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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


血の記憶:後編
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草間興信所の周囲だけ、気温がかなり低かった。チカチカと電灯が不規則に瞬き、廊下はまだらに照らし出される。普通の女子高生なら怖がって踵を返すところだが、久喜坂・咲(くきざか・さき)はそんな現象も気に留めることなく、気軽な足取りで興信所のドアの前まで辿り着いた。重い扉を、体重をかけて押し開ける。
「こんにちは、草間さん、に、太巻さん。またいるの?よっぽど暇なのねぇ」
「うるせぇ」
草間と並んでタバコをふかせていた紹介屋は、面白そうに笑って顎をしゃくった。挨拶のつもりらしい。
「……あらっ、やだ、透くんじゃない」
咲は、小地震の規模を呈しているポルターガイストは一切無視して、ソファに寝ている青年を見て驚きの声を上げた。
渋谷・透(しぶや・とおる)である。草間に頼まれて彼の世話を焼くたびに、何かしらの霊現象に巻き込まれるという、夏にはもってこいの怪談男だ。これはまたしても、透は妙な霊に取り憑かれたんじゃないかしらと、まっさきに思った次第である。
咲は次いで、いつもは閑古鳥が鳴いている(もしくは客でもない連中の根城となっている)興信所のソファに、総勢四人もの人間が座って眠りに付いているのを発見した。ケーナズ・ルクセンブルクにイヴ・ソマリア、海原みその(うなばら・みその)にシュライン・エマと廣瀬・秋隆(ひろせ・あきたか)といった面々である。どうやら、精神と身体を分離させている最中らしい。
精神がどこへいっているかというと……恐らくは透の心の中である。
折りよく、草間がもう一人の客…御影・涼(みかげ・りょう)に、渋谷を示して状況を説明しているところだった。
「朝からこの調子で、目を覚まさないんだ……」
「目が覚めないっていっても……」
狭い事務所内を見回す。地震でもないのに、蛍光灯がカタカタと揺れている。テーブルに載った灰皿も、先ほどから小刻みに動いて、今にも床に落ちてしまいそうだ。あわやというところで、草間と太巻がタバコの灰を落とすために、灰皿をテーブルの端から救い出す。もう慣れっこになっているのか、今更ポルターガイスト程度の霊現象など、ものの数にも入らないといった様子である。
「取り憑かれているって話なんだ。それで、彼の意識の中に潜入して、その目的を探ってもらってるわけなんだが」
咥えたタバコに火をつけて、草間はぼさぼさの髪を掻き混ぜる。
「透くんも大変よねー。人魂といい、今回のことといい」
と、咲。
「あの……久喜坂さん、人魂って?」
「あ、彼ね、霊媒体質っていうのかしら。とにかく心霊現象に縁がある人なのよ。一度なんて、鬼みたいなのに襲われかけたし」
と手を振った。やはり只者ではないことを思わせて、その態度はあっけらかんとしている。
「鬼……じゃあ、今回も、その鬼が引き起こしたことなのかな」
太巻が大雑把に説明したところによると、どうやら渋谷透に取り憑いているモノは、鬼の形をしているらしい。そうかもねー、と気軽に答えた咲の声に、一つの足音が重なった。
なんだろうと振り返った涼と咲の目の前で、興信所の扉が開く。
姿を現したのは、古城ホテルの女主人、ウィン・ルクセンブルクだった。
「透は……っ?」
彼女の顔は心持ち青ざめている。ここまで走ってきたせいか、肩が呼吸をするたびに上下に揺れた。
ガタガタと、ポルターガイストの騒音で互いの声は聞こえづらい。それでも、切迫した彼女の声は、興信所によく響いた。
「ははぁ」
この騒ぎの中、ポケットに片手を突っ込んで、深くタバコの煙を吸い込んでいた紹介屋は、ウィンを見ると気軽な調子で眉を上げた。
「結構な人数が揃ったなぁ」
所詮他人事だとでも思っているのか。腹が立つくらいの落ち着きぶりである。腹を立てたウィンが睨みつけると、はは、と笑って居並ぶ顔ぶれを見渡した。その傍らには、いつの間にか、金髪を長く伸ばした女性の姿がある。数奇奇天烈極まりない紹介屋の妻であるマリア・ガーネットだ。得体の知れないことにかけては、夫に勝るとも劣らない正体不明ぶりである。
透を囲んだ三人を見回して、マリアは優雅に肩を竦めた。
「あんたたちも、参加希望かい?」
三人がそれぞれに頷くと、
「夢の中にあなたたちを送り込むのも、三人が限界。人が増えただけ、このコの心に負担がかかるからね」
腕を組んだまま、マリアはゆっくりと言った。考え込むように顎に手を当てていた咲が、首を傾げながら口を開いた。
「鬼退治の方法だけど……正攻法で攻めるのは難しいと思うの。結界を張った上で、鬼を元の刀に閉じ込めることはできないかしら」
