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<東京怪談ノベル(シングル)>


それでも僕を気遣いますか?

 荒い息が闇に聞こえる。
 何者かに追われているのか、走る男がひとり。
 引き摺るような一定の足音が、続く。

 男は走っている。
 時折、僅かな光を受け冷たく煌くのは、小型のナイフか。
 冴えた銀色の刃にこびり付いているのは…微かな赤い筋。
 鮮やかな。
 男はそれをきつく握ったまま、走っている。
 振り落とす事すら出来なかった。

 そのナイフ、最早手に貼り付いて、剥がれない。剥がせない。
 剥がすなどと考えにも入らなかった。
 麻痺して指が動かない。
 だから、握ったままで。

 これは、先程…ある女を殺した――凶器。

 男は人気の無い暗い道を走っている。
 鬱蒼と繁る緑の中。
 どれだけ走ったか、などもう忘れた。
 ここが何処かもわからない。
 ただただ、闇雲に逃げ続けていて。

 やがて。

 男の目に見えたのは。
 白く四角い大きな建物。
 …陰気さと無機質さの体現がそびえ立っていた。

 病院。

 だがそこは本来は。
 誰の見舞いも来ない…受け付けもしないような…完全に隔離された、普通とは一線を違える、病院で。

■■■

 響縁は今日もいつも通りにベッドに横になっている。
 ぴくりとも動かない。
 ――動かせない。
 ああ、今日もまた退屈な時間が続く。
 脳に埋め込まれたこの端子に頼り…電子の海をたゆたう程度で。
 他には何も。
 ただ、ここに居るだけで。

 ………………何処からとも無く騒々しい足音が聞こえたのはいつの事だったか。
 時間の感覚など疾うに忘れた。
 それでも何も困る事は無い訳だしな。
 食事も水も取った記憶が無い。
 看護師も楽だろう。
 放っておけばそれで良い患者なんて、な。
 騒々しい足音が部屋の外で止まる。
 と。

 バタン

 続いて荒々しく開かれたのは病室のドア。
 乱入して来たのは薄汚れた男。
 その汚れの中には赤色も混じっていて。
 手には鮮血で染められたナイフを持っている。
 足許は泥と血に塗れていて。

 男は室内のベッドにひとり横たわる縁を見るなり。

「…な」

 瞠目した。
 それは…男か女かさえも判別付かないだろうがね。
 顔が見えないのだから。
 全身が包帯でぐるぐるに覆われている。
 はじめて見たなら…いや、見慣れたとしても、それでも異様な姿だと思うのが正直な感想だろう。

 ………………それにしても、場違いな男だな?

 縁は無感動にそう思う。
 ここは病院。
 更に言えば、隔離病棟。
 廊下には、要所要所に鍵の掛かった鉄格子が嵌められている。
 …良くこんなところまで入って来れたものだ。

 どうにも落ち着かないその男は――はっ、として一度後ろを振り向くと、慌てたように縁に駆け寄り、持っていた小型のナイフを縁に突き付ける。
「…と、悪ィが…ちょいと人質になってもらうぜ…」
 下卑た声。
『…へぇ、そろそろ開き直った、って事か。はじめはあんなに怯えてたのにねぇ…』
「うぉ!?」
 縁が声を『発した』だけでまた驚く。
 縁は指一本動かす事が出来ない。
 縁の声は、脳に埋め込まれた端子を通して、機械から発される。
 だから、別のところから響く。
 表情の無い電子音で。
『…ここに来てから…何人殺したのかな。ああ、はじめの殺人は別れ話のもつれか。…良くある話だな?』
 その『声』に男はぎょっとする。
「な…んなんだ…っ」
 ナイフに服に血が付いていたからと言って、殺人などと速攻で。
 見抜かれるなんて。
『…どう言う事だか説明しろ、って? …面倒だよ。黙って聞いてりゃ良いんだよ』
「るせ…っ、手前こそ黙りやがれっ!!!」
『うるさいなあ…っと、ふぅん…ここに来てから三人殺してるのか。急に僕の個室に入って来たからいったい何かと思ったら…中の病人を盾に取って逃亡を図ろう、とはね…』
「く…っ、そう、そうだっ、だから大人しくっ…!!!」
『大人しくも何も――僕に何か抵抗が出来るように見えるのかな?』
 内心、苦笑混じりに告げる縁。
 元々動けない相手に大人しくしろも何も無いもんだ。
『むしろ僕じゃあ連れて行く方が大変だろう? ああ、看護師さんたちが来たみたいだ。…となると立てこもるつもりなのかな? …だったら…早く終わらせて欲しいがね』
「――っ」
 男は縁の『科白』に反応し、自分が入って来た病室のドアを見、縁の首筋の辺りにぐい、とナイフの切っ先を突き付けた。
 ばたばたとまた騒々しい足音が近くまで来る。
 今度は見慣れた、清潔と言うより薬品臭いと言った方が正しい白衣の連中。彼らはこの場に良く似合う。
 大挙して現れた彼らは病室のドアから中の様子を見、どよめき、絶句した。
 勇気あるひとりが男に向けて叫ぶ。
 …責任上と言うか、まぁ、そんなものだろう。
 本気でそうしたい奴なんて居る訳が無いからね。
「ま、待て! もうやめろ! 早まるんじゃない!!」

