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奪われた時間は豪雨が刻む
「お会計の方、二十一円になります」
にこやかに読み上げた店員に、
「何だと! 二十一円ッ?!」
何の前触れもなしに、世界でも最も薄幸であろう探偵、草間 武彦(くさま たけひこ)は叫び声を上げていた。慌ててお財布の中を覗き込み、眼鏡越しの店員の笑顔にもう一度問い返す。
「二十一円だと?」
「二十一円になります」
さらりと繰り返され、もう一度お財布と店員とを交互に見比べて見る。
――二十一円だと?!
「チロルの値段っていつ上がったんだいつ! 昔は十円だっただろうが!!」
刹那、がたんっ! と身を乗り出し、大声で叫びながら、草間は店員の顔を下からじろりと睨みつけていた。
そんな話、聞いた事ないぞ!!
少なくとも、草間の知る時代のチロルチョコは、永遠不変の十円であったはずだ。
それが、
「お客様、そのような事を仰りましても……」
「ええい煩い! 十円だろう十円っ! 何かの間違いじゃないのかっ?!」
「いいえ……二十一円になります」
いつの間にか、十円も値上がりしていたなどと。
まだ若い店員は、流石に時代の流れに敏感なのか、さも同然のように値段を繰り返し読み上げている。
「ウソだろう……おい……!」
どこにぶつけて良いのかわからない怒りが、ふつふつと込み上げてくる。草間の元々短い気も、そろそろ切れる寸前まで追い詰められていた。
その上さらに、
「うわーーーーーーーーーーん!!」
突然、頭の上から大声で泣き出す少女の嘆きが、波となって草間に襲い掛かってくる。それと時を同じくして、再び強い雨の音が建物を包み込んでいた。
草間の頭の上から泣き顔を覗かせる、小さな、小さな女の子。
「泣くな! 頼むから泣くなああああああぁっ!」
「とけいっ! とけいでーすよ! ねこでーす! くろいねこが……ううっ……!」
「わーっ! 頼むからそれ以上叫ぶな! 喋るな! 俺が探してやるって言ってるだろうがっ!」
――露樹 八重(つゆき やえ)。
身長僅か十センチのその姿に、大きな赤い瞳。純度の良い宝石を思わせるようなそれに、しかし今は涙を沢山に溜めている所為か、身に纏う黒いローブがいつもよりもその色の深みを増しているようにも思われる。
同時に今日は、その首に、いつも肌身離さずつけているはずの金の懐中時計をかけてはいなかった。
それ故に、この愛らしい少女は、今回の草間の加害者≠ナあり、
「落ち着け八重! 頼むから泣くな! ああああああああああもうっ! ほら、残り十一円! だから早くチョコをよこせっ!」
同じ小人なのに、どーしてコイツはいっつもこーなんだ!
八重に聞かれれば大洪水の果てに水死できそうな台詞を心の中に吐き捨てながら、草間はふと、夜中にこっそり靴屋の仕事を手伝ってくれるような利口な小人の話を思い返していた。だが実際は、
「袋の方にお入れ致しますか?」
現実はそう甘い物であるはずもなく。
「レシートもシールも袋もありがとうございましたもいらんっ! だから早くチョコをよこせええええええええええっ!!」
店員の丁寧さが、今だけはどうしても癪に触る。
八重の大きな叫び声に頭痛を覚えながらも、草間も今にも泣き出しそうに頭を抱えてしまっていた。
草間興信所のボロラジオ曰く、今日の天気は一日中快晴、降水確率は十パーセント以下――であったはずなのにも関わらず、
現在、外は記録的とも見える豪雨に見舞われている。
「くそっ、チョコでも買えば泣き止むとばっかり……!」
コンビニを後にし、傘もささずに裏路地へと入る。勿論晴天であるであろう日に草間が傘など持ち歩いているはずもなく、まして、雨が降ったからと言って、それを買うほどの持ち合わせを持っているはずもない。安価なチョコレート一つを買うのですらも、躊躇ってしまう程であったのだから。
ちなみに一瞬、ついにあのラジオは言う事までもがおかしくなってしまったのかと考えもしたが、豪雨の原因は至って身近な所にあった事に、草間は先ほど気が付いたばかりであった。
「どこに行ったんだ! その猫とやらは!」
「あっちのほうでーす……っ、まっすぐいってましたでーすよ……あのごみをとびこえていったんでーすっ……っ、……!」
草間の怒鳴り声に、泣き声の合間に八重の返事が返ってくる。
――この涙こそが、豪雨の原因。
この少女の兄の方も不思議な人物ではあったが、この少女の方も、小さな体に様々な力を秘めているらしかった。八重の涙や怒りによって、状況が好転、悪転した瞬間を、草間も確かに何度となく見てきてはいる。
草間は目の前にあった、水を跳ねるビニール袋のゴミの山をざっと確認すると、あからさまに一つ舌打をした。
「どいつもこいつも……俺に不幸をおしつけやがって……」
なぜ俺の手元には不幸しかやって来ないのだと、一度カミサマとやらに問うてみたくなる。頭の上でいまだに涙を流している少女は、それでもちゃっかりとチョコレートは食べ終わったのか、べとべとの手で草間の髪の毛を握っていた。
――ああ、もうっ!
