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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


血の記憶:後編
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□――― 回想―遠い過去 ―――□
血の臭いが立ち込めていた。
路上には、もはや人とは呼べなくなった肉の塊が、哀れな屍を晒している。
つい先刻までの阿鼻叫喚ぶりが嘘のように、村は静まり返っていた。
「ただの人が、鬼を封じることなどできませぬ」
どこかで見た覚えのある老婆が、聞き取りにくい発音でそう言った。
「鬼を傷つけるには、あの刀でやつを斬るしかありませぬ。しかしあの刀は魂を喰らう。貴方の心もあの娘のように喰われてしまいます」
「だからと言って、あの娘を放っておくわけにもゆくまい」
低い男の声がして、チリと刀の鍔が鳴る。
「鬼の呪いを受ければ、親戚縁者にまで類が及びますぞ」
空気を振動させて、男が笑った。
「―――なに。私に身内はおらぬ」
言って男は立ち上がり、再びチリ、と刀が鳴った。
振り返り、血のように赤い夕日を浴びた男の顔が露わになる。
静かな光を湛えた黒い瞳。
誰かに似ている、と思った。

―――ああ、あれは……

今は目を閉じて動かない、青い瞳をした青年の眼差しだ。

・・・・・・・・・・・

「坂崎の血の記憶でも覘いたか。呆けた顔をしておる」
鬼の声に、ケーナズ・ルクセンブルクはふと我に返った。あの印象深い男の視線は、もう消えている。
(何だ、今のは……?)
まるで白昼夢でも見せられた気分だ。首を巡らせて仲間たちの顔を確認すると、誰もが似たような顔をしている。
「……あんたも見たのか?」
怪訝そうに眉を寄せた廣瀬秋隆(ひろせ・あきたか)が、声を掛けてきた。シュライン・エマも海原みその(うなばら・みその)も、同じように狐につままれたような顔をしている。どうやら、皆が同じ幻を見たらしい。
「あぁ……。キミもか」
答えて、向かい合った顔に答えを探すように視線を向けたのも一瞬だった。
からかうような笑い声に、鬼を振り返る。驚いている彼らをおかしげに見つめた鬼は、頬まで口を裂いたように口を広げた。喉を鳴らしたので、笑っているのだと分かる。
「あれは強い剣豪だった。我の首を刎ねることが出来たのも、あの腕があってこそ。……そして、刀に魂を奪われてからも、強かった」
面白がるような、それでいて憎憎しげな声で、鬼は喋り続けている。
「今までに俺の刀を手にした誰よりも多く、坂崎は人を殺めた。この子どもに流れている血は、そういう血だ。鬼の俺が言うのだから間違いはない……この血は、鬼神の血よ。人の血を誰よりも多く浴び、国中のものたちに憎まれ、怨まれて殺された男の血族だからな」
「だからといって、透が貴様に怨まれる筋合いなどない」
本気で腹を立てているらしいケーナズは、鬼の言葉を言下に切り捨てた。真っ赤に燃えさかる目を向けて、鬼はケーナズたちを見やる。
「たかだか数十年生きただけの子どもにはわかるまい。怨みとはそういうものだ。血とともに受け継がれる」
「気持ちは……まー分からなくもないが、透に罪はねぇだろうに」
手で落ちかかる髪を掻き上げて、秋隆は苦い顔だ。それでも渋谷透(しぶや・とおる)と直接の関わりもなく、年を重ねた分だけ経験もあるので、落ち着いている。
少しでも透の身体に鬼が入るのを遅らせ、その間に何かの策を練る。口に出しては言わないが、誰もがそのことを考えていた。
そのことを知っているのか、鬼は愉快そうに動きを止めて、彼らを眺めている。
「俺を憎いと思うのなら、かかってくるがいい。途端に鬼の毒はこの子どもの血に混じり、内側からじわじわと身体を蝕んで行くことになる」
手出しが出来ない面々を見渡しながら、満足げに鬼は少しずつ身体を大地へと沈め始めた。嘲るように口を左右に開いた鬼は、ふと、僅かに顔を揺らめかせてその動きを止めた。
「お兄様!」
背後で声があがったのは、その時である。堪えきれずに足を踏み出しかけていたケーナズも、ここでは聞くはずもないと思っていた声を聞いて振り返る。
今まで誰も居なかったはずの空間に、いくつかの人影が出現していた。一人は高校の制服を纏った少女。そして、後の二人は、ケーナズに覚えのある顔だ。洗いざらしのシャツを着た青年は、御影・涼(みかげ・りょう)。そして、真直ぐに自分の方へと向かってくるのは……こわばった表情をした妹……ウィン・ルクセンブルクだった。
「ウィン……おまえ、何故ここに」
驚きを隠さずに、ケーナズは近づいてくる妹の姿を見つめた。

