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アーカム陥落 【風の聲】
■序■
ハワード・フィリップス・ラヴクラフトは、物語の舞台として、故郷をモデルにした地方都市を作り上げていた。
アーカムという。
だが、リチャード・レイによればラヴクラフトやダーレスが遺したものは、怪奇小説ではなく、事実の記録なのだという。
「わたしが書いているものは、知識をもとにした『小説』ですがね」
レイはぎこちなく笑うのだ。思わず狂気に囚われたかのように。
アーカムという都市は、今もマサチューセッツにあった。
A.C.S.というイギリスの組織が、これまでこの都市を世界から隔離し、韜晦しつづけてきていたのである。インスマス、ダニッチ、ビリントンの森――大げさともとれる形容詞に彩られた記録を読み解き、彼らは何も知らない人間をこの呪われた谷に近づけないことで、記録された以上の被害者を出さずに済ませておいたのだ。
今では、駒形切妻屋根の街並みも古びて、まるで廃墟が並んでいるかのような陰鬱な町になっている。かの有名なミスカトニック大学も、大量の禁書を抱えたまま閉鎖されていた。
この都市が、A.C.S.の封印から一瞬離れ、ある『王国』の手に落ちた――
リチャード・レイがもたらしてきたのは、聞きたくもない悪夢の話だった。
「『風』が吹き荒れていて、ヘリや航空機が近寄れません。ミスカトニック河を遡るか、陸路で行くかです。どちらも危険な道のりですが」
レイは溜息をついた。
彼がいま保護している蔵木みさとは、今回、A.C.S.本部に残されることになった。その事実だけでも、充分に今回の事件が危険であることを物語っている。
「アーカム入りしたメンバーは、その……例によって戻って来ないので、『風』を呼ぶ儀式がどこで行われているかははっきりしません。ですが、可能性があるのは2ヶ所です」
レイはミスカトニック渓谷の地図を広げた。A.C.S.が管理しているもので、世間が知らない地図だった。アーカム及びその周辺地域は、世界から抹消されている。
「アーカム北のビリントンの森、ミスカトニック河の中洲です」
2ヶ所に同時にのりこみ、『風』を止める。
風は世界を巡るもの。
アーカムから吹いた風が世界を廻れば、アーカムという都市が世界に姿を見せるということになる――
A.C.S.は、これからもアーカムを眠らせておきたいのだ。
■古都から古都へ■
星間信人がすでにアーカムに渡っていることを、リチャード・レイを含めたA.C.S.メンバーは知らない。だが、予想はしていた。予想通り、信人はすでにアーカムにいた。
星の位置が、『正しい』位置につく日は知っていた。指折り数えてその日を待っていた。彼が人知れず籍を置く教団でも、儀式が執り行われるはずであった。信人は日本で儀式を慣行させようと考えていたのだが、儀式に相応しい日の数日前に、2通の手紙が届いたのだった。
それは本部をイギリスの悪名高いブリチェスターに置く組織『キングダム』からのもの。
もう1通は、名もない教団からのものだった。
何でも、教団のアメリカ支部とヨーロッパのいくつかの支部は、『キングダム』と協力することを取り決めたらしい。『キングダム』側からは、総裁フロンサック・リトルが直々にペンを執って信人に手紙をしたためたようだった。要約すると、「よろしく」ということだった。
教団側は、すべての信者が『キングダム』に組するように命じるつもりはない、何故なら神が命じていないからだ、と言っていた。『キングダム』の計画に乗るも降りるも妨げとなるも、個人の自由だとしている。『キングダム』はすべての外なる神を信仰する組織だ。無節操だと渋い顔をする者も少なくなかったし、何か大きな目的を信仰の篤さでひた隠しにしているのではないかという考え方もあった。
信人は――どうでもよいと考えている。
『キングダム』に手を貸すか否かは、その都度決めているのだった。
では今回は?
