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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


血の記憶:後編
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全体重をかける勢いで、ウィン・ルクセンブルクは草間興信所のドアを開けた。実際、そうせざるを得ないほど、古びた興信所の扉は重かったのだ。
興信所の一角だけ、空気は凝縮したように重く立ち込めていた。明かりがついているはずの窓まで暗く見えるのも、案外気のせいではないだろう。電球が切れかけているわけでもないのに、電球は不穏な音を立てて明滅している。
地震もないのに、ガタガタと家具が揺れて音を立てる。ラップ現象だ。
興信所の先客が顔を上げる中、ウィンはソファに横たわった青年の姿を見て唇を噛み締めた。いつもにこにこ笑っている、見慣れた顔だ。女性と見ればやに下がる顔も、目を伏せているとかえって大人びて見える。
(透……)
普段は、少し落ち着けと思うくらいに騒がしいから、彼が動いたりはしゃいだりしていないと酷く不思議だった。不安がむくむくと胸に湧き上がってくる。このまま目が覚めなかったら?と、意識はついマイナスの方向に向かいがちだ。
危険かも知れないから待っていろと彼女に告げた兄は今、数人の仲間とともに渋谷透の夢の中だ。眠ったように頭を垂れた彼らの体は、興信所に起こっている奇怪な現象にも目覚める気配はない。
この騒ぎの中、ポケットに片手を突っ込んで、深くタバコの煙を吸い込んでいた紹介屋は、ウィンを見ると気軽な調子で眉を上げた。
「結構な人数が揃ったなぁ」
所詮他人事だとでも思っているのか。腹が立つくらいの落ち着きぶりである。ウィンが睨みつけると、はは、と笑って居並ぶ顔ぶれを見渡した。その傍らには、金髪を長く伸ばした女性の姿がある。数奇奇天烈極まりない紹介屋の妻であるマリア・ガーネットだ。得体の知れないことにかけては、夫に勝るとも劣らない正体不明ぶりである。
草間興信所には、一足先に透の夢の中に入っている兄や、その恋人のイヴ・ソマリア、興信所の住人(といって差し支えないと思われる)のシュライン・エマ。赤い髪のホスト風の男…広瀬・秋隆(ひろせ・あきたか)と海原・みその(うなばら・みその)。草間と共に、目を閉じて動かない彼らを見守っている姿が二人。
洗いざらしのシャツに、落ち着き払った物腰の青年は御影・涼(みかげ・りょう)、都内の某高校の制服に身をつつんだ少女は、久喜坂・咲(くきざか・さき)と名乗った。
「夢の中にあなたたちを送り込むのも、三人が限界。人が増えただけ、このコの心に負担がかかるからね」
腕を組んだまま、マリアはゆっくりと、顔を揃えた一同を見渡す。考え込むように顎に手を当てていた咲が、首を傾げながら口を開いた。
「鬼退治の方法だけど……正攻法で攻めるのは難しいと思うの。結界を張った上で、鬼を元の刀に閉じ込めることはできないかしら」
「刀なら、ないぜ。それらしき刀がどっかの神社に祭られていたんだが、それも盗まれちまったってよ」
口の端にタバコを咥えて、器用に太巻が返事をする。
「なら、しょうがないわね。他の刀で代用するしか」
「それなら、俺の刀を貸すよ。浄化の力もある霊刀だから、力になれるんじゃないかな」
と、袱紗に巻かれた刀を見せて、涼が言った。「正神丙霊刀・黄天」と呼ばれるそれは、鬼とも縁の深い霊刀である。
「お兄さんとは、何度か事件をご一緒して、お世話になっていたんだけど」
穏やかな声でそう言って、涼はウィンに向き直った。
「渋谷さんって、ケーナズさんやイヴさんの大切な人なんだろ?俺も及ばずながら手助けするよ」
「ええ。……よろしくお願いしますわ」
もどかしくて、ともすれば感情のコントロールを失いがちになる。焦る気持ちを抑えて、ウィンは涼に頷きかけた。
透は、ウィンにとってもかけがえのない存在だ。彼に対する思いは、誰に劣っているとも思わない。
何しろ目下彼女の恋の相手は、ソファの上で眠りこけている渋谷透その人なのだ。言わずとも周囲はウィンの恋の在り処をうすうす感づいているらしく、気づかないのは思いを寄せられている当人のみというなんとももどかしい現状ではあったが。
「透は、必ず救い出すわ。ただ指を咥えて結果だけを待っているなんて、出来ないもの」
言いながら、彼女を叱る時特有の兄のしかめ面を思ったが、兄の言葉も彼女を止めることは出来なかった。どんな結果になったとしても、何かをしなくては、自分はきっと後悔する。ウィンはそれをしっかりと認識していた。
「状況はあまり芳しくない。……んだよな?」
ぷかりとタバコを吹かして、太巻はマリアを振り返る。叱る人間が周囲に居ないので、大層機嫌よく煙を満喫している。
「同化しかけている状態ね。心に……というより、これは、血に巣食っているといったほうがいいのかしら」
はっきりしない物言いに、三人はそろって首を傾げた。その仕草に、白い指先で赤い唇を撫でて、マリアは考える仕草をする。
「鬼は確かにこのコに取り憑いているのだけれど、実際に鬼が侵食しているのは、彼の中の血なのよ」
「それは……心に侵食するということとは違うんですか?」
「少し、違うわね。心に取り憑かれた人間は、自分の夢を見る。けれど血が見せる夢は、遠い祖先の記憶よ。本人とは直接かかわりのない夢を見るの」
「DNAの情報を読み取るようなものかな」
「そういうことね。ガンが身体を侵食しているようなものかしら」
少しずつ、健康な細胞まで蝕んでいく。きっとそういうことなのだろう。だが…
「そんなことは……」
じっとしていられずに、ウィンが会話を遮った。
「今はどうでもいいことよ。時間がないんでしょう?早く透の夢の中に行かせて!」
「焦るんじゃないよ」
焦る彼女に優しい目を向けて、マリアは諭すように言い聞かせた。
「すぐにもう一人、お客様がやってくるからね」
その台詞を言い終わらないうちに、扉の外に足音を聞いた。そこだけ重力が余計に掛かったような重い扉を開いて、一人の少女が姿を現す。最近の流行とは無関係にひっつめにしたおさげに、大きな眼鏡の少女。ざっとあたりを見回して、そこにウィンたちの姿を確認するなり、彼女は大きく息を吐いた。
「間に合った……!」
「えっ?あれ……?」
ずらずらと並んで人が眠りについているソファと、突然の闖入者を見比べて、咲がぽかんと口を開ける。ソファで眠っている人物の中に、たった今乱入してきた少女と同じ顔があるのだ。
息を整えながら、彼女は後ろ手に扉を閉めた。……入ってきたのは、イヴ・ソマリアだ。正確には、彼女の動かす分身と言うべきか。だが、彼女の能力を知らない者は唖然とするばかりである。ただ顔が同じだけならば双子だろうかと納得もするが、何しろ彼女は天下のアイドルなのである。
時間がないことを知っているのか、イヴは不思議そうな顔をする者たちに説明はせず、笑いかけただけで手にした紙をひらひらさせた。
「彼ってばおっとりしてるから、譜面を手に入れるのに時間がかかっちゃった。でも、間に合ってよかったわ」
本当はルクセンブルク兄妹の従兄弟から半ば強奪するように取り上げてきたのだが、そんなことはおくびにもださず、イヴの顔をした彼女の分身はにっこりと一同に微笑んで見せた。
ぽん、と丸めた譜面で、イヴはウィンの胸に譜面をあてる。
「これを、夢の世界の『私』に届けて下さる?」
5本の黒いラインの上に、乗ったりはみ出したりしながら、黒い音符が踊っている。そこにあるのは、見慣れたウィンの従兄弟の文字だ。
彼の作り出す音楽は、それだけで霊を浄化させる作用がある。透の中に入り込んだイヴたちが、浄化の力を必要としているのだろう。
ドッペルケンガーのようなイヴの分身の差し出す譜面を手にして、ウィンははっきりと頷いた。
「しっかり受け取ったわ。確かに届けるから」
「お願いするわ。……透くんはきっと大丈夫よ、ウィンお姉様」
イヴの瞳が、心配そうにウィンの目を見上げた。立場は違えど、透を心配する気持ちに相違はない。今は黒縁の眼鏡で造形の美しさを隠しているイヴの瞳に浮かぶ光に励まされて、ウィンは頷いた。
「では……準備はいい?」
会話の途切れた瞬間を掴んで、マリアがそっと割って入った。
「先ほども言ったように、あまり長くは居られないからね。あなたたちまで戻って来れなくなる前に、無理やりにでも引き戻すわよ」
台詞は、主にひどく思いつめた顔をしているウィンに向かって放たれた。少し躊躇って、ウィンはしずかに頷く。釣られて他の二人が顎を引くと、ようやくマリアは彼らの眼前に手をかざした。
「目を閉じて。私の声だけに耳を傾けるのよ。次に目を開いた時には……」
ゆっくりとした声が、段々遠くなっていく。身体から重みが抜け、ふわふわと漂う。