雨に打たれながら、草間は何の前触れもなく、八重を片手で掴み取る。逆の手の平の上にちょこん、と座らせると、
「なぁ、詳しく教えてくれないか? でないと、探しようもないしな」
興信所のしっかり者のバイトの女性に、いつも持たされているハンカチを取り出し、八重の黒い口をゆるく拭きながら問いかけた。
ひたり、と一瞬だけ、八重の涙の流れが止まる。
「くわしく、でーすか……?」
「ああ、どういう状況でどーなってたのか、とりあえず、時計が猫に盗られた事はわかったがな、どんな猫だったのかだとか、全然聞いてないだろう」
適当な方向に歩みを進める草間の手の平の上で、
「……おおきなくろねこでーした……あたし、おさんぽをしてたんでーすよ……きょうはてんきもぽかぽかでーすから、」
「お前、良くそれでいっつも踏まれないよな」
「それで、ねこさんにあったんでーす……」
半ば呆れる草間の言葉は聞こえなかったのか、八重がじっと俯きながら説明を続ける。
「おっきなねこさんでーした……まっくろでーした……それで、それで……っ!」
「うわあああああっ! わかった! わかったっ!! わかった! それ以上話さなくて良いってゆーか話すな! これ以上泣かないでくれ!」
子どもをあやすようにして手の平を揺すりながら、草間は大声で懇願していた。頬を流れる水が、心なしか少しだけしょっぱいような気がする。
これ以上話を聞くと、事を思い出した八重が、余計に泣き出すのは目に見えていた。
慌てて総括する。
「とにかく! それでその猫に時計を盗まれたんだな?」
「とけいもとられちゃったでーすよ……あたしもふまれちゃったでーすよ……っ!!」
猫の肉球が逆光に影となり、目の前に迫ってきた瞬間がふと思い返され、八重は恐怖のあまりに再び瞳を潤ませていた。
――とけいもないでーすよ……ねこさんもこわかったでーすよ……!
いつもなればお友達、として付き合っているであろう野良猫にも、たまには機嫌の悪い時があってもおかしくはないのかも知れないが、
それにしても、
ふむことはないじゃないでーすかっ……!!
「うっ、ううっ……!」
「泣くな! 女だろうっ! 俺が見つけてやるから! だからこれ以上泣かないでくれっ!!」
このまま堰を切ったように泣かれてしまえば、明日に控える、久しぶりの探偵らしい仕事をとって来た事が水の泡となってしまうかも知れない。
プライドと経済との、両方がかかっている。
「猫め……見つけたらどうなるか……覚えていやがれよ……」
先ほどの八重の話を頼りに裏路地を駆け抜けながら、草間はぽつり、物騒にも呟いていた。
ぐすぐすと、草間のハンカチを随分と豪快にあてていた八重が、不意にぎょっとして立ち上がった。
「いましたでーすよ! あのねこでーす!!」
摘み上げていたハンカチを手放し、きっと小さな指を指す。慌てて立ち止まる草間の耳に、刹那猫の鳴き声が聞こえてきた。
低い、泣き声。
八重の指差すその先では、大きな黒猫がゴミ影に隠れて暢気に毛づくろいをしていた。
「とけいをかえしてくださいでーす!」
叩き付けるかのような精一杯の怒鳴り声に、しかし猫は八重の方を一瞬振り返ったのみであった。一瞥し、再び視線を自分の尻尾の方へと戻す。
――その尻尾の元では、八重の時計が地面の水に濡れていた。
「こわれてしまうでーすよ……!」
よじりよじりと、なぜかボロボロになり、放心している草間の服を掴み降りながら、八重がぱしゃんっ、と軽い音をたてて地面に着地する。
随分と走り、水に濡れ、泥まみれになりながら塀を越え、もう歳だ、もう歳だという草間の声を聞きながら、そうしてようやく追い詰めたこの黒猫。
「かえしてくださいでーすよ!!」
時計の方へと駆け寄りながら、八重がもう一度叫び声を上げる。
「かえしてくださいでーす!」
黒いローブがびしょびしょに濡れていくのにも構わずに、水溜りをこぎながら、ようやく時計の元へと辿り着く。
……かちり、かちり、と、秒針が時を刻む音が蓋の中から聞えてきていた。弱まり始めた雨音に混じる優しい音色に安堵を覚えながら、八重がその時計に手を伸ばした――
その刹那、
「!」
慌てて八重が、その場所から飛び退いた。同時に随分な量の泥水が、八重の上から降り注ぐ。
目の前に揺らめく、水を弾いた大きな長い黒い尻尾と、
「……あ、あたしのとけいでーすよ……!」
鋭く睨みつける、猫の瞳と。
明らかに時計を返す意思のないその大きさと態度に、一歩足を引きながらも、それでも八重は強気であった。
ぜったい、かえしてもらうでーすよ……!