考えるまでもないことだった。
ボストンは何も知らないらしい。
ボストンだけではなく、合衆国も、きっと世界も知らないのだ。切妻駒形屋根が支配する陰気な町、アーカムのことを、知る者は少ない。ラヴクラフトはこの町を知ってしまった。だから書いたまでなのだ。5年前に無鉄砲な若者がひとり、この町を飛び出したのだが――それ以外には目立った変化もなく、イギリスの組織に抱え込まれて、ずっと1920年代のまま時が止まっているかのように、この世に留まり続けていた。
3日前に、5年ぶりの変化は起きたという。
アーカムの町人として、アーカムを監視し続けているA.C.S.メンバーからの定期連絡が途絶えたのだ。アーカムからの連絡が途絶えることは、アーカムがA.C.S.のものになってからなかったという。
アーカムを写した衛星写真を見た者は発狂した。
依然としてアーカムとは連絡がつかず、急遽調査に向かった組織の人間は戻らない。
リチャード・レイが日本で11人の調査員を集め、アーカムに向かうのは、ごく自然な流れだった。これまで起きた一連の類似事件は、レイが集めた日本人たちの手で解決されているのだ。奇しくも、いつも入る妨害もまた、日本人の手によるものなのだが。
頼り甲斐があるとは言えないレイに危惧を覚えたか、純粋な親切心からか、世界を救いたい一心からなのか、ともかく――レイに同行し、暗い河を中型ボートで遡っているのは5人だ。ステラ・ミラ、賈花霞、天樹燐、海原みその、影山軍司郎。
軍司郎は一行とは一線を置いたところで、黒い水面を睨むようにして見つめていた。彼はこの狭い船内においてなお、一行と距離を取れるだけ取っていた。取れるだけ取れた距離はおよそ8メートルだ。ボートは魚臭く、新しいものではなかった。軍司郎がちらりと一行を振り返ってみると、天樹燐が服を脱いでいるところだった。
軍司郎は溜息をつき、水面に目を戻した。燐の素性などはどうでもよかった。ただ彼の頭の中には、「堂々と脱ぐ若い女」という第一印象がしっかり刻み込まれた。
突然衣服を抜き始めた燐に、レイはぎょっとしたようだった。だが燐は普段着の下にすでに「仕事着」を着込んでいて――レイはやれやれといった面持ちで溜息をついた。燐は豊満な身体にぴったりと張りついているかのような、黒いツナギ姿になった。
「まあ、『へんしん』ですわね」
狭い甲板から水面へ足を下ろしていたみそのが振り向き、燐を見て笑みを大きくした。そんなみそのの頭の上では猫耳が、腰では尻尾が揺れている。今宵の彼女は猫耳娘だ。どうやら彼女の中のライブラリーでは、この格好こそが現代日本文化の象徴であるらしい。親日家のレイはそのみそのの勘違いについて何も言わなかった。言葉を失っていたのかもしれない。本当に親切だった場合、やさしく間違いを訂正してやるべきなのだが。
「アマギさん、その……失礼ですが、その格好は……」
「え?」
どうやら、準備は終わったらしい。燐はレミントンのポンプをガシャコとスライドさせてから、真顔で訊き返した。
「今回のお仕事は、敵の殲滅だと伺っておりますが」
「……」
『そのような話は聞いておらぬように記憶しているのは、我だけか。確か、目的は儀式を止め、この忌まわしい風を止めることに有ったと――聞いていたのは、我だけであろうか』
「ええ、貴方だけ」
背中に帯びた長刀の訂正を、燐はやはり真顔で突っぱねる。
彼女は、雀蜂であった。
黒い雀蜂だ。
「風がふいてる」
いつもは明るい花霞は、むうと口を尖らせて、不機嫌な面持ちで――軍司郎と同じように、水面を見つめていた。ゆらり、と気配も音もなく、闇色の女が花霞の隣に腰掛けた。