□――― 回想―遠い過去 ―――□
血の臭いが立ち込めていた。
路上には、もはや人とは呼べなくなった肉の塊が、哀れな屍を晒している。
つい先刻までの阿鼻叫喚ぶりが嘘のように、村は静まり返っていた。
「ただの人が、鬼を封じることなどできませぬ」
どこかで見た覚えのある老婆が、聞き取りにくい発音でそう言った。
「鬼を傷つけるには、あの刀でやつを斬るしかありませぬ。しかしあの刀は魂を喰らう。貴方の心もあの娘のように喰われてしまいます」
「だからと言って、あの娘を放っておくわけにもゆくまい」
低い男の声がして、チリと刀の鍔が鳴る。
「鬼の呪いを受ければ、親戚縁者にまで類が及びますぞ」
空気を振動させて、男が笑った。
「―――なに。私に身内はおらぬ」
言って男は立ち上がり、再びチリ、と刀が鳴った。
振り返り、血のように赤い夕日を浴びた男の顔が露わになる。
静かな光を湛えた黒い瞳。
誰かに似ている、と思った。

―――ああ、あれは……

今は目を閉じて動かない、青い瞳をした青年の眼差しだ。

・・・・・・・・・・・

「でも不思議ねぇ」
透の心の世界に旅立っていた若者たちを眺めながら、ぽつりとマリアは呟いた。
「何がだ」
ソファの背に腰を引っ掛けながら、太巻は緩く足を組む。相変わらず、まるで事の成り行きになど興味がないような態度である。それでも不機嫌そうに寄せられた眉が内心を僅かに吐露していたので、マリアは何も言わず、死んだように眠り続ける青年に目を向けたのだった。
「何代も昔の先祖の記憶を見ているにしては、彼の夢は鮮明すぎると思ってね」
と。

