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<東京怪談ノベル(シングル)>


破滅に至る病〜闇椿〜





 ――掌の中には、猫の首。


 僕の手は硬直していた。
 甲は岩のように固く、街灯の光を浴びて青白く煌き、大理石のようだ。指先に至っては血が通っている気がしない、それなのに親指はガタガタとカラクリ人形のように震えて僕に生命を訴えかけている。口を閉じても歯は上下に激しく揺れ、歯車を回すようなその鬱陶しい音は僕の耳を侵し鼓膜を弄ぶ。
 ――緊張。そうだ、僕は今緊張し、動揺しているのだ。ホラー映画の主人公のように――あれは単なる演技に過ぎないが、僕のは本物であり、よりリアルなのだ。何処がどうリアルなのかと言えば僕の全身全て――例えばそう、熱い頬、薄い肩、直立が困難な程振動する足、カラス色の靴の中で凍える足の指、肌に潜む血管まで――僕がいかに動揺しているのかを如実に表している。
「ハハ」
 笑ったつもりだったが、声が喉に潰されて上手に発音出来なかった。その上例の歯軋りと声が重なり、唇から零れたのは抑揚のない機械音のようで、僕は自分がカラクリ人形になった気がした。
「カラクリ人形が何をしたって」
 罪にはならない。例えば――猫を殺したって。
 けれど僕は人間なのだ。これは実に残念な事実だった。人は些細なことで落胆する――今の僕が悲しんでいるのも人間だからこそだ。僕は自分を女々しいと思った。
 握り締めた両手に視線を落とす。一呼吸置いてから、左手の小指から順に離していく。リラックスして――硬くなった指を動かす時には、気持ちに余裕がないといけない。自己暗示でも何でもいいから言い聞かせればいい。
『たかが小さな殺生で動けなくなる程、僕は意気地無しじゃないさ』
 五本目の指である親指を、震えながらも離し終えることが出来た。街灯の淀んだ蒼の光に照らし出された掌には、深緋色の蜜が塗りこまれていた。下へ向ければ、ポツポツと雨のように零れ落ちる。
 離した左手には、先程まで掴んでいた筈のぬくもりは残っていなかった。いや、それは猫を掴んでいる右手も同じ――手首をなぞる赤い蜜でさえ温かさを失い、なまぬるい水飴に触れているようだ。
 その中途半端な温度は僕の鼓動を速くさせ、僕は身を大きく震わせた。それが猫の動きのようで、余計に恐ろしくなる。同時に僕は大変なことをしでかしてしまったのではないか、とさえ思い始めた。そもそもなぜ僕はこのようなことを――。
「――ぬくもり、だ」


 塾帰りの通り道で僕はその猫を見つけた。満月特有のくちなし色に照らされて、白猫は細く鳴いた。にゃあと猫が僕を呼んだ時、いとおしいと思った。指先で猫を抱き寄せ、白い毛並みに唇を押し当てた。
 ――その時だ、頬の傍でトクンと音を立てたモノ。訝しんでから、それが猫の鼓動だと気がついた。手を当てれば猫の体内の動きが一瞬一瞬僕の中に入ってくる。
 ――命だ。
 僕は猫を抱き上げた。あたたかい。両手の間に命があるのだ。猫は僕のするようにまかせている。
 ――この猫は無抵抗なのだ。
 少し、疲れていたのかもしれない。僕は小さな命をいとおしむようにしながら、両手の距離を狭め――。
 猫はひどく抵抗した。かじかんだ指先を切り落とす勢いで、僕の手に噛み付き、ひっかいた。僕はひどく乱暴な気持ちになっていく。ムキになって両手の間隔を更に狭めると、思い切り捻った。
 気付いた時、街灯の下のアスファルトには紅色の雫が幾滴も落ちていた。大半は僕の血だろうけれど、猫のも混ざっているかもしれない。
 その頃には、体温を持ち得た小さな生き物は弾力の弱いゴム毬になっていたのだ。なんて弱いのだろう。
「かわいそう」
 その一言は耳を通過して夜に消える。口にしたところで、同情心は皆無に近い。
 残っているのは恐怖、そして沸々と湧き上がってくるいとおしさ。


