、って」
「……いや、呼んでないけど?」
「そうか。……そうだな」
 蓮はそんなことをトオルに確かめた自分を僅かに嘲笑し、石の消滅した掌を眼前に翳した。あの石は、何のために生まれ、どこへ逝ったのだろう。
「……ふぅん?」
 背後にトオルの微笑を孕んだ声を聞き、蓮は厭な予感を覚えた。振り返る気は起きない。
「何だ、蓮って呼んでほしいなら、素直にそう言えばいいのに」
「……誰がそんなことを言った」
「あ、いいよ、俺のことも佐和じゃなくてトオルって呼んでくれて」
「だから、誰が!」
「まあまあ、そう尖らなくても……っと、痛……ッ」
 トオルが口もとを押さえ、腫れて熱を持ち始めた舌を動かすのを已めた。


SCENE[4] ラスイル・ライトウェイ VS 廣瀬秋隆


「どうやら、それらしい怪我もせずに済んだようですね」
 ラスイルが、自分の掌をみつめている蓮を一瞥し、呟いた。何も彼を過保護に扱うつもりは毛頭ないが、腕に何事もなく一安心、というところである。
「んー、トオルは舌噛んだか。こりゃ、今夜のトークは冴えないかもなア」
 言いながら、秋隆は、客の母性本能をくすぐって怪我の具合を心配してもらうのも悪かないか、と前向きに結論づけた。
 ユリは箱に残っている紅葉と松葉を指さし、
「次は、どなたが」
 蓮とトオルを除いた四人を見渡した。本当に、事務的かつ直線的に事を進める女性である。
 麗香が菜箸の先をカチカチと合わせ鳴らした。
「そう気が長い方じゃないんでね、先に行かせてもらうぜ」
「あまり後れを取るのも何ですので」
 秋隆とラスイルはほぼ同時に発言し、ともに箱に手を伸ばした。
 両者が掴んだのは――――紅葉。
 血を彷彿とさせる色合いが美しい、秋の日の彩り。
「我々は少々、退いていた方が良さそうですよ」
 ケーナズが凪砂に囁きかけ、二人はその場から数歩後退った。麗香やユリも同じように、紅葉を選んだ秋隆とラスイルのために戦闘用のスペースを確保した。三下は、ケーナズ達よりさらに十歩ほど後ろへ避難した。
 と。
「……喧嘩しろってか、この俺に?」
 手に載せた紅葉をみつめていた秋隆は、石が掌中に消えた途端、ふつふつと体内から湧き上がる躍動感を愉しむように、不敵な笑みを見せた。
 いきなり上着を脱ぎ遣ると、
「俺の相手になったこと、恨まないでくれよな」
 言うが早いか、ラスイルに向かって足を振り上げた。
 その一蹴りを、体一つ分すっと身を退いて最小限の動きで躱したラスイルは、
「それはこちらのセリフですよ」
 穏やかに言い捨てて口の端を上げるや、くんっと身を捻り、秋隆の胸もと、心臓神経叢へ的確にヒールキックを見舞った。
「がはッ」
 それほど深く躙り込まれたようにも見えなかったが、秋隆は深く体を折り、表情を苦痛に歪ませた。その様子に同情するでもなく、ラスイルは立て続けに手刀を秋隆に飛ばした。すらりと伸び揃った四指をぴたりと密着させ、親指を内側に曲げて形作った即席の凶器で、秋隆の頸側面を鋭く撲ち弾く。
「……っ、くァ……!」
 秋隆が呻いた。しかし余程打たれ強くできているのか、彼は床に倒れ込みつつもラスイルの足頸を掴み取り、力一杯引き払った。
「!」