 ………………って、誰に言っているのだか。

「ち、ち、ち、近寄んじゃねえ! 入ってきたらコイツもぶっ殺すぞぉっ!?」
 興奮して裏返る、殆ど絶叫の男の声。
 耳障りだ。
『だからうるさいって言ってるんだけどどうしてわからないのかな…』
「…な、何だってそんなにも冷静なんだ手前…っ」
『僕の命はそれ程大切じゃ無いみたいだからね…放っておいても勝手に生きてる厄介者だよ』
「…な」
『ところで…そろそろ本気で面倒になってきたんだけど。終わりにして良いかな…』
「何莫迦な事言ってやがんだ手前はっ!?」
『莫迦…ってね…発作的に女刺してパニックになっているような考え無しの愚か者に言われたく無いな…』
 そこで。
 ふと黙り込み、男は不気味なものでも見るように縁を見る。
 少し冷静になればわかる事。
 …どうしてここで寝たきりになっている異様な病人から…三人殺しただの、女を殺したのは発作的だっただの、別れ話だのと細かい経緯が出てくるんだ!?
 男は絶句する。
『しかもそのまま闇雲に逃げて走ってる内にある程度開き直ってきて…それでも僕に突き付けているこのナイフは貴方の手から離したくとも離せない、情けないね』
 ぴくりと過敏に反応した。
 …その通り。
 ナイフが指から剥がれない。
 だからそのままで逃げていた。
 あの女を刺した後…すぐにも振り落としたかったのに。
 指が麻痺していた。
『どうせだからそのナイフ、自分の首に当てても良いんじゃないか?』
「――」
『はじめの女に関しては…まだ情状酌量の余地があるかもしれないよ。けどね…ここで殺した三人は明らかに無関係のとばっちりだからね…』
 捕まったら貴方は終わりだね。
 いや、ここで捕まった方が良いかもしれないか。
 むしろここで逃げる事ができてしまった方が――悲惨な事になるかもしれないねぇ。
 淡々と縁の『声』。
「ど、どう言う事だっ…」
『やってみればわかるよ』
 冷た過ぎる電子音が男に突き刺さる。
『この場で死んだ方がどれ程マシかもしれないよ』
「…」
 そうそう、良い事を教えて上げようか?
 気紛れ風に縁は男に告げる。
 秘密だから音量を小さくしよう。
 告げて縁は脳内の端子から機械の音量を下げる命令を出す。
 そして。
 男に。

『     』

 音声機械の音量を絞り、外には聞こえぬようにして。
 縁は何かを囁いた。
 包帯に僅か食い込んでいた、男の持つ紅く染まったナイフの切っ先。
 それが不意に退いたのは次の刹那。
 そこから一挙動も置かず。
 縁からナイフを引いたその勢いのまま、男は躊躇わず自分の喉を掻き切っていた。
 噴水の如き朱が縁の上に振ってくる。
 男はがくがくと木偶のように奇妙によろめいてから。
 がくりと膝から、落ちた。

 縁のたったひとことで。
 男は生を放棄した。

 ――『くだらない…』。
 音量を戻さぬまま、縁が『発した』小さな声は。
 たった今…縁のベッドの傍らで、壊れた男に聞こえたか。
 ほぼ時を置かず、雪崩れ込むよう慌ててベッドに駆け寄ってきた専属の看護師たち…屈強な男たちは――一気に、しゃがむよう崩れ落ちた男を押さえ付け、確保する。同時に縁に掛けられる気遣わしげな声。
「響さん!」
「御無事ですか!!」
 …内心ではそんな気遣うつもりは微塵も無いだろうに。
 気味の悪い男だと…いや、同じ人間だとさえ思われてはいないか。
 すぐに男を取り押さえに入っていた連中の顔色が変わる。
 何故なら、その男は既に死んでいて――それも喉を掻き切っての即死で。
 押さえる必要など既に無かった。
 反射的に彼らは、ベッドに横たわる、ぴくりとも動かない得体の知れない患者――縁を見る。

 ベッドの脇では平静に…何も変わらず、ピッ、ピッ、と心音を示している。
 飲まず食わずで…なのに、生きている証。
 全身が白い包帯で覆われた縁の姿。
 その上には男の血飛沫が、斑の如くに飛び散っている。

 ………………ほら、“化け物”を見る目。

『ねえ?』

 脳内の端子で呼び掛ける。
 自分のベッドの周りで騒ぐ、看護師と言う名の監視員たちに。

『…それでも僕を気遣いますか?』

 機械を通し発されたその科白は――明らかに揶揄する響きがあったよう聞こえたのは…考え過ぎか。

【了】