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<東京怪談ノベル(シングル)>


2冊目の224ページ


 少女は、こわい、と言っていた。
 海原みたまはそのとき、母になることにした。この少女にも母親はいるが、その実の母親では彼女を救うことが出来ない。
 みたまは死にも似た夢に怯える少女が横たわる、そのベッドに腰かけて、そっと微笑んでみた。まだぎこちなかったが、はじめのころの笑みよりも、ずっと様になっていた。


 午前中に、海原みたまに依頼が舞いこんだ。最近は電話で会話をするだけになってしまった夫からのものだった。正直、みたまはここのところ夫からの依頼だけは拒みたくなってきていた。いつもいつもろくなことにならないのだ。面倒な相手だったり、地球の裏側の国に飛ぶ必要があったり、そもそも傭兵がやる仕事ではなかったり――思い返せば、つくづくろくなことになっていない。しかも先日は、日本からイギリスへ行き、数時間ばかり調査した後にまた日本へとんぼ返り、日本に着いた途端に依頼取り下げという暴挙に出られたのだった。みたまはその後3日ほど機嫌を損ねて、夫と口を聞かなかった。さすがに反省したらしく、夫は事件の核心であった1冊の『本』についての物語を聞かせてくれたのだった。
 『畏るべき安寧』。
 エジプトのさる図書館から流出したという禁書だった。
 力を持ったその『本』こそが元凶であった。だがこの『本』がもたらした災厄を語るに、過去形を用いるのはまだ早い。みたまに『事後調査』という名目で夫から依頼が入ったのは、みたまがようやく夫に口を利き始めた翌日だった。依頼の内容を聞いたとき、みたまは直感した――事後ではないのだ。まだ事件は続いているのだ。
『失踪した子たちは戻っているはずなんだ。その確認をしてほしい』
 夫が電話口でうっかり漏らしたらしい一言が、みたまの勘をくすぐったのだ。
『うっかり憑けてしまった子がいてね……』


 幸福な『世界』へと連れ去られた少女たちは、確かに大半が無事に戻ってきているらしい。傭兵の仕事ではなかったが、てきぱきとみたまは駒を進めて、行方不明者リストのチェックを増やしていった。
 『本』の『世界』に住まうことを選んだ者もいるそうだったが、わずかなものだった。なぜ飲み込まれた少女たちが戻って来れたのかは定かではないが、みたまは不思議には思っていなかったし、逆に安心しているほどだった。自分の他にも、人を救おうと動いてくれている人間(……?)がいることは、けして不都合ではない。
 リストの9割にチェックが入り、みたまはイギリスに放った調査員が何人か戻ってこないことに気がついた。彼らが調べていたのは、ひとりの貴族の娘だ。生きているのか死んでいるのか、こちらの世界に戻ってきていないのか、確認がとれない。
 だがロイヤル・ファミリーの血を引く貴族の血族の情報が手に入らないのは、本人たちが知ってほしくない場合くらいだ。娘は世間が知る必要もない状況のもとにいるのだろう。みたまは部下にそれ以上深追いさせず、自ら動くことにした。
 みたまは清楚なメイド服に身を包み、貴族の屋敷を訪れた。


 数日は、少し不器用でやることが大雑把なメイドとして働いた。
 娘の部屋のドアは閉ざされていたが、1日に二度食事が両親によって運ばれていた。不治の病と闘っているとのことだったが、介護人も医師もおらず、両親が部屋に入って、食事を摂らせているようだった。
 とりあえず、娘がこの世界に戻ってきていて、何とか生きていることは確認できた。
 しかし――
 娘は以前から闘病生活にあったとは聞いていなかったし、実際にそうだったはずだ。
 病に臥せっている少女など、幸福な『世界』には必要ないだろう。
 きっと問題が起きたのだ。それも、ごく最近に。
 みたまに侵入できない部屋はない。
 彼女はメイド服のままで、護身用にとナイフをエプロンの帯に隠し、深夜、娘の部屋のドアを開けた。この目で生存を確かめたかったのだ。


