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<PCシチュエーションノベル(グループ3)>


歓楽街の爆弾魔

「落ち着け」
 子供を優しく諭すようなトオルの言葉を、その場に居た全員が固唾を呑んで見守っていた。
「お前の母親も、屹度今頃泣いているぞ」
「……、」
 便乗して苦し紛れの説教を叫んだ弧月を、蓮が冷めた目でちらりと見遣った。
「……お前は警察か。大体、何故分かる」
「いや、それ位しか言葉が思い付かなくて」
 店内の人間が全員、硬直するか身体が震えているかのどちらかである中で、弧月と蓮だけはそんな余裕のある会話を低声で交わしていた。本人達に云わせれば、これでも真剣なんだと云う所だろうが。
 トオルは軽くこめかみを押さえて小さな溜息を吐いたが、然し直ぐに気を取り直して再び穏やかな態度で説得に入った。
「……気にしないで。……それに、莫迦らしいと思わないか? 他の人間の事はまあ良いとして、君まで自爆して死ぬなんて、莫迦らしいよ、そうだろう」
 煩ぇ、という怒号が返った。人質の喉元に突き付けたナイフを握る手は力が入り過ぎて刃先が震え、運の悪いホストの青年が上ずった悲鳴を上げた。
 ホストの人質一人だけならば今直ぐにどうにでも出来る所だ。が、世の中そうそう甘く無い。
 女物のジャケットをはだけた男の腹では、ミリセコンド単位が目紛しく点滅するタイマーが赤い表示を煌々と誇示していた。勿論、腹に巻いて装着する新型の時計などでは無い。
 ──時限爆弾、である。

──────……

 ナンバーワンの佐和・トオル(さわ・とおる)がオーナーも務めるホストクラブ、『Virgin-Angel』。この店には、一週間程前に新しいスタッフが二人、増えた。
 一人は現在、新人研修として先輩ホストのヘルプとして付きながら割合のんびりと客との会話を楽しんでいる大学生、柚品・弧月(ゆしな・こげつ)、トオルの友人でもある。
 もう一人はホールスタッフとして注文の品や灰皿を黙々と運ぶヴァイオリニストの香坂・蓮(こうさか・れん)だ。彼は演奏活動の傍ら便利屋を兼業しており、トオルはその顧客である。
 トオルの誘いで二人は同時にここでの仕事を始めたのだが、割合のんびりとした弧月はともかく、蓮は根っから接客業に向かない性格で、然も女性を苦手とする度合いが並では無いのでホストなど到底、不可能である。弧月が先輩ホストの傍らに付いてそれなりに客からの評判を得て行く中、蓮は専ら接客を必要としないホールスタッフに従事した。ホストよりは給料も劣るが、それでも普通のレストランでのアルバイトに比べれば高額には違い無い。
 二人共、それぞれ分相応な仕事内容を少しずつ覚え、大分慣れて来た所だ。
 だが、今日、そんな彼等のバランスにちょっとした変化が訪れた。
「いらっしゃいませ、」
 そろそろか、と予想を付けていた常連客が現れ、彼女を席に案内したトオルにその客がある注文を耳打ちした。
「今日は、──君は止すわ。ちょっと指名したい子が居るんだけど」
「誰をご希望でしょう?」
 ホストクラブのルールを、少々逸脱した注文である。だが、ここのオーナーでもあるトオルは寛容な笑顔でそれに応えた。
「……あの子」
「……、」
 彼女が指した先を見遣ったトオルは苦笑を浮かべた。
「名前は知らないけど、良いなって思ってたのよ。入ったばかりの子でしょう?」
 自分が指名を受けた事など露知らず、常日頃からの仏頂面で立ち働く青年、──蓮である。
「お言葉ですが、ホールスタッフなんですよ、彼。それに、大分無愛想ですし、──様の御機嫌を損なうのが心配ですが」
 どちらかと云えば──様の御機嫌云々よりも、ホストトークをさせられれば堪ったものでは無いだろう蓮を擁護してやる積もりでトオルはやんわりと異論を唱えた。が、彼女の返事は「構わないわ」と云う事である。
「そういう所が素敵じゃない、彼。お願い出来ないかしら?」
「……少々お待ち下さい」
 トオルは微笑して恭しく頭を下げ、それ以上は反論しなかった。……面白いじゃ無いか。