□―――五里夢中
「透くんは大丈夫なの?」
「状況はどうなっているんですか」
ケーナズたちと合流して、女子高生と涼がそれぞれに口を開いた。女子高生の名前は、久喜坂・咲(くきざか・さき)と言うらしい。黙っていれば上品な雰囲気の少女だが、口を開くと中々元気のある少女だ。
後から来た三人は口々に問いかけて、戸惑った顔をしている。雰囲気から、のっぴきならない状況だということは分かるのだが、状況は今ひとつつかめないのだ。
「んー……大丈夫といえば大丈夫だけど、かといってこのままでは危ないわね。透くんを人質に取られているような状況で、手を出しかねているのよ」
腕を組んで、答えてくれたのは草間興信所のタダ働き、シュラインである。他の者たちと同様浮かない顔をしているが、それでも比較的冷静を保っているようだ。事態の深刻さを物語るように、難しい顔をしている。
そんな彼らの間をすり抜けて、ウィンは兄のもとへ歩み寄った。
「イヴ。待たせちゃってごめんなさい」
ケーナズの傍に立っていつにない真面目な顔をしている友人に、ウィンが手にした譜面を渡す。
「頼まれものよ。確かに渡したわ」
すぐにそれを受け取って、イヴ・ソマリアは口元に小さく笑みを浮かべた。歌が持つ霊の浄化作用に魔力のこもったイヴの歌声に乗せれば、その効果は何倍にも膨れ上がる。鬼を弱らせるのに役立つだろうと思って、分身に譜面を取りにいかせたのだ。天然な彼は中々事態を理解しなかったので、半ば強奪という形になってしまったのだが、結果オーライでよしとした。
「ありがとう、ウィンお姉様。……これが助けになればいいんだけど」
「大丈夫よ。透のことは、私たちが必ず救い出すんだから」
静かに、だがはっきりとウィンは言い切った。常に見ない泰然とした態度と強い意志に裏打ちされた落ち着きは、本人こそ気づいていないが母親譲りである。揺ぎ無い瞳を、ウィンは次に兄に向ける。
「お兄様」
白皙の美貌を持つ兄は、怖い顔をしている。臆さずに、ウィンはケーナズの顔を見据えた。
何故来た、とは、ケーナズは口に出しては言わなかった。ただ咎めるような顔をしただけである。シャツに包まれた兄の腕に、ウィンは手を伸ばす。
サイコメトリーの力で、彼女はケーナズたちに起こった出来事を正確に把握したらしい。その顔が、みるみる懸念に曇った。
「坂崎の血……。透の中に流れるご先祖様の血のせいで、こんなことになっているのね?」
確認するようにウィンが呟くのに、ケーナズは頷く。
「ああ。……だが、手が出せない」
「渋谷様の意識に、鬼は半ば溶け込んでいます。鬼に不用意に傷を負わせれば、その血が毒となり渋谷様を傷つけてしまいます」
「下手に手出しをすれば、かえって毒を広げることになる……か。厄介だな」
ケーナズとみそのの言葉に、涼が考え込んだ。
「直接攻撃が出来ないとなると、私の能力も役には立たないからな」
珍しく荒々しい口調で、ケーナズが顔を歪めた。
傷を受ければ、鬼は毒を透の身体に流すのだ。かといって、一時的に鬼の動きを鈍らせたところで、いずれは透の心は侵食されてしまう。
「鬼の魂のみを排除すればいいのですが」
目を閉じたままの瞼に懸念の色を浮かべて、みそのは表情を曇らせる。
「その方法が……ね。わたしの歌で浄化するにしても、時間がかかるし」
難しい顔をして、イヴが譜面に視線を落とした。浄化しているうちに、透の身体に毒が流れ込んでしまったら話にならないのだ。
じりじりと、周囲の土も巻き込んで、鬼の身体は少しずつ地面に沈みつつある。土と鬼との間に見た地面は赤く、あれは渋谷透の血そのものなのだと、そんな比喩をした。じわりじわりと、鬼という名前の呪いは透の血に沁み込んでいく。
「妖刀を抜いちまったのがそもそもマズかったんだろ?もう一度封印してやりゃいいんじゃねえのか?」
「封印、ね……うん、できないことはないんだけど。本物の落陽丸は、祭ってあった寺社から盗まれてしまったらしいのよ」
