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<東京怪談・PCゲームノベル>


音楽都市、ユーフォニア ─シェトランの帰還─

【-】

──何年前の事だっただろう。
 ヘッドホンでレコードを聴いていた俺に、忍が云った事がある。

「そんなフルボリュームを耳許で聴いてると、その内耳がおかしくなるぞ。聴覚が犯されると、高い音から順に聴こえなくなって行くんだ」

 別に、構わ無ェよ、と俺は答えた。

 どうせ、そう長く生きやしないだろう。俺も、──お前もな。

【zero】

差出人:ZERO<zero_ray_xx@XX.hotmail.com>
宛先:結城忍<pianoforte_xx@XX.musique.fr>
件名:レイです。
日付:Sat, 18, Oct 2003

レイです、パパ、元気?
最近、あんまりメール呉れないよね。
忙しいのかなー、とは思うんだけど、こっちのメールちゃんと届いてるのかな、とか、元気かな、とか心配だから、一言でも返事呉れると嬉しいです。

所で、12月に日本でコンサート演るのね。知らなかった。
凄く嬉しいんだけど、帰国日とか時間、直接私にも教えてね。

磔也のピアノは相変わらず、マニアックな技巧ばっかり極めてるっぽい。
聴いてて私が疲れるわ。
早くパパのピアノが聴きたいです。
そうそう、この間冨樫さんのオーケストラの公演に行きました。
冨樫さん、今年から第一奏者になったのよ、知ってた?
ボレロ、凄く良かったです。

返事、待ってます。

レイ

──────

「……、」
 結城・レイ(ゆうき・れい)はメールボックスを開き、溜息を吐いた。
──来てない。
 パリはフランスのコンセルヴァトワールで教職に就いているピアニスト、父、結城・忍(ゆうき・しのぶ)からの返信だ。6年前、レイと弟を東京に残してフランスへ発ってしまった父は、以前は最近の活動やパリでの生活について定期的にメールを送って呉れていた。それがぱたりと途絶えたのが半年程前からである。その間もレイはメールを送り続けていたのだが、弟から忍が近日帰国するらしい、という話を聞いてからも相変わらず返事は無かった。
「……何かあったんじゃなきゃ良いけど」

【0E】

「もしもし、……樹です」
 ──あら、と受話器の向こうからの母の返事は明るかった。何だか、都合の良い時だけこうして連絡を取っているようで申し訳なさを禁じ得ない樹に対し、どうしたの、と促す彼女の美しい声が優しい。
「ちょっと、聞きたい事があって。……突然だけど、結城忍と云うピアニストを知りませんか。……そう、ピアニスト。パリのコンセルヴァトワールでも教えてるらしいんですけど」
 ごめんなさい、直ぐには分からないわ、と本当に申し訳なさそうに母は告げた。だが、樹に落胆する暇を与えずに彼女はこう云い添えた。
『でも、コンセルヴァトワールの教師でピアニストとなれば何らかの繋がりはあると思うわ。ちょっと待って呉れる? 少し調べてみるから』
「すみません」
『でも、どうしたの? 急に』
「僕の知り合いのお父さんらしいんです。今度、帰国するらしくて、どんなピアノを弾くんだろうって興味があったから」

 ──数日後、母から郵便物が届いた。
 流石に世界的な声楽家の情報網は広かった。簡単だが優しい気遣いの随所に見える手紙に同封されていたものは、ピアニスト結城忍に関する略歴とコンサートの告知ビラである。

『1961年生まれ、幼少よりピアノを始め──中略──1990年より──音楽大学で教職に就く。同時期より古典派オペラとオーケストラ音楽の編曲の研究を始め、1997年よりパリ、フランス国立音楽院での教職に就き、現在に至る。──、──に師事』

 略歴にはモノクロのコピーだが近影も載っていた。この人がレイさんと磔也さんのお父さんか……、と樹は、穏やかそうな中年男性の顔を眺めた。レイとは比べようが無いが、あの殺気立った磔也とは似ているだろうか? ……不鮮明な写真だし、何とも云え無いな……。
 樹はもう一枚のチラシを広げた。

『グルックの祭典──オルフェオとエウリディーチェの再発見と古典派ピアノの前夜祭── 日時:2003年12月19日(金)/20日(土) 場所:巣鴨ユーフォニアハーモニーホール 前夜祭ピアノ独奏:結城忍(コンセルヴァトワール教授)』

「あ、これ……」
 巣鴨ユーフォニアハーモニーホール。
 磔也の云っていた通りだ。──ユーフォニア、と云う単語が何か引っ掛かっていた、樹の住む文京区からは程近い場所に新設されたホールである。そこで開催されるオペラの柿落としとして、結城忍が弾く、と磔也は云っていたのだ。
 あれから、どうにもそのホールの事が気になって予備校からアルバイト先のジャズ喫茶への通勤途中などに足を運んでみた事もあった。少しうろついた結果、確かに音楽堂と思しい真新しい建物が見えた。
「……まさか、」
 まさか、「あの音楽堂」じゃ無いよな。ベルリオーズのグロテスクとも云えるスプラッタ小説、「音楽都市、若しくはユーフォニア」に登場する鋼鉄の壁に包まれた音楽堂……。
 だが、扉は閉じられているし、中を確認したくても一介の音大予備校生が見学させて貰える筈も無い。不本意だが母の名前を使おうにも、連絡先すら分からない。もどかしさを抱きながら、その日は遠巻きに音楽堂周辺を徘徊するに終わった。
 その後、インターネットや予備校の図書室も使って「ユーフォニア」やベルリオーズ、同時期の作曲家についても色々と調べてみたのだが、まさか鋼鉄の壁で聴衆を圧殺する仕掛けのホールについて何が分かる訳でも無い。それまでは知らなかったロマン派の音楽家の繋がりや特徴についての知識が増えただけだった。強いて云うならば、ベルリオーズはリスト辺りの一部の例外を覗いて、同世代の作曲家や評論家からも大分叩かれていたんだなあ、と云う位か……。
 樹はチラシを裏返した。裏面の末尾に小さく追記がある。

