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殺虫衝動『コドク』
■さいごのこどく■
冗談のように大きい蜘蛛がいた。
天井からすべてを見下ろしていた、８８の眼を持った蜘蛛を見た。
御国将は倉庫の裏側の部屋に入ったまま戻らない。
そうして数分が経過していたが、相変わらず周囲は静まり返っていた。
「御国さん、あなたがかばってくれるとは……」
神谷虎太郎の背中には、まだ押された感触が残っている。彼は苦笑しながらぱんぱんと手を払った。将に倉庫の外へ突き飛ばされて、バランスを失った折に、渇いたアスファルトに手をついてしまった。わずかに擦り剥いた手のひらが赤みを帯びて、じわりと血が滲んだ。
……さきの蟷螂。
自分が斬り伏せた。
今の自分のように血を流したということは――あの蟷螂は、自分や御国と同じ、人間であったのか。
「まさか」
虎太郎は苦笑した。
あんな形相、背格好、いやに多い脚、そんなものを備えた影が、人間などであってたまるものか。
虎太郎は、愛刀を引き寄せた。備前兼光は血を吸って、ぎらりぎらりと殺気立っていた。
虎太郎は銘刀を一閃、ドア口を塞いでいる白い糸をまとめて断ち切った。糸にはさほど粘着性がなく、思っていたよりも簡単に部屋の中へ戻ることが出来た。
御国将と刑事の姿はなく、狭い部屋の中央のテーブル上に佇んでいるのは、虎太郎よりも大きな体躯の蜘蛛である。何も言わずに、虎太郎は蜘蛛を睨みつけた。
この蜘蛛は己の心に負けた人間の慣れの果てだ。倉庫の中で喰い合いをしていた蟲たちと同じ穴の狢である。
しかし驚くべきことだろうか――
８８の眼には知性があって、苛立ちを支配しているようだった。
『タイラー・ダーデンを知っているか』
かさこそと蜘蛛が動いて、囁いた。
いや、蜘蛛が言葉を話したわけではないようだ。
虎太郎の視線は、自然と蜘蛛の足元に向けられた。彼はやはり、蜘蛛とは話そうと思わなかった。じり、と常に的確な距離を取る虎太郎を、瞬き出来ない目で見つめつつ、影は陰鬱な声で語り始めた。
『すべてを棄てて初めて人間は自由になれると、名言を遺した。だが、タイラー・ダーデンはどこにも存在してはいないのだ。はじめからどこにもいなかったし、最期を迎えてもどこにも行かなかった』
「あいにく、『ファイト・クラブ』は見ていないのですよ。洋画は肌に合いませんで」
虎太郎はこのときばかりは、にこりともしなかった。
『そうか、残念だ』
蜘蛛の影が――
すう、と盛り上がり――
真っ黒な人間のかたちを取ると、電源が入ったままのノートパソコンの前に音もなく移動した。
『かつてネットの中でのみ、私は平だった。タイラー・ダーデンを抱えた名無しの主人公だったのさ。「世界」に囚われるまでは』
「あなたは、一体何を成そうとしているのです？」
『勘違いをするな。私が仕組んだことではない』
「……あなたが蟲を集めたのでは？ あなたは蜘蛛だ。巣を張って待っていただけかもしれません。ですが、あなたがいつも中心にいました」
『私は仲介役を買って出ただけだ。世界が望んだのだ……この世を呪う蠱毒を作り上げることを。今の我々は、世界を呪うためだけにある』
影は慣れた手つきでマウスとキーボードを駆り、ゴーストネットＯＦＦに代表されるオカルトサイトをまわっていく。
すべてのサイトから、すでにムシの噂は消え失せていた。ログはきっと、半永久的に残る。おそらく、人間の記憶の中にも残るだろう。
だが、すべては過去のものになっていた。
『巣を張っていた、というのは少し違う。私は餌を撒いたのだ。蟲は単純な生命体だ。餌で誘い出すのは簡単なことだった。集まった蟲が何を為すかは、蟲に任せておいた。倉庫の中がどんなことになっているかは見たのだろう？ あれが生命そのものの出した答えだ。――呪いだよ』