 あらためてアスファルトを眺める――掌の色に比べて色が濃く、茜色をしていて――花びらに見える。
「椿のような、」
 言葉にしたところで、思い出す。椿は前触れもなく花が地に落ち、朽ちるのだ。今の状況に、よく似合っているのではないか。
 僕は椿に関する他の有益な知識を過去に仕入れたことがないか、想起しようとした。
 が、他にたいしたことは思い出せなかった。椿の葉は少しギザギザしていた気がする、それくらいだ。どうして僕はこうも無知なんだろう。それとも、椿に関する知識は過去に触れる機会があったにもかかわらず忘れてしまったのだろうか――僕は物覚えが悪い。
 事実、今日も塾で残されてしまった。毎回行われている英語と国語の小テスト――内容は主に熟語、漢字の書き取りなのだが、結局七割しか解けなかったのだ。習った憶えがあるような、ないような問題ばかり。八割を超えなかった生徒は居残りで暗記させられる。
 ――今日も残されるんだ。
 テスト時間内、頭の中でそのことだけを反芻していた。採点を終えた先生が一人一人の点数を順に読み上げ始めた時は、どうして僕はこんなところにいるのかを考える。何のためにこんな恥ずかしい思いを毎回毎回しなければならないんだろう。
 先生は僕に居残るように告げた後、他の生徒には聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「またこいつかよ」
 ――どうして、僕が、こんな目に?
「それは、」
 後ろから声が響いた。
「猫も思っていることだろう」
 聞こえたのは、少女の声。だが子供らしい舌足らずさはなく、言葉ははっきりと聞き取れる。
 声は夜の帳を破り、僕の肌を軋ませた。
「痛い!」
 僕は切れ切れに叫んだ。
「やめてよ!」
 耳をふさいだ。掌についた深緋色の蜜が耳たぶを濡らし、奥へと侵入していく。大変気味の悪いことだけど、手を離すのはそれ以上に恐ろしかった。
 瞼は痙攣し、喉が潰れそうに痛む。軋む上半身を無理に反って、声の主を凝視した。
 紅――街頭の下、唐紅色の振袖を着た少女がいた。闇を纏い、歩むごとに、唐紅が細身の肌を擦って揺れている。見開いた瞳に映るその姿は、夜に浮かぶ椿のようだ。その椿がカランと乾いた音を立ててこちらへ寄ってくる。
「お主は猫の気持ちを代弁するのが上手い」
「は――?」
「“痛い、やめてよ” どちらも猫の気持ちだろう?」
 少女は街灯の真下まで来ると、足をとめた。夜光虫に似た光のために、少女の白い肌は一層白く見えた――鏡のようにそっと佇んで僕を映し出す。
「“痛い、やめてよ” ――その前にも何か言っておったな」
「僕は何も、」
「そうそう、思い出した」
「やめて、くれよ」
 ――黙れ! 叫ぼうとしているのに、声が出ない。掠れて口をつくのはうめき声に似ている。
 少女は数秒間を置いてから、ゆっくりと口を開いた――間から覗く紅い舌を僕の目がとらえる。
「“どうして、僕が、こんな目に?”」


 ――涙が、出た。雫は緩やかな曲線を描き、頬から猫へと落ちる。
 人のいない公園で、僕は猫を抱きしめた。
「ごめんなさい」
 はっきりと、声に出す。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい」
 発音の速さは次第に加速し、最後は無声の叫び声に変わっていた。
 それでも僕の意識にはもやがかかっていて、本当に心から詫びているのとは違う気がするのだ。その証拠に何が「ごめんなさい」なのか、僕には説明出来ないのだ。
 滑り台の横の地面に、両手で土を掘った。掌の血は完全に乾いていて、月の光を浴びてはピジョン・ブラッドのように煌いた。ここで僕はまた、掌の紅が綺麗だと思ってしまう。
 猫を埋めると、僕は夜の宙に浮かぶよう、吐き捨てた。
「僕は最低だ」
 五、六人程度になった塾の教室で行う熟語の暗記のように、何度も口に出す。僕は最低だと。
 けれど駄目だ。やはり駄目なのだ。
 脳裏に擦り寄ってきた猫の白い毛並みが現れ、火がついたように僕は泣き出す。
 喚き散らしてやりたいくらいだ――猫を殺したのは僕です、その上死骸をここに埋めたのです。この猫は本当に可愛らしい猫だったのです――初めて会った僕にも懐いてきて、メゾソプラノの声でにゃあと鳴く、愛らしい猫だったのです。
 ――その猫を僕はどうしたと思います?
「こうやって両手で掴んで、距離を狭めて」
 僕は両手を自分の首に絡めた。乾いた掌は、ささくれのように首の肌を傷つける。
 微かに漏れる声は、まるで喘いでいるようだ。笑っているのか、ないているのか、呻いているのか。それは僕のものか、猫のものか、少女のものか。
「両手で掴んで、いとおしむようにして、間隔を狭めて」
 ――捻って。