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<東京怪談ノベル(シングル)>


初冬散歩
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空気が冷え始める季節だ。
窓から見上げる空は澄み切って青く、冷たい空気に彩られて冴えている。
明るくなった部屋の中で、布団にもぐったままぬくもりを味わうのは、冬ならではの至福の時だ。……それが、週末となれば尚更。
忙しい身の上とはいえ、土曜日の午前中くらいは、レポートも書かず、昼近くまで惰眠を貪っていてもばちはあたらないだろう。
そう思いながらぬくぬくしていた彼女の布団に、不吉な影が忍び寄った。そっと、こんもり盛り上がった布団を伺う。
「持ち主さん、起きてくださいなの」
「う〜ん……」
「起きて〜」
小さな影がぴょんぴょん跳ねる。
にゅっと布団から手が伸びて、手探りで目覚まし時計を掴んだ。するすると、時計を掴んだ腕は再び布団の中に引いていく。
ついで、寝起きで掠れた声が布団から洩れてきた。
「蘭……まだ八時半だ。折角の週末なんだから、今日くらいゆっくり寝かせてくれないか……?」
「おそと」
彼女の声に被さるように、藤井・蘭(ふじい・らん)は布団の中を覗き込んだ。日の射さない布団の中に、彼の主のつむじが見える。まだ夜の気配が濃厚だ。週末にかこつけて、空が白み始めるまでコンピューターにかじりついていたのだから、それも当然である。一方で中々寝ない彼女の恩恵に預かって、思う存分ベッドを堪能した蘭はすっかり目が覚めていた。緑の髪をさらりと流して、彼は主を覗き込む。
「いい天気だよ」
「……」
「……寝ちゃった?おそと、いい天気だよ」
「もー……蘭、うるさいっ!窓の傍で光合成でもしてなさい!」
主人の手が布団を掴んで、みのむしよろしくかろうじて見えていた頭の天辺も隠れてしまった。諦めずに少し待ってみたが、反応はない。
「おそとに出たいの〜」
人の形に盛り上がった主人のベッドに乗り上げて、蘭は布団の端にしがみついた。
「おそと!」
主から布団を引っぺがそうと、蘭は思い切り布団を引っ張る。
がばっと両手が布団から伸びて(まるで魔法だ)、主の手がぬくもりを逃すまいと布団を掴んで引き寄せようとした。
「……!!」
「…………!」
二人で無言のまま布団の取り合いを繰り返すこと数分。
「……あーもうっ!わかったよ!」
とうとう主のほうが音を上げた。やけくそ気味に布団を跳ね上げたので、蘭の身体はお気に入りのビーズクッションごところんと絨毯の上に放り出された。起き上がり小法師の要領で跳ね起き、蘭はパジャマ姿で仁王立ちになった主人を見上げる。
「お外?」
こんな朝早くから眠りを妨げるとは何事だ…と文句を言ってやろうとした主の前で、ぱぁっと蘭の顔が明るくなった。すっかり勘違いしているらしい蘭に、寝起きでぼさぼさの髪を顔に垂らして、深く、主人がため息をついた。


「いいか?神社までだからな。それ以上遠くへ行ってはだめだ」
小さな弟を諭すような口調になって、寝起きの低い声で主は蘭に言い含めた。彼女の声はまだ低く掠れていたが、机にかじりついて、蘭のために簡単な地図も書いてくれた。白いメモ用紙に黒いマジックインク。紙片には力強い筆遣いで、神社までの道のりが示してある。
「くれぐれも遠くまで行かないように」と念を押されて、蘭はようやく外へ出ることを許されたのだった。欠伸まじりの主人が「二度寝する」と言ってドアを閉めたのを見送って、蘭はどきどきと歩き出した。
片手に地図を持った小柄な姿は、はじめてお使いに出た小学生のようである。もっとも、観葉植物である蘭が外に出ることは珍しい。寒さに弱いので、特にこの時期は尚更である。
主によってぐるぐるに巻きつけられたマフラーに鼻まで埋もれ、蘭は冷えた空気を宿すアスファルトを踏みしめながら進んだ。
「蘭ちゃん、お出かけ?」
彼が住む部屋を出てすぐの庭の植木に咲いた山茶花が話しかけてきた。
「持ち主さんが出してくれたの」
一人で歩いていることが誇らしくて、にこにこと蘭は山茶花に言った。淡く赤い花びらを震わせ、黄色い花弁を風に揺らしながら、山茶花は答える。
「あらいいわねぇ。散歩なんてもう、私は長いことしてないよ」