影はムシの噂が消えたことに満足したようだった。パソコンから離れ、すうと縮み、蜘蛛の足元に戻っていった。
『最後の１匹は、すべての蟲の想いと呪いを背負う。脳はただひとつの衝動で満たされるはずだ。ひどい苛立ちの矛先を、苛立ちの大きさに見合った規模のものに向けずにはいられなくなるだろう』
「……それは――」
『「蠱毒」だ』
平はかつて、平という名前ではなかったし、蜘蛛でもなかったし、影でもなかった。
ある人物の影が蜘蛛であり、平だったのだ。
それがある日、くるりと反転してしまった。
それが始まりだったのだろうか？
そこから始まったのか？
――きっと、違う。
おそらく、人間が世界の色を拒絶したそのときから始まっていたのだ。
いまの虎太郎の脳裏に浮かぶのは、御国将とウラガのこと、居候をはじめとした友人たちのことだった。
もし将がこの『会合』を蹴ったとしても、いつかはきっと、影になってしまっていたのではないか。ウラガがこの世に現れて、将という存在は名無しの語り部になってしまうのだ――そしてそのとき、忌まわしい呪いが成就する。
自分と友人がいる世界は呪われて、砕けてしまうのだろう。
骨董品屋『逸品堂』は黴で覆われ、あの冷蔵庫の中身は腐り果て、友人たちは姿を消し、将と酒を呑む日も来なくなる。いつか、彼とうどんでもすすろうと思っていたのに。いい店を知っているのだ。讃岐うどんの旨い、あの店も――呪われ、消えていくというのか。
……それでは、こまるのだ。
きっと面白くない毎日になる。
『ああ、うぅう』
蜘蛛が不意に身体を屈め、狼のように唸りだした。
『私が恐れているのは、「蟲」なのだ。血を流す蟲を見たか。あれは、苛立ちと嫌悪感に食い潰された人間の慣れの果てだ。あの浅ましさと獰猛さを見たか』
陰鬱な声は苦痛と苛立ちに満ちていた。
『私はあの蟲たちを見たとき、ぞっとすることを考えたよ。……人間も虫と同じで、衝動だけで生きているのではないかと』
蜘蛛の刃のような足が、汚れた床をかさこそと踏みしめた。
８８の眼の光が不愉快に瞬き、蜘蛛は胸部と繋がった頭を、ぶんぶんと苛立たしげに打ち振った。
『……私も、私は、ひどい頭痛に苛立っているのだ。この頭痛が消えるのならば、私は、誰かに喰われてしまっても、たった独りになってもいい。この痛みは……私の、衝動だ！』
蜘蛛はいらいらと床を踏みしめ、そのとき初めて、８８の眼には苛立ちと悪意が満ちた。爪なのか足なのかわからない八つの刃が、床に穴と傷をつける。
虎太郎は腰を沈めて、下段に構えた。
蜘蛛は最早人語を口にすることもなく、飛びかかってきた。
刃の脚の煌きに、虎太郎の刃ががちんとぶつかった。火花が散った。あの蟷螂の鎌と同じだ。この蟲はこの世のものではなくなっていた。
あぎとが目一杯に開かれ、虎太郎を頭から喰らってやろうと、涎さえ滴らせた。否、これが蜘蛛であるならば、あぎとから滴るものは毒だろう。
じゃリん、
八つの刃に絡め取られかけた銘刀を、虎太郎は力任せに斬り上げた。脚の関節に滑り込んだ刃が、蜘蛛の脚を１本斬り捨てた。銘刀は自由の身になり、虎太郎が次の刹那を征した。
あぎとが閉じるその前に、虎太郎は蜘蛛の喉の奥へ、刃を滑り込ませたのだ。
切っ先が、蜘蛛の首の付け根から飛び出した。
勝負あり！
虎太郎が刃を電光石火で引き抜くと、蜘蛛はどうと床に倒れた。
『ああ』
蜘蛛の影が呻くと、弱々しく身じろぎした。
『……頭痛が……治ったな……』
虎太郎は気がついた。この蜘蛛は、一滴の血も流してはいない。
『私は、何も呪わずにすむ……私は、人間として死ぬことが出来ただろうか……』
蜘蛛の姿が、影の中に溶けていった。斬り飛ばした刃状の脚も、ずぶずぶと古びた床に沈んで消えていく――横たわっている人間の影までもが、無色透明になってゆく。