・・・・・・・・・・・

まるで、上も下もない宇宙に放り出されたかのように、四方の感覚が曖昧になった。不思議と、不安は感じない。
果たしてどれくらいその感覚を味わっていただろうか。
重力が戻って、足に地がつく感触がして、彼らは目を開いた。
そこには、薄汚れた壁の興信所などはなく、ただ草も生えていない赤茶けた大地が広がっていた。
空気は汚れて生臭いにおいが立ち込め、辺りには黒い霧のようなものが漂っている。
味も素っ気もない大地で、三人は先に旅立っていった仲間たちの姿を見つけた。
そして、その向こうに、腰までを地面に沈めた、苔むした大岩のような、人の形をした何か……。
(あれが鬼……)
真っ赤な目をしている。三人の中で、その鬼と関わりがあったのは咲一人だ。
「あれだわ。……前にも、透くんと一緒だった私たちを襲おうとしていたの。あの時は、てっきり私たちが狙われてるんだと思ってたけど」
黄色い歯を剥いて、鬼は朱色の口内を覗かせた。
「何人こようが無駄なことだ。おれが傷つけば、大地の下に流れる血を辿り、その血はこの童の全身を侵す」
拳を握って、ウィンは兄たちのいるところへと歩み寄った。
「お兄様!」
背後からの声に、ようやく鬼に意識を向けていた者たちが振り返った。
「ウィン……おまえ、何故ここに」
頭一つ、突出しているウィンの兄のケーナズが、素直に驚きを表して呟いた。


