コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


アーカム陥落 【焔の憤怒】



■序■

 ハワード・フィリップス・ラヴクラフトは、物語の舞台として、故郷をモデルにした地方都市を作り上げていた。
 アーカムという。
 だが、リチャード・レイによればラヴクラフトやダーレスが遺したものは、怪奇小説ではなく、事実の記録なのだという。

 アーカムという都市は、今もマサチューセッツにあった。
 A.C.S.というイギリスの組織が、これまでこの都市を世界から隔離し、韜晦しつづけてきていたのである。インスマス、ダニッチ、ビリントンの森――大げさともとれる形容詞に彩られた記録を読み解き、彼らは何も知らない人間をこの呪われた谷に近づけないことで、記録された以上の被害者を出さずに済ませておいたのだ。
 今では、駒形切妻屋根の街並みも古びて、まるで廃墟が並んでいるかのような陰鬱な町になっている。かの有名なミスカトニック大学も、大量の禁書を抱えたまま閉鎖されていた。
 この都市が、A.C.S.の封印から一瞬離れ、ある『王国』の手に落ちた――
 リチャード・レイがもたらしてきたのは、聞きたくもない悪夢の話だった。


「糞ッ風が吹いてて、空から直接行くのは無理だ。歩いてくか、河を泳いでくか――どっちにしてもクソ呑気な道だな」
 ブラック・ボックスは不機嫌そうだった。
 彼はA.C.S.の幹部であり、曲がった鉄砲玉で、アーカムが故郷だった。隻腕、白髪、クロムハーツのアクセサリ、金色の虹彩の中にある瞳孔は、縦に裂けている。ひどく目立つ容姿の中年だった。
「アーカムに行ったやつらは戻ってこなかった。でもクソッタレどもがどこで糞ッ風起こしてんのかは、一応見当ついてる。……あの町ャ、ジメジメしててどんよりしててよ、オレは5年前に……16の頃に飛び出しちまったが、……何でだろうな、腹ァ立つんだ……」
 ボックスは呻くようにして囁くと、ぎりりと何かを睨みつけた。
「アーカムが何でオレたちの手から離れちまったのか、まだわかってねェ。これも見当ついてんだけどな。どっかの誰かが、トチったか、寝返ったのさ」

 風は世界を巡るもの。
 アーカムから吹いた風が世界を廻れば、アーカムという都市が世界に姿を見せるということになる――
 A.C.S.は、これからもアーカムを眠らせておきたいのだ。


■古都から古都へ■

 オレは今機嫌が悪いんだ、と告白せずとも、ブラック・ボックスの機嫌が悪いのは一目瞭然だった。ボストンに降り立った頃、その苛立ちと怒りはほぼ頂点に達したらしく、彼は早速空港で肩がぶつかった不幸な青年を蹴り飛ばし、一行の失笑と冷や汗と諫言を誘った。マッド・ブルのお守役――もとい、リチャード・レイの要請でボストンに飛んだのは、全部で11人。ブラック・ボックスとともに陸路でミスカトニック渓谷入りするのは、武田一馬(彼が一番ボックスと気が合うようだったし、実際すでに何度もなだめていた)、ササキビ・クミノ(彼女の一言はことあるごとにボックスの火力を上げた)、九尾桐伯と御母衣今朝美(このふたりは性分ゆえにひたすら苦笑しているだけだ)、天樹昴(彼はどうやら、知人にA.C.S.メンバーが言うようなことを言う人間を持っているようだ)、蒼月支倉(彼はレイとともに行く妹の背中を黙って見つめていた)の6人だ。
 時折聞こえてくる鈴の音は、気のせいではないらしい。……桐伯が、時折振り向いて、鈴の音を探しているから。