 足捌きを封じられ、引き倒されたラスイルは、己の顔面に向かって振り下ろされる拳を見た。見えた、ということは、その一撃を避けることが可能だというに等しい。ラスイルは咄嗟に頸を捩り、眼の端に拳をとらえたまま、秋隆の顎を掌底で突き上げた。
「……あのラスイルという男」
 二人の戦いを見ていたケーナズが、好奇に光る灯火を眸に揺らめかせた。
「見事に相手の急所ばかりを程よく狙っている」
「えっ、急所ばかり? そ、そうなんですか?」
 凪砂が訊いた。
「ええ。ですが、急所に攻撃を受けているわりには、廣瀬氏のダメージは少ないように見える。彼は随分、修羅場をくぐってきているようだ」
「修羅場、ですかー……」
 凪砂が感心したような声を上げ、眼前で互いに烈しく技を繰り出し合っている秋隆とラスイルを改めて凝視した。秋隆の紅い髪とラスイルの銀の髪とが、視界の裡を交互に靡き走り、不思議な昂揚感が全身に拡がってゆく。静寂を打ち破って、今にも擡頭せんとする獣性。
「……どうか、しましたか」
 不審そうに眼を眇めたケーナズに、いいえ何でも、と苦笑して見せ、凪砂はぎゅっと両手を強く握った。
「――――ッたく、いい加減沈め!」
 秋隆が、ラスイルの胸骨下の窪みあたりを狙って、拳を突き入れた。
「っ、この程度の、攻撃では」
 そう言うと、ラスイルは秋隆の右手頸から肘へと指先を滑らせ、関節を取るやギシッと捻り上げた。
「が……ッ」
「折りますよ」
「上等じゃねえか、できるならやってみろ」
「ふふ、威勢の良い」
 蓮とトオルの一戦では、体は石に操られながらも、意識はどうにか理性の裡にあったように思うが、この二人はもとより戦闘に心身が馴染んでいるのか、意欲的に相手を斃さんと戮力していた。
 みしり、
 秋隆の関節が鈍く悲鳴を上げ、おそらくはそこに数条の罅が走った。瞬間、彼は空いている左腕を深く曲げ、ラスイルの前頭部に肘鉄を食らわせた。
「……ラスイルさんと廣瀬さんが、素手でよかった」
 ユリがぽつりと言った。
 急所狙いの技の応酬で、互いに武器でも携えていたら、それこそ死人が出る。正々堂々一対一の喧嘩であっても、怪しげな石のせいでアトラス編集部に屍を寝かせる羽目になっては敵わない。
「そろそろ、終わりにしますか」
 ラスイルが、ガッと秋隆の頸を掴んだ。
 喉仏を押さえ込まれ、秋隆がひゅっと苦しげに喉を鳴らした。
 ――――優しそうなツラして、なんてバカ力だよ。
 呼吸を喪って意識が朦朧とし始めたが、一方的にやられてたまるかとばかり、秋隆はラスイルの上腕めがけて、鉄拳を振るおうとした。
「やめろ!」
 それまで黙って師の戦いざまを見ていた蓮とトオルの声が、重なり響いた。
 その諫止の声に反応したのか、それとも単に戦い飽きて石の力が消滅したのか、直後、二人の体躯から不穏な色が消えた。
 秋隆は、ラスイルの手が放れるや咳き込んで、右肘を庇いながら立ち上がった。
 ラスイルはちらと蓮を見遣り、
「珍しく、私の腕の心配でもしたのですか? 何のために」
 と言いたそうな眼をした。
「あーあぁ、全く、厄介ごとにクビを突っ込むには俺も年だっつーの」
 秋隆が溜息を吐きつつ、それでも久方振りに暴れてすっきりしたのか、トオルに向かってニッと笑いかけた。