「……びっくりした。ステラさんだったんだね」
一閃のごとき速さで振り向いた花霞はしかし、ほうと安堵の溜息をつくと、にこりと微笑んだ。闇色の魔女は無表情だったが、無情ではなかった。
「すみません。こういうときですから、気配をこの世界から消しておいたほうが良いと思いましてね」
「つかれない?」
「大丈夫です。全ては呼吸のようなものですよ。意識さえしなければ」
「そうだね、花霞には……ステラさんがつかれてるようには見えないもん」
ではなぜ、花霞はステラに尋ねたのだろうか。
彼女は彼女なりに、これから起きることが只事ではないことを知っていたし、ひょっとしたらステラでさえもつかれる事態に陥るのではないかと危惧していたのかもしれない。
いや、ただ単に、花霞がステラに負けず劣らず親切であったから、それだけのことなのかもしれないが。
「風、ふいてるね」
「ええ」
ミスカトニック河の水は、忌々しいほどにどす黒かった。ボートが切り裂く水面に、いやに乾いた風によるさざなみが走っていた。
「騒がしくなってきたな」
軍司郎が、ようやく口を開いた。
黒色の視線を追った者たちの前で、さざなみは鼓動に合わせているかのようにのたうち、腐敗していくように見えた。
「あれがアーカムですね」
燐がみそのとの談笑を止めて、すっくと立ち上がり、奇妙な色の空の下に浮かび上がる町を見つめた。
「暴れ甲斐がありそうです」
『我が身をへし折うてくれるな、主』
「すぐに折れるような刀は要りません」
『――あな恐ろし』
だが、古びた切妻駒形屋根がはっきりと見え始めたとき、ボートはものの見事に転覆し、一行は黒い水の中に落ちた。
邪まな、やかましい、叫び声にも似た鳴き声が――いや、笑い声か。ともかく、突然吹いた強風と、河には有り得ない大津波に、ボートは横倒しになった。
■水の拒絶■
暗い水の中で、リチャード・レイは色々考えた。泳げないわけではなかったが、今回ばかりは泳げそうもなかった。彼の足は、何者かに水中で掴まれて、ぐいぐいと深淵の中に引っ張りこまれていっているのだから。
「レイ様!」
レイは、大きく息をついた。顔が、黒い河の水面から抜け出していた。傍らには、海原みそのの姿があった。猫耳を生やした黒い人魚だ。
「レイ様は、カナヅチでいらっしゃいましたか?」
「何かが儂の足を掴みおった」
「ああ、あの方々が」
みそのはにっこりと、笑顔を背後に贈った。
レイがその視線を追って見たものは、河の黒い水面に浮かぶ、蛙とも魚とも形容し難い顔たちだ。ぬらぬらと光る黒い瞳は、まばたきというものをしなかった。
水棲人間のひとりが、みそのに向かって何か脅しらしきことを口にした。みそのは困ったような笑みを見せ、レイの前に回りこんだ。
「そう仰られても、こまります。この方は、わたくしやわたくしの妹の友人です。お世話になってもいるのです。殺めるなど、とても」
――ならばきさまもわれらのてきだ、しね、しね、しね!
「レイ様!」
みそのの力が、河の流れをぴいんと引いて――離した。レイの身体とみそのの身体が、河から跳び上がった。みそのの脚は、尾びれではなく、宙を舞ったその瞬間に、人間のものになった。みそのの漆黒の瞳は、なおも河を見つめていた。
河が、そのとき、息を止めた。
レイには見えなかったが、黒い河の中で息づくあの忌まわしい魚人たちが、悲鳴も上げられずに滅びていくのを知った。レイが倒れこみ、みそのが降り立ったのは、河だったのだから。