 ボストンは何も知らないらしい。
 ボストンだけではなく、合衆国も、きっと世界も知らないのだ。切妻駒形屋根が支配する陰気な町、アーカムのことを、知る者は少ない。ラヴクラフトはこの町を知ってしまった。だから書いたまでなのだ。5年前に無鉄砲な若者がひとり、この町を飛び出したのだが――それ以外には目立った変化もなく、イギリスの組織に抱え込まれて、ずっと1920年代のまま時が止まっているかのように、この世に留まり続けていた。
 3日前に、5年ぶりの変化は起きたという。
 アーカムの町人として、アーカムを監視し続けているA.C.S.メンバーからの定期連絡が途絶えたのだ。アーカムからの連絡が途絶えることは、アーカムがA.C.S.のものになってからなかったという。
 アーカムを写した衛星写真を見た者は発狂した。
 依然としてアーカムとは連絡がつかず、急遽調査に向かった組織の人間は戻らない。
 リチャード・レイが日本で11人の調査員を集め、アーカムに向かうのは、ごく自然な流れだった。これまで起きた一連の類似事件は、レイが集めた日本人たちの手で解決されているのだ。奇しくも、いつも入る妨害もまた、日本人の手によるものなのだが。
 アメリカの古都を楽しむ余裕はないようだ。A.C.S.は一行を急かした。ボックスは休もうともせずに渓谷へ向かおうとする始末だ。今朝美と支倉は、実は観光に行ってみたいという希望をとても口にはできず、ただあえて残念だという意思表示をうっすらと垣間見せるだけに留めておいた。
「……ボックスさんって、本当に21歳なんスか?」
 桐伯が運転するワゴンの中で、一馬は依然として不機嫌なボックスに、勇気ある質問をした。
「ああ」
 意外かな、ボックスは怒鳴る素振りも見せず、顔をしかめて車窓の向こうを見ながら、ぶっきらぼうに呟いた。
 彼はスラングまみれの英語を話す男だった。だがその言葉は、日本語しかわからない者にも何故か「理解できる」のだ。クミノがむっつりとした面持ちで、ボストンで買ったスポーツドリンクを飲んでいた。ひどい味だった。アメリカ人の味覚にはほとほと呆れる。
「ここまで鯖を読む人も珍しいわ」
 クミノは勇気ある一言をずばりと口にした。それは事実だった。ブラック・ボックスを見て、21歳の青年だと見る人間はまずいまい。
「悪かったな、老けてて」
 ところがまたしても意外かな、ボックスはぶっきらぼうに受け流しただけだった。
「歳のわりに若いひとならば、よく知っておりますがね」
 真顔で言う今朝美の言葉も事実。というより、彼自身がそうだ。
「アーカムに着いたら、戸籍を見せて下さいよ」
「ああ、暇があったらな」
 昴の冗談じみた本気の願いにも、ボックスは気のない肯定をしただけだった。
 ミスカトニック渓谷が近づくにつれて、ボックスはますます仏頂面になり――車内も、静まりかえった。
「……やっぱり、いやだよね」
 支倉が呟くと、ぴくりとボックスが目を向けてきた。
「育ったところがなくなるのって、僕は嫌だ」
 誰も何も言わなかったが、誰もがそれに同意していた。
「……ボックスさん、燃やしちゃ駄目スよ」
 一馬の言葉に、ボックスは――
「ああ」
 またぶっきらぼうに答えたのだが、ずっと手にしていたジッポーを一瞥すると、懐にしまったのだった。


「トウハク、頼みがある」
 ビリントンの森へと続く丘の麓で、ボックスは桐伯に耳打ちした。
「何人かと一緒に、西側から森に入ってくれ。西側の方が樹がまばらだ。やつらの居所がわかりやすい。オレは――『キングダム』をブッ飛ばす前に、やらなきゃならねェことがある」
「人探しですか」
「わかってるじゃねェか」
「あなたは、わかりやすい方ですから」
「……」
 ボックスは押し黙ったが、それも僅かな間だった。
「やつらのアジトを見つけたら、火をつけてくれ」
「消して下さいよ」
「消すさ」
 そこは、彼の故郷だった。


■1日前■

 アーカムの空がオーロラのようにうねり始めた、1日前のことだ。
 ひとりの青年が、ボストンに降り立った。日本人だ。山岡風太といった。英会話は出来るが、日本語訛りがひどかった。とりあえず、通じることは通じるレベルだ。
 彼は大学を休み、バイトを休み、貯金をはたき、ボストンに来ていた。ボストンに興味はなかったはずだった。
 ただ、夜に窓を打ちつけるあの風の音、風の聲、夢、アルデバランのかがやきが、彼をこの地に誘ったのだ。誘われたことに風太は気がついていないかもしれなかった。
 何で俺はこんなところに――
 彼はそう何度も自問していたのだから。
 しかし今や、その疑問を押し潰しそうな使命感のようなものがあった。彼は行かねばならなかった。
 地図にもない森を持つ町に入ったことに、風太は気がつかなかった。ただ、来なければならなかったから、彼は来たのだ。風が背中を押した。
 まるで1920年代のまま時が止まったかのような古都の姿が、風太には見えた。町全体に蜘蛛の巣がかかっているようだった――
 蜘蛛の糸が――
 風を浴びて腐り落ち、かさかさに乾いていくようだ――
 ――今俺は、どうして笑ったんだ。