□―――五里夢中
「透くんは大丈夫なの?」
「状況はどうなっているんですか」
ケーナズたちと合流して、咲と涼がそれぞれに口を開いた。雰囲気から、のっぴきならない状況だということは分かるのだが、状況は今ひとつつかめないのだ。
「んー……大丈夫といえば大丈夫だけど、かといってこのままでは危ないわね。透くんを人質に取られているような状況で、手を出しかねているのよ」
腕を組んで、答えてくれたのは草間興信所のタダ働き、シュラインである。他の者たちと同様浮かない顔をしているが、それでも比較的冷静を保っているようだ。事態の深刻さを物語るように、難しい顔をしている。
そんな彼らの間をすり抜けて、ウィンは兄のもとへ歩み寄った。
「イヴ。待たせちゃってごめんなさい」
ケーナズの傍に立っていつにない真面目な顔をしている友人に、手にした譜面を渡す。
「頼まれものよ。確かに渡したわ」
すぐにそれを受け取って、イヴ・ソマリアは口元に小さく笑みを浮かべた。歌が持つ霊の浄化作用に魔力のこもったイヴの歌声に乗せれば、その効果は何倍にも膨れ上がるだろう。
「ありがとう、ウィンお姉様。……これが助けになればいいんだけど」
「大丈夫よ。透のことは、私たちが必ず救い出すんだから」
静かに、だがはっきりと言い切った。常に見ない泰然とした態度と強い意志に裏打ちされた落ち着きは、本人は無自覚だが母親譲りである。揺ぎ無い瞳を、ウィンは次に兄に向けた。
「お兄様」
白皙の美貌を持つ兄は、怖い顔をしている。言いつけを破ってしまったことを、快く思っていないのは明らかだった。臆さずに、ウィンはケーナズの顔を見据えた。
何故来た、とは、ケーナズは口に出しては言わない。ただ咎めるような顔をしただけである。シャツに包まれた兄の腕に、ウィンは手を伸ばす。
まるで泉から水が溢れ出すように、兄の記憶は波動となって、ウィンの中に流れ込んできた。
サイコメトリーの力を、意識して発動させたわけではなかったが、兄がこの世界で体験したことは、途端にウィンの頭の中に再生されてゆく。
死んでいく村。踊り狂う小鬼たち。
深い色の瞳をした、剣豪。
……そして、この世界では「大地」として表現されている透の「血」に、侵食している鬼の姿を見たのである。
「坂崎の血……。透の中に流れるご先祖様の血のせいで、こんなことになっているのね?」
「ああ。……だが、手が出せない」
「渋谷様の意識に、鬼は半ば溶け込んでいます。鬼に不用意に傷を負わせれば、その血が毒となり渋谷様を傷つけてしまいます」
「下手に手出しをすれば、かえって毒を広げることになる……か。厄介だな」
ケーナズとみそのの言葉に、涼が考え込んだ。
「直接攻撃が出来ないとなると、私の能力も役には立たないからな」
珍しく荒々しい口調で、ケーナズが顔を歪める。事態は、思っていた以上に深刻らしい。
傷を受ければ、鬼は毒を透の身体に流すのだ。かといって、一時的に鬼の動きを鈍らせたところで、いずれは透の心は侵食されてしまう。
「鬼の魂のみを排除すればいいのですが」
目を閉じたままの瞼に懸念の色を浮かべて、みそのは表情を曇らせる。
「その方法が……ね。わたしの歌で浄化するにしても、時間がかかるし」
難しい顔をして、イヴが譜面に視線を落とした。
じりじりと、周囲の土も巻き込んで、鬼の身体は少しずつ地面に沈みつつある。土と鬼との間に見た地面は赤く、あれは渋谷透の血そのものなのだと、そんな比喩をした。じわりじわりと、鬼という名前の呪いは透の血に沁み込んでいく。
「妖刀を抜いちまったのがそもそもマズかったんだろ?もう一度封印してやりゃいいんじゃねえのか?」
「封印、ね……うん、できないことはないんだけど。本物の落陽丸は、祭ってあった寺社から盗まれてしまったらしいのよ」
と、顎に指先を当てて、秋隆に返事をしたのは咲だ。陰陽師の一族として、彼女には魔を退ける力がある。秀麗な眉を顰めて難しい顔をしているのは、彼女なりに鬼の手ごわさを肌で感じているからだろうか。
「俺の黄天は、鬼封じでも有名な霊刀だから、十分に落陽丸の代理は務まるだろうけど……」
手にした刀を持ち上げて言いながら、途中で涼は顔を曇らせた。
「……それにしても、鬼を弱らせないことには。時間をかけていたんじゃ、鬼が彼の身体に毒を撒いてしまうんじゃないかな」
互いに互いの中に解答を見つけようとして、居並んだ者たちは顔を見合わせた。
「……このままじゃ完全にヤツが潜っちまうぞ」
彼らのように特殊な力を持たない秋隆が、とうとう腰まで地面に消えてゆく鬼を見咎めて舌打ちした。
「くそ……いっそ、燃やし尽くしてやるか」
ギリと歯を噛み締めて、ケーナズが足を踏み出す。危険な賭けだが、透の身体が鬼に侵食されてゆくのを黙ってみているよりはマシである。ウィンは兄の背中を追って足を踏み出した。
「お兄様、それなら私も……」
「ちょっと待って」
今にもPKを全開にして体当たりしかけた兄妹を、シュラインの声が止めた。
今まで、他の者たちが意見を交わす間も、じっと沈黙していた彼女の久しぶりの発言である。動きを止めて、ケーナズもシュラインを振り返った。
どうやら兄が頭が上がらないらしい美貌の女史は、指でしきりに顎のラインをなぞりながら、考え考え自分の意見を口にする。
「鬼が同化しようとしているのは、この地面の下にあると思われる透くんの『流れ』なのよね?」
「渋谷さんの血の中に、侵食しようとしてるっていってたけど」
この世界に向かう前に聞いたマリアの台詞を思い出して、涼が答える。それに何度か頷いて、じゃあ……とシュラインは首を傾げた。
「透くんの中の流れから、鬼の部分だけを選別できれば、勝ち目はあるってことよね」
「流れを操るなんてこと、できねぇんじゃねえのか?」
怪訝そうに、秋隆が問い返す。
キィキィと、まるでネズミの鳴き声のような音がどこからともなく聞こえてくる。高くて耳障りなそれは、小鬼の出す音だ。今は姿が見えないが、先走った一匹の小さな小鬼が秋隆に飛び掛って、難なく振り払われた。黒い体は鞠のように跳ねて、もう一匹の鬼と衝突して地面を転がる。
「……そこなんだけど」
自分の身体を抱くように腕を回しながら、シュラインは視線を目を閉じたままの少女に向けた。
「流れを操る事……あなたの力で、どうにかならないかしら?」
集まった者たちの視線が、みそのの小柄な身体に集中した。見つめられた方は、小首を傾げて考える仕草をする。
「流れを選別……は難しいですが、今鬼のいる部分を、隔離することはできると思います」
ややあって、みそのははっきりと頷いた。ここにたどり着くまで、地面に広がる「流れ」を辿ってきた彼女である。水そのものを操れるのではないかと考えたシュラインの目算は当たっていた。
「なら、勝機はあるわね。みそのちゃんの力で、鬼を隔離して、毒の拡散を防ぐ」
「隔離された空間なら、私の結界で毒を中和することもできるんじゃないかしら」
と、咲。
「敵が弱ったら、隙を突いて鬼を分離させることも出来るね」
「で、鬼を刀に封じ直す、と」
固めた拳で手のひらを打って、秋隆は鬼の方を振り返る。まるで湧き出るように、鬼の周りの地面から、ボコボコと黒い影が盛り上がっては歪な人の形を取った。そうして現れた小鬼たちは、今にも飛び掛らんと身を低くして隙を窺っている。
「となると……俺の役目は、雑魚の始末かな」
「廣瀬さん、加勢するわ」
イヴが腕を持ち上げ、虚空に指先で方陣を描く。イヴが空気を指でなぞると、指の軌跡を辿るように光が輝き、それが一つの呪文を形成した。
ぱぁっとひときわ明るく文字が輝き、その方陣を潜るようにして、黒金色の毛並みと力強い体を持った動物が出現した。犬のようだが、頭が三つに分かれている。……神話にいる、ケルベロスそのものだ。ケン、とイヴが名前を呼ぶと、野性の色に光る瞳を向けて、彼は顔を上げる。三つ頭を交互に撫でながら、イヴはケーナズに頷きかけた。
「わたしたちのことは気にせず、鬼に集中して。いつまでもわたしの護衛だけさせるわけにはいかないものね」
普段はその力を極力使いたがらない彼女だが、いざとなればその実力は確かである。ケーナズが彼女に答えて頷き、シュラインがさて、と息を吐いた。
「では、行きますか。みそのちゃん、準備はいい?」
「いつでも結構です」
彼らは鬼に向き直る。待ち構えていたかのように、地面は沸騰した湯のように盛り上がって小鬼を生み出す。土から出た小鬼たちは、一斉に彼らに向けて襲い掛かってきた。