SCENE[5] ケーナズ・ルクセンブルク VS 雨柳凪砂


 残るは、松葉。
 四季の移り変わりの中でもその色を変えることなく、何百年も生き続ける、不変のシンボルたる松葉。
 ケーナズと凪砂は視線を添わせて、その一対の石を見下ろしていた。
「……あの、ユリさん」
 凪砂に呼ばれて、ユリが、はい、と肯いた。
「戦闘を始める前に、気になっていることだけ、訊いてしまいたいのですけど」
「何でしょう?」
「この石、山から持ち帰る時は、何も起きなかったんですか? その、石を貰い受けた時、とか」
「ええ。石は、この箱ごと渡されましたから。しっかりした桐の箱にきれいな石が入っていて、素敵だなとは思いましたけど、その時は石には触れませんでしたし」
 だからまさか、こんな力を有した石だなんて、思わなくて。
「そうですか……」
 凪砂は、自分に親切にしてくれた女性に怪しげな石を贈った初老の男のことを思った。その人は、この石の能力を知っていたのだろうか。それとも、知らなかったか。同色の石を同時に握っていなければ何も起きないという性質上、偶然にも彼がそういう事態に陥らなかった場合、知らずにいたという可能性も否定はできない。だが、たとえそうだとしても、彼は一体どうやってこの石を入手したのだろう。そのあたりに転がっているような代物でもなかろうに。
「後で執筆する予定の記事の取材ですか」
 ケーナズが、眼鏡の向こうから穏和な眼差しを送った。
「あ、……ええ、何か参考になることがあるかなって、思いまして」
「とりあえず、キミと私の一戦の参考になる話ではない?」
「そうみたい、ですね。石の謎も解けませんし」
「では、予定どおり戦いを」
「はい。でも――――」
 凪砂が、きょろきょろと室内を見回した。
「ここで戦うのは、ちょっと。被害が拡大しそうな気が……」
 その言葉に、ケーナズは、軽く眉を動かした。
「そんなに激戦をお好みとは」
「そ、そういうわけじゃないんですけど、ただ、あたしの体が勝手に動くとなると、……大変なことになるかもしれなくて」
「それはそれは」
 ケーナズは妖しく微笑み、
「それなら、外へ。ちょうどこの白王社ビルの裏手は緑化運動推進地区で、邪魔になる物は少ない筈だ」
 声音に深みを加えて言ったかと思うと、松葉を手に取り、淡い残像を置いて忽然と姿を消した。
「テ……テレポーテーション……?」
 今の今までケーナズのいたその場所を、凪砂が呆然とみつめた。
「世の中には、いろんな現象があるようで」
 ラスイルが言い、
「ああいうのに較べたら、俺らの喧嘩ってのは、尋常だったよな」
 秋隆が受けた。
「……よかった」
 凪砂のホッとしたような声に、トオルが頸を傾げた。
「凪砂さん? よかった、って、何が?」
「あの方なら、死んだりしませんよね」
「……死ぬ?」
「あたしが……あたしの中の影がたとえ暴走しても、ケーナズさんなら、大丈夫そうですよね!」
 凪砂は迷いなく石を握りしめ、たたたっと窓際まで駆け寄ると、がらり開け放った窓から飛び降りた。
「お……、おいッ?」
 後を追った蓮が慌てて窓下を見た。
 すると、ほんの一瞬、ビルの壁に何かが跳ねたように感じ、次には地面に降り立っている凪砂の姿が見えた。
「……ここを何階だと思ってるんだ……」
「ヴァイオリン弾きの兄さん、トオルと戦って正解だったな。ケーナズや彼女みたいな能力者相手じゃ、腕が何本あっても足りないだろ」
 蓮の後ろから凪砂を見下ろした秋隆が、彼の肩にぽんと片手を置いた。
「……肘、手当てした方がいいんじゃないか」
 蓮が秋隆の右腕を顎で指した。
「ん? ああ、そうだな」
「固定するくらいなら、俺でもできる」
「じゃ、やってもらうか」
 待ってろ、と言って麗香に包帯や添え木になりそうな道具を借りに蓮は踵を返し、秋隆はそのまま外で対峙しているケーナズと凪砂を見ていた。
「……飛び降りてくるとはね」
 ケーナズが、愉しげに言った。
 石のせいだろうか、全身が心地よいほどの戦意に満ちている。
 己の意思は、思ったほど浸食されていないように感じた。それが証拠に、超能力を制御する役割を果たすリミッターである眼鏡を、外そうという気にならない。
 宵の冷たさを滲ませた風が、ケーナズの金の髪を吹き撫でていった。
「キミがどういう人なのか、訊くよりも試してみる方が早そうだ……」
 語尾が、旋風に紛れた。
 眼前から飛んで来たかまいたち、いや、凪砂の腕から放たれた鋭い一閃が、ケーナズを襲った。
 (速い……!)
 思うより先に、力が発動された。
 眩い発光体のような膜が、ケーナズを覆った。PKバリアである。
 かまいたちはバリアを裂くほどの威力は持たず、撥ね返ってそばの落葉樹を斬り倒した。
「うう……、あ……っ」
 凪砂が唸った。
 その美しい眸に宿る光がぬらぬらと、獰猛な獣のそれを思わせる。
 続けざまに三度、四度とケーナズのバリアは凪砂の猛攻を受け、どうにか弾き返しはするものの、このままでは埒が明かない。そう見たケーナズは、ようやく自らも攻勢に転じた。
 バリアで防禦しつつ、瞬時に凪砂の背面へ移動し――――左手にエネルギーを集中させ、その指先を彼女のうなじに向ける。
 ヴァンッ
 蒼白い光塊が生まれたと見えたのは寸の間、凪砂は周囲の空気に圧し出されるように数メートル先へ烈しく倒れ込んだ。
「……短期決戦が賢そうだな」
 これなら、リミッターを解除することなく済みそうだ。
 ほんの僅か、一瞬にも届かないほどの短さで、ケーナズが息を緩めたその時。
 地から身を起こそうとする凪砂の姿が、しなやかな四肢を持った、闇よりもなお黒い獣のそれに見えた。
 (……狼)
 ああそうだ、狼に、肖ている。
 漆黒の――――孤高の獣。崇高な魂。
 そう認識できたのは、ケーナズが凪砂に組み敷かれ、頸筋に歯を、牙を突き立てられた後のことだった。
「つ……ッ」
 ケーナズが凪砂の頸に手を掛け、自分から引き剥がそうと、強電流を送り込んだ。凪砂は電撃に弾き飛ばされ、帯電して痺れた身をひくつかせた。
 ケーナズは血のあふれ出る傷口に手をあて、凪砂の次の攻撃に備えた。が、黒狼と化したかと思った凪砂は、すでに先刻までの女の姿に還り、その身からは殺意が消えていた。
 石の力が、霧散したのか。
 ケーナズは小さく溜息を吐くと、
「本当に、人は見かけに依らないな。その上、見かけすら変わるのでは尚更か。あれが幻でなければ、だが」
 ひとりごちてから、凪砂に向かって、
「……キミの力、見せてもらいましたよ」
 血の匂いの漂う中、ふっと口もとを微笑で染めた。