『現在、コンサート運営アルバイトスタッフ募集中。希望者は履歴書持参の上、担当者(水谷)まで』

 樹は迷わず受話器を取り上げた。
「あ、すみません。あの、ユーフォニアハーモニーホールのチラシを見たんですけど。アルバイトの募集って、こちらで良いですか?」
──はい、どうぞ。
「アルバイトに応募したいんですが、……水谷さんお願い出来ますか?」
──少々お待ち下さい。
 まさか、「あの人」だったらどうしよう、と云う樹の不安を賺すように、保留音が切れた後には先程と同じ女性の声がこう告げた。
──お待たせしました。水谷ですが、只今席を外しております。アルバイトの応募については13日の午前10時より合同で説明会を行いますので、そちらに参加して頂けますでしょうか。場所は、ユーフォニアハーモニーホールに併設の事務所になります。当日、ホールの入口に案内が掲示されますので。
「分かりました、是非伺わせて貰います」
 否も応も無く、珍しく樹は即答した。──ありがとうございます、一応、御名前を伺えますか?
「葛城、と云います。葛城・樹(かつらぎ・しげる)です」
──はい、では当日、お待ちして居ります。

【2E】

──嘘、

 説明会当日、アルバイト希望者の前に姿を現した男を見た瞬間、樹は心の中で叫んでいた。
 間違い無い。先日、従兄から協力を請われて関わった、ベルリオーズの「幻想交響曲」と或る舞台女優の死、怨念の入り交じった奇妙な事件の犯人、水谷和馬だ。樹が彼を見たのは、精神が既に幻想世界に取り込まれてしまった後の肉体だけの抜け殻だが、それにしても、見間違えようは無い。……然し……。
「……、」
 妙な表情になったのを悟られないよう、樹は顔を俯けた。
 ──人間とは、雰囲気だけでこれ程別人に見えるものだろうか。今、樹達の前に立った水谷はあの時見た、存在感の薄い、冴えない人間の代表のような彼とは似ても似つかない。
「……本日はお集り頂いて、有り難うございます。私が人事担当の水谷です、……ええ、どうぞ宜しくお願い致します」
 マイクを手に、そう語り始めた水谷の声は朗々として淀みが無い。自信と、強い意思や自我に裏打ちされた堂々たる様子である。仕立ての良さそうなスーツを着崩して髪を整え、洒落た銀縁の眼鏡を掛けた青年はどこか、人前で講義を謳う作家か何かのようだ。
 ……落ち着け、確りしろ。樹は自分に云い聞かせた。僕があの人と会った時には、もう既に意識を失っている時だった。僕の顔を知っている筈は無い。
 樹は顔を上げる。取り敢えずは、彼の水谷本人と分かった以上は何としてもアルバイトとして採用されるよう、面接でしくじらない事だ。
「今回、スタッフの募集を行いましたのは主に、12月に開催されます、えー、手許に資料があるかと思いますが、『グルックの再発見と古典派ピアノの前夜祭』、このコンサートの運営スタッフです。日時は19日、20日の二日に渡っていると思いますが、この内19日のピアノコンサートが本ホールの柿落としとなります。本公演には来客の整理や案内、雑用を始めとしてホール内の機材の移動や音響チェック等、多岐に渡って多くの人材を必要とします。そこで、皆さんにお集り頂いた訳ですが」
 その後は主に履歴書の件や採用後の規定、報酬などに付いて一般的なアルバイト募集と同じような内容が続き、最後に水谷はこう締めくくった。
「では、話をお聞き頂いた上でご希望の方はお配りしたエントリーシートに必要事項を記入の上、持参頂いた履歴書と共に提出して下さい。後程こちらから連絡致します。尚、先程も述べましたように我々は音楽的な知識と経験に長けた専門スタッフも欲しています。皆さんの中で、そちらの方面を手伝って頂ける方はそのままお残り下さい。それ以外の方は、これで終了とします。有り難うございました」
「……、」
 樹の心など極まっている。名乗りを上げてやろう。恐らくは雑用アルバイトよりもそちらの方が、水谷の意図にも近付けるに違い無い。──本当に正直な所を云えば、コンサート運営仕事を、将来の勉強の為に経験してみたいと云うのもあったが。
 周囲の人間がざわめきながら疎らに席を立つ中、樹は着席したまま留まった。
 最終的に、部屋に残ったアルバイト応募者は樹を含めて三人、──あとの二人は、金色に脱色された一筋が際立つ黒い髪に青い瞳の青年と、トライアングル型のヴァイオリンケースを携えた柔らかい白銀色の髪を肩の上に揺らした高校生くらいの少女である。

