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<東京怪談ノベル(シングル)>


3冊目の本文


 ある有名な3部作の映画が世界で同時に完結して、緑と黒のカラーの組み合わせがCMでよく見かけるようになり、みなもの妹は、映画館に行きたいとずっと言っていた。
 だが海原みなもは、普段と変わらない生活を送っている。映画には、週末に行く予定だ。妹もそう約束すると、騒がなくなった。あの映画のCMがテレビで流れるたびに、土曜日が待ち遠しいとにこにこしている。みなもはどの映画館に行こうか、都内の映画館をその夜に調べることにしていた。遊びの情報はおろか、勉強のための資料ですら、今のネットには溢れ返っているから。
 だがそれも、いつも居ない母の代わりに家事をして、今日の授業の復習と明日の授業の予習をしてからの話だ。妹を寝かしつけてからになるかもしれない。風呂に入って長い髪を乾かしてからになるかもしれなかった。だが、映画館の場所と評判を調べるのに、さほど時間はかからないだろうと考えていた。名前も住所もわからない人間をネットで探すのとはわけが違う。
 いつも通りの1日だと思いながらも、みなもは少し、妹がポストから取ってきた手紙のことを気にかけていた。

 手紙の差出人は、年に一度会うか会わないかの父からのものだった。
 珍しく、リターンアドレスが書かれていた。聞いたこともない国から出されたものだった。しかし中に入っていたのは、「元気か」と尋ねてくる便箋ではなく、無機質な見たこともない字がタイプされた紙1枚であった。英語でもないようで、みなもは首を傾げるしか術はなかった。だが幸いにも、父の滞在先は書いてある。あとで――明日でもいい、返事を書いて、この手紙が何なのか尋ねるのだ。
 さっきのてがみのごようじ、なあに?

 見たこともない文字の羅列は、料理をつくるみなもの、茶碗を洗うみなもの、予習・復習を真面目にこなしているつもりのみなもの頭の中で、生きているかのように蠢いた。黒い意識の中で、文字は緑に輝いていた。黒のバックに、滝のように流れていくプログラムの正体。ああ、土曜に観に行くつもりのあの映画、自分はこんなにも楽しみにしているのだ、きっと妹よりも強く、強く強く。
 座席はゆったりしてているところがいい。画面は大きいほうがいいに決まっている。早くに行って並んだほうがいい。大画面は、前の座席で観ると目がチカチカする……。
「楽しみだな」
 今度は彼女は声に出し、微笑みさえして、ノートと参考書を片付けると、パソコンの電源を入れたのだった。

 妹は隣の部屋で眠っている。
 悪い夢を見たりしていなければいいのだが――。
 彼女はあの映画に出てくる人間たちよりも、ずっと悪い夢を見ることがあるのだ。

 気づけば、みなもが見ているモニタに、映画館の情報はなく――
 黒一色の画面に、あの文字が現れているばかりだった。
 読めない文字はデザインでしかないはずだ。
 だが、規則正しく並んだその緑のかたちが、『文字』であることがわかってしまった。
 それは、その文字を文字として見ていたからだ。
 あの父がよこしてきた封書の中に入っていた、謎の紙切れの中にあった。
 みなもは居間に置いてあるその手紙を、持ってこようとした。きっと、この画面に並んでいる文字列は、あの紙に並んでいた文字列と全く同じなのだ。それを確かめようと思った。確かめたところで何になるわけでもないが、
 さっきのてがみのごようじ、なあに?
 その後に、書き加えられることが増えるはずだと思ったから。


 ぶぅん!