と、顎に指先を当てて、秋隆に返事をしたのは咲だ。陰陽師の一族として、彼女には魔を退ける力がある。
「俺の黄天は、鬼封じでも有名な霊刀だから、十分に落陽丸の代理は務まるだろうけど……」
手にした刀を持ち上げて言いながら、途中で涼は顔を曇らせた。
「……それにしても、鬼を弱らせないことには。時間をかけていたんじゃ、鬼が彼の身体に毒を撒いてしまうんじゃないかな」
互いに互いの中に解答を見つけようとして、居並んだ者たちは顔を見合わせた。
「……このままじゃ完全にヤツが潜っちまうぞ」
彼らのように特殊な力を持たない秋隆が、とうとう腰まで地面に消えてゆく鬼を見咎めて舌打ちした。
「くそ……いっそ、燃やし尽くしてやるか」
ギリと歯を噛み締めて、ケーナズが足を踏み出す。
「待って」
今にもPKを全開にして体当たりしかけたケーナズを、シュラインの声が止めた。
今まで、他の者たちが意見を交わす間も、じっと沈黙していた彼女の久しぶりの発言である。動きを止めて、ケーナズもシュラインを振り返った。
指でしきりに顎のラインをなぞりながら、考え考え、シュラインは自分の意見を口にする。
「鬼が同化しようとしているのは、この地面の下にあると思われる透くんの『流れ』なのよね?」
「渋谷さんの血の中に、侵食しようとしてるっていってたけど」
この世界に向かう前に聞いたマリアの台詞を思い出して、涼が答える。それに何度か頷いて、じゃあ……とシュラインは首を傾げた。
「透くんの中の流れから、鬼の部分だけを選別できれば、勝ち目はあるってことよね」
「だから、流れを操るなんてこと、できねぇんじゃねえのか」
キィキィと、まるでネズミの鳴き声のような音がどこからともなく聞こえてくる。高くて耳障りなそれは、小鬼の出す音だ。今は姿が見えないが、先走った一匹の小さな小鬼が秋隆に飛び掛って、難なく振り払われる。
「そこなんだけど」
自分の身体を抱くように腕を回しながら、シュラインは視線を目を閉じたままの少女に向けた。
「流れを操る事……あなたの力で、どうにかならないかしら?」
「流れを選別……は難しいですが、今鬼のいる部分を、隔離することはできると思います」
考えながらも、みそのははっきりと頷いた。ここにたどり着くまで、地面に広がる「流れ」を辿ってきた彼女である。水そのものを操れるのではないかと考えたシュラインの目算は当たっていた。
「なら、勝機はあるわね。みそのちゃんの力で、鬼を隔離して、毒の拡散を防ぐ」
「隔離された空間なら、私の結界で毒を中和することもできるんじゃないかしら」
と、咲。
「敵が弱ったら、隙を突いて鬼を分離させることも出来るね」
「で、鬼を刀に封じ直す、と」
固めた拳で手のひらを打って、秋隆は鬼の方を振り返った。まるで湧き出るように、鬼の周りの地面から、ボコボコと黒い影が盛り上がっては歪な人の形を取る。
「となると……俺の役目は、雑魚の始末かな」
「廣瀬さん、加勢するわ」
イヴが腕を持ち上げ、虚空に指先で方陣を描く。イヴが空気を指でなぞると、指の軌跡を辿るように光が輝き、それが一つの呪文を形成した。
ぱぁっとひときわ明るく文字が輝き、その方陣を潜るようにして、黒金色の毛並みと力強い体を持った動物が出現した。犬のようだが、頭が三つに分かれている。……神話にいる、ケルベロスそのものだ。ケン、とイヴが名前を呼ぶと、野性の色に光る瞳を向けて、ケルベロスは顔を上げる。三つ頭を交互に撫でながら、イヴは恋人に頷きかけた。
「わたしたちのことは気にせず、鬼に集中して。いつまでもわたしの護衛だけさせるわけにはいかないものね」
普段はその力を極力使いたがらない彼女だが、いざとなればその実力は確かである。ケーナズが彼女に答えて頷き、シュラインがさて、と息を吐いた。
「では、行きますか。みそのちゃん、準備はいい?」
「いつでも結構です」
彼らは鬼に向き直る。待ち構えていたかのように、地面は沸騰した湯のように盛り上がって小鬼を生み出す。土から出た小鬼たちは、一斉に彼らに向けて襲い掛かってきた。