【3AEF】

「お待たせしました。取り敢えずは履歴書を見せて頂けますか」
 他の参加者から提出物を受け取り終えた水谷は、三人に向けてまずそう告げた。各自から履歴書を受け取ると同時に中身に目を通し、名前を確認して行った。
「香坂・蓮(こうさか・れん)さん、……ほう、──音楽大学卒、」
 敢えて、ヴァイオリニストとは書かず蓮は「フリーター」と書いて置いた。最終学歴が「──音楽大学器楽科弦楽専攻卒業」となっているので、わざわざ自称しなくとも大体は知れるだろう。
「専攻は?」
「ヴァイオリンです」
「分かりました」
 頷いて、水谷は今度は樹に履歴書を求めた。
「葛城・樹(かつらぎ・しげる)さん、音大予備校生ですか。矢っ張り音大関係は多いですね。専攻は?」
「……未だ、迷ってるんですが、声楽か作曲か……」
「なるほど、分かりました、結構です」
 最後は銀髪の、恐らくはアメリカ系の少女だ。
「硝月・倉菜(しょうつき・くらな)さん。……良いんですか? 高校生でしょう、学校は?」
「構いません。勉強の積もりで参加しましたから」
「勉強? ……あ、あなたもヴァイオリンを?」
 水谷は倉菜の携えたヴァイオリンケースを認めてそう訊く。
「いえ、私は演奏が主じゃありません。見て頂ければ、と思ったのですがこれは私の造った楽器です」
「へえ、」
 水谷の感心したような声と共に、蓮も興味を持ったようにちらりと倉菜を一瞥した。
「楽器職人の祖父の許で学んでいます。楽器の調律や調整などを出来れば希望しますが、それは駄目でもこのホールの音響設備に興味がありますから、ここで働かせて頂くだけでも嬉しいです」
「……そんな事はありませんよ。まあ、後程説明しますが、音響学に詳しいスタッフも求めていましたから、あなた本人さえ良ければそうした仕事もやって貰います。良ければ、その楽器も後で見せて下さい」
「お願いします」
 水谷は穏やかそうな微笑を浮かべて頷いた。
「……、」
 ちら、と樹はそんな水谷を見上げ、視線を合わせてしまって慌てた。──落ち着け!
 一人慌てている樹を、蓮と倉菜は怪訝そうにそれぞれ一瞥した。
「……では、こうして居ても何ですし、ホールへ行ってみませんか? そこで、各自にお願い出来そうな仕事を伺いましょうか」
 水谷の言葉に蓮と倉菜が従い、やや遅れて樹もそれに続いた。

【4AEF】

 事務所を出て、ホールの廊下を連れ歩く途中で一人の少年と擦れ違った。──妙に陰気そうな、頬の痩せこけた暗い表情を俯けた15、6歳と見える少年だ。水谷が彼を呼び止めた。
「里井君、……今回のオルフェオ役の里井薫君です」
「……、」
 里井、と紹介された少年は三人に軽く会釈だけを向け、さっさと事務所へ歩み去った。
「……オルフェオ、テノールがやるんですか?」
 樹は意外さからつい水谷に質問してしまった。
 グルックのオペラ、「オルフェオとエウリディーチェ」は様々な問題点が未だ、専門家達の議論を巻き起こしている作品だ。
 その中でも特に、元々はグルックの時代にはカストラート、去勢され、成人後もボーイソプラノの声を持つ男性歌手に割り振られていた主役のオルフェオをどうするか、という事が問題になっている。現在は、女声アルトが男装してオルフェオを演じるのが普通になっているが。
「いいえ? まさか、そんな誤摩化しはしませんよ」
 ──にやり、と水谷が、樹が一瞬悪寒を覚える程に思惑有り気な笑みを浮かべた。
 つい後ずさって口を噤んだ樹に変わって質問を続けたのは、水谷とは初対面であるらしい蓮だった。
「……まさか、カストラート?」
「まさか。ハイ・カウンターですよ」
「……、そうですね、失礼」
「ハイ・カウンター?」
 倉菜が耳慣れない言葉を低く復誦した。蓮は淡々と説明する。
「男声ソプラノの事だ。グルックの1700年代から、フランスではカストラートは思想的に敬遠されていた。そこで、フランスでの公演ではカストラートでもなくソプラノに匹敵する声を持つハイ・カウンターにオルフェオ役を割り振っていたんだ。……然し、」
 あの少年がオルフェオか、と蓮はやや失望した。実力は分からないが、オルフェオは技術だけでなく、演技力、音楽的な解釈や表現力ともに超一流の歌手で無ければ出来ない役だ。それを、あの陰気そうな里井少年が演る? ……少し、このオペラへの期待も薄まった。
「……、」
 倉菜も無言のままだが、小さく眉を顰めていた。
──不協和音だわ。
 どうも、あの少年が能力に相応しい配置についているとは思えなかったのは倉菜も同じだ。……だが、そこは蓮も同じだろうがアルバイトの身分で到底口を出せる事では無いのは分かっている。私ならどういう歌手を選ぶかしら、と頭でシュミレーションするに留めた。
 そうしている内に、ホールの扉へ辿り着いた。水谷がそれを押し開け、「どうぞ」と三人を促した。