「刀なら、ないぜ。それらしき刀が、どっかの神社に祭られていたんだが、それも盗まれちまったってよ」
口の端にタバコを咥えて、器用に太巻が返事をする。
「なら、しょうがないわね。他の刀で代用するしか」
「それなら、俺の刀を貸すよ。浄化の力もある霊刀だから、力になれるんじゃないかな」
と、袱紗に巻かれた刀を見せて、涼が言った。「正神丙霊刀・黄天」と呼ばれるそれは、鬼とも縁の深い霊刀である。
「お兄さんとは、何度か事件をご一緒して、お世話になっていたんだけど」
穏やかな声でそう言って、涼はウィンに向き直った。
「渋谷さんって、ケーナズさんやイヴさんの大切な人なんだろ?俺も及ばずながら手助けするよ」
渋谷透というこの青年が、ルクセンブルク兄妹やイヴと親しかったのは知っている。彼らがただの知り合い以上の関係であることも、見ていればすぐに知れた。そもそもそうでなければ、危険を賭して、彼の心に入り込もうなどとは思わないはずである。
涼の言葉を聞いたウィンは、唇を引き結んで、静かに頷いた。
「透は、必ず救い出すわ。ただ指を咥えて結果だけを待っているなんて、出来ないもの」
「状況はあまり芳しくない。……んだよな?」
ぷかりとタバコを吹かして、太巻はマリアを振り返る。叱る人間が居ないので、大層機嫌よく煙を満喫している。
「同化しかけている状態ね。心に……というより、これは、血に巣食っているといったほうがいいのかしら」
はっきりしない物言いに、三人はそろって首を傾げた。白い指先で赤い唇を撫でて、マリアは少し考える仕草をする。
「鬼は確かにこのコに取り憑いているのだけれど、実際に鬼が侵食しているのは、彼の中の血なのよ」
「それは……心に侵食するということとは違うんですか?」
「少し、違うわね。心に取り憑かれた人間は、自分の夢を見る。けれど血が見せる夢は、遠い祖先の記憶よ。本人とは直接かかわりのない夢を見るの」
「……DNAの情報を読み取るようなものかな」
つまり先祖代々をさかのぼって脈々と受け継がれていく情報を、自分たちは目の当たりにすることになるのだ。現在の科学では四種類の構成要素によって現される情報を、自分たちは映画でも見るように「体験」するということだろう。
「ええ、そういうことね」
「そんなことは……」
じっとしていられずに、ウィンが会話を遮った。
「今はどうでもいいことよ。時間がないんでしょう?早く透の夢の中に行かせて!」
「焦るんじゃないよ」
焦る彼女に優しい目を向けて、マリアは諭すように言い聞かせた。
「すぐにもう一人、お客様がやってくるからね」
その台詞を言い終わらないうちに、扉の外に足音を聞いた。そこだけ重力が余計に掛かったような重い扉を開いて、一人の少女が姿を現す。
「間に合った……!」
「えっ?あれ……?」
ずらずらと並んで人が眠りについているソファと、突然の闖入者を見比べて、咲がぽかんと口を開ける。ソファで眠っている人物の中に、たった今乱入してきた少女と同じ顔があるのだ。
しかもテレビで毎日のようにお目にかかる、某有名アイドルの顔である。
そんな顔が世の中に二つもあってたまるものか。あるかもしれないが、同じ部屋で、知り合いめいて行動していていいのだろうか。
彼女の唖然とした顔をものともせず、少女は後ろ手に扉を閉めた。咲にだけ見えるように、こっそりウィンクを送ることも忘れない。ブラウン管で見るよりも、素の姿をした彼女は同性の目から見ても可愛らしい。
「彼ってばおっとりしてるから、譜面を手に入れるのに時間がかかっちゃった。でも、間に合ってよかったわ」
本当はルクセンブルク兄妹の従兄弟から、半ば強奪するように取り上げてきたのだが、そんなことはおくびにもださず、イヴの顔をした彼女の分身は、にっこりと一同に微笑んで見せた。
ぽん、と丸めた譜面で、イヴはウィンの胸を叩いてみせる。
「これを、夢の世界の『私』に届けて下さる?」
5本の黒いラインの上に、乗ったりはみ出したりしながら、黒い音符が踊っている。その譜面から織りなされる音楽は、それだけで霊を浄化させる作用がある。
ドッペルケンガーのようなイヴの分身の差し出す譜面を手にして、ウィンははっきりと頷いた。
「しっかり受け取ったわ。確かに届けるから」
「では……準備はいい?」
会話の途切れた瞬間を掴んで、マリアがそっと割って入った。
「先ほども言ったように、あまり長くは居られないからね。あなたたちまで戻って来れなくなる前に、無理やりにでも引き戻すわよ」
台詞は、主にひどく思いつめた顔をしているウィンに向かって放たれた。少し躊躇って、ウィンはしずかに頷く。釣られて他の二人が顎を引くと、ようやくマリアは彼らの眼前に手をかざした。
「目を閉じて。私の声だけに耳を傾けるのよ。次に目を開いた時には……」
ゆっくりとした声が、段々遠くなっていく。身体から重みが抜け、ふわふわと漂う。