■狂える森■

 風が木々と葉の間をすり抜けると、びょうびょうと笑い声を上げるのだ。
 風が痴れ狂っていた。
 桐伯、支倉、昴の3人は、西側からビリントンの森に入った。「若いうちに町を出た」ボックスの情報は新しく、確かに木々はまばらで、人ひとりが隠れる場所は豊富だったが、集団が派手な祭を催すには目立つ環境だった。
 梟と夜鷹の鳴き声が聞こえない。
 虫さえも息を潜めている――
「やれやれ、俺はほんとは河を行きたかったんですけど」
 昴のぼやきが、風に溶けた。
「まあ、どちらも同じくらい大変ですよ。……山はお嫌いでしたか?」
「そういうわけじゃないんです。お役に立てるならどっちでも。……空港に行く前におばあさんに渋谷駅への行き方を教えることになってしまいましてね。レイさんや姉さんに先に行かれちゃいました」
「いい人だね」
「そうですか?」
「いい人だよ」
 支倉が微笑んだとき、突風が吹いた。
 凄まじい狂風だった。折れた枝が、桐伯の頬を傷つけた。とても顔を向けられないほどの向かい風に、一行は足を止めざるを得なかった。どこか遠くで――下卑た哄笑が上がっていた。風は、悪臭までも運んできた。魚が腐ったような、ともかく、陰鬱で狂った臭いだ。
「Hey!!」
 教風に乗ってきたのは、
「Excuse me!!」
 日本語訛りの英語、バックグラウンドには、人間のものではない笑い声。
「……あッ、日本人……?!」
 風とともに現れた青年は、3人の姿を見て驚いたようだった。
 しかし、この青年がここにいることは有り得ないはずなのだ。
 3人は、顔を見合わせた。
 昴が――わずかに、眉根を寄せた。

 人の良さそうな青年だ。山岡風太と、そう名乗った。ここで迷っているとも、話した。

 昴は、風太と距離を置いた。顔は穏やかであったが、桐伯や支倉には、昴が風太を警戒していることがわかった。ただ怯えているわけではない。昴は――その目で、未来を見ていたのだ。
 昴は堅い面持ちのまま、すらりとその手に得物を現した。『焔』と『月姫』だ。
「だめです、桐伯さん、支倉さん、離れて!」
 彼が――
 続けようとしたとき、風が吹き荒れて、支倉が空を見上げた。
「見て、空が!」

 空は虹色とも玉虫色ともつかぬ奇妙な色合いになっており、まったくの暗闇でも、清々しい青天でもなかった。ただ、午後10時には相応しい、夜の暗黒はあった。空の狂気は、先月イタリア上空で見られたものによく似ていた。
 風が吹いて、
 蝙蝠でも鳥でもない翼あるものが、蜂の巣をつついたかのような勢いで空を飛び回り、喚いていた。だがその風の聲、哄笑、喚き声が、リズムを作り上げている。
  イア イア ハスタア
  アイ アイ ハスタア
  ハスタア クフアヤク ブルグトム――
  イア!
「イア!」


 あああ、わかったぞ。
 俺はここに呼ばれた。おれはちがう、おれはかえってきただけだ。おれはかえるんだ。おれはちちのもとへかえるだけだ。ちちよ――イア! イア!
「わかった、俺は――わかったぞ!」
 しかし風太の言葉は最早、地球の言葉ではなくなっていた。


■子供は風の■

 昴の警告で、支倉と桐伯はすでに風太の傍から離れていた。
 彼らが一瞬見つめた空を、風太は見上げて――何か叫んだ。叫んだ瞬間、ずるりとその身体がほどけたのだ。身体の切れ目から現れたものは――見ていられない。

2038\^-235'(&67T$344$%%~~~~~~~~!!

 骨のないものの叫びが、上空を舞う異形たちを呼び寄せた。
 やかましい異形たちは、その叫びに従った。3人の、風を阻む者たちを見つけだし、彼らは咆哮を上げて襲いかかってきた。
「あんなものは、記録にありません」
 桐伯は、風の使者たちを操るものから目を背けて、鋼糸を繰り出した。腕に組みついてきた使者の顔を睨みつけた。たちまちそのいびつな顔が燃え上がり、砕けた。支倉が妖狐の姿になっていて、燃える使者の首を噛み潰したのだ。その支倉の尾に手をかけようとした風の従者が、たちまちばらりと細切れになった。昴の『焔』の刃が螺旋と化し、異形に絡みついたのだ。
 仲間に礼を言うのはあとでもいい。あとで礼を言うことができるはずだ。
 3人は目配せもせずに、すぐに次の強襲者に対処した。
 ずっと風は謳っていて、笑い声を上げていた。
 桐伯は敏感な聴覚の感度を抑えていた。森に満ちた風の聲は、ひどく耳障りだ。
『ああ、くそッ、見て!』
 支倉が唸り声を上げた。
 森が――
 腐っていくのだ。
 風が、葉を食らいつくしていくかのようだった。

 ちちよ、
 風太であって風太ではなくなってしまった存在が、空を見て吼えた。
 ちちよ!