【5_1AEF】

 鋼鉄の音楽堂だったら、と云う樹の懸念に反して、それはぱっと見には極普通の円形ホールだった。ローマのコロッセオを連想させる擂り鉢状のホール中心に舞台があり、それを取り囲むように客席が階段状に連なっている。舞台は一部の床が抜け、オーケストラピット(※オペラやバレエ上演等の際にオーケストラを配置する場所)が在った。
 ──確かに、音響は良いらしい。階段通路を舞台へ向けて進む4人の足音は異様な程に透徹した音を響かせた。
 舞台には、ピアノが一台、置いてある。少年が一人、蓋を空けた中を覗き込んで居た。
「結城」
「……ああ!?」
 樹は思わず大声を上げてしまった。水谷に呼ばれて振り返った少年、誰かと思えばあの不良学生、結城磔也では無いか。
「……磔也さん……、何でここに……、」
 水谷の傍に居ることで、既に気の立っていた樹の血の気は完全に引いた。忘れもしない、磔也と会ったのは水谷同様幻想交響曲事件の時だが、彼には随分と酷い目に合わされた。
 ──が、驚いた事には傍らの蓮もまた、磔也を見ると「あ」と呟いた事だ。
「結城?」
「よぉ、香坂」
「え、知り合いなんですか、香坂さん、」
「ああ、……以前、楽譜の探し物をしていた時に本屋で会ってな。ベルリオーズの『夢とカプリス、ロマンス』を探していたんだが……結局見つからなくて、たまたま会ったアイツがピアノ譜を持っていてコピーして呉れたんだ」
 そして蓮は「何をやってるんだ」と磔也に声を掛けた。
 ──樹が、先日の恐怖と苦痛を思い返して口唇を震わせているのを恐らくは知った上で、磔也は彼にはニヤ、と含み笑いだけを投げ、その後は完全に無視して蓮と話し出した。
「見れば分かるだろ、ピアノの調律」
「アルバイトか、お前も」
「そう、……出演者の親族特権でね」
 視線は表向き、親し気に蓮に向けられている。が、明らかに磔也は樹を意識して揶揄っていた。……わざわざ、樹の前でそんな事を云わなくても良いのに。
「……、」
 俄に気を落として蹲りたくなった樹には倉菜が「?」と云う視線を向けただけだ。蓮は構わずに磔也と雑談している。
「矢張り、このホールでのピアノ奏者はお前の父親か」
「そう」
「……認めないとか云って置きながら、手伝いに来てるんじゃ無いか」
「忍のピアノなんざどうでも良いさ。俺が興味あるのはグルックのオペラの方」
「……そのオペラだが、」
 つい、蓮は先程の里井について批判を述べそうになって口を噤んだ。──雇い主になるかも知れない水谷が傍に居る。
「知り合いらしいですね、結城君と」
 水谷もにこにこと笑顔を浮かべながら舞台に上がって来た。「まあな」と、アルバイトの雇い主に対する態度とも思えない軽い口調で磔也が頷いた。
「その女は知らないけど、香坂とは。……こいつ、大分弾けるぜ。聴いた事は無いけど、多分な。見れば分かるだろ?」
「彼は?」
 水谷が指したのは樹である。まさか、その樹が一方的に水谷本人を知って警戒しているとは思いもしないらしい。
「さあ? 会ったっけ? ……あー、声楽のルク──、」
「ああああああっ!!」
 何処までも樹を揶揄かう気らしいが、流石に樹もその後に続くと思われる単語には悲鳴を上げた。倖い、良く響くテノール歌手の絶叫に肩を竦めた磔也は最後までは云わなかった。ここで、自分の身許が暴露されれば余計に警戒されてアルバイトどころでは無くなるだろう。
 水谷は、「良い声ですね、流石声楽専攻の学生さんだ」などと云いながら、3人を磔也と共に残してホールを出て行った。