 確かに娘は生きていた。
『だれ……?』
 部屋に忍び込んだみたまに、そう声をかけもした。
 ごぼごぼという水の音が織り成しているかのような声で、とどのつまり、人間のものではなかった。
「大丈夫……ではなさそうね。これはひどいわ。どうしてこんな……?」
『だれ……? だれ……? こわい……つめたい……わたしが、だれ……?』
 辛うじて少女の姿を留めているものが、ぬちゃりとベッドで身を起こした。彼女の向こう側にある樫の窓枠が、ぼんやりと透けて見える。長い髪の毛は、ぬらりずるりと流れ落ち続けては、新たに生えて、また流れ落ちる。溶けている、というわけではないようだった。変わりつつあるのは間違いないが。
『こわい……だれ……とうさま……こわい……わたし……かあさま……こわい……』
 みたまに怯えているのか、変わりゆく自分に怯えているのかはわからなかった。
 半透明のゲル状の身体の中で、球体が緩やかに回転している。人間の身体にも60兆個ほどあるだろうが、この『核』はこの世に生きる生物の『核』のかたちを成していなかった。おそらくは――『本』の中の定義に準ずる細胞なのだ。
 彼女はちがう『世界』に憑かれてしまっている。こわいのも当たり前だ。
 みたまはぎこちなく微笑むと、ベッドの傍らに腰掛けた。シーツとタオルケットはじっとり湿っていた。ゲル状の少女が、さっと身体を強張らせる。
「殺したりなんかしないわ。痛いこともしないから。……こわいのね。わかるわ。助けてあげる」
 治せるという絶対の確信がなかったが、そんな自分を激しく叱咤すると、みたまは少女に手を差し伸べた。
『こわい、たすけて、こわい……』
 大丈夫。
 自分は色々な人外を屠ってきたし、色々な人間を救ってきた。
 自分は救える。
 少女はもう怖がる必要はないのだ。
 自分がこうして手を伸ばし、少女を救おうとしているから。

 つめたいような、焼けるような感覚に、みたまの手が痺れた。少女がごぼごぼと湿った悲鳴のようなものを上げた。みたまの手は完全に少女の身体に入りこみ、この世のものではない『核』を握りしめていた。
 大丈夫、この子は死なない。
 私は、この子の『核』を抜き取るわけではないもの。
 この子なら大丈夫。
 この子はこの世界に生きることを選んだ。

 愛娘の悲鳴に、両親が飛び起きた。
 ドアが開け放たれた娘の部屋。母親が目眩で倒れ込みそうになっているのを、父親は支えながら――娘の部屋に入りこんだ。
 一拍置いて、両親はどっと涙を流し、揃って床にくずおれた。
 湿ったベッドの上に横たわっているのは、他ならない人間の娘の姿だったから。
「怖かったよ」
 娘は両親と同じように泣きじゃくっていた。
「かあさまが助けてくれた……」
 だがその言葉を、実の母親は後々否定することになった。
 今このときは、娘の言葉を聞き流して、3人はずっと泣いているだけだった。


 ――こうしてほしかったなら、最初からそう言えばいいのに。
 みたまは携帯電話を前にして、溜息をついた。
 自分からかけなくても、夫はきっといいタイミングで電話をかけてきてくれる。いつもそうなのだ。どこかで自分を見守っていてくれているから、ひと段落ついた瞬間に、自分は夫の声を聞くことが出来る。
 ――何て言ってやろう?
 前の、取り下げられた仕事とは、とりあえず大違いの達成感がある。
 みたまはそれなりに満足していた。ただ、いつもながらに説明の足りない夫に対して、不満がないといえば嘘になってしまうのだ。
 コール音、
「ほら、きた」
 みたまは自然と微笑み、呼び出しに応えた。




<了>