□―――
蝙蝠の大群のように、地面から湧き出した小鬼はこちらに向けて迫ってくる。とにかく標的に向かって、まっすぐに突っかかってくる小鬼たちは、こちらを恐れていない分厄介である。振り払われては起き上がり、どこでもいいから歯を立てようと、小さく鋭い牙を剥きだして噛み付こうとする。
「もう!こいつらには本能ってものが欠落してるのかしら」
地面に叩きつけられても怯まずに向かってくる鬼たちに、シュラインが舌打ちする。
「こうしゃにむに向かってこられると気色悪いぜ……!」
招かれざる客を排除すべく、小鬼たちは誰彼構わず爪や歯を立てるのだ。ウィンたちが作った円陣の中央で目を閉じ、ひたすら流れを操作すべく意識を集中しているみそのに、小鬼が一匹飛び掛かる。それを掴んで投げ捨て、秋隆も呆れたような声を漏らした。
「傷つくのが怖くないのか、こいつら」
生き物は、すべからく死を恐れるものだ。それは理性でどうなるものではなく、野生の時代からの本能である。だから、傷つくことも、倒れることも恐れずにただひたすらに向かってくる姿は空恐ろしい。
普段はあまり使わないPKの能力で小鬼を弾き飛ばしても、彼らは後から後から湧いて出て、再び襲い掛かってくるのだ。きりがない。
「ここは透くんの夢の中なんだから、彼がどうにかできないのかしら」
髪を掴んで引っぱる小鬼を引き剥がし、シュラインが呟いた。それを聞いて、ありそうだ、と数人が苦笑する。どれも目が覚めている時の透を知る面々だ。
どこにいようが、女性さえ呼べば尻尾を振って駆けつけてくる……そんなイメージが透にはある。そして実際、その性格のせいでいいように使われることも多いようだ。
「透!早く目を覚ましなさい!どれだけ私たちを心配させてると思ってるの!?」
肩に圧し掛かってきた小鬼を振り切って、ウィンが声を張り上げた。彼女の声は、しんしんと遠くまで吸い込まれていく。
……ずっと遠くまで響いていった声は、余韻を残してやがて遠くなった。荒廃した世界に、変化は見られない。不安はいやが上にも増していく。
「ちょっと、透くん!レディが声を掛けてるのに答えないなんて、透くんらしくないわよ!」
流れた沈黙の中で、今度はイヴが怒鳴った。歌手の声量である。声音は朗々と遠くまで響く。
「そうよ、女性がお願いしてるんだから頑張りなさい!」
「渋谷様。いつまでも眠っていてはいけません。鬼を追い出して、早く元の世界に帰ってきてください」
口をそろえたシュラインに、みそのまでが話しかけている。
この状況下において、女性にそう言わしめるとは一体渋谷透とはどんな男なのかと、数人は怪訝な顔をしている。だが、どこへともなく向かった彼女らの言葉に、皆が何らかの変化を期待したことは確かだった。
声は遠くまで響いたが、しばらく待ってみても世界に変化はない。彼女らの声に戸惑ったのか、小鬼たちの攻撃が鈍った程度だった。
「女の子が話しかけたらすぐ目覚めると思ったんだけど……ホントに沈没してるのねぇ……」
呑気な声とは裏腹に、考え込むようにイヴが眉を寄せる。
普段は呼べば答えるのだと、安心しているから余計に不安なのだ。ウィンは強く唇を噛み締めた。
ククク、と空気を震わせて笑い声が流れた。
「愚かな事だ……この世界は血の記憶。ここにあって意識を持つものは、異質である俺とお前たちにおいておらぬ。たとえ宿主であっても、血に干渉することはできぬのだ」
低く空気を震わせて、鬼は嘲笑う。慎重に、みそのが鬼の「流れ」を探っていることには、まだ気がついていないようだ。
気づかれてしまっては厄介である。一人、「流れ」に意識を集中しているみそのから鬼の注意を逸らそうと、涼が鬼をにらみつけた。
「何故、今更彼を狙うんだ?もう、何百年もの年月が経っているんだぞ」
手出しが出来ない風を装って発せられた台詞に、鬼は顔を歪める。赤い口が露わになる。
「幾星霜が過ぎようとも、恨みは晴れるものか。あの痛みを忘れ得ることができようか」
鬼の声が低くなり、怒りを押し殺すように喉が鳴る。
「愚かな。先祖の恨みを子孫で晴らそうというのか。数百年の間に、どれだけ血が薄くなっていると思っているんだ」
いつにない険しい顔で、ケーナズが苦々しげに吐き捨てる。ウィンにしても同じ気持ちだった。彼らの家系は、家柄が古いだけに過去も古い。時代によっては、先祖の中に人に怨みを持たれるようなことをした人もいただろう。
だが、ケーナズにしろウィンにしろ、こうして怨みだの呪いだのに関わることもなく、こうして生きているのだ。
確かに先祖がした事が、消えることはないだろう。それは何らかの形で、子孫へと受け継がれていくのかもしれない。だが、恨みが絶えることなく永遠に続くものだとは、ウィンは思わなかった。子々孫々、生きていく分だけ、過去を清算していく……そうあってこその時の流れではないのだろうか。
だが、鬼はケーナズの言葉に、歯を剥きだして笑っただけだった。
「知らぬから言えるのよ。お前らは何も知らぬのだ」
「どういう……」
言いかけたケーナズの台詞は、最後まで言葉にならなかった。問い返すより早く、鬼の表情が変わったのだ。
変化は、仲間たちの間にも伝わった。それは、まるで風の流れが変わったような感覚だ。ざわりと空気が動いたのである。
「何だと……!?」
「今、透さんの中から鬼の流れを隔離しました」
みそのが言った。先ほどから沈黙を保っている間に、彼女は鬼に気づかれぬよう、少しずつ鬼の流れを確保していったのだ。今や、みそのの流れを操る力のために、鬼はそれ以上、透の意識に身体を沈めることが出来なくなっている。
「おのれ……」
赤く光る瞳がギラギラとした光を湛え、声の主を見た。みそのの瞳は閉じられたままだったので、その瞳を射抜くことは出来なかったが。
すぐに、彼らは行動を開始した。
「透くんに危害が及ばないならこっちのものだわ!ケン、結界を張って鬼の力を弱めるから、その間、安全確保よろしくね」
グルル、と喉の奥でケルベロスが唸る。イヴはすでに眉を寄せて、詠唱に入っていた。
「イヴさん、あたしも手伝うわ」
と咲。
「わかったわ。わたしはもしもの時のために、二重に結界を張って、透くんの血に鬼の血が混ざるのを抑えるから」
二人の少女の声に合わせたように、ずしりと重い足でイヴと咲の前に立ち、ケルベロスが彼女らを守るように立つ。
流れを止められた主を守るべく、一斉に襲い掛かった小鬼たちは、ケルベロスの白い牙の餌食になった。
動揺を見せた鬼の顔を確認して、シュラインがへばり付いた小鬼をうち捨てて笑う。
「さて、反撃開始といきますか」
その言葉が聞こえたわけでもないだろうが、小鬼たちはギィギィと耳障りな音を立て、一斉に襲い掛かってきた。