「冗談じゃない、」
 トオルが触り気無く店内の隅に呼び出し、指名を告げると蓮は低い声量ではあるが悲鳴に近い声を上げた。
「あくまでホールスタッフ、の約束だっただろう。俺に、一体どんなお愛想を云えと云うんだ、佐和?」
「その積もりだったんだけどねー。直々の指名だし、仕方無いだろ? 俺だって一応オーナーだしさ、無碍にも断れないし、困っちゃうんだよね」
 にこにこと楽しそうな笑顔を浮かべたトオルは、その実あまり困っているようには見えない。それも当然、内心この展開を楽しんでいるのである、この気楽なオーナー。
 その時だ、弧月の付いた席から水気の跳ねる音が響き、客の楽しそうな悲鳴に混じって「うわ、」という新人ホストの声がした。弧月がミネラルのチャージャーを倒したらしい。
「すみません、慣れないものでつい手が」
「もー、やだ、弧月君確りしてよー、ほら、先輩が睨んでる、睨んでる」
「すみません、あ、先輩もすみません、」
 からからと明るい嬌声を上げる客に混ざって、マイペースでのんびりした謝罪を述べる弧月に先輩ホストも苦笑するしか無い。普通なら緊張の走る場面も、この際には和やかに済んだ。
 トオルは一旦蓮の傍を離れて彼の席へ赴き、オーナーとして自らも客に対して詫びた。
「すみません、新人なので大目に見てやって下さいね」
「良いのよトオルさん、……他所だったら許さないけど、この子も可愛いしトオルさんに免じて許してあげる」
「有り難うございます」
 莞爾と穏やかに微笑み、弧月の背中をぽん、と軽く叩くとトオルは再び蓮の許へ戻り、堪り兼ねてくるりと踵を返す所だった蓮の腕を掴まえた。
「……ちょっと待った、どこへ?」
「帰る」
「そう云わないでよ。柚品君だってああして上手くやってるじゃない。気楽に構えれば良いんだよ。……それにさ、結構気前の良いお客さんだよ? 上手く気に入られれば、ホールスタッフやってるより余っ程いい商売になるから」
「……、」
 蓮の表情は、微妙だ。プライドを取るか、金を取るか。際どい所で揺れている蓮を金の方へ引くべく、トオルは駄目押しに近い助言を以て彼の背中を後押しした
「まあ、元々ホールスタッフだ、って云い添えてあるから、大丈夫。玉砕覚悟で行って来なよ」

 蓮がホストの定石も何も無視で、「失礼します、」とだけ素っ気無く断って席に付くと、彼女は蓮に酒を勧めた。
「飲めませんので」
 くす、と彼女は吹き出した。こんなにあからさまに拒絶するホストなど、遊び慣れた彼女にも初めてだったらしい。
「少し位、大丈夫でしょう」
「直ぐ寝てしまうもので、酒が入ると」
 仮にも席に付いたホストがここまで無愛想だと逆に壮観である。
「……別に、私の膝で寝て呉れても構わないけどね。……まあ良いわ、じゃ、お冷やね」
 丁度後ろを通り掛かったトオルが苦笑いを常連客へ向けた。
「本当に申し訳有りません。……ね? 物凄く無愛想で不躾な奴でしょう? 良いんですか?」
「良いわ」
 では、とトオルは行き過ぎ、何が良いんだ、と叫びたい心中の蓮は結局その席に取り残された。
「ちょっと、あなた、痣があるわ。一体どうしたの、こんな所に痕を付けちゃって」
 彼女が馴れ馴れしく蓮の喉元に指先を伸ばして来た。さっ、と蓮は身を引き、先手を打って左の顎の下と鎖骨辺りに出来た痣の上を押さえた。
「これは、職業病です。……無名ですが、一応ヴァイオリンを弾いてますので、」
「ちょっと、聞いた? この子ヴァイオリニストですって! 素敵、繊細なあなたに似合いそうね、ちょっと弾いて聴かせてよ、」
 彼女が声を張り上げる。──堪ったものじゃない。蓮は慌てて「生憎、今は手許に楽器が無いので、」と断った。
「あらそう、残念ね。……ねえ、あなた、私に飼われてみない? 主人が資産家で多少はお金に自由が利くのよ、ヴァイオリンって高いんでしょう、ちょっと良いものなら買ってあげられるわよ」
 「ちょっと良い」ヴァイオリンで幾らするのか知っているのか、と訊きたい。いくら有閑マダムとは云え、蓮が本当に欲しい楽器は到底買える訳は無い。そんな口約束をする位なら蓮が目標に近付けるよう、金を呉れと云いたい所だ。
 耳許で囁かれた蓮は限界を感じて絶叫の一歩手前である。あまつさえ、今彼女の片手は蓮の膝の上にある。