□――― 回想―遠い過去 ―――□
血の臭いが立ち込めていた。
路上には、もはや人とは呼べなくなった肉の塊が、哀れな屍を晒している。
つい先刻までの阿鼻叫喚ぶりが嘘のように、村は静まり返っていた。
「ただの人が、鬼を封じることなどできませぬ」
どこかで見た覚えのある老婆が、聞き取りにくい発音でそう言った。
「鬼を傷つけるには、あの刀でやつを斬るしかありませぬ。しかしあの刀は魂を喰らう。貴方の心もあの娘のように喰われてしまいます」
「だからと言って、あの娘を放っておくわけにもゆくまい」
低い男の声がして、チリと刀の鍔が鳴る。
「鬼の呪いを受ければ、親戚縁者にまで類が及びますぞ」
空気を振動させて、男が笑った。
「―――なに。私に身内はおらぬ」
言って男は立ち上がり、再びチリ、と刀が鳴った。
振り返り、血のように赤い夕日を浴びた男の顔が露わになる。
静かな光を湛えた黒い瞳。
誰かに似ている、と思った。

―――ああ、あれは……

今は目を閉じて動かない、青い瞳をした青年の眼差しだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まるで、上も下もない宇宙に放り出されたかのように、四方の感覚が曖昧になった。不思議と、不安は感じない。
果たしてどれくらいその感覚を味わっていただろうか。
重力が戻って、足に地がつく感触がして、彼らは目を開いた。
そこには、薄汚れた壁の興信所などはなく、ただ草も生えていない赤茶けた大地が広がっていた。
空気は汚れて生臭いにおいが立ち込め、辺りには黒い霧のようなものが漂っている。
味も素っ気もない大地で、三人は先に旅立っていった仲間たちの姿を見つけた。
そして、その向こうに、腰までを地面に沈めた、苔むした大岩のような、人の形をした何か……。
(あれが鬼……)
真っ赤な目をしている。三人の中で、その鬼と関わりがあったのは咲一人だ。あの真っ赤な瞳を見た瞬間、すぐにピンときた。前に顔をあわせた時よりも、いくらかその身体は小さい気がするが……
「あれだわ。……前にも、透くんと一緒だった私たちを襲おうとしていたの。あの時は、てっきり私たちが狙われてるんだと思ってたけど」
あれはまだ秋になる前のことだ。咲は透と街を歩いている中、巨大な影に襲われたのである。それは大岩のような体躯に、岩石のような筋肉を持った怪物だった。その額には、白い蓬髪の間から突き出した角が覗いていた…。
黄色い歯を剥いて、鬼は朱色の口内を覗かせた。こちらに気がついたのだ。
「何人こようが無駄なことだ。おれが傷つけば、大地の下に流れる血を辿り、その血はこの童の全身を侵す」
拳を握って、ウィンが兄…ケーナズ・ルクセンブルクたちのいるところへと歩み寄った。
「お兄様!」
背後からの声に、ようやく鬼に意識を向けていた者たちが振り返った。
「ウィン……おまえ、何故ここに」
頭一つ、突出しているケーナズが、素直に驚きを表して呟いた。


・・・・・・・・・・・

「でも不思議ねぇ」
透の心の世界に旅立っていた若者たちを眺めながら、ぽつりとマリアは呟いた。
「何がだ」
ソファの背に腰を引っ掛けながら、太巻は緩く足を組む。相変わらず、まるで事の成り行きになど興味がないような態度である。それでも不機嫌そうに寄せられた眉が内心を僅かに吐露していたので、マリアは何も言わず、死んだように眠り続ける青年に目を向けたのだった。
「何代も昔の先祖の記憶を見ているにしては、彼の夢は鮮明すぎると思ってね」
と。