□―――ケーナズ・ルクセンブルク&ウィン・ルクセンブルク
死んだように静かだった大地に、歌姫の歌声が流れている。イヴの浄化の歌だ。
歌を聴いた小鬼たちは、気が狂ったように地面にのた打ち回ってもがき苦しみ、それでもまだ、自分たちを排除しようとする人間を目指して牙を剥き、爪を立てる。
この小鬼の一つ一つが、透を蝕むガンなのだ。慣れない攻撃能力を連続で放出しているために、こめかみに鈍い痛みが走る。
「ちょっと、あんた大丈夫か?」
「……大丈夫」
辛そうな顔をしているウィンを心配して、秋隆が彼女を助けるべく加勢に入った。
「私は大丈夫だから、シュラインさんやみそのさんをお願い!」
彼女たちには、特殊な力が備わっているわけではないのだ。みそのは、目が悪い。少し躊躇った秋隆は、「危なくなったらすぐ呼べ」と言葉を残して、シュラインたちに襲い掛かる小鬼を蹴り飛ばした。
「きりがねぇな……!」
弾き飛ばしても払いのけても諦めることを知らずに押しかけてくる小鬼に、秋隆が舌打ちしているのが聞こえる。
これでは埒が明かない。やはり、本体を倒すしかないのだが……。
ふと鬼の方へ視線を投げたウィンは、そちらからやってくる抜き身の刀を下げた涼を見た。
「涼さん、鬼は?」
「今はケーナズさんが相手をしている」
答えて、涼は気遣わしげに来た道を振り返った。
「刀では殆ど傷がつかないんだ。危ないから離れているように言われたんだけど」
「私がいくわ」
迷わずに、ウィンは涼とすれ違った。
先ほどから、引き戻されるような、皮膚を引っ張られる感覚がある。恐らく、この世界に居られるリミットが、近づいているのだ。
この世界のよどんだ空気を通して、兄の身体に充満するパワーをひしひしと感じている。持てる力を全て解放して、鬼に挑むつもりなのだ。敵を攻撃する事には向かないウィンの能力だったが、兄に力を預けることならば出来る。
兄の身体を巡るパワーは、それだけで兄の身体を白く光らせている。その背中に、ウィンは声をかけた。
「お兄様」
ケーナズが振り返った。兄の瞳を見つめる。
この世に生まれるより以前から、共にすごしてきた兄妹である。どんな能力を使わなくても、互いが互いのことをはっきり理解した。
「力を貸すわ。……だから、お願い」
今まで、力を使い果たすほどに持っている能力を酷使したことはなかった。だから、力を使い果たすことで自分たちがどうなるのかも分からない。それでも、持てる力を全部解放することに躊躇いはなかった。
透を助けて……と、震える唇が、青い瞳がケーナズに伝える。
伸ばした腕の僅かに震える指先を握って、ケーナズは妹に向けて頷きかけた。身を捩るような不安と、大切なものを喪うかもしれない恐怖に震えている妹の瞳に、安心させるように強く手を握り返す。こんな時ばかり、兄は兄らしい。
触れ合った手のひらを通して、ウィンは自らの力をケーナズに注ぎ込む。ゆっくりと身体を巡回していた力は、指先を通して、ゆるやかに兄の身体へと伝わっていく。
「心配するな。私は、あんなヤツに透を渡したりはしない」
ウィンを安心させるように囁いて、ケーナズは彼女の手のひらを一度強く握った。
「……任せろ。必ず透のことは連れ戻してみせる」
そっと手を離す。思わず兄について行きそうになって、ウィンはかろうじて足を止めた。兄に全てを託してしまったので、もう殆ど力は残されていない。
ただ、兄の背中に向けて強く祈るしかなかった。
「無駄だと言っているのがわからぬのか」
「無駄かどうかは、試してみなければわからんだろう」
確固たる口調で、ケーナズが喋っている。ウィンは唇を噛んだ。
「透……」
答えはないのだと、知りながらも呟かずには居られない。
ウィンという名前には、幸せや喜びという意味があるのだという。もし、顔も知らぬ父がつけたその名前に、本当に意味が込められているのなら。
(鬼の呪いが透から幸せを奪おうとするのなら、私が透の幸せになる……)
兄の身体が、白い炎に包まれたように見えた。緩やかに兄の身体に注ぎ込まれていたウィンのエネルギーが、強い力で持っていかれる。
必死に足を踏みしめて堪えながら、ウィンは思わず口を開いていた。
「透、好きよ、愛してる。だから……だからこんなヤツに負けたら、私許さないから…!」
まだ、告白の言葉だって伝えていない。辛く当たったり、苛めてみたり、素直になれない行動ばかりしてきた。言いたかったことも、伝えたかったことも、まだ何も継げていないのだ。
兄の身体が、鬼に触れた。
一瞬、時が止まる。
全ての動きがストップしてしまったように、ウィンには感じられた。
次の瞬間……
「ギャァァァァァァ……!!!」
空気をつん裂くような断末魔の悲鳴が上がった。
空気から炎が出たような勢いで、白い炎は鬼の身体に燃え移り、たちまちその全身を覆いつくす。白い炎の中で、影になった体が捩れ、鬼は炎から逃れようと暴れている。じわじわと、その身体は次第に小さくなっていくようだ。
「おのれ……小癪な人間どもめ」
苦しげに声を震わせて、鬼が唸る。唸るうちにも、身体は白い炎に焼かれて蒸発するように縮んでいく。
「だが、これで終わったなどと思わぬことだ。……骨の髄まで、血の流れに至るまで、この血が呪われているのを忘れぬことだ。俺は再び……」
激しく燃え盛る白い炎に包まれて、鬼の声は掻き消えた。
シュッと小さな音を立てて、鬼の姿は炎と共に消滅した。あとには、ぽっかりと噴火口のように口を広げた穴が残るのみである。
そして今まで鬼が居た場所には、コロンと手に載るほどの大きさの、三角錐の形をした鬼の角ばかりが残されている。
身体が引き戻される感覚が強くなった。
時間切れだ……。