【5_2AEF】

「あの」
 倉菜は騒ぎが一段落した所で磔也に申し出た。
「私は、楽器の調律や調整の補佐を希望して来たのだけど」
 まさか、あなたみたいな高校生のアルバイトが調律をやっているとは思わなかったけど、と心の中で呟きつつ。
「やるか? 調律」
「……良いんですか」
「構わ無ェよ、あんた、腕は確りしてそうだし」
 磔也は意外に穏やかな表情で頷き、チューニング用のハンマーとウェッジを倉菜に差し出した。
「基準音は442ヘルツだ。完全音程は分かるな? それと、Fナチュラルを少し低めにしたがる奏者だから、気を付けてくれ」
「どれ位ですか?」
「んー……、そうだな、dモールでの純正律を意識すれば分かるか?」
 倉菜は云われた通り、dモールの音階をヴァイオリンでイメージしてみた。平均律のピアノに比べて、微妙な調性ごとの違いが明確だ。
「ええ。……若し、本人に直接会えれば、もっとはっきりと本人に合わせた調律が出来るんだけど」
「……ふーん……、」
 倉菜の能力だ。細部の微妙な音程まで個人差があって当然の調律を、奏者の音感にぴったりと合わせて行う事が出来る。
「……どっちにせよ本人が顔を出せるのは明日以降だな。帰国が、今日なんだ」
「今日?」
「ああ、そろそろ空港に着いた頃だろ」
「結城氏、今日帰国するのか?」
 蓮が振り返って訊ね、磔也は「ああ」と適当な相槌を打ちながら煙草を取り出し、──倉菜に留められた。
「煙草の煙は、楽器を傷めるわ」
「……はいはい」
 ぴしゃり、と云い切った倉菜の視線に、磔也は苦笑して煙草をボックスに戻した。
「……微妙な時期だな。コンサートまでは未だ日数もあるし、第一、コンセルヴァトワールの教師だろう? フランスは未だ学期中じゃ無いのか」
 樹はようやく立ち直って顔を上げ、蓮と磔也を見比べた。──そう云えば……。
 樹は、今朝出掛けにこっそりとレイにメールを送っていたのだ。ユーフォニアハーモニーホールのアルバイトに応募する積もりだから、採用されればコンサートの時もスタッフとして働いていると思う。若し機会があれば結城氏に紹介して呉れるかも知れない、と密かな期待を込めて。
 そう云えば、返信が無い。既に送信から数時間が経っているが。樹は携帯電話を確認し、ここが圏外では無い事を確かめた。説明会の間も、ただマナーモードに切り替えていただけで電源は切っていなかったのだが、──忙しいのだろうか?
 ──その時である。
「おい、例の鋳像が届いた、手の空いている奴は手伝ってくれ」
 水谷の声だ。磔也が直ぐに「ああ、」と返事を返した。
「それじゃ、頼んだぜ」
 倉菜に調律を任せて踵を返しかけた磔也に、彼女は「鋳像?」と軽く首を傾いだ。
「ああ、よくホールとか美術館の入口に銅像とか飾ってあるだろ。ここにも展示するらしい、届いたんだ」
「私も手伝うわ」
「……、」
 磔也は微笑して倉菜の手をピアノに向かわせた。
「重いぜ。あんたじゃ無理だ、手を傷める。楽器職人の生命がヤられちゃ堪ん無ェだろう。良いから、調律、任せたぜ」
「……分かったわ」
 倉菜は頷き、ふわっ、と頬の周りで揺れる銀髪を後ろで一つに縛って調律に取り掛かった。
 磔也は、やや手持ち無沙汰に立っていた蓮にも声を掛けた。
「香坂もだ、……つったって元から力仕事する気なんか無いだろうけどな」
「当然だ」
 昂然と云い返した蓮にニヤ、と笑みを浮かべ、磔也は更に樹を見遣った。
「お前は来い。歌手なら多少腕がつっても差し障り無いだろ」
「え、でもあの、作曲にはピアノを使ったりしますし、たまにオーケストラの助っ人でヴィオラを弾いたり……」
「ぐだぐだ云って無ェで手伝え! 安心しろ、神経までイカれやし無ェよ!」
「はい!」
 殺気さえ感じる磔也の怒号に、つい背筋を伸ばして応と答えてしまう自分が情けない。……僕より年下なのに……。
 さっさとエントランスへ出て行った磔也を追い、樹は慌てて駆け出した。扉を押した所で、蓮が後に従った。
「あ、でも香坂さんは本当に止めて下さい、一日腕が筋肉痛を起しても練習に差し障るでしょう?」
「ああ、手伝う気は無い。だが、一体何の像を飾る気か興味があるしな。見物させて貰う」

【5_3AEF】

「……な……何ですかこれ……」
 エントランスホールに置いてあった包みを解き、その鋳像が姿を現した所で樹は思わず息を飲んだ。
 その鋳像は、古典的な人物像である。剣を片手に、もう片手に女の首を掲げた青年がその首の主と思しい女の首から下だけの身体を踏み付けている姿だ。──壮絶だが、無気味である。
「ペルセウスだ」
 磔也が呟く。その表情は、嬉々としていた。半ば恍惚としているようでもある。
「ペルセウスって、……ギリシャ、神話、……のっ!?」
 お前も持て、と云うように促されて樹は慌てて鋳像の反対側に手を掛け、あまりの重みに語尾を跳ね上げた。
「そう。……縮小版のレプリカントだけどな。チェリーニのペルセウスだ」
「……、そうか……、ペルセウス……じゃ、この首はメドゥーサか……」
 鋳像を設置し終え、樹は息を整えて手を振りながら呟いた。
「……、」
 傍らでは蓮が腕を組み、ああ手伝わなくて良かった、と云うように冷めた目でペルセウス像を眺めていた。
「ベンヴェヌート・チェリーニか……。……ベルリオーズのオペラの題材にもなった金細工師だな。……ユーフォニア、という名前と云い、何かにつけベルリオーズの影響ばかり受けたホールだ。『音楽都市、若しくはユーフォニア』。……ベルリオーズの評論集『オーケストラの夜話』の中の小説のタイトルだ。この間、お前が本屋で探していたのもその本だろう。……そう云えば、ベルリオーズはグルックの信奉者だ。今度の『オルフェオとエウリディーチェ』も、フランス版とウィーン版の混合版を編集したのがベルリオーズだ」
「ベルリオーズの影響?」
 本当に明日筋肉痛になるかも、と溜息を吐いている樹を放置して蓮の傍らに立った磔也は、ペルセウス像を見上げながら皮肉めいた語調で答えた。
「……そんなものじゃない。これは、芸術の勝利の象徴だ」
「芸術の勝利だと……?」
 蓮の、何を考えているんだか、と云う呆れた視線が磔也へ向いた。
「場所、ここで良いのかよ」
 はぐらかすように、磔也は鋳像を指して水谷に訊いた。離れた場所からバランスをチェックしていた水谷が頷いた。
「良いだろう。……ところで、香坂君」
「……はい、」
「何なら弾いてみませんか? 出来れば、硝月さんのヴァイオリンの音も聴いてみたいので」
「……良いんですか」
「ええ、音響をチェックしたいと思っていた所ですし。君さえ良ければ、ヴァイオリンは自分の楽器で無いと弾き難いでしょうが」
「構いません」
 勿論、と蓮は頷いた。
「では、調律が終わったら。結城、伴奏をして呉れ。二人で出来る曲を相談して弾いてみて下さい。じゃ、僕はバルコニーで聴いていますから。葛城君、君は客席でチェックして呉れますか」
「はい、」
 ──丁度良い、ホールに何か妙な仕掛けが無いかチェック出来る。樹は反射的に頷いた。

