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<PCシチュエーションノベル(グループ3)>


燃える山の夕焼け


 白金兇の目に、この山の色彩がどう映っているのか――ふたりは知る術を持たないのだ。だが、花房翠と御母衣今朝美の誘いに乗ってきたこの白い男は、見た目ほど空白な心の持ち主ではないということなのだろう。
 今朝美とは、山の麓の村で落ち合った。最寄りのこの人里から今朝美のアトリエまで、ゆうに7時間を越える道のりとなる。兇と翠は早めに東京を発ち、正午には待ち合わせ場所に着いていた。
「騒がしいですね」
 この田舎にあっても、兇はプラダのサングラスだ。少しばかり浮いている。
「そうか? いい雰囲気じゃないか」
 古びた鳥居の向こう側から聞こえてくる祭囃子に目を細め、翠が反論した。
 兇のわずかな表情の綻びに、翠は気がつけなかった。兇はサングラスで何もかもを韜晦してしまえるらしい。心象の変化など、ちょいとその肩に触れてみたらわかること――だが翠は、力など使わなかった。こんなときにいちいち人の心を探るのは無粋だ。それに、兇が鬼を悪くしていないらしいことは何となくわかっていた。
「いえ、雰囲気はね。俺も嫌いじゃありませんよ」
「どこか別のところが騒がしいってことか」
「ええ、例えば山とか、あの鳥居の向こう側とか」
 兇は肩をすくめた。
「まあ、尤も、不愉快な騒々しさじゃありませんがね」
「騒がしくもなるか。祭りだもんな。『山の主』も降りてきてる」
 翠は鳥居の向こう側に目をやって、笑みを大きくした。
 もうひとりの白い男が、やって来る。祭囃子が小さくなったように思えたのは錯覚か。
 ふたりに秋を贈るために、あの男はわざわざ山を降りてきた――
 御母衣今朝美だ。

「綺麗だな」
 山を見上げて、翠は思わず呟いた。
 紅葉が、まさに見頃であった。
 兇がサングラスを取り、目をすがめて、紅葉を見つめた。
「燃えているように見える」
 彼は軽い色盲だったが、木の葉の色が緑ではないことくらいは見て取れた。彼は見えたままにそう呟いたのだ。
「私にも、燃えているように見えますよ」
 今朝美はにこにこしながら籠を背負い直した。籠の中にはすでに、茸や柿がいくらか入っていた。ただ山を降りるの気分にはなれなかったのだ。彼の調子はいつもの通りだったが、今朝美は自分で気がついているほどに胸を躍らせていたのである。ふたりの都会人が、秋を知るために来てくれた。これから山は静かな眠りにつく。死にも似た静寂の前に宴を開くことが出来ようとは、今年に入ってから今朝美はついぞ考えたことがなかったのだった。それに兇からは、良質の瑠璃と孔雀石を受け取った。しばらくは、群青と碧に困ることはなさそうだ。今朝美が秋の清流を描いているところだったのを見て、兇が気を利かせたのである。
「ああ、そうだ」
 綺麗に色づいたカエデの葉を弄びながら、今朝美が顔を上げた。
「少し険しいのですが、近道があります」
「……あんたにとっての『少し険しい』って?」
 翠はいささか冷めた視線を、森の人に送った。道なき道を歩き始めて1時間、今朝美はまったくと言っていいほど汗をかいておらず、銀髪はひと房も乱れていないのだ。
 翠と兇がすでにへこたれているというわけではなかったが、都会人は近道を遠慮しておきたかった。だが――
「食べられる茸は、目につきにくいところに生えていると聞きます」
 足元に生えていたベニテングタケを採って、兇は翠に言った。まるでマンガに出てくる茸のように、ベニテングタケの色彩はけばけばしいものだった。今朝美がこの毒茸の絵を描けば、きっと着飾った毒婦が現れる。
「今朝美さんが知っている道は、きっと目につきにくいところですよ」
 兇が妙に悪戯っぽい仕草で、毒茸を打ち捨てた。
 歩き始めた今朝美のあとを、兇は確かに、にいと笑って――ついていった。兇が満面の笑みを浮かべるなど、明日は嵐か雹か天変地異か。翠は呆然と、ふたりの後を追った。