□―――
蝙蝠の大群のように、地面から湧き出した小鬼はこちらに向けて迫ってくる。とにかく標的に向かって、まっすぐに突っかかってくる小鬼たちは、こちらを恐れていない分厄介である。振り払われては起き上がり、どこでもいいから歯を立てようと、小さく鋭い牙を剥きだして噛み付こうとする。
「透!早く目を覚ましなさい!どれだけ私たちを心配させてると思ってるの!?」
肩に圧し掛かってきた小鬼を振り切って、ウィンが声を張り上げた。彼女の声は、しんしんと遠くまで吸い込まれていく。
……ずっと遠くまで響いていった声は、余韻を残してやがて遠くなった。荒廃した世界に、変化は見られない。不安を掻き立てる沈黙だけが、余計に静かに感じられるようだ。
「ちょっと、透くん!レディが声を掛けてるのに答えないなんて、透くんらしくないわよ!」
流れた沈黙の中で、今度はイヴが怒鳴った。歌手の声量である。声音は朗々と遠くまで響く。
「そうよ、女性がお願いしてるんだから頑張りなさい!」
「渋谷様。いつまでも眠っていてはいけません。鬼を追い出して、早く元の世界に帰ってきてください」
口をそろえたシュラインに、みそのまでが話しかけている。
この状況下において、女性にそう言わしめるとは一体渋谷透とはどんな男なのかと、数人は怪訝な顔をしている。だが、どこへともなく向かった彼女らの言葉に、皆が何らかの変化を期待したことは確かだった。
声は遠くまで響いたが、しばらく待ってみても世界に変化はない。彼女らの声に戸惑ったのか、小鬼たちの攻撃が鈍った程度だった。
「女の子が話しかけたらすぐ目覚めると思ったんだけど……ホントに沈没してるのねぇ……」
呑気な声とは裏腹に、考え込むようにイヴが眉を寄せる。
普段は呼べば答えるのだと、安心しているから余計に不安なのだ。ウィンは強く唇を噛み締めた。
ククク、と空気を震わせて笑い声が流れた。
「愚かな事だ……この世界は血の記憶。ここにあって意識を持つものは、異質である俺とお前たちにおいておらぬ。たとえ宿主であっても、血に干渉することはできぬのだ」
低く空気を震わせて、鬼は嘲笑う。慎重に、みそのが鬼の「流れ」を探っていることには、まだ気がついていないようだ。
気づかれてしまっては厄介である。一人、「流れ」に意識を集中しているみそのから鬼の注意を逸らそうと、涼が鬼をにらみつけた。
「何故、今更彼を狙うんだ?もう、何百年もの年月が経っているんだぞ」
手出しが出来ない風を装って発せられた台詞に、鬼は顔を歪める。赤い口が露わになる。
「幾星霜が過ぎようとも、恨みは晴れるものか。あの痛みを忘れ得ることができようか」
鬼の声が低くなり、怒りを押し殺すように喉が鳴る。
「愚かな。先祖の恨みを子孫で晴らそうというのか。数百年の間に、どれだけ血が薄くなっていると思っているんだ」
いつにない険しい顔で、ケーナズが苦々しげに吐き捨てた。いくら血のつながりがあるからといって、顔も知らない先祖の罪を子孫が償わねばならない謂われなどない。血がつながっているという意味で、ある種の責任はあるだろう。だが、先祖に関することで、透がその怨みを引き受ける必要などないのだ。
だが、鬼はケーナズの言葉に、歯を剥きだして笑っただけだった。
「知らぬから言えるのよ。お前らは何も知らぬのだ」
どういうことだ……という台詞は言葉にならなかった。問い返すより早く、鬼の表情が変わったのだ。
変化は、仲間たちの間にも伝わった。それは、まるで風の流れが変わったような感覚だ。ざわりと空気が動いたのである。
「何だと……!?」
「今、透さんの中から鬼の流れを隔離しました」
みそのが言った。先ほどから沈黙を保っている間に、彼女は鬼に気づかれぬよう、少しずつ鬼の流れを確保していったのだ。今や、みそのの流れを操る力のために、鬼はそれ以上、透の意識に身体を沈めることが出来なくなっている。
「おのれ……」
赤く光る瞳がギラギラとした光を湛え、声の主を見た。みそのの瞳は閉じられたままだったので、その瞳を射抜くことは出来なかったが。
すぐに、彼らは行動を開始した。
「透くんに危害が及ばないならこっちのものだわ!ケン、結界を張って鬼の力を弱めるから、その間、安全確保よろしくね」
グルル、と喉の奥でケルベロスが唸る。イヴはすでに眉を寄せて、詠唱に入っていた。
「イヴさん、あたしも手伝うわ」
と咲。
「わかったわ。わたしはもしもの時のために、二重に結界を張って、透くんの血に鬼の血が混ざるのを抑えるから」
二人の少女の声に合わせたように、ずしりと重い足でイヴと咲の前に立ち、ケルベロスが彼女らを守るように立つ。
流れを止められた主を守るべく、一斉に襲い掛かった小鬼たちは、ケルベロスの白い牙の餌食になった。