「えー、お姉さん、彼氏居ないんですか? 嘘でしょう、僕だったら、こんな美人がフリーなら即効でデートに誘いますよ」
 弧月の傍らで先輩ホストが姦しい程態とらしい溜息を吐いた。……ああ、「即効」とか、余り軽々しい物云いをしないようにと常々触り気無く注意はしているのに……。然しそこはまあ、客が喜べば良い訳で。プライベートではモデルの卵の美人に貢いでいると云う噂の彼のホストが本心から「美人」と誉めたとは余り思えない当人は、「厭だぁ、」などと云いながら初々しさを装ってくすくすと笑っているので、お気に召したようだからまあ良いだろう。
 そうした店内の雰囲気にも気を配りつつ、自らの指名客の接客に打ち込むトオルのいつも通りの仕事時間は過ぎて行く。
「そんな事云うなら誘ってよー、デート!」
 調子に乗った例の客が、甘えた声を上げた。
「勿論ですよー、何時でも云って下さいよ」
「何処に連れて行って呉れる積もり? だとしたら」
「やっぱり映画とか」
「やだ、在り来たり」
 あっさりと彼の意見を却下した彼女は、ふとその視線をヘルプの青年へ留めた。なかなか端正な、落ち着いた表情を浮かべながら先輩ホストと客の遣り取りを楽しそうに眺めている弧月だ。
「ねえ、君だったらどうする?」
 徐ら、彼女は弧月に話題を振った。弧月は客の勧めに従って、少々飲んでいる。……日本酒だが。
「デートよ、デート。女の子をデートに誘うとしたら、さあ、君ならどういうシチュエーションにする?」
「そうですねぇ……、」
 手を伸ばしていたパッションフルーツを口に入れ、ピックを皿に戻しながら弧月は思案してみた。
 デート……とは云えあまり実感も無いし、休日に遊びに行くとなれば……。フルーツを飲み込んでから、弧月は素直に首を傾いだ。
「……ツーリングとか」
「ツーリング?」
「好きなんですよ、バイク。纏った暇があればそれで色んな所を廻ったりしてるんです」
「何なの、バイク」
「スティードですけど」
「やだ、格好良いー! 似合いそう!!」
 メカニックには疎そうな彼女がスティードと云われてピンと来たかどうかは分からないが、この際車種は何でも良かったのだろう。黄色い歓声が湧いた。
 客であればどんな女でも持ち上げてくれるホストクラブの接客にも慣れてしまったらしい彼女は、逆にあっさりとした受け答えをするクールな弧月の方が今は気に入っているようだ。
「お酒何にするって云ったら日本酒とか云うし、何か渋くて知性的な人に見えたけど、そういうワイルドな所もあるのね、素敵ー、今度後ろに乗せてよ」
 こういう事を迫られても、お互いにあくまで話の流れだから気負わず受け流せば良い、と最初にトオルに云われていた。弧月は落ち着いたまま、「ええ、いずれ」と明るく応えた。
 ……そうしながらちらりと横目で見遣った、俄に接客に引き出されてしまった蓮は彼を指名した客に膝を触られて露骨に厭そうな表情をしながら冷静さを刻一刻欠いて行っている所だ。
「……、」
 ──まあ、死ぬ訳では無いし。給料が掛かっているから客相手に怒鳴りはしないだろうし。のんびりと、弧月はまたフルーツのピックを摘んだ。

「……、」
「……どうしたの、トオルさん?」
 つい、黙り込んでしまったトオルを接客中の女性が心配そうに覗き込んだ。普段なら、何が起こっても黙って意識を接客から遠ざけてしまう彼では無い。
「いいえ、すみません」
 トオルは直ぐにまた微笑を取り繕い、詫び代わりに彼女の目をじっと覗き込んだ。──意識の一部は、未だ先程見えた「不穏な色彩の存在」へ向けながら。
 程なくドアが開き、入口のスタッフが「いらっしゃいませ、」と声を揃えた。
「……いらっしゃいませ」
 それに続いて挨拶を告げながら、トオルは触り気無くその客の様子を伺った。
 一見客だ。……背が高くて全体に直線的な、ひょろっとした体型である。やけに厚化粧した顔を俯けて髪の陰に隠し、ハイヒールの音を不揃いに、不格好に響かせて「彼女」はスタッフに連れられて席に着いた。
「……すみません、ちょっと、失礼します」
 トオルは、真直ぐに視線を合わせてしまって未だうっとりとしている客を残して立ち上がった。