河は流れを止め、すでに水でさえなくなっているかのようだった。
じっとりとした湿気は、手のひらを通じて伝わってくる。だが、レイとみそのの下にあるものは、地面にも似たものであり、河ではなくなっていた。
「岸へ! 永遠には留めおけません」
みそのの言葉に、レイは弾かれたように立ち上がった。物も言わずに、彼は細い腕でみそのを抱えて河を走った。水溜りを踏みしめる音がした。
音。
みそのが止めているのは、河のすべてではないらしい。上流へ向かって、転覆したはずのボートが走り始めていた。
レイが、湿った岸辺に足をかけたとき――
乾いた風が吹いて、河が再び流れ出した。
白い腹がぷかりぷかりと河に浮き上がり、力なく流されていく。窒息した魚や、魚にも似たものたちの屍骸だ。
みそのの身体が唐突に地面に落ちた。
みそのが見たのは、こぼれ落ちる生命の流れだ。切り落とされ、流れを失った自分の髪のひと房をも見た。そして、自分のそばに転がった、髪と同じように、流れを断ち切られたもの。みそのは手を伸ばしてそれを掴んだ。
レイの右腕だった。
■黄衣の王■
星間信人がボストンで会ったのは、ライアン・ビショップという男だった。ボストンはすでに冬で、男は黒い革のコートを着ていたが、コートの下に着ていたのは、毒々しい山吹色のシャツだった。前髪が長く、目は隠れていたが、口元の表情は豊かだった。彼は信人を認めると、信人が浮かべるものによく似た笑みを湛えて、信人に歩み寄ってきた。ふたりは自然と、手袋を嵌めた左手で握手を交わした。
「『キングダム』の方々はビリントンの森へ」
ライアンは心持ち身体を屈めて、信人の耳元で囁いた。
「ミスカトニック河の中洲を知ってますか?」
「ええ」
「僕らはそこで儀式を行うつもりです」
「ビリントンの森でも同じ儀式を?」
「あちらで行うのは、どうも他の儀式らしい」
信人は小首を傾げた。ライアンもだ。
『キングダム』のことだから、まさか風を追い返すような真似はしないだろうが――信頼は禁物だ。協力し、利用し合うそのバランスが重要だった。
ライアンの話では、『キングダム』がアーカム入りするための手筈を整えてくれたらしい。アーカムはあちら側の世界と深い関わりを持つ都市だ。ビリントンの森と中洲の祭壇、儀式に最適な場所も揃っている。インスマスという厄介な町も近くにあるが、あの町は滅びて久しいと、信人は聞いていた。ミスカトニック渓谷のすべてをA.C.S.が抱えている以上、入ってくる情報は限られてしまっていた。今現在でも、こうしてアーカムの様子を聞くことしか出来ないのだ。
「僕は周囲の警戒に当たるとしましょう」
「『キングダム』側からも、僕らも、アーカムをすでに手に入れている。ホシマさんが出る必要もないと思うけど?」
「少し厄介な知人が日本におりましてね。きっと来ると思うのです」
信人は眼鏡を直して、ボストンの古い街並みを眺めた。
「観光がてらにね」
そうして今、蜂とも蝙蝠ともつかない生物から手を離し、信人がミスカトニック河の岸辺に降り立った。凄まじい瘴気を身に纏っていた。
空は虹色とも玉虫色ともつかぬ奇妙な色合いになっており、まったくの暗闇でも、清々しい青天でもなかった。ただ、午後10時には相応しい、夜の暗黒はあった。空の狂気は、先月イタリア上空で見られたものによく似ていた。空は恐らく引き裂かれ、招かれざる風を呼び込むのだ。
「この日を待ちわびていましたよ」
信人は空を見上げて、感極まった様相を見せつけた。溜息は有り得ないほどの興奮に満ちていた。そして信人は今、……心の底から笑っているのである。