□―――五里夢中
「透くんは大丈夫なの?」
「状況はどうなっているんですか」
ケーナズたちと合流して、咲と涼がそれぞれに口を開いた。雰囲気から、のっぴきならない状況だということは分かるのだが、状況は今ひとつつかめないのだ。
「んー……大丈夫といえば大丈夫だけど、かといってこのままでは危ないわね。透くんを人質に取られているような状況で、手を出しかねているのよ」
腕を組んで、答えてくれたのは草間興信所のタダ働き、シュラインである。他の者たちと同様浮かない顔をしているが、それでも比較的冷静を保っている。
そんな彼らの間をすり抜けて、ウィンが兄のもとへ歩み寄る。
「イヴ」
ケーナズの傍に立って、いつにない真面目な顔をしているイヴに、手にした譜面を渡す。すぐにそれを受け取って、彼女は口元に小さく笑みを浮かべた。魔力のこもったイヴの歌声を音楽に乗せれば、浄化の効果は何倍にも膨れ上がるだろう。
「ありがとう、ウィンお姉様。……これが助けになればいいんだけど」
「大丈夫よ。透のことは、私たちが必ず救い出すんだから」
静かに、だがはっきりと言い切った。常に見ない泰然とした態度と強い意志に裏打ちされた落ち着きは、こんなところだけ母親譲りである。
「お兄様」
白皙の美貌を持つウィンの兄は、怖い顔をしている。臆さずに、ウィンは強い意志を湛えた瞳で、ケーナズの顔を見据えた。
「坂崎の血……。透の中に流れるご先祖様の血のせいで、こんなことになっているのね?」
「ああ。……だが、手が出せない」
「渋谷様の意識に、鬼は半ば溶け込んでいます」
「下手に手出しをすれば、かえって毒を広げることになる……か。厄介だな」
ケーナズとみそのの言葉に、優しげに開いている眉を寄せて、涼が考え込んだ。言うなれば、透の身体を人質にとられているようなものだ。危害を加えれば、毒を透の身体に広げることになる。なるほど、困ったことになっているらしい。
刀は代用するとしても、透の身体から鬼を区別しないことには、手出しが出来ないのだ。
「直接攻撃が出来ないとなると、私の能力も役には立たないからな」
鬼を睨むようにして、ケーナズが吐き捨てた。一時的に鬼の動きを鈍らせたところで、いずれは透の心は侵食されてしまう。まずは……
「鬼の魂のみを排除すればいいのですが」
瞳を閉じたまま、みそのが考え深げに首を傾げる。
「その方法が……ね。わたしの歌で浄化するにしても、時間がかかるし」
難しい顔をして、イヴが譜面に視線を落とした。
じりじりと、周囲の土も巻き込んで、鬼の身体は少しずつ地面に沈みつつある。土と鬼との間に見た地面は赤く、あれは渋谷透の血そのものなのだと、そんな比喩をした。じわりじわりと、鬼という名前の呪いは透の血に沁み込んでいく。
「妖刀を抜いちまったのがそもそもマズかったんだろ?もう一度封印してやりゃいいんじゃねえのか?」
じれったそうにして、秋隆が口を開いた。肩に届くほどの髪を指で梳いて、おざなりに整え直す。頬に薄く残った赤い筋が、何かしらの戦闘があったことを示唆している。
「封印、ね……うん、できないことはないんだけど。本物の落陽丸は、祭ってあった寺社から盗まれてしまったらしいのよ」
と、顎に指先を当てて、秋隆に返事をしたのは咲だ。陰陽師の一族として、彼女には魔を退ける力があるのだ。無論、悪鬼怨霊に関する一通りの知識は十二分に兼ね添えている。
「俺の黄天は、鬼封じでも有名な霊刀だから、十分に落陽丸の代理は務まるだろうけど……」
手にした刀を持ち上げて言いながら、途中で涼は顔を曇らせた。黄天は、鬼をも斬る刀だ。だが「人に巣食っている鬼」を、人から追い払うことは出来ない。
「……鬼を弱らせないことには。時間をかけていたんじゃ、鬼が彼の身体に毒を撒いてしまうんじゃないかな」
時間が勝負なのだ。鬼に、毒を広める隙を与えてはいけない。なのに、毒の散布を止める方法が、今のところ彼等には思い浮かばないのだ。互いに互いの中に解答を見つけようとして、居並んだ者たちは顔を見合わせた。
「……このままじゃ完全にヤツが潜っちまうぞ」
彼らのように特殊な力を持たない秋隆が、とうとう腰まで地面に消えてゆく鬼を見咎めた。嘲るような視線を向けながら、鬼は赤い目を細めてこちらを眺めている。
「くそ……いっそ、燃やし尽くしてやるか」
ギリと歯を噛み締めて、ケーナズが足を踏み出す。
「待って」
今にもPKを全開にして体当たりしかけたケーナズを、シュラインの声が止めた。
今まで、他の者たちが意見を交わす間も、じっと沈黙していた彼女の久しぶりの発言である。動きを止めて、ケーナズもシュラインを振り返った。
指でしきりに顎のラインをなぞりながら、考え考え、シュラインは自分の意見を口にする。
「鬼が同化しようとしているのは、この地面の下にあると思われる透くんの『流れ』なんでしょう?」
「渋谷さんの血の中に、侵食しようとしてるっていってたけど」
この世界に向かう前に聞いたマリアの台詞を思い出して、涼が答える。それに何度か頷いて、じゃあ……とシュラインは首を傾げた。
「透くんの中の流れから、鬼の部分だけを選別できれば、勝ち目はあるってことよね」
「だから、流れを操るなんてこと、できねぇんじゃねえのか」
「そこなんだけど」
キィキィと、まるでネズミの鳴き声のような音がどこからともなく聞こえてくる。高くて耳障りなそれは、小鬼の出す音だ。今は姿が見えないが、先走った一匹の小さな小鬼が秋隆に飛び掛って、難なく振り払われる。
「みそのちゃん、あなたの力でどうにかならないかしら?鬼の流れだけを、透くんの身体から選別することはできる?」
と、シュラインは目を閉じたまま背筋を伸ばしていた少女を振り返った。
「流れを選別……は難しいですが、今鬼のいる部分を、隔離することはできると思います」
言ったのは、みそのだ。ここにたどり着くまで、地面に広がる「流れ」を辿ってきた彼女である。水そのものを操れるのではないかと考えたシュラインの目算は当たっていた。
「なら、勝機はあるわね。みそのちゃんの力で、鬼を隔離して、毒の拡散を防ぐ」
「隔離された空間なら、私の結界で毒を中和することもできると思うわ」
ようやく、道が見えてきた。
「敵が弱ったら、隙を突いて鬼を分離させることも出来るね」
黄天を握り直して、涼は頷いた。
「で、鬼を刀に封じ直す、と」
固めた拳で手のひらを打って、秋隆は鬼の方を振り返った。まるで湧き出るように、鬼の周りの地面から、ボコボコと黒い影が盛り上がっては歪な人の形を取る。自分を取り囲む人間を邪魔だと思ったのか、鬼が小鬼たちを差し向けてきたのだ。
「じゃあ……俺とケーナズさんは、小鬼を倒しながら鬼が渋谷さんの身体から隔離されるのを待って、攻撃すればいいんだね」
スラリと涼やかな音を立てて、涼が刀を抜いた。それを機に、サポートする側に回った咲とイヴは、鬼へと意識を向ける。咲は、結界を張るべく制服のポケットから手製の札を取り出して手に持った。そんな彼女らを守るように、秋隆が前に出る。
「となると……俺の役目は、雑魚の始末かな」
「廣瀬さん、加勢するわ」
秋隆の声にイヴが腕を持ち上げ、虚空に指先で方陣を描く。イヴが空気を指でなぞると、指の軌跡を辿るように光が輝き、それが一つの呪文を形成した。
ぱぁっとひときわ明るく文字が輝き、その方陣を潜るようにして、黒金色の毛並みと力強い体を持った動物が出現した。犬のようだが、頭が三つに分かれている。……神話にいる、ケルベロスそのものだ。ケン、とイヴが名前を呼ぶと、野性の色に光る瞳を向けて、ケルベロスは顔を上げる。三つ頭を交互に撫でながら、イヴは恋人に頷きかけた。
「わたしたちのことは気にせず、鬼に集中して。いつまでもわたしの護衛だけさせるわけにはいかないものね」
「お兄様、私も加勢するわ」
「では、行きますか。みそのちゃん、準備はいい?」
「いつでも結構です」
彼らは鬼に向き直る。待ち構えていたかのように、地面は沸騰した湯のようにぼこぼこと盛り上がって小鬼を生み出し、彼らに向けて襲い掛かってきた。