【6_1AEF】

「そう云う訳で、あなたの造った楽器を彼に貸して頂けますか」
 ホールに戻ってきた水谷の願い出に、倉菜は軽く頷いた。
「構いません。……彼なら、丁寧に扱って呉れそうだし」
「お願いします」
 倉菜はケースを蓮に差し出した。
「済まない、ではお借りする」
「いいえ」
「どうだ、調律は」
 蓮と一緒にホールに戻って来て、声を掛けた磔也に倉菜は軽く額の汗を拭いながら頷いた。
「終わったわ。……希望通りの音程になっていると良いけど」
 磔也は舞台上に上がり、鍵盤を押した。最初に442ヘルツきっかりのラ音を弾いて確かめ、それに合わせて蓮がヴァイオリンの調弦を行うと次ぎに低音域から半音階を一気に弾いて軽く頷いた。
「いい腕だ」
「それはどうもありがとう」
 倉菜は素っ気無く礼を述べた。

「で、何を弾く?」
 客席にケースを置き、ヴァイオリンを準備しながら蓮は磔也に訊ねた。
「まさかお前と音響チェックとは云え演奏する事になるとは思わなかったが……」
 云いながら、蓮は現れたヴァイオリンに目を見張った。──弾いてみなければ何とも云えないが、これほどのヴァイオリンをあの少女が造ったのか。
 新しいが、その形状と木目の美しさだけでも音質の良さは予想が付く。蓮の愛器とは違い、全体が小振りで丸みを帯びたオールドタイプのヴァイオリンだったが。
「ストラディヴァリウス系列の型だな。大丈夫か? ……そう云えば、お前の楽器って何なんだ?」
 横から蓮の手許を覗き込みつつ、磔也が口を挿んだ。
「グァルネリ、」
「……コピーって云ってたのはデル・ジェスの事か」
「ああ、そうだが?」
「……、」
 磔也は不意に、何かに気付いたように意味深長な笑みを浮かべた。
「……何だ」
「……いや。……なるほど、デル・ジェスねェ……と思ってさ」
「だったら何だ?」
「別に。……あー、そうそう、曲だけど、どうせだしこの間のベルリオーズでも演るか? 覚えてるだろ」
「ああ、……別にそれは構わないが」
「じゃ、『ロマンス』で」
 磔也はさっさと舞台に上がり、ピアノに向かった。……はぐらかされたような気がするが……まあ、良いか。蓮は軽く首を振り、磔也の弾いたラ音に合わせて調弦を行った。

【6_2AEF】

 蓮は磔也の伴奏──表現としては人前では機械的な程完璧な演奏しか出来なくなってしまう蓮のヴァイオリンと良い勝負だが、技巧的には充分、楽譜に無いオーケストラの音まで即興で付加してしまう程の──に合わせ、ベルリオーズのOp.8、「夢とカプリス、『ロマンス』」を弾き出した。
「……、」
 弾き始めのロングトーンを弾いただけで、このホールのあまりの音響の良さには驚愕した。伸びやかで、ホール全体が楽器に共鳴しているようだ。それはピアノも同じ事で、音量さえ並では無いので磔也はずっと弱音器を下ろしたままだった。
 倉菜のヴァイオリンも良い。繊細で、甘い音がする。弾き慣れたグァルネルモデルの愛器とはツボが違い、演奏はし難かったがそれでも蓮の技量ならば完璧に弾き切れる曲だ。最高の楽器と音響のホール、それに奏者が一致して始めて聴ける美しいロマンスを、蓮の手許を見守る倉菜を始め、触り気なくホールの側壁を調べて居た樹も思わず息を詰めて聴き入った。
「……、」
 3階に当るホールのバルコニーの柱の影に、不気味な笑みを浮かべて満足気に舞台を見下ろす水谷の顔が見えた。