「遂に、主がご来臨になる!」
風の使者たちの翼が立てる音と、飛行器官の唸り、喚き声が、ひとつのリズムを作り上げていた。祈りだ。彼らは居るだけでいいのだ。人間が大声で呪文を喚かずともいい。囁くだけでいいのだ。蜂の数ほどかれらは飛んでいた。
「星間様」
祈りの中で、その声は祈りをかき分けるようにして飛んできた。
信人が笑顔のまま振り返った。
魔女がいた。
信人にとっては、取るに足らない魔女だったのだ。
「フロンサック様が何を目的としているか、まだご存知ないようですね」
「僕には関係のないことですからね」
「知れば貴方は、怒るかしら」
「知ろうとは思いません。知る必要はなくなるのですよ?」
信人が空を指して、また笑った。
闇の中から現れたステラ・ミラは――その袖口すら、濡れてはいなかった。一旦は転覆したボートに乗っていたはずだというのに、彼女は一滴の水滴も浴びないままに、河の岸辺に来ているのである。
「レイ様の身体が死んでしまいますね」
ステラは空を一瞥もせず、みそのの傍に横たわるレイに歩み寄った。
みそのが、レイの傷口からこぼれ落ちようとしている血の流れを堰き止めている。河すべてを永遠に止めることは彼女にとっても難しいことだが、人ひとりの血液の流れを一部掌握することは、造作もないことだった。
「ステラ」
レイは咳込みながら呟いた。喋るな、とはステラは言わなかった。言ってもこの男は喋るだろう。傷ついたのは自分の身体ではないし、血が出尽くしてもこの男が死ぬことはない。
「儂のことは、いいのだ。風が……ヒヤデスとアーカムが繋がる……」
「貴方は、その身体がお気に入りでは?」
「儂よりも、世界を救え」
ステラに抱き上げられたレイが見たものは――
信人が声を上げて笑いながら見上げるのは――
みそのが黙って見えない目を細め、それでも見たものは――
星が、今しも揃おうとしている。
否、すでに揃っているのだ。
ヒヤデスからの狂った風が届く。
空が裂け、あの――
骨のない手が――
腐った魚の臭いを彷彿とさせる、あの忌まわしい悪臭――
見るな。
■永遠のもの■
黄色の風が、笑う信人を貫いたようだった。
信人は神の名を叫んで、倒れた。眼鏡が外れ、草むらに飛んだ。
レイが、はあッと息を呑む。失われた右腕と血液が戻ってきていた。風に裂かれたスーツも、濡れる前の姿に戻った。紫色の目が捉えたのは、覗きこむ闇色の瞳。レイの傷が「消えた」のを見届けたステラは、引き裂かれた空に目をやった。
「……来てしまったのね」
その声に、凄まじい視線がぎろりと動いた。みそのがその直前、にこやかに、レイの目に猫耳を被せた。視線をまともに受け止めたのは、おそらく、このアーカムでステラだけだろう。
「私は――レイ様が怪我をしたときに、どうしてもこの怪我を『なかったこと』にしたくなった。ボートで行った3人に、『帰ってきて』と願いもしたわ。この世界には、きっとそんな言葉を送りたくなる人間たちが、まだ居ると思うの――」
信人が笑いながら起き上がると、よろめきながら、なおも笑いながら、空の裂け目に手を伸ばした。風が彼の手を取ろうとした。風が、彼の身体をすり抜けた。
「だから、このままこれ以上何もせずに、貴方は貴方が居るべき場所へ帰ってほしい」
ステラは静かに、虚空へ手を差し伸べた。
信人と同じような仕草だったが、似ても似つかない仕草でもあった。
「後で謝りに行くわ」
ごぉぉおおおおぉぉぉぉぉおう、
35`\^\7$%%&42387=~05$%#%$3!
ごぉぉおおぉぉぉおおおおぁははははははははははははは!
