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<東京怪談ノベル(シングル)>


名を呼んで


 冬の日本海を騒がせる風が、がたがたと窓を揺さぶった。
 窓からは曇天の下によこたわる海原が見渡せる。それは絶景ではあったが、どうしても、もの寂しい気持ちを呼び起こさずにはおかない。冬の海は人を拒む厳粛さをまとっているものだ。いや、あるいは見る者の感情のほうが反映して、海の表情をそのように見せるのか。
「ようこそいらっしゃいました」
 すっと襖が開く。歳のいった仲居がお茶を持って来てくれたようだった。
 窓の傍に坐って海を見ていた少女がふりむく。
 十代半ばの、おとなしいが端正な顔立ちをした娘だった。白い肌に映える黒い髪が、古風な雰囲気を醸し出していたが、一片の、表情のかけらも浮かんでおらぬので、非常に人形めいている。謎めいた日本人形を思わせるのだ。
「この季節は、海も荒れておりましょう」
 仲居は言った。こんな冬場に、さびれた海辺の町に訪れる若い客は珍しい。
 ましてや少女の一人旅だ。大道芸人だというが――仲居は先に宿帳を見ていた――、それならば都会に出たほうがよかろうに。
「お世話になります」
 仲居はぎくりとした表情になったが、あわてて、愛想笑いをとりつくろう。
「い、いえ。なにかご用がおありでしたら、いつでもお呼びくださいね。ご夕食は7時でよろしかったですか。……それではごゆっくり」
 そそくさと部屋を辞す。
 仲居に挨拶をしたのは少女ではない。
 彼女が胸に抱いている、一体の人形だった。
 身の丈は三尺ばかり、狩衣に飾太刀をおびた、少年のすがた――精巧に出来てはいるが、まぎれもなく人形なのだ。それが話したのだとすれば、腹話術である。少女は芸人なのであるらしいから、それはそれで不思議はないのかもしれなかったが……。
 少年の人形はそっと、おのがあるじを――少女の顔を見上げた。姉弟のように、目を見交わしたが、やはり、少女のおもてには微笑ひとつ浮かばぬようだった。
 そしてともに再び窓の外へ、灰色の荒海へと視線を投げる。
 少女は、白宮橘、という名を繊細な文字で宿帳に残していた。


 もともと静かな宿場町は、夜になるといっそう静まり返る。
 それにともなって、波の音だけが、たゆまずに海の方角から聞こえてくるのが、耳につく。まるで誰かを呼ぶように、くりかえされる波の音は、蒲団の中でよこたわる橘の耳の中で、しだいに、風に揺れて草が立てる音に変わっていった。
 さやさやと波打つ、見渡す限りの稲穂。
 日が傾き、朱に染まってゆく空の下、それは金色の海のように広がっている。
 その中に、橘はたたずんでいるが、よく育ち、ゆたかに実った稲の穂の高さは小柄な彼女の胸元まであるのだった。
 ここは何処だろう。
 見回しても、何のこたえも得られない。どこまでも稲穂の海が続くばかりなのだ。
 かきわけ、かきわけ、歩きはじめる。
 腕の中には、いつものように榊――それが少年の人形の名だ――がいるのだが、今はまるで眠っているよう目を閉ざしている。むろん、ぴくりとも動かない。
 どのくらい、歩いただろうか。
 はっ、と遠くに人影をみとめて立ち止まる。
 ちょうど沈みゆく夕陽を背にして立つ人物。逆光で顔はわからないが、その背の高いすがたが目に入った瞬間、胸を突かれたような思いに、橘は息を飲んだ。
 ――あのひとだ。
 榊を抱きしめる。飾太刀が、かちゃりと音を立てた。
 おずおずと、唇を開く。
 だが、いかなる言葉も、発せられることはなかった。
 がくりとうなだれる。白い頬に髪が流れ落ちた。
 ああ――。
 胸の中に、いいようもない、なつかしい想いが充ちてくるのがわかる。息が止まってしまいそうだった。風が稲穂を揺らし、頬をなぜる。それはいったいいつの日のことだったろう。遠い思い出が、いくつも、あぶくのように浮かんでは、はじけていった。
 いたたまれず、また顔をあげ、まっすぐに、その人の影を見据えた。

 そして、
 橘は、
 その名を呼んだ。
 ――。

 幽かな……稲の穂がこすれあう音よりもわずかな、空気の揺らぎがもたらされただけだった。
 声は出ない。
 喉がふるえても、音にはならない。
 榊は目を閉じたまま。
 突き動かされるように、橘はもう一度、呼ばわった。
 それは何度となく思い描き、唇に上せてみた名前だった。決して忘れることない――いや、そもそも、その人を追い、捜すためにこそ、橘は旅から旅を続けているのだ。
 その名を、呼ぶ。
 せいいっぱいの力と、ありったけの想いをこめて。
 だが、それでも、声は出ないのだ。
 ゆらり、と、人影が動きを見せた。ゆっくりときびすを返し、橘から遠ざかるように歩き出す。
 待って――。
 追い縋った。
 だけど……
 あやしい思いが、彼女の胸の中に広がる。
 追ってどうするの――?
 仮に追いついたとして。そして声が出たとして。いったい何を話せというのだろう。自分はあのひとに何が云いたいのだろう。伝えたいのは、恋心か、憧れか、憂いか、それとも、後悔か。そのどれでもあり、どれでもないものなのか。
 暮れゆく空に溶けていくように、捜し人の影がにじんでいった。
 いつのまにか、橘の頬を、静かに涙が伝っている。はっとするほど澄んだ涙だった。
 ぽたぽたと、その雫は腕の中の榊の顔へと滴る。榊もまた、哀しい夢を見て泣いているかのようだ。
 それでも、会いたい。
 ただ理屈抜きに、もういちど会って、その傍にいたいのだ。橘は、そう思うのだった。


「美味そうやなあ」
 榊が声を上げた。
 朝食の膳に並ぶのは、焼いた干物に、みそ汁、白米、漬物に、卵、焼き海苔……典型的な日本旅館の朝食である。
 仲居は、くすくすと笑いながら、
「おかわりございますからね」
 と、榊に――橘にではなく――言うと、襖を閉めた。
 今日も風は強いようで、窓から見下ろす海の、波は高い。
 だが、朝のさわやかな光のなかで見るせいか、昨日感じたような厳しさはないような気がする。
 朝食を摂ったら、早々に発とう。
 今日もまた、橘は旅路を歩む。
 いつ終わるとも知れない旅を、榊だけを道連れに続けるのだ。

 そしていつか。その人に再び巡り会ったとしたら、そのときは――。


(了)