決意と共に振り返り、未だに切れる息と戦っている草間の靴から、偶々ひっついていた紙のゴミを引っぺがす。何かの値段の書いていあったその紙を、くるりくるりと硬く巻き、一息つくと、八重はその身に大きな剣≠携えて見せた。
一呼吸、二呼吸。
心をじっと落ち着かせ、
「かくごするでーす!!」
気合一閃、一気に駆け出した。
そうして、
「あうぅっ?!」
あえなく撃墜される。
……尻尾に叩き落とされ、八重は豪快に水溜りの上に突っ伏していた。
しばしの沈黙の後、八重が、痛む顔をじっと上げる。猫が、まるで八重をあざ笑うかのような欠伸をしたのは、それとほぼ時を同じくして、の話であった。
その猫の尻尾の付け根辺りには、取られた大事なあの時計。
かちりかちりと、薄く聞えてくるのは、聞きなれたその秒針の音色。
「……いいかげんにするでーすよ……」
不意に。
八重は水の中に両手をついて立ち上がると、きっと鋭く猫を睨み返した。両の拳を腰元で握り、大きく息を吸い込んでやる。
それを全て、怒りに変えるかのようにして、
「とけいをかえすでーす!! あたしのだいじなだいじなとけいなんでーすよ――!」
その瞬間、声の枯れん限りの叫び声に、流石の猫も驚いたのか、びくりと身を震わせ、慌てて警戒態勢を取っていた。
同時にそのずっと手前で、草間がはっと呆然としていた意識を取り戻す。
世界を輝かせた光があった。強烈なフラッシュに、まさか、と空を見上げる。
雷、か……?!
――そうして、草間の予想を、決して裏切るまいとするかのようにして、
世界を轟音が切り裂いたのは、もう間もなくの話であった。
「でも、よかったでーす。ありがとーでーした、たけひこしゃん!」
満面の笑みで頭の上から陽気に飛んでくるお礼の言葉に、しかし草間は素直に喜べずにいた。
――あの後。
猫が逃げ帰り、大した傷もなく時計が手元に戻ってきた事によって八重の機嫌が良くなり、天気も無事快晴へと逆戻りした所までは良かったのだが。
大停電、か。
道沿いの電気屋のテレビで、偶々聞いた話を思い出す。にわか雨にしてはあまりにも豪雨なその上、雷まで鳴ったなどと――と、かなり驚いた様子で読み上げるニュースキャスターの姿が印象的であった。
……まぁ、俺には関係ないからな。
それでもなぜか罪悪感に捕われてしまうような気がするのだが、この位は気の所為だ、という事にしておいても罰は当たらないだろう。
「それにしても、きれーでーすね、たけひこしゃん」
「ん、ああ、虹か?」
「そうでーすよ」
水の香りが残る街路、草間は八重の言葉にふと立ち止まった。
洗われた空気のその向こう、きらら輝く太陽と、色を揃えた大きな虹の橋。
「まぁ、確かにな」
空を仰ぎ、小さく微笑む。
しかしこれが、本日最後の幸せな時間になるであろう事を、草間は全く知らずにいた。
――この時はまだ、草間には知る由もない話であったのだが。
興信所に帰る草間を待ち構えていたのは、雷によって火を噴いたパソコンと、その周辺にある黒焦げの物達であったのだから。
Finis
☆ Dalla scrivente ☆ ゜。。°† ゜。。°☆ ゜。。°† ゜。。°☆
まず初めに、お疲れ様でございました。
こんばんは、今宵はいかがお過ごしになっていますでしょうか。この度お話を書かせていただきました、海月でございます。
今回はご指名の方、本当にありがとうございました。また、締め切り当日の提出となってしまいまして、大変申しわけございませんでした。
八重ちゃんは本当に可愛いな〜、と思って見ておりましたので、描写の機会をいただけまして本当に嬉しく思いました。小さくてもパワフルな所がとっても愛らしいです♪ お歌がオンチという所がまた……しかもその破壊力がかなり凄まじいですよね(笑)
では、お楽しみいただけましたら幸いでございます。乱文となってしまいましたが、今回はこの辺で失礼致します。
またどこかでお会いできます事を祈りつつ――。
05 novembre 2003
Lina Umizuki
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