「……」
風の唸りが、その一節だけ、確かに意思を持った。信人の裏返った笑い声がそれに乗った。ステラは手を下ろした。
信人の身体がするするとほどけて、風に溶けた。みそのの髪がぱらぱらと、幾本も幾本も、風に切られては地面に落ちた。
そして、……どこか遠くで、爆発が起きた。
風は、「願いは叶えた」と言っていた。
願いを叶えるために呼び出された風だ。おそらく、地球の風を好きなだけ乱してから、素直に帰るつもりだっただろう。星をひとつ壊せば、きっと宇宙の目がこの銀河系に向けられて、風の神はまたしても痛い目に合わされる。痛みを嫌うのは人間ばかりではないのだ。
だが、風は今すぐに帰らねばならなくなった。爆発や炎や刃が、風を急かしたのだ。
祈りが唐突に止み、気の流れが乱された。
風は鋭い狂気の視線を、森や中州や岸辺に向けた。
急くな、急くな、囀るな。
忌々しい絶対善が、目を向けるであろうに。
やれ、かしましや。
骨のない手が、空の裂け目の端を掴むと、ぐいと身体を裂け目の向こうに押し込んだ。風の従者たちは、蝿と蜂の速さで、閉じられつつある裂け目に飛びこんでいく。風の唸りなのか、羽音なのか、かれらの笑い声なのか、最早わからなくなっていた。
裂け目が閉じ、虹色の空のうねりが正され、午後11時に相応しい暗黒が空に戻った。
「……これをどけて下さい、ミソノさん」
ようやくレイは、みそのの猫耳から視界を取り戻すことが出来た。
彼の灰色の瞳に映るのは、田舎のきれいな星空だ。
それから、まだステラの腕の中にいることに気がついて、慌てながらも慎重にステラから離れたのだった。
あはははははははははははははははは、
風の中で笑い声が生まれ――
風の冷たい声とともに、風の中からあの男が現れた。風がするすると信人の形を作りだし、あはははははははははははははははは、彼はずっと笑っているのだが、感動のあまり涙を流してもいたし、草むらに落ちていた眼鏡を拾ってかけ直した。あははははははははははは、彼はヒヤデスを見たし、ハリ湖、沈むアルデバランを見て、主の姿も、
見てしまった。
あはははははははははははははははは
■眠るアーカム■
ミスカトニック大学に、消防車が向かっていく。
図書館で火が上がったらしい。
軍服姿の影山軍司郎が、消防車を見送っていた。
「放火は感心できませんね」
リチャード・レイが――煙立つ大学を見つめながら、むっつりとそう言った。誰が放火したかなどはあえて言わなかった。
「黙っているのも、感心できんな」
軍司郎は負けじと皮肉を返す。レイの灰色の視線を感じながら、軍司郎もまたむっつりと言葉を紡いだ。
「なぜ、水が風と諍いも起こさずに――徒党を組んで、我々に立ち向かってきた? 貴君はその理由を知っているな。そうだろう」
「……」
「沈黙は答えだ。わかっているな」
軍司郎の手がサーベルにかかったが、……抜かれることはなかった。
みそのがそばにやって来ていて、無垢な笑顔でふたりを見つめていたし、ステラ・ミラの視線もあったし、天樹燐の微笑もあった。
「……フン」
「いずれお話します。今は……アーカムでも見て回りませんか」
アーカムは1920年代のままで止まっている。風で窓が割れ、屋根が飛んだ家もあるようだが、住民たちの多くが無事だった。誰もが窓を閉めきって空を見ていなかったし、外にも出ていなかったのだ。風が帰り、空が灰色に曇ったいつもの顔を取り戻して、アーカムに忘却の平和が訪れた。
翌日のアーカム観光に、影山軍司郎と星間信人の姿はなかった。
<了>
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0377/星間・信人/男/32/私立第三須賀杜爾区大学の図書館司書】
【1057/ステラ・ミラ/女/999/古本屋の店主】
【1388/海原・みその/女/13/深淵の巫女】
【1651/賈・花霞/女/600/小学生】
【1957/天樹・燐/女/999/大学生(精霊)&何でも屋】
【1996/影山・軍司郎/男/113/タクシー運転手】
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ライター通信
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モロクっちです。お待たせしました! 11月期クトゥルフ大イベント『アーカム陥落』をお届けします。今回ノベルは4本に別れています。森側ルート組、うっかりして6人のところ8人募集をかけてしまい、今回は全参加者14名様という大規模なものになりました。でも敵(約2名PCさん含む(笑))が多かったので、何だかちょうどよかったような気がします。
アーカムは皆さんのお力で滅びずにすみました。これからもA.C.S.管理のもと、世界からは隔離されますが、平和でいられることでしょう。森と大学は焼けてしまいましたが(汗)。ともかく、おつかれさまでした。そして有り難うございます。
A.C.S.と『キングダム』が絡んだクトゥルフ大イベントのストーリーも、いよいよ佳境に入ります。
よろしければ、今後も月末に注目していただけると幸いです。
それでは、また!
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