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内助の功と副産物
その山はどうやら存在しないらしい。
南極到達不能域。海に面した総ての陸地から最も遠いとされる場所。故に到達不能といわれる訳だがその場所にも既に人類の足跡は及んでいる。だが現在海原・みたま(うなばら・みたま)が上っている山は恐らく本当に到達不能な山だろう。
少なくとも史書に記されない、という意味では。
実際にこの場所は史書は愚か地図にさえはきとは記されていない場所のようだ。南極大陸のど真ん中でありながら寒気も然程ではない。まあ勿論半袖や裸で歩けば間違いなく遠い世界へ旅立てるのであろうが。
「……それにしても」
前を進んでいく『最愛のダンナさま』の背中を眺めみたまは小さく息を吐き出した。
現在みたまは彼の手伝いで『風の神』とやらを封印するためにこうして登山をしている。有名所では曙の女神アウローラの四人の子供、エウロス、ゼフィロス、ノトス、ボレアース――場所を考えるなら南風の神ノトスあたりか。まあ神の名前自体はなんでもいい。みたまには興味もなかった。封印の理由も、封印自体にも実の所あんまり興味はない。彼女の主目的は『最愛のダンナさま』をお手伝いするという所にあるのだから。
まあその上での、問題は、問題はである。
「こんなところまで娘をお使いに越させるのはよくないと思うのだけど」
はふうと溜息一つ。
――肝心要の封印道具を忘れてきて、娘にお使いを頼むのだからこのひとは――
困ったものだと思いつつも、みたまは少しだけ頬を赤く染めた。
そんなところがかわいい、そう思い直してしまったからであった。
世界を満たした光彩はぐんぐんと収束しやがて一つの塊となる。それは周囲に風を巻き起こし細かな氷の粒子を宙へと巻き上げる。
そして――あっけなく落ちた。
やれやれと肩を竦める夫の後姿を見つめ、みたまもまたほっと息を吐く。
何かにつけてこの夫は言葉が足りない上に無茶で、こうして仕事が何事もなくあっけなく終わること自体珍しいのだ。
周囲に散らばったみたまにとっては意味不明もいい所の機材を片付けつつ、夫と自分の無事を思う。
どちらがかけても嬉しくない。それは夫の身代わりになるのであれば本望かもしれないが、残していく娘たちを思えばそんな無責任なことは出来ないし、何より切ない。
だから互いの無事が嬉しい。
小さな幸せを噛み締めつつ、儀式に使った布を拾い上げる、と、その時。
「え?」
目の前に水飛沫が上がる。どぼんという水音と、そして見ればなくなっている夫の姿。
山の頂上、切立った崖の天辺から海へとタイブをかましてくれた夫に、みたまはふうと息を吐き出した。
「――何事もないわけではないようね」
その通りだった。
夫でもあるまいし、みたまは南極の海になど入れない。確実に凍死だ。
さして高くもない存在しない山を全速力で下り、麓に置いてきた氷上着陸装置付飛行機に乗り込む。ついでにその中に入れてあった防寒装備も素早く着込んだ。存在しない山の中は兎も角、その外は存在する南極。その寒気に対してみたまは流石に対抗手段を生身では持たない。
そのまま飛行機を離陸させ、夫が飛び込んだと思しき場所へと移動する。視界は悪くはない。クリアな視界に真っ白な氷と真っ青な海のコントラストが眩しかった。
それに心を動かされたのも一瞬。
視界は俄かに霞んだ。
暖房を入れてある機内の空気が確実に下がる。エアダクトを通じて入り込んでくる空気が明らかに冷たい。防寒具をきっちりと着込んでいるみたまにも明白なほどに。
ざわりと、ボア付きのフードの下の金髪が波打つ。
俄かに嵐が起きたわけではない、外気が自然現象でその温度を下げた訳でもないだろう。
その何かは明らかにみたまに害意を持っている。
つまりは、
「この私に喧嘩を売ろうって?」
朱に塗られた唇が笑みを形作る。獰猛な笑顔をその美貌に浮かべたみたまは迷わず装備を解放する。
地球の温暖化と海面上昇が少し進んでしまうのではないかと思うほどに。
放たれた火気が宙に赤く花を咲かせた。
恐らくは夫が追っていったほうが本体。
高々眷属程度であれば、退散させるに死苦はなかった。
兼業傭兵。それがみたまの職業である。では一体何を兼ねているのかと言えば妻、そして主婦――母親業だ。
夫との甘くないランデブーの後に娘達の待つ家に戻ったみたまは頬に手を当てて息を吐き出した。
「しょうがないわね……」
そこで可愛らしくも美しい氷の彫像と化している娘を見て、みたまは息を吐き出す。
しょうがないのは娘ではなく、その娘をこんな目にあわせるようなお使いを頼んだ夫のほうであったし、それはみたまも十分承知の事だったが、
「もうそろそろ年頃になろうって言うのだから、あまり危ない事ばかりしているんじゃありません」
顰めつらしく娘をしかることは忘れなかった。
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