【7_1AEF】

「香坂君、お疲れ様です」
 ヴァイオリンをケースに終い、ボウの螺子を緩めていた蓮に笑顔を浮かべた水谷が近寄って来た。
「大した腕前です、音大卒でもなかなか居ないでしょう、これだけ弾けるヴァイオリニストは」
「恐縮です」
 誉められても、蓮の返事は素っ気無い。別に、水谷が相手だからでは無く普段と変わらない応対だ。
「どうですか、感触は」
「良いと思います。正直、驚きました。あまりに響きが良いもので。……音響の良さでは、ヨーロッパの大型コンサートホールにも匹敵すると思いますが」
 水谷は満足そうに何度も頷き、所で、と愛想の良い表情を蓮に向けた。
「以後、本番までにも大分音響設備を追加します。その間、君には試奏をして貰いたいのですが、如何ですか」
「……予定さえ合えば構いませんが。……然し、今でもこの音響は、大分……。未だ、設備を追加すると?」
「勿論です」
 水谷は頷いた。
「共振板の設置も未だですし、今後充分な調整が必要です。それに、コーラスを追加した試演奏も予定していますので」
「……分かりました。何かあれば履歴書に書いた携帯に連絡頂ければ」
「あなたにもその際、設備の設置を是非手伝って頂きたいのですが」
 水谷は倉菜にもそう告げ、倉菜も蓮に倣って「また連絡を下さい」と答えた。
「出来れば、本番までに演奏会当日のプログラムなどについても教えて貰いたいのですけど」
 そう付け加えた倉菜に、水谷は何処か意味深長な微笑を返した。
「いずれ、分かりますよ。……当日までには」
 その時、この音響抜群のホールに先程のカプリスの後ではやや異質な電子音が響き渡った。磔也がジーンズのポケットを探った。彼の携帯電話だ。
「失礼、」
 などと、あまり申し訳無さそうでもない態度で断って磔也は通話を始めた。
「はいはい。……あんたか。……で? 忍は?」
 忍、と云う一言で蓮と樹ははっと視線を磔也に向けた。
 電話口の相手から何かを告げられた彼の表情は一瞬で険しく変化した。
「……何だと? ……どういう事だ」
 語調が荒くなった。蓮と樹に限らず、倉菜と水谷までが何事かと磔也を見遣っている。
「知るか! 俺はずっと巣鴨に居たんだよ、その件に関してはあんたらの連絡を待ってたんだぜ、ついでだけど葛城も居るぞ、何企んで近づいて来たかは知ら無ェけど、会っただろうが、この間! ……、」
 ホールに怒号を反響させた磔也は最後に大きく舌打ちし、「分かったよ、で、今どこだ」と受話器に怒鳴りながら4人を残してホールを飛び出して行った。
「……何だったんだろう、」
「妙な奴だ」
「良いんですか、水谷さん」
 水谷は、急に飛び出して行ったアルバイトへ、とは違うらしい意味でやや眉を顰めていた。
「……結城氏に、何かあったか……?」

【7_2E】

 結城氏に何かあったんだ。──樹は俄に困惑して磔也の飛び出して行った扉の向こうを見詰めた。
 レイからの返信も未だ無い。……第一、今日が結城氏の帰国日だなんて彼女、一言も云っていなかった。そうならば教えてくれそうなものだし、予め彼女には携帯電話の番号もアドレスも(半ば誘導尋問のように訊ねられて、つい)教えていたのに。
「すみません、僕もちょっと、電話を」
 樹は水谷に頭を下げ、ホールを出た。
 レイの携帯電話に直接掛けてみた。が、発信音の後に聴こえて来たのは『御客様のお掛けになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所に在ります』と云う録音音声である。
 俄に直感的な不安が樹の脳裏を覆った。
 矢っ張り、このホールとコンサートを取り巻く一連の出来事の裏で、何かが起きている。妙な事が多すぎる。
 レイからの連絡が無い事、結城氏の時期外れな突然の帰国、磔也も一介のアルバイト、演奏者の息子にしてもあまりに深く関与し過ぎている。そして水谷。
 先程、蓮の演奏に意識を奪われつつも一応壁を調べたが、まさかその壁が件の小説のように観客を圧殺すべく内側へ向けて押し寄せてくるようには思えなかった。──だが……。
 その時、樹の手の中で携帯電話が鳴った。レイか、と思って見遣った液晶には見慣れない番号が表示されている。
「もしもし?」
──葛城さんですか。田沼です、先日お会いした。
「あ、その時はこちらこそどうも……」
 田沼・亮一(たぬま・りょういち)、先日の幻想事件で樹と同じく「外側」から関わった探偵だ。番号は教えていなかったが、──まあ、探偵だし。勿論、その時の樹にそこまで意識を回す余裕は無かったが。
──先程、磔也君に電話したのは俺なんですが、葛城さんも一緒だったと云うのは本当ですか? 一応、確認をしたくて番号を調べてしまいました。申し訳ありません。
「いえ、構いません。一緒でしたよ、さっき、どこかへ走って行っちゃいましたけど」
──……そうですか。
「あの、何があったんですか?」
──……。
 暫く、無言の後に田沼は簡潔に告げた。
──レイさんが、攫われたんです。結城忍氏、彼女達のお父さんを空港で狙っていた連中に。
「……え……?」
 朝からの曇り空は、何時の間にか良く晴れていた。一連の出来事に翻弄されている樹達を嘲笑うように。
──レイさんと引き換えに、結城氏を引き渡すよう、磔也君に連絡があったそうです。彼、引き渡し場所として巣鴨を指定したようです。我々も、今からそちらへ向かいます。

【xxx】

「里井」
 練習室でアリアを歌っていた里井・薫(さとい・かおる)は、やや殺気立った様子で入ってきた磔也を振り返って顔を引き攣らせた。
 彼の目には、明らかな怯えが存在する。が、磔也はそれにはお構い無しで彼の手からスコアを取り上げてピアノの上に放り出した。
「とうとう来るぞ、IO2が。……あいつらを、3階に待機させとけ。俺が合図するまでは何もすんじゃ無ェぞ。分かったな」
 黙っていた里井は、「聞こえてんのか、分かったら返事しろ、このグズ!」という凄まじい怒号で慌てて首を縦に振った。
「……全く……使え無ェ奴。分かってんだろうな、お前の代わりなんざいくらでも居るんだぞ」
 全身を細かく震わせている彼に、磔也は練習室を去り際、振り返ってこう付け加えた。
「……それとな、連中が人質に女を一人、連れて来る。……お前がミスってその女が死んだら、命は無いと思っとけよ」
 磔也の声は低く、目はぞっとする程冷たい。
「水谷にも伝えて置け、……俺が、返り打ちにしてやるってな」

──結城磔也君だね。君ならもう我々の存在は分かっているだろう。君のお姉さんは預かっている。あまりお上品な方法で無い事は承知だが、こちらとしても使命があるのでね。クシレフの陰謀から、人々を護ると云う使命が。……その為なら、残念だが彼女を傷つける事も厭わない。無事、お姉さんと再会したくばショトランをこちらに引き渡し給え。場所は任せる。……東京の外では、都合が悪いだろう?