「……ちょっと、」
 弧月の肩に手を置き、トオルは素早く目配せを送った。
「……、」 
 異常有り、とトオルの目が告げている。
「さっきからすみません、お借りして構いませんか?」
「ええ〜、弧月君連れて行っちゃうの〜?」
「御心配無く、ちょっと裏口に連れ出して説教するだけです。すぐ、お返ししますから。ちょっと、顔が腫れてるかも知れませんけどね」
 明らかに冗談と分かる軽口を叩き、彼女達が「厭だ、トオルさん怖ーい!」と笑いあっている内にトオルは弧月を入口の陰に連れ出した。途中、同じような方法で蓮をも誘い出したのは倖いであった。……とうとう、彼の神経が一本、「ぷちっ」と音を立てる寸前だったので。

 ──で。
 トオルが低声で二人に「不穏な色彩が混ざり込んだ」事を伝えたその直後、何が起きたかは冒頭で述べた通りである。
「ちょっと、穏やかじゃない。少なくとも何か一騒動起しそうだ、彼女──、いや、彼。女性じゃ無いし」
「……よく分かるな、あんな厚化粧に厚着した上から」
 呆れたように呟き、ようやく元来の冷静さを取り戻しかけていた蓮は「女装した男が見抜け無いなんて、女性に対して失礼だよ」と云うトオルの言葉に頭痛を覚えてこめかみを押さえた。
「お前は、どうしてそう接客を離れた席でさえ、──」
 直後、先程弧月がミスをした時の騒ぎを二倍、三倍にしたような騒音が響いた。但し、緊張の度合いは比べ物にならない。
「動くな!」
 先程の一見客が、刃物を片手に自分より上背で劣る、付いていたホストの青年を抱き抱えて彼の喉元に刃先を突き付けていた。
「……なるほど、」
「確かに」
 「彼女」の明らかに男声である怒鳴り声を聞いた蓮と弧月は妙に納得して頷き合った。本当に、男だった。が、流石。と視線を向けたトオルはエンパシーに依って女装男の醜悪に混濁した色彩を察知し、一瞬眉を顰めた後、殊更穏やかな微笑を向けてそちらに歩き出してしまった。最後に一度だけ軽く二人を振り返り、「そのまま、タイミングを計って待機していてくれ」と目線だけで告げて。
 
 店内は一瞬で阿鼻叫喚のパニックに包まれた。
 元々、殆どが女性客である。突発的なトラブルに際して、必要以上に悲鳴を上げるのが女性の特徴である。然も彼女達には何故か連鎖反応が起きるので、あっちの席で「きゃー」と云えばこっちの席からもさらにあっちの席からも「きゃー」「きゃー」と遁走曲のような輪唱が起こる。
「落ち着いて、ね、俺がどうにかするから大丈夫、落ち着いて下さい」
 トオルはそんな彼女達の間を、肩に手を置いて何とか取り静めながら駆け回った。
「そこの金髪、動くなっつってんだろうが!」
 根は臆病らしく、怒りよりも怯えを声に滲ませて女装男が叫ぶが、それ所では無い。そうでもしなければ、混乱を来した彼女達がどんな行動に出るか分かったものでは無い。
「ちょっと、待って」
 などと云って相変わらず女性客の沈静に奔走していたトオルも、流石に次ぎの女装男の行動にはぴたりと足を止めた。
「動くなって! 動かないでくれよ! 頼むし!」
 半分泣きが入っているような男の絶叫は良いとして、その彼がはだけた女物のジャケットの中身。そう、前述の通り時限爆弾だったのである。
 素人細工の不格好なタイマー付き装置が、痩せている割りにすとんとした男性体型の腹の上に安物の花柄のワンピースを通して巻き付けられている図は滑稽である。勿論、誰一人吹き出す人間は居なかったが。
「半泣きになってどうする、」
 蓮がぽつりと呟く。
「やけに旧式だな」
 同じく、低声で感想を洩したのは弧月だった。
「……ちょっと待てよ。一体、何があったんだ? ──早まらないで、話してみろよ。聞くから」
 トオルは慎重な距離を保ちつつ、隙を見るべく説得の体勢に入った。
 女装男改め爆弾魔の精神状態は、トオルの脳裏で激しい赤色の点滅を繰り返していた。爆弾のタイマー表示と同じタイミングで。