SCENE[6] 双子石の淘汰


 石を使い切るために執り行われた戦闘で怪我人が出たため、当日は戦い済み次第解散となり、傷を負った者は各々ユリの勤める病院で治療を受けた。
 そして後日改めて、アトラス編集部に六人が集結することになった。もちろん、編集部に石を持ち込んだユリも都合をつけて訪れた。
 この一件を記事にすべく、手を尽くして石について調査し、ある程度の成果を得て編集部に出向いた凪砂は、ソファの隅に座って申し訳なさそうに身を縮めていた。
「……あの。すみません……でした」
 向かいに腰掛けたケーナズに頭を下げた凪砂に、
「いえ。キミが謝ることは何も」
 ケーナズは包帯を巻いた頸に何気なく触れながら、柔和な表情を見せた。
「それより、私はキミが調べたという石の正体の方に興味がある」
「聞かせていただけますか、凪砂さん」
 ユリが、凪砂に話を促した。
「は、はい……。その、ユリさんが受け取った石の名前は、紅葉、菖蒲、松葉、それから山吹、でしたよね。それって、実は、実在した双子さんの名前なんです」
「双子の名前……?」
 蓮が訊き返した。
「ああ、それで、石は二つずつあったのか」
 トオルがぱんと手を拍った。
「ええ。……聞いて愉しいお話じゃなくて申し訳ないのですけど、或る旧家の親戚中で、一時期なぜか双子が立て続けに生まれたことがあったそうで。なんとなく不気味になって著名な占術師に占ってもらったところ、双子は大凶と出て、……どちらか片方をいなかったことにするように、と。そうでなければ双子の悪行により家が潰れてしまうのだと」
「つまり、家を守るために双子の片割れを殺せということですか」
「そうです」
 ラスイルの言葉に、凪砂が肯いた。
「それで、八人いた子供は四人に減り、双子がそこにいたという事実は抹消されました。その後、殺された子の魂を鎮めるために、生き延びた子に美しい名が冠されたんです」
 秋に生まれた紅顔の子のために紅葉。
 高貴な紫麗しい五月の花菖蒲。
 常緑に輝き神の降臨を待つとも言われる神聖な松葉。
 桜散りゆく頃に咲き初める明るい八重山吹。
 美しい色で死臭を隠し、屍の養分を吸い上げて豊かな春秋を謳歌する子供達。
 だが、しかし。
 何ゆえか、生き残った子らは皆、成人を迎えることなく自害した。
 精神を病んで自ら死んだのか、それとももう一人の自分に殺されたのか――――。
 旧家は暫し騒然となり、やがてただ一人の後継者を残して、その血を受け継ぐものはいなくなった。
「……あ。もしかして、その後継者って」
 ユリが、はたと思い当たったように、ソファから立ち上がった。蓮は眼でユリを追った。
「あんたが薬を渡したっていう、男か」
「そう考えれば辻褄が合います」
「辻褄……?」
 ユリは、テーブルの上に一枚の新聞を拡げた。
 下段に、赤いペンで囲われた記事があった。「日照雨山で白骨死体発見」という見出しのその記事によると、先日日照雨山でみつかった白骨化した死体は、骨の鑑定の結果、五、六十代の男性のものと見られる、とのことだった。
「ソバエヤマ?」
 眉根を寄せた秋隆に、ユリが応えた。
「私が石を受け取った山です。この白骨死体がみつかったとされている場所……、ちょうどここで私、男の人に逢って」
「おいおいおいおい」
 秋隆が額に手をあてて天井を仰いだ。
「それ、男の人っつーか、男の幽霊だろうが」
「そうみたいですね」
 ユリはあっさり認めた。
「じゃ、そこを通りかかった誰かに声をかけてもらって石を渡すために、その幽霊はお腹が痛い振りをしてたってこと」
 トオルが言い、ケーナズが補足した。
「分かり易い結論ですね。旧家の胤裔は、何もかもを失い野垂れ死にゆく自分の最後の役割として、どうしても双子の無念をこの世の誰かに託さねばならなかった。自分の魂が救われるために。生前にそれが無理なら、たとえ死んでからでも」
「その双子の念を宿した石を、ユリさんが受け取り、私達が戦ったわけですね。……同じものは融け合うのでなければ、反撥する。ともに生きるか、ともに死ぬか。それとも――――」
「……もう一人の自分を殺めてでも、己を守るか」
 ラスイルの言葉を受け、蓮が続けた。