 ホールに戻った磔也は先程の電話を思い出し、くそ、と悪態を吐いて煙草に火を点けた。くわえ煙草のまま舞台に上がり、ピアノの前に座ると場所も構わずに床板に落とした吸い殻を踏み潰し、苛立ち紛れに適当に浮かんだ旋律を鍵盤に叩き付けた。
 
──冗談じゃ無ェぞ。
 あいつらに、何が分かる。怪奇現象と音楽の力の区別もついて無いような連中に、邪魔をされて堪るか。……ようやく、クシレフを見付けたんだ。
 怪奇現象と思って舐めて居るが良い。好都合だ、見せてやろうじゃ無いか。音楽の力を、芸術の勝利を。
 邪魔はさせない。オーケストラピアノもユーフォニアの完成も。……それに。
 
 レイは、俺の所有物だ。他人の好きな様にはさせない。……返して貰う。

【7_3E】

 樹は走って事務所へ戻り、人気が無いのを確かめてこっそりと中へ忍び込んだ。
 事務的な作業を行う部屋だ。電話器やその他の事務用品に混ざって、積み上げられたファイルを引き抜いては閉じ、また戻して別のものを、と云う作業を音を忍ばせて樹は繰り返した。

──あった、

 樹が探していたのは、ホール全体の間取り図だ。先程、実際にホールを見て壁はチェックしたが、矢張りここは普通では無い。水谷や磔也が関わっている以上、絶対に何かがある。
 どこに妙な仕掛けがあるか分からない、間取り図があれば入手しておいて無駄にはならないだろうと思っての、彼らしく無い大胆な行動だった。
 他にも何か無いだろうか、と別のファイルを引き抜き掛けた時だ。
「何か御用ですか?」
 心臓が跳ねる音が実際に聞こえた気がした。咄嗟に手中の間取り図を握り潰し、慌てて振り返った先にはやや不穏な表情の水谷が立っている。
「……あ、すみません、……あの、迷ってしまって……」
 哀しい程下手な嘘だ。が、水谷はそれを聞くと莞爾と、不気味な程の微笑を浮かべた。
「失礼だが君は少し方向音痴なようだね。出口は、ファイルの中にはありませんよ」
「……あー、そうか! 道理で見つからないと思った」
 樹は非常に空虚且つ明るい笑い声を上げた。水谷は笑い声を返しながらも、これ以上は有無を云わさない強い調子で告げ、今入って来た出入り口を示した。
「出口は、こっちです。今日はもう結構ですよ。葛城君、君にはまた色々をお手伝い頂きたい事もありますから、またよろしく」
「こちらこそ、……本当にごめんなさい、では、」
 樹は手を強く握り締めたまま、申し訳程度の会釈を水谷に向けて部屋を飛び出した。

「……、」
 もう厭だ……。
 遠くまで来てから、ようやく呼吸を整えた樹は殆ど泣きたい気持ちになっていた。
 だが、今彼の手の中には戦利品がある。
「……、」 
 駄目だ。こんな事では従兄の顔が見られない。確りしろ、と自らに云い利かせ、樹は皺だらけになった間取り図を丁寧に両手で伸ばして折畳んだ。
 ともかく、今は彼等を待とう、……水谷に見つからないよう、どこかに隠れて。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0931 / 田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵】
【1532 / 香坂・蓮 / 男 / 24 / ヴァイオリニスト(兼、便利屋)】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
【2124 / 緋磨・翔 / 女 / 24 / 探偵所所長】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人】

NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】
【結城・忍 / 男 / 42 / ピアニスト・コンセルヴァトワール教師】
【水谷・和馬 / 男 / 27 / 巣鴨ユーフォニアホール人事担当者】
【シドニー・オザワ / 女 / 18 / 学生】
【冨樫・一比 / 男 / 34 / オーケストラ団員・トロンボーニスト】
【里井・薫 / 男 / 現時点で不明 / 歌手】
【陵・修一 / 男 / 28 / 某財閥秘書兼居候】
【シェップ / 男 / 31 / IO2構成員】

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■         ライター通信          ■
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皆様、今回は「音楽都市、ユーフォニア」への御参加有り難うございました。
先日の「幻想交響曲」シリーズからの流れや結城家の厄介な親子関係、果てはIO2まで出て来ましたので大分込み入った内容になりましたが、如何でしたでしょうか。
WRとしても、全てのPC様の行動をPL様の意図通りに把握し切れていたかが不安です。然し、色々な他PC様の視点なども目を通して頂きますと何らかのキーワードが見つかるのでは無いかと思います。
今作のエンディング直後からの流れとなります次回作、「音楽都市、ユーフォニア ─クシフレの陰謀─」は11月17日月曜日、午後8時からの受注と致します。
どちら様も、お気が向かれましたら是非御参加頂けます様、心よりお待ちしております。

今回時間的な都合により各PC様への御挨拶は割愛させて頂きますが、御参加の皆様には心よりお礼申し上げます。
お疲れさまでした、今後ともこの不条理な音楽を巡る世界をよろしくお願い致します。

x_c.