蜘蛛は最期に、あきれたような、かすれた笑い声を上げていた。
虎太郎は蜘蛛の絶命を見届けてから、何も言わず、倉庫内へと続くドアを見つけて、開けた。広い天井の倉庫がある。壁や天井、放置されたコンテナやドラム缶に、殺戮の爪痕が残っていた。血とはらわたが塗りたくられて、死臭にも似た生臭い悪臭を放っていた。虎太郎が倉庫に入ったときには、まだ御国将はそこにいた。
「御国さん！」
だが、とても無事とは言えない状態だった。彼は、錆びたドラム缶の陰で頭を抱えて膝をついていた。
「神谷」
将は声を絞り出す。その瞳が、非常灯のような真紅に変じていた。
「頭が痛い」
疲れた声で訴えた将は、どさりと床にくずれ落ちた。だが虎太郎の視界から、将の姿はかき消えていた。彼の身体は、倒れこんだのではない――沈みこむようにして――『ウラガ』の影に溶けてしまったのだ。
「……御国さん！」
虎太郎の叫び声を、百足の咆哮がかき消した。
そう、百足が居る。
もたげる鎌首が天井にまで届くほどに膨れ上がったウラガだ。百足の身体に生じた瘤は、絶えず蠢き、脈動しているようでもあった。ひとつひとつの瘤が、いちいち触覚や脚や頭のかたちをとっているようにも見える。ウラガはすでに百足ではなくなっているのかもしれない。これほどおぞましい姿をした虫はこの世にないはずだ。あの蜘蛛以上のものだった。
百足はぶくぶくと泡立つ己の身体を、苛立たしげに掻き毟った。鋭い脚先は甲殻すら引き裂き、破れた瘤からだらだらと膿じみたものが流れ出した。
いや、これは――膿ではない。虫を潰したときに腹から飛び出す、はらわただ。
虎太郎は露骨に顔をしかめた。あまりにも汚らわしい存在だった。封じ込められた力をも呼び起こそうとする、忌まわしい醜さと呪いである。
平を殺したことで、最後の一匹はウラガになってしまった。虎太郎は、そう思っていた。
『ま……ま、まだ……だ』
百足が、呻き声を上げた。
『嘉島……さん、喰……』
虎太郎はその呻き声が示唆することに気づき、ハッと視線を倉庫の片隅に向けた。
嘉島刑事が、呆然とした表情で百足を見上げていた。その足元の影が、わらわらと慌しく蠢いていた。必死で逃げようとしているのだ――
「刑事さん！ 逃げて下さい！」
虎太郎が動くのと、百足が涎にまみれたあぎとを開き、嘉島に襲いかかったのはほぼ同時。そして嘉島がニューナンブを懐から出して、己のこめかみに銃口を突きつけるのも同時だった。
「おれを喰うって？」
彼は影を見下ろしもせず、百足の紅い目を睨みつけて、笑っていた。
「死体だけならくれてやる」
銃声。
嘉島の足元で蠢いていた影が、嘉島と同じ姿に戻った。どさりと倒れた嘉島の身体の下で、影はぴくりとも動かない。
その瞬間に、ウラガが最後の一匹になった。
ぐぅるぉおおおおおおおお！
『神谷……』
最早百足を見上げることしか出来ない虎太郎に、影の声が投げかけられた。
『殺してくれ』
その哀願に、虎太郎は眉をひそめた。
将の姿はどこにもない。
『誰も、何も……呪いたくないんだ』
だが、百足はだらだらと涎とはらわたを垂れ流し、すべてのものに苛立ちながらも、何かをためらっているかのようにそこに佇んでいる。
まだ、衝動以外の意識があるのだ。
それは、蟲に名前をつけて、自分と蟲との間に一線を画していた男が混じっているからだ――蟲は自分の一部ではあるが、これが自分だとは決して認めたくなかった人間が溶けているからだ。
御国将が、居るからだ。
『俺の頭が……割れる前に……殺してくれ！』
「きっと、しばらくは寝覚めが悪くなるのでしょうね」
虎太郎は、刀の柄に両手をかけた。
「あなたとは、いろいろと話をしたかった。『ファイト・クラブ』も観たかったですよ。いいうどん屋さんも知っています。……でも私は、ひとりで映画を観て、うどんを食べなければならないのですね」