「煩ぇ、俺の女を返せよ! この、泥棒ホストが!」
「女?」
 トオルは何を云われても動じる事無く、優しい調子で爆弾魔、未だ女装中、に向かって言葉を返す。
「……、」
「蓮さん、大丈夫ですか?」 
 トオルの指示通り入口付近で待機していた蓮に、弧月がそっと耳打ちした。蓮が、徐に口許を片手で覆ったからである。
「……ああ。あまりにも気色悪い光景なんで、つい目眩が」
 何が気色悪いと云って、爆弾の恐怖では無い。計画上の必要に迫られたらしいとは云え、女装した厚化粧の男が低い声で「女を返せ」と喚く程不気味な場面はそうそう無い。
 その間にも、トオルの説得は続いていた。
「誰も、君の恋人を盗ったりしないよ。ここは、女性が寛ぎに来る店だ。どうやら、君の恋人がお客さんの中に居たようだけど──、」
「この店じゃ無ェよ! どっか知らない所のホストが道端で俺の女をナンパしやがって、彼と付き合う事にしたからあんたとはもう会わないとか、彼に貢ぐ金を持って来たら一度位デートしてやっても良いとか好き勝手云いやがって、あの女!」
「うちじゃ無い? じゃあ、どうしてこんな事をするのかな」
「知るか! 俺だって分かんねェよ! ただ通り掛かったから、適当にここにしてみた!」
「……、」
 流石のトオルも返す言葉を失った。何と云う迷惑でいい加減な話だ。
 
 その時である。恐怖に耐え兼ねたらしい人質のホスト青年が、気を失ってその場に崩れた。彼を取り押さえていた腕に急激に掛かった重みに、爆弾魔の意識が一瞬逸れた。
 ぱん、と盛大な破壊音と、大量の水と白磁の破片と薔薇の赤い華弁が爆弾魔の側頭部で破裂した。
 蓮だ。爆弾魔の僅かな隙を突き、合図を送ったトオルの視線を瞬時に見極めてカウンター上の花瓶を投げ付けたのだ。それなりに敏捷な彼が敢えて飛び道具を選択したのは、素手で殴って手を傷めなくなかったと云う事も大きいがどちらかと云えば、触りたくなかったのである。
 因みにその花瓶、マイセンのアンティークである。普段なら骨董好きな性格から頭を抱える所の弧月だが、この際にはそうした事は意識の外だ。
 彼の眠れる力が解放される。普段の穏やかでのんびりとした姿からは想像が付かない鋭い気迫が弧月の全身を覆い、床を蹴った身体がバネのように跳躍した。
 爆弾魔の身体が後方へ吹き飛ばされ、哀れな人質のホスト青年は床に倒れた。一瞬後に、

がしゃ────────ん!!

 ……と、蓮が花瓶を投げ付けた時の盛大な音を数十倍にしたような、ある意味爆発音と云えそうな音を立てた。
 実際、その音量は数十倍であったと思われる。トオルが「あーあ」と云うように額を押さえて天井を仰いだのがちらりと視界に映った。彼が衝突した先は店の中でも特に高級な(ホストクラブでボトルキープすれば数十万は下らないような)ブランデーやウィスキーの類が並べられた棚だったのである。その棚の内三分の二程は生き残っていたが、完全に気を失った女装男の周囲に碎け散ったボトルの数や、数十本。トオルが目眩を覚える訳だ。
 が、未だ危機が去った訳では無い。爆弾魔に跳び蹴りを喰わせた弧月の爪先は、そのまま鞭のような軌道を取って腹に時限爆弾を縛り付けていたベルトを、爆弾自体には衝撃を殆ど与えないように千切った。神業である。
「蓮さん、」
 床に着地し、振り返った弧月の声を受けて蓮は飛んで来た時限爆弾を両手で慎重に受け止めた。こうした作業は不本意ながら蓮の十八番である。的確な判断で素人細工の不格好なケースをこじ開け、弧月に向かって「刃物!」と叫ぶ。
 蹴り飛ばされた際に爆弾魔が取り落としたナイフを弧月が拾い上げ、カウンター上を蓮に向かって滑らせた。受け取り、鮮やかな手付きで数本のラインを切断した蓮は手を止めた。
 タイマーは今だカウントダウンを続けている。残り時間は後1分弱。ケースの中には、赤、と緑のラインが未だ切れずに残っている。──どちらかを切ればタイマーは止まる。そしてそのもう一方は、残り時間に関わらず爆発する。
「……、」
「赤だ、赤を切るな、香坂君!」
 トオルの声だ。先程、エンパシーで見えた爆弾魔の精神の色。激しく点滅していた赤色だ、これを切っては不可ない。
 蓮はトオルの顔を見るよりも早く、反射的に緑を切断した。