□―――
蝙蝠の大群のように、地面から湧き出した小鬼はこちらに向けて迫ってくる。とにかく標的に向かって、まっすぐに突っかかってくる小鬼たちは、こちらを恐れていない分厄介である。振り払われては起き上がり、どこでもいいから歯を立てようと、小さく鋭い牙を剥きだして噛み付こうとする。
「透!早く目を覚ましなさい!どれだけ私たちを心配させてると思ってるの!?」
肩に圧し掛かってきた小鬼を振り切って、ウィンが声を張り上げた。彼女の声は、しんしんと遠くまで吸い込まれていく。
……ずっと遠くまで響いていった声は、余韻を残してやがて遠くなった。荒廃した世界に、変化は見られない。不安を掻き立てる沈黙だけが、余計に静かに感じられるようだ。
「ちょっと、透くん!レディが声を掛けてるのに答えないなんて、透くんらしくないわよ!」
流れた沈黙の中でイヴが声を張り上げた。歌手の声量である。声音は朗々と遠くまで響く。
「そうよ、女性がお願いしてるんだから頑張りなさい!」
「渋谷様。いつまでも眠っていてはいけません。鬼を追い出して、早く元の世界に帰ってきてください」
口をそろえたシュラインに、みそのまでが話しかけている。
この状況下において、女性にそう言わしめるとは一体渋谷透とはどんな男なのかと、数人は怪訝な顔をしている。透の事を知っている咲は、半ば答えを期待して耳を済ませた。
声は遠くまで響いたが、しばらく待ってみても世界に変化はない。彼女らの声に戸惑ったのか、小鬼たちの攻撃が鈍った程度だった。
「女の子が話しかけたらすぐ目覚めると思ったんだけど……ホントに沈没してるのねぇ……」
呑気な声とは裏腹に、考え込むようにイヴが眉を寄せる。
ククク、と空気を震わせて笑い声が流れた。
「愚かな事だ……この世界は血の記憶。ここにあって意識を持つものは、異質である俺とお前たちにおいておらぬ。たとえ宿主であっても、血に干渉することはできぬのだ」
低く空気を震わせて、鬼は嘲笑う。慎重に、みそのが鬼の「流れ」を探っていることには、まだ気がついていないようだ。
「何故、今更彼を狙うんだ?もう、何百年もの年月が経っているんだぞ」
鬼がみそのの行動に注意を向けないように、手出しが出来ない風を装って涼が言った。鬼は顔を歪める。赤い口が露わになる。
「幾星霜が過ぎようとも、恨みは晴れるものか。あの痛みを忘れ得ることができようか」
鬼の声が低く、怒りを帯びる。
「愚かな。先祖の恨みを子孫で晴らそうというのか。数百年の間に、どれだけ血が薄くなっていると思っているんだ」
いつにない険しい顔で、ケーナズが苦々しげに吐き捨てた。ドイツ人である彼には理解できない、「呪い」や「恨み」というものに触れてきた咲は、敢えて沈黙を保つ。恨みも呪いも、理屈ではないのだ。むしろただ純粋に、当初の目的だけを遂行しようとする。
だが、鬼はケーナズの言葉に、歯を剥きだして笑っただけだった。
「知らぬから言えるのよ。お前らは何も知らぬのだ」
どういうことだ……という台詞は言葉にならなかった。問い返すより早く、鬼の表情が変わったのだ。
変化は、仲間たちの間にも伝わった。それは、まるで風の流れが変わったような感覚だ。ざわりと空気が動いたのである。鬼の夕陽のような目が見開かれる。
「何だと……!?」
「今、透さんの中から鬼の流れを隔離しました」
みそのが言った。先ほどから沈黙を保っている間に、彼女は鬼に気づかれぬよう、少しずつ鬼の流れを確保していったのだ。今や、みそのの流れを操る力のために、鬼はそれ以上、透の意識に身体を沈めることが出来なくなっている。
「おのれ……」
赤く光る瞳がギラギラとした光を湛え、声の主を見た。みそのの瞳は閉じられたままだったので、その瞳を射抜くことは出来なかったが。
すぐに、彼らは行動を開始した。
「透くんに危害が及ばないならこっちのものだわ!ケン、結界を張って鬼の力を弱めるから、その間、安全確保よろしくね」
グルル、と喉の奥でケルベロスが唸る。イヴはすでに眉を寄せて、詠唱に入っていた。
「イヴさん、あたしも手伝うわ」
と咲。
「わかったわ。わたしはもしもの時のために、二重に結界を張って、透くんの血に鬼の血が混ざるのを抑えるから」
二人の少女の声に合わせたように、ずしりと重い足でイヴと咲の前に立ち、ケルベロスが彼女らを守るように立つ。
流れを止められた主を守るべく、一斉に襲い掛かった小鬼たちは、ケルベロスの白い牙の餌食になった。

