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<東京怪談ノベル(シングル)>


The gift

 宙に浮かんだまま、リングを照らす強いライトを受けて輝いているのは、飛び散った汗の粒に違いない。
 ゼファー・タウィルは、しかし、興奮のあまり、何を考える余裕も持つことはできなかった。ただ、確実に自分の顔面を狙って打ち出されていた相手の拳の、その軌道から一歩脇に避け、かわって渾身の力を込めた拳を、動かない――そう、動かない相手の顔にめがけて繰り出し――
『決まったァァァーーーーー!!!』
 喧しいアナウンスがほとばしり、歓声がコロシアムを震わす。
 ゼファーは、どう、と、相手が仰向けに、マットに倒れるのを見た。
『まさに神業! ゼファー・タウィルのパイルバンカー! まったく目にも止まらぬ素早さだァ!』
 鍛冶場のふいごのように、たくましい胸を上下させる荒い呼吸。身体の芯が燃え盛っているようだった。汗にまみれた、本来は白磁のような肌も、さすがに上気して赤みを帯びている。煌々と輝くかのようなその瞳はアルビノ特有のあざやかな赤。
 レフリーが、彼の勝利を宣言した。
 勝者は、高々と腕を振り上げ、雄叫びをあげるのだった。

 だが、激昂の時間が過ぎ去ってしまえば――
 あとには、ひんやりとした静寂が訪れる。
 ゼファーは、自室のベッド――190センチを超える長身を収めるために買った輸入ものだ――にうつぶせによこたわっていた。部屋の灯りは消され、ブラインドの隙間から青白い月光が差し込んできている。薄闇の中で、彼は目を開いていた。
 静かだった――。そう、耳を聾するような歓声も、キンキン声のアナウンスも、トレーナーの飛ばす檄も、対戦相手の獰猛な息遣いも……一切が聞こえなかった。そして……あらゆるものが静止していた。そうだ、飛び散った汗さえも。
(錯覚――じゃねえよ、な)
 はじめての経験ではない。
 試合中は、極度の集中と、興奮とで、とうてい普通の精神状態ではありえない。だがそれにしてもあれは……動体視力が増して、相手の動きが遅く感じるとか、そういう類のものではないと思う。回を重ねるごとに、その時間は長く、はっきりしてきている気がする。
 時間が、止まった。
 もっとも空想的で、非合理的で、しかし、納得のいく答がそれだった。
(止まった時間の中を、おれだけが動くことができたのだとしたら)
 だからあの、ゾウすら倒すという宣伝文句の、相手が放った重いパンチを、まるで置いてある観葉植物の鉢植えを迂回するようにかわして、かわりにヤツの左の顎に、自慢のストレートを苦もなく叩き込むことができた。
 動かないパンチを避けるのは子どもでもできる。動かない相手を殴るのは寝ぼけていたって難しくない。
 しかし、そんなものは試合じゃない。
 誰にも看破されることはないありうべからざる八百長。それが、西風の白虎と称され、電撃のように日本の格闘界にあらわれて以来、猛然とそのピラミッドを登ってこようとしている男の、不敗神話を支えているのだとしたら。
 問題は、このゼファー・タウィルという男が、それほどに自分に都合のいい話であっても、そんな八百長を無条件に受け入れられないほど頑な矜持を持ち合わせていたことである。

 そんな男を育んだのは、はるか豪州の空と大地だった。
 乾いた風に吹かれながら、ゼファーは、久方ぶりに、故郷の土を踏んだ。
 どこへ行くにもかわらぬナイキのウィンドブレーカーに、ポリスのサングラス。片手にスポーツバッグひとつをぶらさげただけの、旅だとすればあまりに軽装だった。
 シドニーから鉄道を乗り継ぎ、たどりついた、くたびれた街から、さらに埃まみれのバスに乗る。
 乗客は彼一人だった。運転手が軽く舌打ちをする。
 たぶんゼファーの、白人の中にあってさえさらに白い肌を見て、あの村の人間だと悟ったのだろう。
 砂漠から吹く砂まじりの風にさらされ続けている小さな集落。すこし離れれば、そこはもうアボリジニたちの土地であり、さらにゆけば人は住まぬ野獣の領域になる。だがそれでも、荒れ地の端に、相当古くから――それこそ、白人たちがこの大陸にあらわれた頃にまで起源を遡れるという村。村で生まれたものには色素を持たぬ先天性白皮症――いわゆるアルビノが多い。
 周辺の住民はその村と住人を嫌悪している。いや、忌避といったほうがよい。誰もが、はっきりと口には出さないが、伏目がちにかぶりを振りながら、白人の村でありながら古くからアボリジニともまじわってきたという小昏い歴史にまつわる、漠然としたほのめかしをするのだった。
 錆だらけのバス停で降りると、彼は、大股に、集落へと向かっていった。
「ゼフじゃねえか」
 最初に会った村人は、突然の帰省をした男を見て、間の抜けた声をあげる。
 ややあって、幾人かの子どもらが、彼の足元にまとわりついてきた。
「元気だったか」
 順番に、子どもらの頭をなでたながら、バッグの中から日本で買ったチョコレートやらビスケットやらを配っていく。
「ちゃんとみんなで分けるんだぞ」
 男の子たちは我先に、菓子を奪い合いながら、木登りでもするように、腰を落したゼファーの肩や頭に登ろうとしてくる。
 よそものが何と言おうと、ここは彼の故郷なのであった。
 ふと気づくと、そんな彼の様子をじっと眺めているひとりの老人がいた。
「……じぃちゃん」
 老人が白髪なのは、歳のせいばかりではない。皺を刻んだその肌も抜けるように白く、瞳は真っ赤なのだから。
「なにしに来よった」
「べつに。たまには家に帰るのも悪くないかと思ってね。親父たちは」
「家におる」
 老人は杖をついていたが、足取りは確かだった。彼について、ゼファーが生家へと足を踏み入れたのは、もう太陽が荒野の彼方に沈みかけた頃だった。

