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<東京怪談ノベル(シングル)>


avenger of blood

 記憶は、夢のようなものだ。
 確たる縁はなく、繰り返し思い起こす度に摩耗し、細部を変えて時に朧に霞み行き、時に思いの鮮やかさばかりを明確にする。
 だが、橘姫貫太にとって、それは思い出と呼べる代物ではなかった。
 色も、香りも、質感も。現実に先ず意識に止める事すらない細部までを明確に灼き付けた烈なる記憶。
 それは、未だ人に『玖珂悠』と名乗っていた頃の、事。


 バタバタと、長い廊下を素足で駆ける。
「姉さん、従兄さんもう来てる?」
息を切らせて襖を開け放った悠に、姉は和装の肩にかかる髪をさらりと動かして、眉を寄せてみせた。
「ちょっと悠。せめて着替えてから来てよ」
和装に割烹着を纏い、突っ張った腕に漆塗りの膳を抱えられるだけ抱え、見るからに忙しい様子で小言を続ける。
「年越しの準備でてんてこまいなんだから」
白の単に黒の袴の道着の肩を揺らし、悠は敷地内の道場から駆けてきた為に荒れる息を無理矢理呑み込んで言葉を吐き出した。
「稽古見て貰いたいんだ宴会始まる前に!」
一息で言い切り、早く、と返事を急かして、ともすればその場でじたんだ踏みそうな悠に、呆れに答えを乗せた。
「父さんの所にご挨拶に行ってるわ」
「ありがと!」
要する情報を得るや否や、踵を返して駆けだした悠の背に声がぶつかる。
「悠、清春さんはあたしの婚約者なんですからね!」
「わかってるよ」
そんな今更、と悠はこっそり心中に思うが、そんな子供めいた独占を主張してしまう程に、従兄に対しての自分の懐きっぷりが顕著であるという自覚はあまりない。
 家の奥へ向かう悠に、手伝いの女性が廊下を擦れ違い様に軽く頭を下げて行く。
 それに慌てて会釈を返し、僅か歩調が緩まった。
 那珂、という家は地元の名士だ。
 平泉の藤原に仕えた陰陽師という家の歴史は旧く、また名ばかりではなく事業を営んで政治・経済に対しての影響力も持つ…そして、家の名と共に、陰陽師としての技を磨き続ける家系の、長の子であれば尚更、生まれた時から相応の立場に据えられる。
 喩え、力が到らなくても。
 既に大学を卒業し、社会に出ている兄と姉は、共に術師としての実力も立場に見合ったもので…一人、年の離れた悠の未熟さが際立つ。
 せめて周囲の期待に、あるべきとされる力を身に着けられれば、向けられる敬意を臆する事なく受け止め、受け容れられるのだろうけれど。
「出来る、のかな……俺に」
襖の前で足を止める…新年の晴に合わせて、建具は縁起の物に変えられており、来客をもてなす家長の室は松の襖絵の物になっていた。
 口をついた独言に気弱になる思考を勢いよく頭を振って払い、悠は勢いよく襖を開いた。
「父さん、従兄さ……」
途端、向けられた複数の視線に凍り付く…上座に長である父、その左右に事業と一族の要職とを兼任する血族が控え、その眼差しが一斉に前触れなく扉を開いた悠に注がれていた。
 唯一、悠に視線を向けていなかったのは、彼の正面で背を見せる形に端座していた青年のみ。
「悠、なんだ落ち着きのない」
一族を束ねる責を負った本家の長、の顔での父の窘めは、声こそ荒げないが叱責に近いものを感じて悠は首を竦める。
「もうそんな時間だったかな」
やんわりと、その空気を流したのは背を見せたままの青年だった。
「失礼、悠君と稽古の約束をしていまして……お話も、よろしいでしょうか」
その断りに、鷹揚に頷いた父に向けて一礼して室を辞し、青年は小さく笑った。
「助かったよ。家に入る心構えなんかをずっと諭されててね」
悠に気遣わせまいという心配りで、そうぼやいて見せる。
「従兄さん」
ほっと悠は肩の力を抜いた。
「さ、それじゃ行こうか。済まないけど、道着に着替える時間はくれるかな?」
「勿論! この間教えて貰った術、大分上達したんだ」
「それはお手並みを拝見しないとね」
そう穏やかに笑う、青年の横顔を見上げるようにして歩く。
 分家筋の彼は来春、入り婿として姉と一緒になる…人柄と術力と、遠すぎない血筋とに申し分のない縁だと誰もが寿いでいる。
 が、その縁を最も喜んだのは悠であろう。
 血の近さに、既にあるべき境地にある兄姉に打ち明けられない思いも、従兄は親身に相談に乗り、また身体を空けては悠に技のコツなどを伝授してくれる…もう一人の兄のような存在が本当に義兄となるのだ。
 晦の午後、悠は来る新春が良き季節であると疑いもしていなかった。