・・・・

鬼に意識を集中すると、その回りだけ微妙に気流の流れが違う。そこが、みそのが鬼の流れを捕まえている部分なのだろう。
狙いを定めて、咲は手にした札を飛ばした。まるで矢のように真っ直ぐに飛んでは鬼のまわりに方陣を作る札に、鬼が忌々しそうな唸り声を上げる。
咲の隣ではイヴが口の中で呪文を唱えており、彼女が作り出す結界が、鬼の周りに薄い膜を作り始めていた。咲も、二重に結界を張るべく、指先で印を結ぶ。
あるべき位置に置かれた方陣は、咲が呪言を唱え始めると小刻みに震えて、光を帯び始めた。小さな振動が空気を揺らす波になり、それが形を持って、鬼を結界へ閉じ込めていく。
「おのれ、小娘どもが……!」
自分を取り囲む結界を破ろうと、鬼が唸って暴れ始めた。
普段は目に見えない結界が、鬼がその中で暴れるたびに薄く光を帯びて膜を張ったように目に映る。二重の結界を張られた上に、みそのの力で動きを封じられた鬼は、少しずつではあるが明らかに弱ってきているようだ。
「ケーナズ、涼さん。鬼の動きはこっちで抑えるから、あとよろしくっ!アテにしてるからね」
言ったイヴの額にはじんわりと汗が浮いている。魔界への入り口を開いた上に、連続での魔力の使用は、流石の彼女にも堪えたようだ。だが彼女の体調を示す変化といえばその程度で、イヴはいつもどおりのしっかりした口調で咲を見た。
「咲さん、わたしは一度結界を解いて、鬼の力を弱らせる方に回るわ。持ちこたえられる?」
手にしているのは、ウィンによって持ち込まれた楽譜だ。底なしとも思われる鬼の抵抗力に、まずは力を削り取るのが先だと判断したのだろう。
それを確認して、咲はイヴに頷き返した。結界の浄化作用も手伝って、鬼は弱り始めている。イヴの結界が消えるのは痛いが、一人でも大丈夫だ。
「どうにかするわ、透くんのためだものね」
透なら、大丈夫だ。彼には両親の血が流れているのだ。子どもに仇なすこともなく、きっと彼を守ってくれるに違いない。
意識を集中し、結界を保つためにきつく眉を寄せて、イヴを促す。咲のそれと、二重に張っていた結界を解いて、イヴはケンに自分たちを守るように、もう一度命じた。そのまま、高い位置にある恋人の顔を確かめる。
「絶対透くんを殺させやしない。……必ず鬼を倒してね」
「ああ。……必ず」
顎を引いてケーナズが頷く。スラリと刀を抜いて、涼が促した。
「行こう、ケーナズさん。時間も限られているし、ね」
答える代わりに行動で示して鬼に向かったケーナズを追い、涼も刀を片手に走り出した。


■───鬼
ブン!と空を切って光った涼の刀を、鬼の岩石のような手が止めた。岩のようなのは、見た目だけではないらしい。僅かに切っ先は鬼の手のひらを傷つけたようだったが、腕一つ、切り落とすことも出来そうな見事な太刀筋は、鬼の手の中で止まってしまう。
テレビでよく耳にする声が、アカペラで不思議な旋律を奏でている。イヴの歌声だ。
彼女の歌声が流れるたびに、鬼は不快そうに唸った。彼女の魔力と、歌詞の浄化の能力が、鬼にダメージを与えていることは明らかである。だが、それでもまだ刀は鬼の身体を傷つけるには至らない。
「言ったはずだ……どのような神刀も霊刀も、俺を殺すことは出来ぬ。ただの人間に、俺を倒すことなど不可能だ」
ギリギリと腕が震えるほどに力を込めるが、鬼の手は難なく刃を掴んでいる。
「たかが人間の小僧に、俺を殺せるなどとゆめゆめ思うな」
黄天の白刃の向こうで、血の色をした鬼の目が細められた。人の心の深い部分から、本能的な怯えを誘い出す光だ。
「……生憎、俺たちはタダの人間より、只者じゃない人間の比率のほうが高いんだ」
言うなり、涼が刀を引いた。よく研がれた刀は、鬼の手のひらを滑り、切っ先は頬を掠めてズバリと音をさせる。
深手にはならなかったが、ぱくりと鬼の手のひらと頬が切れて割れた。赤黒い血がぱっと空中に散る。
鬼が呪詛を撒き散らし、怒りに任せて腕を伸ばす。自由になった刀を持ったまま、涼は後ろへ飛びのいてその手をかわした。透を救うつもりで、自分が血を被ってしまったらたまらない。
軽快なステップで飛びのいた涼に、ケーナズが声をかけた。
「見事な太刀筋だな」
「どうも。……けど、このままでは致命傷を与えるには至らない」
落ち着いた物腰の涼が、微かに焦れたような表情を浮かべた。先ほどから、人間ならば急所にあたる部分を狙っているのだが、鬼に跳ね返されてばかりである。刀から伝わってくる感覚は、まるで手ごたえがない。肌が硬い、というレベルでは説明しきれない感触だ。鬼が明言するとおり、その身体は「落陽丸」でしか傷つけられないということか。巧く鬼の手を掻い潜って頚部を狙っても、その皮膚は驚くほどに硬い。
先ほどから、引き戻されるような、皮膚を引っ張られる感覚がある。恐らく、この世界に居られるリミットが、近づいているのだ。互いに顔を見合わせたケーナズと涼は、それぞれの瞳の奥に僅かな焦燥の色を見つけた。
鬼は、先ほどよりも落ち着きを取り戻している。彼らが一定時間しかこの世界に居られないことを、知っているのだ。もう少しの間持ちこたえれば、自分の好きに出来ることに気づいている。
「このままじゃ……」
「ここは私に任せてくれ」
涼の腕を取って引き、ケーナズは一歩前に踏み出した。
「しかし……」
「傍にいては危険だ。キミは、彼らを守ってくれ」
物理攻撃がダメなら、PKを使うつもりなのだろうか。ケーナズは背後で小鬼に襲われている仲間たちを示す。僅かに躊躇ってから、涼はしっかりと頷いた。どちらにしても、いくら霊力が篭っているとはいえ、武器で鬼を傷つけることは出来ないのだ。
「……わかりました」