 ……あのとき、もっと反論するべきだった……。
 翠は、それはそれは後悔した。懸念していた通り、今朝美が言う『近道』の険しさは半端なものではなかった。兇の正気とは思えない(少なくとも、翠はそう感じた)一言に、今朝美は表情こそいつもの通りだったが――明らかに大喜びで、近道へと突き進み始めたのだ。ついて行くより他はなかった。ある程度の覚悟をして、動きやすい格好で来たのだが……その備えを補って余りある険しさだ。
 祭囃子が聞こえる。
 小さな子供たちが笑っている。
 翠は耳元や手先をかすめていくその音に、たびたび足を止めた。小さな村を発ってからすでに3時間が経っている。祭囃子や、はしゃぐ子供たちの声が聞こえるはずはないのだ。
 だが、確かに聞こえる――
 疲れのための幻聴でなければ、山が祭囃子を口ずさんでいるのだ。
  ねえ、おにいちゃん。
 呼びかけられたわけではない。
 声も聞こえなかった。
 だが翠は確かに、そう導かれたのだ。
  ここ、ほってごらんよ。そっとだよ。やさしくね。
 顔を上げると、今朝美がアケビを採っていた。翠は導かれるままに道なき道を奥へと進んで、土と同化し始めている落ち葉の山をかき分けた。
「あ」
 それは翠がこの日始めて、自分の手で採った茸になった。見ただけでは、素人の翠には茸なのか毒茸なのか判別しかねた。嗅いだこともない匂いがあったが、胸が悪くなるようなものではなかったし――触れたその瞬間に、この茸が食べられるものだと感じ取っていた。
 見たこともない茸は、群生していた。持てるだけ採った翠は、足音と気配を頼りに、今朝美のもとに戻った。茸を抱えた翠を見て――それとも、翠が抱える茸を見てか――今朝美が、珍しくあっと声を上げて驚いた。食べていたらしいアケビの殻を、取り落としさえしたのだ。
「花房さん、それをどちらで?!」
「……あっち」
「大黒シメジですよ! なかなか採れるものではありません。美味しいんですよ、これは」
「シメジなのに?」
「天然のシメジに勝る茸はあまりありませんよ。マツタケくらいではありませんかね。私は、マツタケよりこの大黒シメジの方がずっと好きです」
「そりゃ……よかった」
 予想外なほどの今朝美の喜び様に戸惑いながら、翠は採った茸を今朝美が背負う籠に入れた。そう言えば、よく食べられているシメジはおしなべて人工栽培ものだと聞いたことがある。『かおりまつたけあじしめじ』という格言もだ。
 そうして、紫のアケビが視界に飛び込み、翠は白金兇の姿が見当たらないことに気がついたのだった。
「今朝美、なあ」
「はい?」
「兇は?」
 翠の問いに、2個目のアケビを食べていた今朝美の動作がぴたりと静止した。


 祭囃子が聞こえる。
 小さな子供たちの笑い声もだ。
 温かい視線が交錯し、悪戯っぽい微笑みが、色づいた葉の間を横切っていく。
 兇には相変わらず、山が燃えているように見えていた。冷たさを帯びてきた秋の風が吹くと、かさかさと木々の枝が揺れ、炎が揺らめいた。枯れた葉が枝から離れて、火の粉が飛んでいる。
 ん、
 兇はわずかに目を細めた。
 先ほどから、どうにも意識がぼんやりと霞がかっていて――山は本当に燃えているように見えるのだ。わずかに色彩を欠いた兇の視界を、いやに青いものが通り過ぎていった。
 笑い声が聞こえる。
 ここは、どこだっただろうか。
 足は勝手に、舞うように軽やかに、木の根を飛び越え落ち葉を踏みしめ、青いものを追うのだ。兇は自分の身体の勝手な振る舞いに、少しも疑問を感じていなかった。
「おにいさん、都から来た?」
 黒いブーツが、ぴしゃりと水を踏みしめたとき、そんな声が上がった。
 透き通った女の声だ。いや、女なのか、少女なのか、はたまた幼女なのか、はっきりとしない不可思議な声だ。
 薄水色の着流しを来た女が、太い木の枝に腰かけていた。女はふわりと微笑んで、兇に頭を下げた。
「ああ、村に行ったあの子を、連れて帰ってきてくれたのね」
「あの子?」
 兇は首を傾げた。
 子供を連れてきた覚えはないが――
 ――そうか。
 兇の前に、燃えるような橙の振袖を来た少女が現れた。兇の身体から、すうと抜け出してきたのだ。いつものように、彼は知らないうちに魂を吸い寄せて、ここまで運んできていたのである。少女の橙の振袖に刺繍されているのは、カエデの葉だった。カエデの葉ばかりの刺繍だ。他には、何の図柄も練りこまれてはいなかった。
「ごめんね、にんげんにはきついみちなのに、こっちをえらばせちゃった。ちかみちなんだもん」
「いや」
 兇は微笑みはしなかったが、不機嫌な顔もしなかった。
「きみが憑いてから、俺はずっとぼんやりしていましてね。道の険しさになんて、気がつかなかった」
 また風が吹いて、火の粉が舞った。
 兇の足元を流れる小川に――そう、彼は川のはじまりに立っていた――火は落ちた。赤と橙の火は消える素振りを見せずに、澄んだ流れに浮かび、さらさらと流れていく。
「それにきっと、こっちの道の方が綺麗だっただろうし……俺は迷惑じゃありませんでしたよ」
 うふふふふ、
 あはははは、
 くすくすくす……
 炎の隙間から見える空を仰いでいた兇が、ふと視線を前に戻しても――
 振袖と着流しの姿はどこにも見出せなかった。ただ、源流と思しき澄んだ小川の傍らに、若いカエデの木が生えているのを見出すことが出来た。
「兇!」
「白金さん!」
 炎の間からかすかに届く声がある。
 あ、とようやく兇は自分が連れとはぐれていたことに気がついた。
 気がついたそのとき、唐突に現れた柿渋色の浴衣を着た青年が、仏頂面で兇の背後を指差した。青年はひどく背が高かった。兇が、仰け反りそうなほどに見上げてしまうほどだ。
「……どうも」
 兇が丁寧に礼を言うと、青年は、
「持ってけよ」
 どさっ、と腕の中に熟した柿を山ほど落とし込んできたのだった。
「……どうも」
 気配と浴衣は、すでに炎の中に消えている。
 だが兇が濡れたブーツで歩み始めると、たちまち、可笑しげに誰かが笑い始めるのだった。