 感じた違和感は、水面に墨汁の一滴を落としたかのような波紋。
 だが、拡散するでなく瞬く間に浄く透明な水がどす黒いような赤、に染まっていく様が、空気が重い汚れに浸蝕されて行く様が、肌で感じ取れた。
「な……に?」
鳥肌が立ち、咄嗟抱いた自らの両肩を抱いた手は本能的な震えを感じ取り、膝が砕けて落ちそうになる。
「なんだ……コレ……?」
柱に手をついてどうにか身体を支え、自室の障子を開け放った。
 低い雪雲が、夜天を覆ってぽんやりと光を含んでいる…その吉凶の判じすら必要がない程に禍々しい赤、を。
 悲鳴が、凍る大気を裂いた。
「何……ッ?」
声の方向は大広間。
 晦の宴は一族郎党が集まり深夜に及ぶのが通例、けれど未成年者である悠は早々に酒の席から引き上げていたのだが。
 弾かれるように廊下に面した硝子戸を開き、中庭を突っ切った。
 土に汚れた足で頓着なく廊下に上がり、大広間に続く襖を開け放つ…途端、濃厚な血臭が鼻をついた。
 乱暴に書き殴られた子供の落書きのように。
 室内を彩る、紅。
「う……」
込み上げる吐き気と叫びを、口元を押さえて堪える。
 見開かれた眼は命の証なく澱み、無念の形相に血にまみれて倒れるのはどれも見知らぬ他人のようだが…先までの面影を見出す、血縁の顔だ。
「なんで……」
 迷うように泳がせた視線の先、部屋の最も奥…上座に倒れ伏すのは、父ではないか。
 その傍ら、悠の記憶では白と淡い桃色のみであった振り袖に紅の散った…袂が奇妙なまでの鮮やかさで畳の上に拡がっていた。
 あれは、披露目を兼ねた今日の席の為に誂えた、姉の……。
 眼前の光景が信じられずに、悠は無意識に否定を口にした。
「嘘、だ」
同時にそれ以上見たくないと思うのに、足が勝手に歩を踏み出す…素足が血を吸った畳を踏んでねばつき、足跡を残す…その足下に伏す生気を失った肌は、一様に人形の如く白けて紙のような色だ。
 一歩、一歩。
 踏み出す毎に切望は砕かれ、助け起こす、事すら出来ない絶望がのし掛かる。
 最も近しく血を分けた家族の…僅かな希望さえも許さずに、明確に命の灯を失った身体骸が無造作に、転がる。
 その前に到った悠の全身は、力を失ってその場にへたり込んだ。
 俯せた父の…背は、ごっそりと肉を失って赤黒い血に染まった骨を覗かせ。
 横様に倒れた姉の、振り袖の胸には意匠の如く赤い大輪の華で彩られていた。
 何故、何故、何故。
 向ける者さえ居ない問い掛けが、吐き出す事すら出来ずに脳裏を巡る。
「悠ッ!」
呆然と、家族の骸を見下ろしていた彼の名が呼ばれた。
「無事だったか」
緊張した声音に何処か安堵を滲ませた…兄の姿に、悠はゆっくりと振り返った。
「兄、さ……」
嗚咽に途切れた呼び掛けに、袴姿の兄が駆け寄る。
「動けるか?」
立ち上がらせようと腕を引く、その動きに悠は咄嗟に抗った。
「父、さんと……姉さんが……ッ」
訴えに、兄は一瞬に悲痛に眉を顰めたが、すぐに口元を引き結んで片膝をつき悠に目線を合わせた。
「判ってる、今はお前の無事を確保したい。説明は後で……」
「今、してあげた方がいいんじゃないかな」
兄の言葉に被さって従兄の声が響いた。
 そして、消された言に代わるかのように、兄の口元から鮮烈な紅が零れ落ちる。
「そうした方が、悠君も安心して逝けるというものだよ、ねぇ?」
「悠、逃げ……」
ゴポリと血の塊と共に吐き出された兄の言葉は、鈍い衝撃に遮られて最後まで叶わずに、途切れた。
「従兄、さん……?」
名を呼んで見上げた悠の眼差しを受けて、従兄はにこりと笑う…兄を背から貫いた白刃を握り締めて。
「もう悠君で最期だよ」
いつものように穏やかに。
 悠は首を打ち振った。
 信じられない、否、信じたくない、現実に思考は飽和し、ただ否定するしか出来ない。
「君は死霊に食われる方が好きだったかな。でもこれにも思う存分味合わせてあげたいから…数百年ぶりの、人の血をね」
悠は笑みを崩さない従兄から、その刀へと視線を移した…それは那珂家が鎮る品の中で最も古いと同時、その為だけに秘守が配される程の…危険を孕んだ、妖刀。
 この刀が存在するが故に、那珂家が陰陽の術を廃れさせるわけにはいかなかった程の。
 頭上から白刃が軌跡を描き、それに咄嗟に翳した手が皮膚を、肉を裂かれて灼熱の感覚を弾けさせた。
「何、故……」
それに漸く、喉が鳴った。
「何故、こんな事を……ッ!」
絞り出した声は、問いではなく責め。
 怒りを孕んだ悠の声に、だが従兄は表情を崩す事すらせず、妖刀を再度構えた。
「邪魔だったからね」
当然の事を、告げる語調はあまりにも自然で。
 笑みを深めたその口元が「おやすみ」と形だけで言葉を紡ぐ…避け切れない、刃の一撃に悠は吸い込んだ呼気に喉を鳴らした。