普段は目に見えない結界が、鬼がその中で暴れるたびに薄く光を帯びて膜を張ったように目に映る。二重の結界を張られた上に、みそのの力で動きを封じられた鬼は、少しずつではあるが明らかに弱ってきているようだ。
「ケーナズ、涼さん。鬼の動きはこっちで抑えるから、あとよろしくっ!アテにしてるからね」
言った彼女の額にはじんわりと汗が浮いている。魔界への入り口を開いた上に、連続での魔力の使用は、流石の彼女にも堪えたようだ。だが彼女の体調を示す変化といえばその程度で、イヴはいつもどおりのしっかりした口調で咲を見た。
「咲さん、わたしは一度結界を解いて、鬼の力を弱らせる方に回るわ。持ちこたえられる?」
手にしているのは、ウィンによって持ち込まれた楽譜だ。底なしとも思われる鬼の抵抗力に、まずは力を削り取るのが先だと判断したのだろう。
「どうにかするわ、透くんのためだものね」
意識を集中し、結界を保つためにきつく眉を寄せた咲が、そう言ってイヴを促す。咲のそれと、二重に張っていた結界を解いて、イヴはケンに自分たちを守るように、もう一度命じた。そのまま、高い位置にある恋人の顔を確かめる。
「絶対透くんを殺させやしない。……必ず鬼を倒してね」
「ああ。……必ず」
顎を引いてケーナズが頷く。スラリと刀を抜いて、涼が促した。
「行こう、ケーナズさん。時間も限られているし、ね」


