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<東京怪談ノベル(シングル)>


蜘蛛の揺籠〜まどろみ〜


 夢を見ていた。遠く近くまどろみの向こう側。優しい母のゆりかごに揺られて―――――



 当たり前に繰り返される一日の終わりに、海原みなもは布団の中で小さく溜息をついた。
 自分が通う中学校が火災によって半壊したのは、今日から数えて丁度14日前の出来事だ。
 原因は、何者かによって校内に撒き散らされたガソリンが導火線の役割を以って爆発、炎上したため。
 焼け焦げた校舎と瓦礫の下からは、個人の識別は困難なほどに炭化した死体がいくつも見つかった。
 損傷の激しすぎるそれらは、おそらく前日から行方が分からなくなっていたこの学校の生徒達だろうとされたが、奇妙なことに、その死体の中には明らかにヒトのカタチから逸したものも僅かだが見つかっているという。
 誰が、どういう意図で、そして、何故そんな真似をしなければならなかったのか、その全てが2週間経った現在も謎のまま。犯人と思しき存在もまた闇の中だ。
 不穏で奇怪な噂だけが、ひそやかに校内を、そしてこの町を包み込んでいく。
 だが、そんな不安定で曖昧な状況でありながらも、まもなく学力テストが行われる時期ともあいまって、学校側は一部にプレハブを利用しながら授業を再開させた。
「…………」
 みなもはもう一度、今度は少しだけ深く溜息をつき、寝返りを打った。
「………………あたしのせい、かな……」
 真実に最も近い場所に自分はいる。
 焼けてしまったあの瓦礫には、自分が救えなかったものたちがいる。
 そして全てを忘れるように、そっと瞳を閉ざす。
 意識が深い闇の中へと落ち込んでいく。


 ぎしぎしぎしぎしぎし―――――


 夢を見ている。
 そう直感した。
 2週間前の、あのどうしようもないくらい自分は無力だと感じたあの瞬間に、みなもは立っていた。
 月の光も射し込まない、薄暗い夜の校舎。
 非常灯がぽつぽつと光を落とす廊下。ピッタリと閉ざされた教室の扉。静まり返った階段。そこかしこにわだかまる闇。
 全てを拒絶する冷たく空虚なその場所で、懐中電灯も持たず、ポツリと佇む自分が窓ガラスに映っている。
 あの時感じた肌寒さを、今の自分はまるで感じていない。
 景色の全てが、ぼんやりと発光しているかのように、自分は明かりを必要としていない。

 これは夢だ。

 奇妙な感覚に囚われながらも、みなもは確信していた。
 こんなふうに夢を見ながらこれが夢だと自覚出来る現象はあまり珍しいことじゃない。
「これは、夢よね……」
 声に出して呟いてみる。
 この音はどこにも反響しないままぽつんと空間に浮いて、いつまでも耳の中だけでぐるぐると回っていた。
「これは夢」
 浮遊感。一部分はひどくリアルなのに、思考を辿ればあらゆる記憶が思い起こされるのに、その全てがひどく断片的でありながら、整合性を持たないままに辻褄を合わせようとしている。
「夢なら、きっとこっちには………」
 そろりと一歩を踏み出してみる。
―――――この向こう側から生徒達が押し寄せてくる。
 ねっとりとしたものに身体を濡らし、非常灯の下で蠢く、ヒトであることを辞めた者達の群れ。救えなかった彼らの変わり果てた姿。
 違和感と共に自分を襲う既視感。一瞬のフラッシュバック。同時に、想像していたとおりのモノ達が、どこからともなく溢れ出し、ひしめき合いながら迫ってきた。
 追いかけられる。だが、逃げるなら1階に行ってはいけない。また、悲劇は繰り返されるから。
 今度こそ助けなくちゃいけない。今度はうまくやらなくちゃ。
 だが、記憶が映像と重ならない。
「え……?」
 みなもと同じ制服を着ながら、四つ這いで蠢く生き物たちをぷつぷつと踏みつけて、それは廊下の角から緩慢な動きで姿を現した。
 視界に収まりきらず、また、空間にも収まりきれていない巨大な女郎蜘蛛の足。
 黒と黄の毒々しい彩色が、眼前に迫ってくる。
「どうして?」
 あの時の夢だ。なのに、記憶と重ならない。
「どうして、どうして夢なのに、あの時の夢なのに」
 思考が自分の手を離れて暴走する。
「あっ、いや―――っ」
 吐き出された粘着質の糸が、手を、足を、体を……みなもの全てを締め付け、呑み込んでいく。
 あの日と同じ、おぞましい世界の夢。
 だが、懸命に、これは夢だ、早く目を覚まさなくちゃ、そう言い聞かせて足掻いてもどうにもならない。
 身体が言うことを聞かない。頭でどれほど命令しても、まるで回路が途切れたかのように指先すら反応しない。
 糸が身体を覆っていく。視界を失い、声を失い、何も聞こえない闇の中へとゆっくり絡め取られ、沈められていく。