 ヒュッ、と己の呼吸に鋭く鳴った喉に、貫太は目を見開いた。
 寸前まで眠りに舞台を借りて再現されていた過去の情景はあまりにリアルで、その白い残像が瞼を閉じれば容易に蘇るだろう確信に、目を閉じる事が出来ない。
 見慣れない、白い天井。
 横になった寝台に染み付いた消毒薬の臭いが鼻の奥を擽った。
 覚醒した筈の、今の方が夢の中に居るように現実感がない。
 身を起こそうとして、左肩から身体を貫いた激痛に顔を顰め、咄嗟痛む部位を強く押さえつけた。
 ただひたすらに息を詰め、痛みの波が去るのを待つ…左の肩を圧迫した手をそろりと除ければ、肩に巻かれた包帯が血を滲ませている様が見て取れた。
 傷口を押さえた掌にも僅か、紅が移る。
「出来る、のかな……俺に」
眼前に翳した手は小刻みに震え、意志の力で押さえられぬそれは、奥底が湧き上がる…恐怖に起因する。
 笑いながら。
 妖刀と秘伝の術書を奪い、大切な人達を手に掛け、貫太の…悠の気持ちを踏みにじったあの男を殺す事が。
 記憶の中で幾度も繰り返される惨劇、その度に感情は忠実に怖れをなぞって覚悟を削ろうとする…自分の命を守るための、本能の部分が。
 手の震えが、止まらない。
「出来るの、かな……」
血を握り締めるように拳を作り、その甲を閉じた瞼に当て、きつく押さえれば圧迫された視界が赤く染まって残像を覆い隠す…夢よりも現よりも鮮やかすぎる過去。
 あの夜から抜け出せないままの自分が、何よりも近く、そして遠く思えた。