 いつか、あなたが私を殺す日。
 命の火を消すのは、私か、あなたか、それとも。
 私であり、あなたでもある、この存在。
 互いの絆の緒が灼け堕ちて、私達は消えてゆく。
 石の中に閉じ込められて、この想いは死に籠る。
 いつか、再び息を吹き返すその日まで。

「……いい記事、書けそうです」
 凪砂が、少し淋しそうに、笑った。


SCENE[7] また逢えますか?


 ユリの胸もとに、二枚の名刺がそれぞれ差し出された。
 佐和トオル。
 ケーナズ・ルクセンブルク。
「佐和さんはホストで、ケーナズさんは……製薬会社にお勤めですか」
「ええ」
 トオルとケーナズの声が柔らかに揃い、こなれた微笑が並んだ。
「いつでもお待ちしてますから、よかったらお店の方へいらしてください」
 トオルの笑顔に、
「ホストクラブって、行ったことないんですよ。愉しいですか?」
 ユリはまたしても直球型の問いを発した。どう頑張っても女らしい嬌態を作れない人なのらしい。淑やかに見えるということと、性格が女っぽいというのは全くの別物だ。ユリの場合、確かに嫋やかな姿態をしているが、内面はどちらかというとさっぱりした男性の在りように近い。
「愉しんでいただけるように、精一杯サービスしますよ」
 トオルはユリにウィンクして見せた。
 ケーナズは、トオルが去っていくのを待って、口を開いた。
「本来なら最初にお逢いした時に自己紹介すべきでしたが、ああいう状況だったのでね。ご容赦願いたい」
「いいえ、こちらこそ。今回はご協力、ありがとうございました」
「確か、キミは薬剤師だとか――――」
「そうです。ケーナズさんは製薬会社で、何を専門に?」
「新薬開発を主に」
「それは」
 ユリは嬉しそうに笑い、
「興味深いお仕事ですね。私も薬を扱う立場ですから、新薬開発には期待しています」
 と言ってから、
「……尤も、私の興味の向きはどちらかというと漢方なんですけど。仕事というより、趣味に近いかな」
 そう付け加えて、鞄の中から取り出した小さな袋をケーナズに渡した。
「これは……」
「蓮肉という生薬です。ハスの実から無胚孔種子を採って、乾燥させました。滋養品になりますし、心を安らかにする効果もあるとか聞きますから、よかったら」
 ケーナズはユリのお手製であるという蓮肉を受け取り、礼を言った。
「ふーん、レンニクだと。蓮肉。心がヤスラカになるってよ」
 ラスイル、蓮とともにトオルを待っていた秋隆が、ケーナズとユリの会話を立ち聞いて蓮の脇腹を小突いた。
「……何が言いたい」
 蓮が不機嫌そうな声を上げた。
「彼女が、こちらを見ているようですよ」
 ラスイルが言って、ユリに会釈した。蓮と秋隆もユリを見遣り、どうも、と軽く挨拶した。
 ユリはぺこりと頭を下げ、
「あまりお逢いする機会はないかもしれませんけど……、一応、薬関係はそれなりに分かりますから、体調でも崩された時はいつでも声をかけてくださいね。あ、ウチの病院にかかる時は、事前に言っておいてもらえれば、優先的に受診できるよう手配します」
 言い終えてから、これは内密にね、と唇に人差し指をあてた。
 最後に凪砂が、両手に記事の資料を携えて、ユリに近付いた。
「あたしの記事が月刊アトラスに載ったら、読んでくださいね」
「もちろん。凪砂さんの書かれる記事、愉しみにしてます」
 と、三下の原稿をシュレッダーにかけていた麗香が、「締切、明後日の朝でお願いするわ」と凪砂に声を投げた。
「あ、明後日の朝ですか〜っ? が……頑張ります!」
 凪砂は急ぎ自宅に帰って記事をまとめるべく、編集部を飛び出した。
「じゃ、俺達もそろそろ」
 トオルが言い、五人はユリと麗香に見送られ、帰途に就いた。
 それぞれの身のどこか深く融け入った、美しい石の名残を曳いて。