ブン!と空を切って光った涼の刀を、鬼の岩石のような手が止めた。岩のようなのは、見た目だけではないらしい。僅かに切っ先は鬼の手のひらを傷つけたようだったが、腕一つ、切り落とすことも出来そうな見事な太刀筋は、鬼の手の中で止まってしまう。
テレビでよく耳にする声が、アカペラで不思議な旋律を奏でている。イヴの歌声だ。
彼女の歌声が流れるたびに、鬼は不快そうに唸った。彼女の魔力と、歌詞の浄化の能力が、鬼にダメージを与えていることは明らかである。だが、それでもまだ刀は鬼の身体を傷つけるには至らない。
「言ったはずだ……どのような神刀も霊刀も、俺を殺すことは出来ぬ。ただの人間に、俺を倒すことなど不可能だ」
ギリギリと腕が震えるほどに力を込めるが、鬼の手は難なく刃を掴んでいる。
「たかが人間の小僧に、俺を殺せるなどとゆめゆめ思うな」
黄天の白刃の向こうで、血の色をした鬼の目が細められた。人の心の深い部分から、本能的な怯えを誘い出す光だ。
「……生憎、俺たちはタダの人間より、只者じゃない人間の比率のほうが高いんだ」
言うなり、涼が刀を引いた。よく研がれた刀は、鬼の手のひらを滑り、切っ先は頬を掠めてズバリと音をさせる。
深手にはならなかったが、ぱくりと鬼の手のひらと頬が切れて割れた。赤黒い血がぱっと空中に散る。
鬼が呪詛を撒き散らし、怒りに任せて腕を伸ばす。自由になった刀を持ったまま、涼は後ろへ飛びのいてその手をかわした。透を救うつもりで、自分が血を被ってしまったらたまらない。
軽快なステップで飛びのいた涼に、ケーナズが声をかけた。
「見事な太刀筋だな」
「どうも。……けど、このままでは致命傷を与えるには至らない」
落ち着いた物腰の涼が、微かに焦れたような表情を浮かべた。先ほどから、人間ならば急所にあたる部分を狙っているのだが、鬼に跳ね返されてばかりである。巧く鬼の手を掻い潜って頚部を狙っても、その皮膚は驚くほどに硬い。
先ほどから、引き戻されるような、皮膚を引っ張られる感覚がある。恐らく、この世界に居られるリミットが、近づいているのだ。互いに顔を見合わせたケーナズと涼は、それぞれの瞳の奥に僅かな焦燥の色を見つけた。
鬼は、先ほどよりも落ち着きを取り戻している。彼らが一定時間しかこの世界に居られないことを、知っているのだ。もう少しの間持ちこたえれば、自分の好きに出来ることに気づいている。
「このままじゃ……」
「ここは私に任せてくれ」
涼の腕を取って引き、ケーナズは一歩前に踏み出した。刀傷ですら傷つかなかった硬い皮膚に、自分の力がどれだけ通用するかは分からないが、だからといって何もしないうちから諦めるつもりなど、毛頭ない。
「しかし……」
「傍にいては危険だ。キミは、彼らを守ってくれ」
背後で小鬼に襲われている仲間たちを示す。僅かに躊躇ってから、涼はしっかりと頷いた。
「……わかりました」
涼が刀を片手に小鬼を払いながら、苦戦している仲間の所へと駆けていく。入れ替わりにやってきたのは、青ざめた顔のウィンだった。
「お兄様」
ウィンが兄の瞳を見つめる。兄がこれからしようとしていることを、確かに理解している視線だった。
この世に生まれるより以前から、共にすごしてきた兄妹である。どんな能力を使わなくても、互いが互いのことをはっきり理解した。
「力を貸すわ。……だから、お願い」
透を助けて……と、動かない口が、青い瞳がケーナズに伝える。
伸ばした腕の僅かに震える指先を握って、ケーナズは妹に向けて頷きかけた。身を捩るような不安と、大切なものを喪うかもしれない恐怖に震えている妹の瞳に、安心させるように強く手を握り返す。
触れ合った手のひらから、彼女の力が注ぎ込まれて体内に満ちていくのが分かった。
「心配するな。私は、あんなヤツに透を渡したりはしない」
ここでしくじって妹を不幸にするつもりも、断じてない。口には出さなかったが、瞳を潤ませた妹の顔を見ながらケーナズは気を引き締める。透を救い出すことが出来なかったら、情の厚い彼の妹は、鬼の呪いに引きずられる可能性があった。
「……必ず透のことは連れ戻してみせる」
そっと手を離す。思わず兄について足を踏み出しかける妹は、小さかった頃のことを思い出させた。邪険にしても、すげなくしても、泣かされながらケーナズの後をついて回っていた、小さな女の子の姿だ。半年の間言葉を交わさずにいて、ようやくあの頃の気持ちを思い出したのだ。また、彼女を泣かせるわけにはいかない。
体中を、白く熱い力が漲っている。ウィンから受けたエネルギーが、今までにないほどケーナズの能力を高めている。
「無駄だと言っているのがわからぬのか」
「無駄かどうかは、試してみなければわからんだろう」
体内を巡回する力が、炎の形になるのをイメージする。力は少しずつ身体に溜まっていって白い灼熱になる。
(我が名が炎、解放、希望を表すのなら)
父がくれた名だ。今まで、深くその意味を考えることなどなかった。所詮は自分たちを捨てた無責任な男のしたことだと、ずっと思ってきたが、……今だけは。
(その名が示すとおり、鬼の怨念を焼き尽くし、透の未来を切り拓いてやる)
身体を流れる力を、形に変える。悪なるものを焼き尽くす、聖なる炎を強く念じると、カッと身体が熱くなって、自分の身体が白い炎に包まれるのが分かった。
(透……)
呼びかけても答えがないのは分かっている。それでも、心に刻むように強く呼びかけた。
(私もウィンも、お前のことが大好きだ。こんなところで失わせたりはしない。私たちが絶対に助け出してやるから、)
「貴様……!」
白い炎となって向かってくるケーナズに、鬼の顔が歪んだ。能力を全開にすると、ケーナズを取り巻く炎はさらに燃え上がる。
「……無駄だったか?」
表情を引きつらせる鬼に向けてニヤリと笑った青年から発せられた低く涼やかな声が、鬼の聞いた最期の言葉だった。
空気をつん裂くような断末魔の悲鳴が上がる。
そして、ケーナズの意識は、白い炎に包まれた。
「おのれ……小癪な人間どもめ」
苦しげに声を震わせて、鬼が唸る。唸るうちにも、身体は白い炎に焼かれて蒸発するように縮んでいく。
「だが、これで終わったなどと思わぬことだ。……骨の髄まで、血の流れに至るまで、この血が呪われているのを忘れぬことだ。俺は再び……」
激しく燃え盛る白い炎に包まれて、鬼の声は掻き消えた。
今まで鬼が居た場所には、手に載るほどの大きさの、三角錐の形をした鬼の角ばかりが残されている。