 兇はみつからなかった。日が落ちかけるまで、今朝美は翠とともに山の中を探してまわったが、見つかるのはアケビや茸や栗やドングリばかりで(一度リスが翠の足元を駆けていき、翠はつんのめった)、黒いレザージャケットを着た白い男の姿はどこにも見出せなかった。
「弱りましたねえ」
「俺はだいぶ前から弱りきってるよ」
 ぐったりと樹にもたれる翠を見て、今朝美が肩をすくめた。
「すみません」
「いや、いいんだけどさ」
「アトリエまではあと10分ほどで着きます。花房さんはアトリエで休んでいてください。私が探しに行きますから」
 今朝美は嘘をつかなかった。確かに、10分ほど歩いたところで、翠もこれまでに何度か訪れたことのある庵が視界に飛び込んできた。今朝美の父はどうやら不在であるらしく、明かりはついていなかった。
 ここは山の中だ。日が傾いただけで暗くなってくる。
「あ」
「あれ」
 しかしその男の白さは、この黄昏どきの闇にあっても、ぼんやりと輝いているように見えるほどに映えていたのだ。
 兇はアトリエの玄関の前に座って、のんびりとサバイバルナイフで柿を剥いていた。
「おや……待っていましたよ」
「こっちは探してたんだぞ」
「そうでしたか。いや、俺は親切な人にどうやら『道』を教えてもらったらしくて」
 今朝美と翠が顔を見合わせ、兇は無表情ながら――その金眼に、わずかな笑みを湛えて、柿を一口頬張った。
「まあ、おいおい話しますよ」
「お互いに色々あったんだな」
「そういうことです」
 そうして、アトリエにようやく灯がともった。


 籠の中に入っていた茸が、鍋の中にどっさりと突っ込まれた。今朝美が慌てて、茸の山の中に混じっていたオオワライタケとアケビを取り除いた。翠と兇には美味そうな茸にしか見えなかったが、さすが、森暮らしが(尋常ではなく)長いだけある今朝美だ。
「なあ、オオワライタケ食ったら、ホントに笑っちまうのかな」
「……食べます?」
「遠慮しとく。……誰が籠に入れたんだ?」
 オオワライタケが消えた鍋の中に、兇が無言で鍋の中に酒を注いだ。今朝美が麓の村で貰ってきたどぶろくだ。兇が少し入れ過ぎたので、アトリエの中は、コウタケの香りと神酒の匂いが入り混じり、一種の高揚感をもたらしそうなほどの、甘ったるい匂いに包まれた。しかしながら3人とも異様に酒に強いたちで、匂いだけで酔いそうな鍋を、どぶろくを酌み交わしながらつついていった。
 今朝美の言う通り、大黒シメジの味は素晴らしいものだった。ただ茸というのは、鮮度が落ちるのが早いもの。翠は持ち帰るのを諦めて、いまこのときの味を楽しむことにした。兇は……何を食べても、無表情で美味いと言った。
「ちょっと酒が多いんじゃないか?」
「コクが出ていいと思いますが」
「シメジにもなんか酒の味が……」
「柿でもお口直しにどうです?」
 兇が、ほとんど減っていない柿の山をナイフで指した。彼は謎の青年から譲り受けた柿を、ひとりで3個は食べていたのだが、青年がくれた量は大したものだったのだ。
「では白金さん、その柿をひとつ」
「あ、俺も」
「どうぞ。まだたくさんありますから」
 兇はするすると器用に皮を剥き、種を取って、ふたりに柿を差し出した。
 今朝美と翠は――ひとかけ食べた途端に噴いた。情け容赦のない渋柿だったのだ。
「……これは確か、譲っていただいたものでしたよね。どのような方でした?」
「柿渋色の浴衣を着た若い方でしたよ。背の高い。俺の見た色が正しければね」
 兇は渋柿を黙々と食べ続けた。今朝美は微笑み、どぶろくを飲み干した。
「柿の精にしてやられましたね。……まあ、白金さんはまったくしてやられたことにはならないのでしょうが……」
「美味しかったとお伝えください」
 コウタケの独特な香りと、どぶろくの神聖な匂いにつられたのか――
 翠は、痺れる舌を酒で落ち着かせながら、騒がしくなった外を見た。開け放たれた窓からは、相変わらず祭囃子が聞こえてくるようだった。
  おいでよ、ねえ、おにいちゃん。
 ――渋い柿でもくれてやる、ってのか?
  おいでよ、はやく……
 鈴の音さえも聞こえた気がする。ああ、宴も酣のはずなのに。
「翠さん?」
 渋柿を飲み下した兇の声を背に、翠はアトリエの外に出た。