 緑色の光を見た。
 それは自然、木々か生み出す、やさしい緑ではなかった。
 電子がもたらす、無機質で無愛想で、冷徹な緑だ。ネオンサインの緑でも、もっと温かみを感じるのではないか。
 みなもはそんな色の光に包まれたことを記憶していたが、それが一番新しい記憶で、目を覚ましたとき、自分が何故ここにいるのかをまったく理解できなかった。
 ここはどこ、
 そう思うよりも先に目に飛びこんできた光景に、みなもは息を呑んだ。
 黒い世界の中、上から下へと、左から右へと、電磁波の唸りとともに流れていくものがある。緑の文字だ。アルファベットでも、カタカナでもない。読めない文字だ、例の文字だ。自分は未知のプログラムの中にでもいるのだろうかと、みなもは考えた。まるで――最近流行りの――それらを流行らせた映画の完結編を、みなもは土曜に観に行くのだ――電脳世界を舞台にした、ドラマかマンガかゲームのようだ。
「……出なくちゃ!」
 すでにここは、自分の部屋でもなければ現実世界でもない。
 ここがどこなのかはどうでもいいのだ。とにかく、自分が生きている肉の世界ではないことくらいはわかる。
 ここから出なくては、明日の予習は無駄になるし、明日の朝妹を起こして朝食を用意することも出来ない。
 土曜に妹と映画に行くことも出来ない。キャラメル・ポップコーンを食べるのだ。Mサイズの。そして傍らのドリンクホルダーに、Sサイズのカップの飲物を入れて……

 彼女の身体は、淡く儚く、緑色に発光し始めていた。
 彼女はそれに気がついていた。
 だからこそ早く、出口を探し出そうとした。
 流れる文字列を掻い潜り、跨いで、跳びながら。
 だがそれでも、文字列の端に手や髪やつま先が触れてしまった。触れてしまったところから、みなもの身体は変わり始めた。緑色の光は強くなり、彼女の髪が、指が、つま先が、見たこともない文字のデータに変わっていく。
 黒と緑の世界のデータに成り代わりつつあった。
 肉の世界のものから、彼女は、0と1だけが存在する平等な世界のものに変わりつつある。
 ――いやだ、あたしは、この世界のいきものじゃないわ。
 そもそも、この世界に、いきものなど存在するのか。
 ――いやだ、あたしは、いきものがいる世界で生きたいの。
 文字へと変換されていく身体が、束の間、肉と血を伴ったままで動いた。それは止まったわけではなく、遅くなっただけだった。みなもは、いろいろ考えた。土曜のこと、今日のこと、明日のこと、自分のこと、妹のことと母のことと姉のことと父のことと――

 緑の文字が、ドアのような長方形を形作っていた。
 みなもは何とか、その緑の四角に手を伸ばす。
 指と爪は、文字になってしまっていた。
 それはドアであったらしく、
 みなもがその長方形に触れた途端、光が開いた。
 緑の光ではなかった。
 白い、やさしい――

 だがみなもは、その出口をくぐった覚えはない。
 緑の文字の塊になってしまった身体が、黒の世界に囚われた気がした。自分は、幾億重にも組まれた複雑なプログラムの塊になり変わってしまった気がした。人間というのは、精神までも数値化できるのか――
 自分がそれを悲しいことだと思える時間が、コンマ5秒ほど残っていた気がする。
 ありふれた日常は、誰かがプログラムしてくれているから続くのか。
 かなしい。
 さびしい。
 いきたい。


 やり場のない悲しみを抱えながら、みなもは目を覚ました。
 みなもは机に伏していた。顔を上げれば、スクリーンセーバーが表示されているパソコンの画面が視界に飛び込んできた。スクリーンセーバーは、幾何学的な模様を計算し続け、表示し続けていた。みなもはその緑のフレームに恐怖を覚えて、マウスに手をかけた。映画館のサイトが画面に広がった。
「……寝てたのかな」
 風呂にはまだ入っていない。眠っていたのだとしたら、まだ入らなくてよかった。湯冷めして風邪を引き、土曜に妹と映画に行くことが出来なくなる。
 みなもは呆然としたまま、映画の上映時間をメモすると、パソコンの電源を落とし、居間に行った。

「……あっ?!」

 父からの手紙は、ひっそりと、封筒ごと焼け焦げてしまっていた。
 みなもが手に取った途端、炭と化したその紙切れは、音もなくテーブルの上に崩れ落ちていった。

 さっきのてがみのごようじ、なあに?

 最早、尋ねることは出来ない。




<了>