[あなたがいつか私を殺す日/了]


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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+ PC名 [整理番号|性別|年齢|職業]

+ 香坂・蓮
 [1532|男|24歳|ヴァイオリニスト(兼、便利屋)]
+ ラスイル・ライトウェイ
 [2070|男|34歳|放浪人]
+ 佐和・トオル
 [1781|男|28歳|ホスト]
+ ケーナズ・ルクセンブルク
 [1481|男|25歳|製薬会社研究員(諜報員)]
+ 廣瀬・秋隆
 [2073|男|33歳|ホストクラブ経営者]
+ 雨柳・凪砂
 [1847|女|24歳|好事家]

※ 上記、受注順に掲載いたしました。

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■         ライター通信          ■
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こんにちは、杳野です。
今回は、当調査依頼にご協力、ありがとうございました!
メンバーのみなさんが揃った瞬間、「ああ、どうしよう」と思いました。
石の色とジャンケンの結果を確認し、対戦相手が決まった瞬間、「本当にどうしよう」と思いました(笑)
その結果がこのようなノベルになりました。
ジャンケンの勝ち負けで戦闘の勝敗決定、のつもりだったのですが、戦闘シーンを読んでも「これは勝ったのか負けたのか?」という気になられた方も多いかと……。一応、ジャンケン勝ち組の方が活躍していたりとか、負けた方が傷を負う役回りになったりしております。
本っ当に興味深い組み合わせて書かせていただけて、倖せでした。ありがとうございます。
ノベル構成としては、SCENE[1]の基本は「ツイン」です。お二人ずつセットで、それぞれの視点で書き分けてありますので、併せて読んでいただけるとまた別の世界が見えるかと思います。
それでは、またお逢いできることを祈って。

――佐和トオルさま。
お世話になっております。
なぜかすごくチョコレート好きな男性に書いてしまってすみません(笑)
チョコレートに限らず、甘味ならなんでもOKなんですよね?
SCENE[1]のツイン部は、アキさんとのエピソードを書かせていただきました。
戦闘では、佐和さんの心理戦にぴたりと嵌るお相手で、もうこれ以上何も言うことはありません……。
ジャンケンでは佐和さんが香坂さんに勝っていたので、佐和さん視点から戦闘を書き始めたのですが、結果的に怪我をしたのも佐和さんで申し訳なく思っております。ああいう活躍の仕方もあるかとは思うのですが。舌の怪我、お大事にしてくださいね。
これからも仲良く(?)頑張ってください。