……。

 ──タイマーは、21秒を残して一旦停止した後、消えた。

「……グラッパにヘネシーのXOにルモワスネ。……、」
 ガラスの破片を爪先で掻き分け、足許を高級ブランデーの香りに浸しながらトオルは溜息を吐いた。
 今日はもう営業どころでは無いし、蓮はそれ自体が高価な薔薇の切り華ごとマイセンのアンティークを割るし、弧月は選りに選ってこんな場所に向かって爆弾間を蹴り飛ばすし、──。
 現場に居合わせた客はトオル直々に丁寧に送り出したので、一夜明けてショックが収まればまた来て呉れるだろうが……。
「……値段も然る事ながら、仕入れ自体が結構大変だったんだよね、この棚の酒」
 ──これは結果オーライ、じゃ済まないよ。
 その時、トオルの足許で爆弾魔の呻き声が上がり、彼が目を明けた。
「おはよう」
 トオルは屈み込み、未だ頭と腹が痛むらしく、起き上がれないでいる女装男に微笑み掛けた。

「慣れない事はするものじゃないよ。君、喧嘩なんかした事ないだろう。ナイフ一本でどうにか出来るなんて、ちょっと浅はかだったかな」
 俺なら、とトオルはいつの間にか手にしていた、氷を砕く為のアイスピックを爆弾魔に見せ付けて微笑んだ。
「こっちを使うかな。この程度の実戦じゃ、大層な刃物より針状のものの方が余っ程有効なんだよ」
「……何で詳しいんだ、お前は」
 既に抵抗する気色の見えない爆弾魔から離れて立ち上がると、トオルは腕を組んで呆れている蓮に向かって少し含みのある笑みを浮かべた。
「……何だ」
「……いや、まあ、詳しい話は後日」
 今は、呆れるなり何なりどうとでもしているが良い。──弧月もだ。
「お疲れ、柚品君」
 トオルは弧月の労を労う可く、軽く彼の肩に手を置いた。
「どうも、」
 会釈した弧月の耳許に徐ら口を寄せ、トオルは彼にも「今日は話どころじゃ無いから、また後日」と告げた。
「はあ、」
 既にぽわんとした表情に戻っている弧月は、トオルの言葉の裏に気付く可くも無い。

 ──翌日、開店前の同『Virgin-Angel』店内。
「……と、云う訳で〆て85万になります。あ、端数は切り捨ててあげたから。それと、買い直した花瓶の値段がプラス9万円」
 ぽかんと口唇を開いて瞬きを繰り返している弧月と蓮を前に、清々しい程の笑顔を浮かべたトオルは更に云い加えた。
「親切な値段だよ、何しろ仕入れ値だし。売り値ならこんな物じゃ済まないよ。それに、花瓶だって割れた方はアンティークでもっと高価なものだったし、華の代金はサービスで」
「……それって……あの爆弾魔の?」
 不吉そうな表情を隠さない弧月に、勿論、とトオルは頷く。
「何で俺達が払うんだ、爆弾魔にでも請求しろ」
 蓮も無論納得はしない。
「うちも客商売だから、あんまり裁判沙汰起したく無いしね。あの男に支払い能力があるとは思えないし。……それに、あの鮮やかな対処法を見てると、どうもこんな被害を出さなくても解決出来た気がするんだよね」
「あの……、俺達だって支払い能力がある訳じゃ……」
 恐る恐る、弧月が意見を述べる。神々しい程寛大な笑みを浮かべて、トオルが頷いた。
「大丈夫、何も、今現金で払えなんて云わないよ、俺は。……君達には身体で払って貰うから」
 
 ──それから暫くの間、『Virgin-Angel』の新入り二人は無償労働になった。