百足が悶えながら、その巨大な首を突き出した。
ふたつの意思があるのだ。
じきにその一方は食い潰されて、残った一方がこの世界を呪う。
ざシん！
百足の首筋の傷口から、恐ろしい勢いで血が噴き出した。陳腐な噴水のような音がした。どす黒い血は、倉庫の天井と壁をキャンバスにして、見るもおぞましい絵画をつくりあげていく。
それは壮年の男や成人したばかりの青年たちの顔であり、まれに意思の強そうな女性も混じっていた。いまの世界を支えている者たちのポートレートだったのだ。どれもが苛立ちと怒りと悪意に歪み、口汚く罵っていた。虎太郎はその中に、彼にとってこの事件の発端であった、尾張成司の顔を見た。
百足の身体がずるりずるりと崩れていき、ぼたぼたと床に落ちていった。どす黒い影が傷口から飛び出し、白い欠片をまといながら、音もなく天へと昇っていく。倉庫の血塗れの天井をすり抜け、きらきらと白い欠片をばら撒きながら――
床に落ちた百足の欠片は、しばらくぐずつくように泡立っていたが、やがてそれも染み入るようにして消えていった。
御国将の姿はなく、血塗れの床には、嘉島刑事の死体が横たわっている。
救うことは出来なかったが、虎太郎はこの世界を救った。
「……私だけが、救ったわけでは……」
言葉がみつからなかった。
将は呪わずにすんだのだろうか。
ひょっとしたら、自分の運命を呪いはしなかっただろうか――
これでいい、
世話になったな、
悪かった……
最後の白い欠片が、虎太郎の目を覗きこみ、消えていった。
思い出すのは、安物の緑茶をマグカップで飲んでいるあの男だ。
つまらなさそうな顔と、ふわりとした微笑。
誰もひとりにはならずにすんだのだ。虎太郎には店があって、放浪癖のある居候がいて、お気に入りのうどん屋があり、胡散臭い雑誌や本がある。虎太郎は決してひとりではない。
月刊アトラスの『ネットにはびこるムシの噂』特集の連載は、その月で終わった。
御国将のデスクには、いま新人記者が座っている。
御国将の書く記事を読むことはできなくなったが、虎太郎は月刊アトラスを毎月買い続けているのだ。
今月の特集は、『本当にいた！ ねずみ男』。
そのうち、蜘蛛男や百足男が出て来てくれはしないかと、虎太郎は寂しい期待をしているのである。
出て来たりはしないことを、他ならぬ虎太郎自身がよく知っているというのに。
＜了＞
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登場人物（この物語に登場した人物の一覧）
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【1511／神谷・虎太郎／男／27／骨董品屋】
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ライター通信
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モロクっちです。大変お待たせしました。『殺虫衝動・コドク』をお届けします。殺虫衝動というお話はこれで終わりです。神谷様のお陰で、ひとつの物語を作ることが出来ました。
『コドク』はマルチエンディングとなっており、神谷様のこのラストはちょっと悪い結果になってます。うーん……申し訳ありません。
神谷様の『殺虫衝動』、如何でしたでしょうか。ご満足いただければ、何か心に残るものがあったのであれば、これ以上の喜びはありません。
それでは、この辺で。
全話のご参加、有り難うございました！
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