□――― 回想―近い過去 ―――□
静かな湖のように深みを湛えた男の黒い瞳は、気がつくと窓の外を見ている。
たまに、何かを探すように男の手のひらが腰のあたりに触れるのも、彼女は知っている。
そこにあるのは、あの時の侍と同じ顔だ。ただ、今は着物のかわりに洋服を着ており、腰に刀は差していない。
「貴方は奇跡を信じていないけど、あたしはそういうのを信じるの」
さらさらと白金の髪を流して、彼女は謳うように言う。その面立ちは、やはり今は眠って目を覚まさない青年の特徴を宿している。
「こんな遠くまで来て、あたしは貴方に逢ったのよ。それはもう奇跡みたいな確率で」
今はまだ平べったい腹を撫でて、彼女は男を振り仰いだ。
「だからどんな不幸に見舞われても、そのせいで命を落としたとしても、あたしは貴方を愛したことを後悔しない」
透き通るような青い瞳で、そこだけ強い意志を抱えて、彼女は男を見つめる。
「この子に名前を考えてくれる?」
長い時間沈黙して、彼は「トオル」と呟いた。
「それは、男の子の名前?女の子の名前?」
日本人の名前に疎い彼女は、首を傾げて聞き返す。
「男の子の名だな」
「女の子が生まれたらどうするの?」
「生まれてくるのは、男の子だ」
確信を持った口調で言って、彼は手を伸ばして彼女の細い身体を抱き寄せた。男の表情はまだ少し曇っていたが、安心させるように彼女の肩に回された腕は温かい。
「幸せになるわよ。あなたとあたしの子だもん」
聞こえるか聞こえないかの彼女の声は届いたらしく、男の腕に力が篭った。