身体を翻して仲間たちの元へ向かった涼は、ケーナズが自分を向かわせた理由に思い当たった。
「すごい数だな……」
まるで砂糖に群がる蟻のようだ。身体の小さい小鬼たちはイヴの歌声にある浄化作用に負けて、地面をのた打ち回り、ある者は既に動かなくなっている。それでも比較的身体の大きい小鬼たちは、不快な音を止めさせようと、最後の力を振り絞って人間に襲い掛かっていた。
何匹かを背後から切り捨て、涼は特殊な力を持たないシュラインたちの元へ駆けつける。
「ありがと、助かったわ!」
涼が咲の身体に齧りついていた小鬼を引き剥がしてくれたので、意識は結界に集中したまま、咲が礼を言う。咲の背後で、小鬼の襲撃が止んで一息ついたシュラインが問いかけた。
「鬼は?そろそろタイムリミットみたいよ」
すぐに、シュラインが聞いてきた。彼女も、肌が引き攣れるような感覚を感じているのだろう。
「ケーナズさんが……」
言い差して、振り返った涼は言葉を止めた。
ケーナズの全身を、ぼんやりと白い光が覆っていた。普段は見えることのない、彼自身が持つ超能力が視覚化しているのだ。傍目にも分かるほど、彼の身体を強い力が巡っている。
「無駄だと言っているのがわからぬのか」
鬼が嘲笑った。
「無駄かどうかは、試してみなければわからんだろう」
低く、ケーナズの声が響く。
彼の身体を取り巻いていた白い輝きが一層激しくなった。燃え上がる音すら聞こえたのではないかと思われるほど、盛大にケーナズの身体を白の炎が包み込む。力の放出だ。
「貴様……!」
鬼に体当たりをする直前、ニヤリと笑ってケーナズは何かを呟いた。
直後、世界は白い光に包まれた。
目が眩んで、右も左も、目を開けているのかさえ分からなくなる。
それでも無理に目を凝らすと、ようやく辺りの景色が見えてきた。世界はまだ白い。段々に遠くなっていく。現実の世界へと、引き戻されようとしているのだ。
鬼の居た場所に、ぽかりと穴が噴火口のように口を開けている。
傍には、三角錐状の、奇妙な塊が残されていた。鬼の角だ、と咄嗟に思う。本体は……跡形もない。まるで深くえぐられた傷跡のように、大地が盛り上がっているだけだ。
身体が引き戻される感覚が強くなった。
時間切れだ……。
足が大地から離れ、景色が遠のいていく。

□――― 回想―近い過去 ―――□
静かな湖のように深みを湛えた男の黒い瞳は、気がつくと窓の外を見ている。
たまに、何かを探すように男の手のひらが腰のあたりに触れるのも、彼女は知っている。
そこにあるのは、あの時の侍と同じ顔だ。ただ、今は着物のかわりに洋服を着ており、腰に刀は差していない。
「貴方は奇跡を信じていないけど、あたしはそういうのを信じるの」
さらさらと白金の髪を流して、彼女は謳うように言う。その面立ちは、やはり今は眠って目を覚まさない青年の特徴を宿している。
「こんな遠くまで来て、あたしは貴方に逢ったのよ。それはもう奇跡みたいな確率で」
今はまだ平べったい腹を撫でて、彼女は男を振り仰いだ。
「だからどんな不幸に見舞われても、そのせいで命を落としたとしても、あたしは貴方を愛したことを後悔しない」
透き通るような青い瞳で、そこだけ強い意志を抱えて、彼女は男を見つめる。
「この子に名前を考えてくれる?」
長い時間沈黙して、彼は「トオル」と呟いた。
「それは、男の子の名前?女の子の名前?」
日本人の名前に疎い彼女は、首を傾げて聞き返す。
「男の子の名だな」
「女の子が生まれたらどうするの?」
「生まれてくるのは、男の子だ」
確信を持った口調で言って、彼は手を伸ばして彼女の細い身体を抱き寄せた。男の表情はまだ少し曇っていたが、安心させるように彼女の肩に回された腕は温かい。
「幸せになるわよ。あなたとあたしの子だもん」
聞こえるか聞こえないかの彼女の声は届いたらしく、男の腕に力が篭った。