―――――オカア…サン………

 子守唄が聞こえる。蜘蛛の糸で作られた繭の中で、やわらかく、どこまでも優しく、それは身体だけでなく心の内側にまで浸透していく。
 優しいぬくもりに包まれ、自分が少しずつ変わっていくのを感じる。
 蜘蛛の繭のただ中で、ひそやかに溶かされていく。
 自分という輪郭が曖昧になっていく。

―――――オカアサン……アタシ……

 代わりに浸透してきたモノが、『みなも』という存在を作り変える。
 なにものかが女郎蜘蛛の子守唄に呼応し、その音が、『みなも』の精神も身体も感覚も全てを冒していくのだ。
 ヒトを形作っていた肌の色がねっとりと融け、お腹が内側からどんどん膨れていく。
 ぷつりと、制服のスカートのフックが外れた。
 続いて、ブラウスも、ファスナーも、そしてスカートまでが、内側から膨れ上がる身体によって弾けてしまった。
 どこまでもどこまでも膨らんで、ぐにゃりぐにゅりと肉が蠢きながら、纏わりつく服の切れ端も何もかもを内側に取り込んでいく。
 融けて、捏ねて、呑み込んで、また捏ねて、膨らんで……
 みなもの腰から下は確実に蜘蛛のカタチへと変態する。
 だが、変わり行くことへの不安感は、一定の間隔で拍動する心音が心地よい響きで包み込んでくれる。

―――――オカアサン………アタシ…………あたし………

 ゆりかごに揺られているかのような、緩やかなまどろみ。
 母親の腕に抱かれているかのような、安心感。
 胎児へと戻り、羊水に満たされた母体の中で、全てを委ね、見る夢の世界。

―――――おかあさん……

 ひどく懐かしいその感覚は、とても甘美な誘惑でもある。
 
―――――……ああ……すごく………気持ちいい………

 続いて、自分のものだという感覚がすっかり失われた腕や足が、爪先から順に鋭く尖り、棘のような体毛を持ち始めた。
 同時に、関節がひとつふたつとくびれておかしな方向に増えていく。
 身体の表面全てがびっしりと棘に埋め尽くされていくのに、それほど多くの時間は掛からなかった。
 粘液と制服の生地を僅かに纏わりつかせた蜘蛛の足。
 それを認識した次にやってきた変化は、やわらかくとろけた腰の辺りから、ずるりと生えてきた新しい足。
 ずるりずるりずるり――――
 4本の新しい足を得て、さらに恍惚とした至福感がみなもを内側から満たす。

―――――……あたし……うまれるよ………

 心地よい揺らぎの中で、『みなも』はベツモノの『みなも』に生まれ変わる。
 
ぷつん……ぷつんぷつんぷつん…………
 
 足を伸ばし、繭を破り、そうして、ぱちぱちと割れた非常灯が火花を散らす中で、冷たい闇を背にソレは産声を上げた。
 みなもの顔だけをそのままに、全てが蜘蛛の子へと作りかえられたベツモノ。
 いまや完全にヒトのカタチを冒してしまった異形の存在。
 かつて見ていた景色は、いくつもの細かい部屋に区切られてしまっていた。
 2つしかないみなもの目の中に、8つの蜘蛛の目が複眼となって収まっている。
 孵化したばかりの粘液を躰に纏わりつかせながら、ゆっくりと地を這いずり、不規則に動く手足を広げて外を見た。
 母蜘蛛の傍で、生まれてはじめてみた美しい光景。


 ぷつっ―――――


「あ。あれ?」
 みなもの視界に初めに飛び込んできたのは、見慣れた自室の天井と魚のアクセサリーがついた青い蛍光灯だった。
 陽の光が、窓からそっと差し込んでくる。
 優しい色合いの木目も、壁に掛けられた制服もいつもどおり。
「………夢…だったのよね……」
 唐突に失われた幸福感に戸惑いすら覚えながら、みなもはそっと身体を起こした。
 身体のどこも変態していないことを、自分のものだということを確認するように視線と落とし、
「あ、やだっ」
 そこでようやく、自分の置かれている状況を認識する。
 包まって眠ったはずの布団は消え失せ、着込んでいたはずのパジャマは無理矢理引き千切られたかのようにズタズタになっていた。
「…………夢じゃ……なかった……?」
 あの感覚が生々しく蘇ってくる。
 指先から棘のような体毛が生まれ、武器となる爪が伸び、節が増えていく様をそこに幻視する。
「違う、あたしは……違う」
 頭を振って、幻覚を振り切る。
 その一瞬、視界の端に何かが引っ掛かったのを感じた。
 今のは。
「―――――っ」
 ざわりと粟立つ肌と心。喉からかすれた悲鳴が上がる。

 みなもの枕元には蜘蛛の仔の潰れた屍骸がひとつ、夢の後に取り残されていた――――



END