―――鬼だろうが呪いだろうが、そんなものにお前は負けるな。


―――まだ、作ってやると約束したパスタも作っていないんだからな


□――― 回想―近い過去 ―――□
静かな湖のように深みを湛えた男の黒い瞳は、気がつくと窓の外を見ている。
たまに、何かを探すように男の手のひらが腰のあたりに触れるのも、彼女は知っている。
そこにあるのは、あの時の侍と同じ顔だ。ただ、今は着物のかわりに洋服を着ており、腰に刀は差していない。
「貴方は奇跡を信じていないけど、あたしはそういうのを信じるの」
さらさらと白金の髪を流して、彼女は謳うように言う。その面立ちは、やはり今は眠って目を覚まさない青年の特徴を宿している。
「こんな遠くまで来て、あたしは貴方に逢ったのよ。それはもう奇跡みたいな確率で」
今はまだ平べったい腹を撫でて、彼女は男を振り仰いだ。
「だからどんな不幸に見舞われても、そのせいで命を落としたとしても、あたしは貴方を愛したことを後悔しない」
透き通るような青い瞳で、そこだけ強い意志を抱えて、彼女は男を見つめる。
「この子に名前を考えてくれる?」
長い時間沈黙して、彼は「トオル」と呟いた。
「それは、男の子の名前?女の子の名前?」
日本人の名前に疎い彼女は、首を傾げて聞き返す。
「男の子の名だな」
「女の子が生まれたらどうするの?」
「生まれてくるのは、男の子だ」
確信を持った口調で言って、彼は手を伸ばして彼女の細い身体を抱き寄せた。男の表情はまだ少し曇っていたが、安心させるように彼女の肩に回された腕は温かい。
「幸せになるわよ。あなたとあたしの子だもん」
聞こえるか聞こえないかの彼女の声は届いたらしく、男の腕に力が篭った。


□―――夢の終わり
今までぴくりとも動かなかった青年は、皆が見下ろす中、ようやく意識が浮上したらしくもぞもぞと動いた。
「……くぁ。あーよく寝た。腹減った……ん?」
まだ眠そうな顔で目を開けた渋谷透は、自分を取り囲んで見下ろす人々の顔に、むくりと半身を起こした。
「……ん?」
どうやら、無事らしい。無事は無事だが、一体どれだけ苦労をしたんだと説教してやりたくなるほどに平和な顔をしている。
透が目覚めるよりも一足早く透の世界から引き戻された面々は、その顔を見てそれぞれにほっとしたような顔をした。
透は気圧されたように自分を取り囲む人々を見渡し、辺りの暗さに怪訝そうな顔をし、それから結局、にこっと笑って見せた。
「おはよー」
「……殴り殺したくなるくらい平和だな」
ボソリと太巻が低く呟く。まあ、あれだけ苦労と心配をかけて彼を救った結果がこれでは、その気持ちも分からなくないと言うものである。
「透……!」
「透くんっ!」
いつもどおりの平和ボケした顔を見せた透に、右と左からウィンとイヴが抱きついた。左右からの衝撃に、うぇっと透がつぶれた声を上げる。
「無事で良かった、透くん。心配したのよ」
などと言って、イヴは目に涙すら浮かべている。本当に良かったと思っているのは確かだが、それにしてもその切実さといったらこのままアイドルを引退して、演技派女優に転向せんばかりの演技力である。恋人に(故意に)抱きつく相手を間違えられた美貌の貴族は、やや面食らった顔をしていた。その恩恵に預かった透はと言えば、まだ完全に目覚めていない脳みそでは事態が把握できず、きょとんとしている。
「……へ?えっ、何?……ごはん?…今、朝?」
皆が見守る中で、ぼーっと少しずつ意識を夢の世界から引きずり出したらしい透は、今更自分を見つめている顔ぶれを改めて眺め回した。
「やれやれ……心配したのよ。突然眠ったきり起きなくなっちゃったんだから」
と、腕を組みながらシュラインが呆れた顔をする。
「当分、ホラーは見なくてよさそうだよ、お陰さんで」
と、秋隆。無事でよかったですよと涼は苦笑し、みそのも開かない瞳を透に向けて「ご無事で何よりでした、渋谷様」と頭を下げた。釣られて頭を下げようとした透は、イヴとウィンに抱き付かれているのを忘れていたので、自分で自分の首を絞めた。
「透くん、相変わらずねー。今回はさすがにちょっとびっくりしたわよ」
「あっ、咲ちゃんだ。元気?」
元気も何もない。平和な会話に、一同は肩を落とした。
「あまり心配をかけさせるんじゃない」
ケーナズに言われて、透は怪訝な顔をして考え込んだ。しばらくして、どうやら寝ているうちに自分が心配をかけた……ということは、いくら平和な頭にも理解できたらしい。
どんな表情でどんな台詞を言うか迷った挙句、結局彼はへらっと笑った。
「ごめんね。なんか最近、よく寝れてなかったからウッカリ熟睡しちゃったよー」
「いや……その、睡眠不足を心配したわけではなかったんですが」
なんとも言えない顔をして、涼が苦笑している。
あふっともう一度欠伸をかみ殺した顔を両手で挟んで自分の方を向かせ、ウィンが透を覗き込んで笑う。少しだけ鼻の奥がつんとした。
「……おはよう、眠り王子様」
間近で見つめられて固まっている青年に顔を近づけて、彼女は透に口付けた。
「…………え?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、透の顔は一気に赤くなる。左右からレベルの高い美女に抱きしめられ、キスまでされて動揺しないようでは、青少年失格であろう。
「あっ!」
と声を揃えたのは、某紹介屋と怪奇探偵、モテない男二人組である。「あら」とシュラインは眉を上げ、「若いっていいな…」としみじみと秋隆が呟いた。「いいなー」と唇に指を宛てて、イヴがそんな二人を眺めている。
何にせよ無事でよかったと、彼らはぞろぞろと興信所を後にして解散の雰囲気である。心と身体を切り離しての一連の体験は、皆の身体にかなりの疲労を残していた。
涙ぐんだまま首に抱きついて離れようとしないウィンの頭を撫でていた透が、ふと思い出したようにケーナズを見上げた。静かな瞳が、真直ぐにケーナズを見つめる。
「……?」
「……ありがとな」
怪訝な顔をしたケーナズに向けて、坂崎という男のような表情で穏やかに笑うので、ケーナズは言葉を返しかねて沈黙する。何かを言いかえしてやろうと考えていたケーナズの前で、すぐに透はいつもの呑気な顔に戻って
「イカスミ」
と機嫌よくのたまったのだった。

