□―――夢の終わり
今までぴくりとも動かなかった青年は、皆が見下ろす中、ようやく意識が浮上したらしくもぞもぞと動いた。 うんうんとしばらく唸っていたが、ソファの上で手足を伸ばして、起きざまに大きな欠伸をする。
「……くぁ。あーよく寝た……ん?」
まだ眠そうな顔で目を開けた渋谷透は、自分を取り囲んで見下ろす人々の顔に、むくりと半身を起こした。ラップ現象も収まった興信所の、蛍光灯の眩しさに目をしぱしぱさせて、きょときょとする。
「……ん?」
首を傾げた。どうやら、無事らしい。無事は無事だが、一体どれだけ苦労をしたんだと説教してやりたくなるほどに平和な顔をしている。
透が目覚めるよりも一足早く透の世界から引き戻された面々は、その顔を見てそれぞれにほっとしたような顔をした。涼としても、安心したような、気抜けしたような、なんだか煮え切らない気分になる。感動のエンディングを期待するわけではないが、現実とはなんと味気ない終わりを用意するものだろう。
透は気圧されたように自分を取り囲む人々を見渡し、辺りの暗さに怪訝そうな顔をし、それから結局、にこっと笑って見せた。
「おはよー」
「……殴り殺したくなるくらい平和だな」
ボソリと太巻が低く呟く。まあ、あれだけ苦労と心配をかけて彼を救った結果がこれでは、その気持ちも分からなくないと言うものである。
「透……!」
「透くんっ!」
いつもどおりの平和ボケした顔を見せた透に、右と左からウィンとイヴが抱きついた。左右からの衝撃に、うぇっと透がつぶれた声を上げる。
「無事で良かった、透くん。心配したのよ」
などと言って、イヴは目に涙すら浮かべている。
「……へ?」
何も分かっていない透は、身動きが出来ずにマヌケな顔を晒している。どちらかというと、両手に花の色男というよりは、おもちゃ屋のくまのぬいぐるみといった風情だ。
「えっ、何?……ごはん?…今、朝?」
発言も態度に負けず間抜けだった。きょろきょろしている顔を両手で挟んで自分の方を向かせ、ウィンは久しぶりに見た気がする青い瞳を覗き込んで、視界がぼやけた。張り詰めていた緊張が解けて、安心で頬の筋肉が緩む。
「なんか変な夢見ちゃったよ」
皆が見守る中で、ぼーっと少しずつ意識を夢の世界から引きずり出したらしい透は、今更自分を見つめている顔ぶれを改めて眺め回した。
「やれやれ……心配したのよ。突然眠ったきり起きなくなっちゃったんだから」
と、腕を組みながらシュラインが呆れた顔をする。
「当分、ホラーは見なくてよさそうだよ、お陰さんで」
と、秋隆。その言葉で我に返って、
「でもまあ……無事でよかったですよ」
と涼は苦笑する。渋谷透がどんな青年でも、ケーナズやイヴの大切な友人であることには変わりはないのだ。ギリギリではあったが、どうにか彼を助けることが出来てよかったと思う。
みそのも開かない瞳を透に向けて「ご無事で何よりでした、渋谷様」と頭を下げた。釣られて頭を下げようとした透は、イヴとウィンに抱き付かれているのを忘れていたので、自分で自分の首を絞めた。
「透くん、相変わらずねー。今回はさすがにちょっとびっくりしたわよ」
咲が声を掛けると、きょとんと声の主を振り仰いだ透は、そこに黙っていればお嬢様系美人に見られる咲の姿を見て嬉しそうに顔を綻ばせた。右と左に美女二人を抱えて、それでもまだ飽き足らないらしい。
「あっ、咲ちゃんだ。元気?」
元気も何もない。平和な会話に、一同は肩を落とした。
「あまり心配をかけさせるんじゃない」
ケーナズに言われて、透は怪訝な顔をして考え込んだ。しばらくして、どうやら寝ているうちに自分が心配をかけた……ということは、いくら平和な頭にも理解できたらしい。
どんな表情でどんな台詞を言うか迷った挙句、結局彼はへらっと笑った。
「ごめんね。なんか最近、よく寝れてなかったからウッカリ熟睡しちゃったよー」
「いや……その、睡眠不足を心配したわけではなかったんですが」
なんとも言えない顔をして、涼が苦笑している。
あふっともう一度欠伸をかみ殺した顔を両手で挟んで自分の方を向かせる。
「……おはよう、眠り王子様」
間近で見つめられて固まっている青年に顔を近づけて、彼女は透に口付けた。
「…………え?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、透の顔は一気に赤くなる。左右からレベルの高い美女に抱きしめられ、キスまでされて動揺しないようでは、青少年失格であろう。
「あっ!」
と声を揃えたのは、某紹介屋と怪奇探偵、モテない男二人組である。「あら」とシュラインは眉を上げ、「若いっていいな…」としみじみと秋隆が呟いた。
「ま、何はともあれ、透さんが元気そうでなによりだわ。お帰りなさい」
何が「おかえり」なのかよく分かっていない渋谷透はインコのような仕草で首を傾げ、結局深くは考えずに「ただいま」と言って笑った。
その瞳は、やはり透の心の中に残っていた侍のまなざしを彷彿とさせた。



→→A chance acquaintance is a divine ordinance.


→→→→move on...?



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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【0904 / 久喜坂・咲 / 女 / 18 / 女子高生陰陽師】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手】
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1388 / 海原・みその / 女 / 13 / 深淵の巫女】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼世界調査員】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1481 / ケーナズ・ルクセンブルク / 男 / 25 / 製薬会社研究員(諜報員)】
【2073 / 廣瀬・秋隆 / 男 / 33 / ホストクラブ経営者】

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NPC
渋谷・透(しぶや・とおる):大学生。父親は日本人、母親はヨーロッパ人のハーフ。実の父親の顔は知らず、母親とその再婚相手は事故で他界している。
太巻・大介(うずまき・だいすけ):紹介屋。厄介な事件は草間興信所に持ち込むことにしている。そして無責任。

鬼(落陽丸):妖刀「落陽丸」に憑き、多くの人間の命を奪った鬼。「坂崎惣介」と名乗る剣豪に首を刎ねられた。坂崎の血にかけた呪いのために、渋谷透を狙っていた。今回の事件で角の一つを失っている。

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あとがき
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大変お待たせしました……(土下座)!
二日で全てをアップするつもりが、物凄く小分けになってしまって申し訳ありません。もうどんな言い訳も見ぐるしそうなので……。
咲ちゃんには、この話の前フリとなる作品でもお世話いただいて、本当にありがとうございます。身体が一回り小さいのは、本体ではなくて鬼の「一部」だったからといういらんネタがついていたりするんですが。
このシリーズに限り、「鬼は落陽丸でしか退治することが出来ない」という微妙な設定がついています。そんなことがあったりでの今回の結果でした。
この話に裏でつながったストーリーが、忘れたころにまたアップされるかと思います。
その時も、気が向いたら、「またか」と思って遊んでやっていただけると大喜びです。
ではでは、遊んでいただいてどうもありがとうございました。


在原飛鳥