 村は豊かではないが、その夜、ゼファーの家では母親がずいぶんと豪勢な料理の皿を並べた。いつの世でも、母親とはそういうものだ。距離のこともあって、年に何度も帰るというものでもないが、それでもゼファーは故郷が嫌いではない。決して饒舌なほうではない彼も、ビールのボトル片手に、日本でのあれこれを遅くまで語り続けた。父親が、それに目を細めてつきあった。
 祖父母は――部屋の隅の暗がりから、孫の様子をじっと眺めていた。
 その夜のことである。
(――……)
 そこは、上も下もない、ただもやのようなものだけが漂う空間だった。
(夢……)
 夢を見ているのだとわかる夢。それを明晰夢というのだと、ゼファーが知っていたかどうか。
 周囲は耳が痛くなるほど静かだった。かと思えば、かすかに、遠くのほうで低い、太鼓か何かが打ち鳴らされる音や、風の音、あるいはフルートに似た楽器の音が聞こえたような気もした。
 ゼファーはあてもなく、霧の中を歩んでいた。やがて、いくつもの、宙に浮かぶ奇妙な柱、ないし台座のようなものが目に入ってくる。それは……一見、円筒形に見えたけれども、角度によっては円錐のようにも球形のようにも、あるいはまったく不定形のようにも見える、奇怪なオブジェであった。
「……」
 異様な気配にはっと息を呑む。
 台座のひとつが滑るように移動して(あるいは見たときにはすでにそこにあって)ゼファーの目の前に降りた。その上には、ヴェールのような布をすっぽりとかぶった、人だとすればゼファーの背丈の半分ほどしかないような何者かがうずくまっているようだった。
「よくぞ来た」
 それが喋ったのだと、ゼファーは断言することができない。それは頭の中に直接響いた声のようにも思えたし、なにか不気味な、ごぼごぼいう音がヴェールの下から聞こえただけのようにも思えた。
「なんだ……おまえは」
「われこそは門を護るもの、銀の鍵を与えるもの、生命永きものなり。汝、求むるが故に参ったのだ」
「……? 何を言っている。求める? おれがなにを――」
「汝は時の門を開く鍵を持っているのだ」
 時、という単語が、ゼファーをぎくりとさせた。
 止まる時。時の門。
「汝は門を護る我の血を引く者であるが故に」
「ふ、ふざけるな」
 ゼファーは、その存在のかぶる布をつかんだ。ひんやりとしているようにも、生温かいようにも、感じられた。
「おまえは一体――」
 一息にヴェールをはぎとる。
「!」
 絶叫した――と思ったのは、夢の内のことだったか。
 ただ汗をびっしょりとかいて、ゼファーはベッドの上に身を起こしているだけだった。

 空はどんよりと曇っている。
 翌日は日曜日だった。いつかどこかで聴いた、イギリスのシンガーの歌が、ゼファーの耳の中で回っている。毎日が日曜みたい、毎日が静かで、灰色――。
「じぃちゃん……」
 朝食のテーブルは、昨晩とはうってかわって、重苦しかった。
 ゼファーは湯気の立つコーヒーにさえ手をつけていなかった。
「いつまでとぼけるつもりなんだ」
 押し殺した声。家族でなければそれだけで腰がひけていたかもしれないほどの。
「どうなんだよ、なあ!?」
 どん、と、テーブルを叩いた。
 その拍子に、ゼファーのマグカップが衝撃に跳ね上がって、テーブルから落ち――
 そして、静止した。
「…………」
 見開かれた赤い目が、空中に固定されたマグカップを見つめた。湯気も、濃褐色の液体も、彫刻のように止まったままだ。
「『賜物』なのだ」
 しわがれた声が告げた。
「大いなる時の到来とともに、一族がふたたび、かの方にお仕えすることができるよう、授かった賜物なのだよ、ゼファー」
「じぃ……ちゃん……」
 父も母も祖母も、それぞれに不安と戸惑いの表情を貼付けた蝋人形のように止まっていた。動いているのは、ゼファーと、祖父だけだ。
「わしらの祖父母の時代のことだ……土地のものから……かの方の恵みと庇護を受ける道へといざなわれたのだ……古ぶるしきもの、延命せしもの、かの方――ウムル=アト=タウィル神の」
 そして、マグカップは床に落ち、粉々に砕け散った。

 その後――
 次の試合で、ゼファー・タウィルは、格下の相手に大敗を喫した。失望の声をあげるファンやマスコミをよそに、実際に試合を見ていた観客たちのあいだで、負けたにもかかわらず、ゼファーが腫れ上がった顔にひどく満足そうな笑みを浮かべていたのを見たという、奇妙な噂が流れた。
 彼は、あれ以来、一度も故郷には帰っていないという。

(了)