→→→move on to next step?




→→→→→→Ja, aber seien Sie vorsichtig.




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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1481 / ケーナズ・ルクセンブルク / 男 / 25 / 製薬会社研究員(諜報員)】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼世界調査員】
【1388 / 海原・みその / 女 / 13 / 深淵の巫女】
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【2073 / 廣瀬・秋隆 / 男 / 33 / ホストクラブ経営者】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【0904 / 久喜坂・咲 / 女 / 18 / 女子高生陰陽師】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手】

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NPC
渋谷・透(しぶや・とおる):大学生。父親は日本人、母親はヨーロッパ人のハーフ。実の父親の顔は知らず、母親とその再婚相手は事故で他界している。
太巻・大介(うずまき・だいすけ):紹介屋。厄介な事件は草間興信所に持ち込むことにしている。ハルマゲドンが起こっても生きていそうだが、タバコが世の中から消えたら死ぬかもしれない。

鬼(落陽丸):妖刀「落陽丸」に憑き、多くの人間の命を奪った鬼。「坂崎惣介」と名乗る剣豪に首を刎ねられた。坂崎の血にかけた呪いのために、渋谷透を狙っていた。今回の事件で角の一つを失っている。

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あとがき
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お待たせしました。お疲れ様です。お元気ですか!?
何故か水風呂を浴びてみたり、季節感にそぐわない生き方を改めて見つめなおしてみる今日この頃です。
何はともあれ、後編までお付き合いいただいてありがとうございました。
急転直下、渋谷のキャラからは間違っている勢いでシリアスを展開させていただきました。あのキャラからこれかよ!というツッコミが聞こえてきそうです。(そこかしこから)
渋谷に取り付いた鬼は排除されましたが、これで呪いが解けたわけではありません。これからも怪奇事件観光案内人の名に恥じず(誰が名づけた)、怪奇事件のお世話になる気満々です。
忘れた頃に、今回の話とつながっている依頼が上がることもあるかと思います。
その時も付き合ってやるかと思われたら、どうかまた遊んでやってください。
ではでは、お待たせしてしまいましたが、参加していただいてありがとうございました!


在原飛鳥