 星が、今しも揃おうとしている。
 否、すでに揃っているのだ。
 ヒヤデスからの狂った風が届く。
 空が裂け、あの――
 骨のない手が――
 腐った魚の臭いを彷彿とさせる、あの忌まわしい悪臭――

 見るな。


■焼け野が原■

「――今日ばかりは、昼行灯でいられませんか」
 すでに彼は、近所の娘さんがたの婿候補ではなくなっていた。だが、そう呟かずにはいられない。月読の瞳の奥に焼きついてしまった姿がある。
 その先にあるのは絶望だ。
「火を!」
 昴は、声を上げた。
 支倉と桐伯が、ぴくりとその言葉に手を止める。
「俺は心配ないです! ……森に火を!」
 桐伯の赤い瞳が、ぎらりと輝きを増した。
 支倉の焔の吐息が虚空に浮かぶ。
 ものも言わずに、桐伯の赤い目の光が残像を引き、支倉がはあッと息をついた。
 ビリントンの森が、一瞬にして燃え上がった。木々が腐り、乾いていたために、あっと言う間に火が燃え広がった。
 木々の間を器用に飛んでいた風の従者たちにも、火は燃え移った。吹き荒れる乾いた風もまた、火を運ぶ。
 昴の身体を炎がかすめたが、着込んでいる黒の特殊コートが彼を護った。昴のそばに、翼に火がついた従者が墜落してきた。強靭な生命力を持っているようで、かれは火がついたくらいでは――その後に墜落したくらいでは死なないようだった。かれは背に火を背負いながら、鉤爪のついた腕を伸ばした。
 昴の手にある二刀が、速やかに動いた。

 ちちよ!

 そのとき、風の子が手には見えない手を空に差し伸べた。
 たすけてくれ、と言ったのか――
 つれていってくれ、と懇願したのか――
 炎が怒りのように渦巻き、虹色の空をも焦がしていた。時折狂ったように飛び回る巨大な火の粉は、火の粉にあらず。翼や四肢を焼かれた従者だ。

「旧神よ、風はここに」
 桐伯は、虹色の歪む空に囁いた。アーカムに現れた風からは目を背けた。
「我々すべてが無垢で善とは言いません。ですが――良ければ、その力を――」
 その祈りは、届くだろうか。
 かつて宇宙全体を救ってくれた絶対善に。

 ――僕は父さんや妹とずっと暮らしていたいんだ。
 燃え落ちる風の使者の骸をかわして、支倉も桐伯と同じく、空を見た。
 ――約束したんだ。帰ったら一緒にまた無双やるんだ。風なんかに僕らの世界をやってたまるもんか。僕らの世界は、今日や明日でなくなるようなものじゃない!
 風の祈りが止まない。
 支倉は振り返った。
 まるでロープのような手を虚空に差し伸べる、風太だったもの――風が彼を護っている。火は風に遮られ、風太を焦がすことはない。
『あのひとを止めよう!』
 支倉が声を張り上げた。
「……彼の声がそのまま祈祷になっているようです」
 桐伯が眉をひそめた。
 彼の耳に飛び込んでくるのは、最早人間のものではなくなった発音器官から発せられる、風の唸りと聞き紛うような祈祷だ。イアとハスタアが入り混じっているように、聞こえなくもない唸りである。
「彼が元は人間であるなら、元に戻せますが――」
『人間じゃなかったら?』
「俺は人は殺したくないんですよね」
 昴は冗談めいたことを真顔で言うと、ひょうと『焔』を振った。

 あるがままの姿へ還れ、
 昴は命じた。
 風の子は、どちらを「あるがまま」だと認めたのか。

 桐伯は、空の視線がこちらに向けられたことを感じ取って、咄嗟に空から目を背けた。
 風の首領が何か言っていた。叫んでもいるようだった。
 森からの祈祷は消えていた。気の流れが正され、どこか遠くで何かが爆発する音も、桐伯の耳には届いていた。