 酔っているのかもしれない。
 兇に起きた災難(少なくとも話を聞いた限りでは、翠はそれを災難だと思った)を思えば、ひとりでふらふらと夜の森の中に分け入るはずがない。自分が酔うはずはないのだが、コウタケの香りにやられたか、或いは鍋の中に、今朝美が見落としたマジック・マッシュルームでも入っていたのではないか。
 アトリエを離れて5分ほど森を歩くと、祭囃子と鈴の音が止んだ。
 悪戯っぽい笑い声がそこに満ちていた。笑い声は幸福をも帯びていた。
  みてみて、おにいちゃん、そらをみて。
 感じるままに、翠は空を仰いだ。
 秋の夜の山は、寒々としていた。夜空がすでに凍りついているかのようだった。そこからは、空がよく見えた。まるで丸く木々の枝の網をくり貫いたかのように、そこには窓があり――
 きらりきらりと光っては消えるものがあった。
「ああ、流れ星か」
 東京に出てから、流れ星などは見なくなっていた。それどころか、空さえ見上げてもいなかったのではないか。澄んで冷えた山の空を、競うようにして星が走っていくのだ。
「翠さん、お風邪を召されますよ」
 今朝美の声に、翠は束の間目を落とした。今朝美は微笑んでいた。ついてきたらしい兇が、アケビを手にしながら空を見ていた。彼の目にも、流星は映っている。
「ここがよくわかりましたね。星空をまともに見ることが出来るのは、この辺りだけなのですよ。私は勝手に『天窓』と呼んでいるのですがね」
「天窓か。さあて、俺もどうしてここに来れたんだか……」
 翠は再び空を見ようとして、ふと、視界の片隅で光るものに気がついた。
 小さな子供たちを見た気がした。銀や金のスパンコールを散りばめたかのような、キラキラと輝くサテンのドレスを着た子供たち。輝く子供のひとりが、ぴょいと飛び上がって、翠の首筋に口付けをした。……ような、気がした。
「ここから見る秋の夕焼けは、素晴らしいものなのですよ。今日は見られませんでしたね。残念ですが、紅葉ももう終わります。また来年、でしょうか」
「いや」
 兇がアケビを飲みこんで、今朝美に反論した。
「朝焼けを見ればいい」
 空の全てが見えるのならば、東の空が焼けるのも、西の空が焼けるのも、山が焼き尽くされていく様子も、見ることが出来るはずだ。
 風が吹いて、コウタケの香りがした。
 まだ、鍋の中身はなくなっていないことを思い出す。
「鍋の続きをしましょうか」
 兇が、唇の端についたアケビの種を、木々の間へ放り込んだ。もしここに種を落として芽吹いてしまったら、聖なる天窓がまた狭くなるだろうと考えたのだ。
「酒味の茸ばっかりで、ちょっと飽きたな」
 翠は肩をすくめた。ようやく寒さを感じ始めていた。それに、どうやら近くには水場があるらしい。木々の息吹とは違う湿気を感じ取ることが出来た。
「夜釣りに行きましょうか。何か動物質のものを入れたら、味も変わるでしょう」
「え、釣り場があるのか?」
「この近くですよ。……竿と上着を取りに、一度戻りましょう」
 異論はなく、3人はアトリエに向かって森の中を歩き始めた。
 翠が、兇が、途中で一度だけ振り返って、天窓を見上げたのだ――
 冷めた空の中で、燃えている星がある――
 赤い星がひとつ、ひときわ明るく輝いていた。
 風が吹いて、火の粉が飛んだ。
 天窓の中に、火の粉は踊りながら消えていった。




<了>