□―――夢の終わり
今までぴくりとも動かなかった青年は、皆が見下ろす中、ようやく意識が浮上したらしくもぞもぞと動いた。 うんうんとしばらく唸っていたが、ソファの上で手足を伸ばして、起きざまに大きな欠伸をする。
「……くぁ。あーよく寝た……ん?」
まだ眠そうな顔で目を開けた渋谷透は、自分を取り囲んで見下ろす人々の顔に、むくりと半身を起こした。ラップ現象も収まった興信所の、蛍光灯の眩しさに目をしぱしぱさせて、きょときょとする。
「……ん?」
首を傾げた。どうやら、無事らしい。無事は無事だが、一体どれだけ苦労をしたんだと説教してやりたくなるほどに平和な顔をしている。
透が目覚めるよりも一足早く透の世界から引き戻された面々は、その顔を見てそれぞれにほっとしたような顔をした。ウィンも、透が元気に動いているということに、体中の力が抜けるような脱力感を味わう。
透は気圧されたように自分を取り囲む人々を見渡し、辺りの暗さに怪訝そうな顔をし、それから結局、にこっと笑って見せた。
「おはよー」
「……殴り殺したくなるくらい平和だな」
ボソリと太巻が低く呟く。まあ、あれだけ苦労と心配をかけて彼を救った結果がこれでは、その気持ちも分からなくないと言うものである。
声が聞こえた。長いこと聞いていなかった気がするその声で、ようやくウィンは身体を動かすことが出来た。腕を伸ばす。
「透……!」
「透くんっ!」
いつもどおりの平和ボケした顔を見せた透に、右と左からウィンとイヴが抱きついた。左右からの衝撃に、うぇっと透がつぶれた声を上げる。
「無事で良かった、透くん。心配したのよ」
などと言って、イヴは目に涙すら浮かべている。
「……へ?」
何も分かっていない透は、身動きが出来ずにマヌケな顔を晒している。透の体温は寝起きのせいで暖かくて、香水を付けていない肌は太陽の匂いがする。彼が喋ると、喉が震えて、その感覚がウィンにも伝わってくる。
「えっ、何?……ごはん?…今、朝?」
発言も態度に負けず間抜けだった。きょろきょろしている顔を両手で挟んで自分の方を向かせ、ウィンは久しぶりに見た気がする青い瞳を覗き込んで、視界がぼやけた。張り詰めていた緊張が解けて、安心で頬の筋肉が緩む。
「なんか変な夢見ちゃったよ」
皆が見守る中で、ぼーっと少しずつ意識を夢の世界から引きずり出したらしい透は、今更自分を見つめている顔ぶれを改めて眺め回した。
「やれやれ……心配したのよ。突然眠ったきり起きなくなっちゃったんだから」
と、腕を組みながらシュラインが呆れた顔をする。
「当分、ホラーは見なくてよさそうだよ、お陰さんで」
と、秋隆。無事でよかったですよと涼は苦笑し、みそのも開かない瞳を透に向けて「ご無事で何よりでした、渋谷様」と頭を下げた。釣られて頭を下げようとした透は、イヴとウィンに抱き付かれているのを忘れていたので、自分で自分の首を絞めた。
「透くん、相変わらずねー。今回はさすがにちょっとびっくりしたわよ」
「あっ、咲ちゃんだ。元気?」
元気も何もない。平和な会話に、一同は肩を落とした。
「あまり心配をかけさせるんじゃない」
ケーナズに言われて、透は怪訝な顔をして考え込んだ。しばらくして、どうやら寝ているうちに自分が心配をかけた……ということは、いくら平和な頭にも理解できたらしい。
どんな表情でどんな台詞を言うか迷った挙句、結局彼はへらっと笑った。
「ごめんね。なんか最近、よく寝れてなかったからウッカリ熟睡しちゃったよー」
「いや……その、睡眠不足を心配したわけではなかったんですが」
なんとも言えない顔をして、涼が苦笑している。
あふっともう一度欠伸をかみ殺した顔を両手で挟んで自分の方を向かせ、ウィンは透を覗き込んで笑う。少しだけ鼻の奥がつんとした。
「……おはよう、眠り王子様」
間近で見つめられて固まっている青年に顔を近づけて、彼女は透に口付けた。
「…………え?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、透の顔は一気に赤くなる。左右からレベルの高い美女に抱きしめられ、キスまでされて動揺しないようでは、青少年失格であろう。 それに対して
「あっ!」
と声を揃えたのは、某紹介屋と怪奇探偵、モテない男二人組である。「あら」とシュラインは眉を上げ、「若いっていいな…」としみじみと秋隆が呟いた。
やれやれ無事でよかったと、夢の中とはいえ体力を消耗した彼らは、口々に世間話をしながら、引き上げていく。
透の腕がウィンの後頭部に触れて、そっと撫でてくれる。いつもは全然気が利かないくせに、こんな時ばかり扱いを心得ているから、余計に首に絡めた腕を離しづらくなった。
喋っている間も、透の手はウィンの頭を撫でたまま離れない。首筋に鼻先で触れると、その皮膚の下を規則正しく流れる血の流れを聞くことができて安心した。
「ウィンちゃん」
透がウィンの顔を覗き込んだ。長い睫毛の向こうから覗く瞳は、何故か眩しげに細められている。 青い瞳は母親譲りなのだと、今更思い至った。
「声、ちゃんと聞こえたよ」
子どもみたいな笑顔になって、透は両腕でウィンの身体を抱きしめた。大きなぬいぐるみを抱きしめる子どものようだったけれど、透の腕は子どものそれよりも大人びていて、思ったよりもずっと強かった。












→→→move on to next step?




→→→→→→Ja, aber seien Sie vorsichtig.




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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1481 / ケーナズ・ルクセンブルク / 男 / 25 / 製薬会社研究員(諜報員)】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼世界調査員】
【1388 / 海原・みその / 女 / 13 / 深淵の巫女】
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【2073 / 廣瀬・秋隆 / 男 / 33 / ホストクラブ経営者】
【0904 / 久喜坂・咲 / 女 / 18 / 女子高生陰陽師】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手】

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NPC
渋谷・透(しぶや・とおる):大学生。父親は日本人、母親はヨーロッパ人のハーフ。実の父親の顔は知らず、母親とその再婚相手は事故で他界している。
太巻・大介(うずまき・だいすけ):紹介屋。厄介な事件は草間興信所に持ち込むことにしている。そして無責任。

鬼(落陽丸):妖刀「落陽丸」に憑き、多くの人間の命を奪った鬼。「坂崎惣介」と名乗る剣豪に首を刎ねられた。坂崎の血にかけた呪いのために、渋谷透を狙っていた。今回の事件で角の一つを失っている。

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あとがき
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いつも色々とお世話になっています〜(平伏)
ベッドからでるのが勿体無い季節になってきましたねー。週末なのでよく寝てました!(連休の意味があるのか…)
ウィンちゃんには返す返すもお世話になりまして……(恐縮)いや色々と。
渋谷の霊感体質に関しては、もう少し続いていくと思います。本人が不幸と思っているかどうかはまた別の話ですが。またどこかで見かけたら、お付き合いいただけると幸いです。


と、いうわけで……こ、こんな感じに仕上がりました……。
何これ!と思われたら、気軽に文句を言ってやってください。慌てて直させていただきます。
ではでは、ありがとうございました!
お疲れ様でしたー。

在原飛鳥