 急くな、急くな、囀るな。
 忌々しい絶対善が、目を向けるであろうに。
 やれ、かしましや。


 骨のない手が、空の裂け目の端を掴むと、ぐいと身体を裂け目の向こうに押し込んだ。風の従者たちは、蝿と蜂の速さで、閉じられつつある裂け目に飛びこんでいく。風の唸りなのか、羽音なのか、かれらの笑い声なのか、最早わからなくなっていた。
 裂け目が閉じ、虹色の空のうねりが正され、午後11時に相応しい暗黒が空に戻った。
 たちまち、ビリントンの森を焼いていた炎が、ぼふッと消失した。
 アーカムの悪童は、桐伯との約束を守ったのだ。
 火を消した。


■眠るアーカム■

 山岡風太の身柄は、A.C.S.がしばらく拘束するつもりらしい。
 とは言っても、得られるものはないだろう。桐伯、昴、支倉の前に倒れた風の子は、風であったときの記憶を何ひとつ持っていなかったのだ。それどころか、自分がなぜアメリカのマサチューセッツに来ているのか、その辺りからの記憶がないらしかった。A.C.S.もすぐに彼を日本に帰してやることだろう――今後、監視がつくのは間違いない。桐伯、昴、支倉は見たままを話した。風太本人だけが、何も知らないのだ。
 この駒形切妻屋根が並ぶ、時代錯誤も甚だしいこの町が、アーカムという名であることも知らないだろう。
 知らなくてよいのだ、とA.C.S.は言った。

 ミスカトニック大学でボヤ騒ぎが起きたが、火は何とか消し止められた。図書館が火元で、重要で恐るべき書物の多くが灰になったようだった。だが、この地球にはなくてもよいものばかりだ。火に感謝しなければならない。
 ただ、ブラック・ボックスは、「火をつけたのはオレじゃない」としつこく否定していた。
 アーカムは1920年代のままで止まっている。風で窓が割れ、屋根が飛んだ家もあるようだが、住民たちの多くが無事だった。誰もが窓を閉めきって空を見ていなかったし、外にも出ていなかったのだ。風が帰り、空が灰色に曇ったいつもの顔を取り戻して、アーカムに忘却の平和が訪れた。
 桐伯は鈴の音を町の中で聞いて、苦笑を浮かべた。
 昴は悪友からの依頼を遂行した。この町は変わらず眠り続け、世界にここからの風が吹くことはない。
 支倉はミスカトニック河のほとりで、妹と再会した。

「でもどうしてだろう」
「え?」
「風とか火とか水とか、どうして呼ぶんだろう――いいことなんか、ひとつも起こらないのに」
 支倉の疑問の答えは、ボックスからは得られないだろう。
 リチャード・レイは知っているだろうか。
 『キングダム』だけではない。A.C.S.も、何か大切なことを黙っている――
 だが答えは、きっと近いうちに得られるだろう。
 支倉は、そうも思うのだ。




<了>

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

【0332/九尾・桐伯/男/27/バーテンダー】
【1166/ササキビ・クミノ/女/13/殺し屋じゃない、殺し屋では断じてない】
【1559/武田・一馬/男/20/大学生】
【1653/蒼月・支倉/男/15/高校生兼プロバスケットボール選手】
【1662/御母衣・今朝美/男/999/本業:画家 副業:化粧師】
【1943/九耀・魅咲/女/999/小学生(ミサキ神?)】
【2093/天樹・昴/男/21/大学生&喫茶店店長】
【2147/山岡・風太/男/21/私立第三須賀杜爾区大学の3回生】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
               ライター通信
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

 モロクっちです。お待たせしました! 11月期クトゥルフ大イベント『アーカム陥落』をお届けします。今回ノベルは4本に別れています。この森側ルート組、うっかりして6人のところ8人募集をかけてしまい、今回は全参加者14名様という大規模なものになりました。でも敵(約2名PCさん含む(笑))が多かったので、何だかちょうどよかったような気がします。
 アーカムは皆さんのお力で滅びずにすみました。これからもA.C.S.管理のもと、世界からは隔離されますが、平和でいられることでしょう。森と大学は焼けてしまいましたが(汗)。ともかく、おつかれさまでした。そして有り難うございます。

 A.C.S.と『キングダム』が絡んだクトゥルフ大イベントのストーリーも、いよいよ佳境に入ります。
 よろしければ、今後も月末に注目していただけると幸いです。

 それでは、また!