山田さん家の庭に植わった山茶花は、毎年この時期になると寒い空気に灯りをともしたように、赤い花を咲かせるのだ。派手だし蘭より大分年上だが、いつも蘭に声を掛けてくれる優しいおばさんである。
気をつけていくんだよ、と見送られて、蘭は通りを左に曲がった。地図には丁寧に矢印が引っ張ってあり、神社までの道のりが説明してある。
風は強くはないが冷たくて、息を吐くたびに白く煙る。耳と鼻先がキンキンしてきて、蘭はマフラーを巻きなおした。週末だからだろう。人通りは少ない。アスファルトの道路には所々霜が残っていて、夜の間の寒さを思わせた。
てくてくと歩いていく蘭を、また植物たちの声が引きとめた。
「一人でどこまでいくの?」
「ご主人様は一緒じゃないの?」
「家出したわけでもないんでしょう?」
きゃらきゃらと、楽しげな若い女の声だ。蘭は、新しい洋風の家の前で立ち止まった。きれいに整えられた道路の先に花壇があって、そこに色とりどりのパンジーの花が植えられている。風が吹くたびに大きな花が揺れて、そのたびに彼女らは笑いさざめいた。
「おそとに出てもいいって言われたの」
パンジーたちは気まぐれだ。蘭のことをからかっては楽しんでいる。蘭は用心して身構えたが、パンジーたちは楽しげに寒い風に吹かれて笑っただけだった。
「それはいいわね」
「遠くまでいかないことね」
「今日はお日様の光も薄いから」
「神社まで行ったら帰ってくるの」
寒い風が吹いて、蘭は身体を縮めた。そんな彼を見て、パンジーたちは笑いさざめく。
「道はわかる?」
「変な人についていってはだめよ」
「三軒先の竹田さんのところのみんなに、うちではポン太に赤ちゃんが生まれたのって伝えてくれないかしら」
ポン太は新築されたこの家で飼われているポメラニアンの名前だ。女の子なのにポン太という。ポン太に子どもが生まれる話は、前に彼女たちから聞いていた。
「うん、わかった。今日はあっちまで行かないから、今度言うね」
「生まれたのは、五匹よ」
「男の子が二匹に、女の子が三匹」
「女の子は、お父さんに似て真っ黒な毛をしているの」
口々にパンジーは言い、立ち止まったままだった蘭は、寒くなってきたので彼女たちにお別れを言って歩き出した。
神社の鳥居はすぐそこだ。顔見知りの仲間たちに挨拶をして回ったので、普通に歩くよりも時間がかかってしまった。神社は石を積み上げて作った塀が立ち並び、その上で、何本もの木が青い葉を茂らせている。彼らは大概が無口で、足元を通り過ぎる蘭を黙って見送った。
「蘭」
と、頭上から蘭を呼び止めた高い声がある。彼が立ち止まって声の主を確かめようとすると、続いた声が次々に唱和した。
「蘭だ」
「蘭?あっ、本当だ。蘭だ」
「よっ、蘭」
「寒くないか?」
声のする方を見ると、高く伸びた木の足元で、赤い木の実がはしゃいだ声を上げている。細い枝にたわわに丸い実を実らせるのは、南天だ。
冬になって雪が降ると、彼らは雪ウサギの目と耳になるのだと、自慢げにいつだったか教えてくれた。雪ウサギになれる彼らは、目下蘭の尊敬と憧れの対象である。
「夜になると椎の木のじぃさんたちが」
「いびきがすごいんだ」
「ざわざわざわざわ言うんだよ」
「だからゆっくり眠れやしない」
「でも仕方ないよな」
「じぃさんたちも年だから」
「いびきくらいはしょうがない」
「寝言もな」
「年だから」
「おれたちはじっとがまんの子」
炭酸水の泡がはじけるように、小さな赤い実たちは口々に蘭に訴える。赤い実たちはひっきりなく喋っているから、きっと眠れないで困っているのは神社に生えている椎や樫の木の方だろう。
その声に釣られて、神社に生えた木から落ちたドングリたちが、楽しそうな笑い声を上げた。彼らは日の薄い日でも、元気に喋っている。特に南天の活発さは格別で、冬になって白い雪に身体が覆われても、雪の下でこしょこしょと、声を潜めて喋るのだ。たまに雪の合間から顔を覗かせて、通りがかる者にいつもどおりに「よっ」と声を掛けたりする。
また口々に、南天の実たちは喋りだした。
「蘭も」
「ご主人のいびきが煩くて逃げてきたのか?」
「たまに見かけるぜ」
「真夜中のコンビニ通い」
「たまにはおれたちに」
「そうだ、声をかけてって伝えてくれよ」
「おでんが冷えちまうのはわかるけどさ」
「あたたかいおでんと」
「暖かな挨拶」
「どっちも大事だろ」
放っておけばいくらでも喋り続ける彼らを遮って、蘭は頷いた。
「ちゃんと伝えるね」
「ご主人はどうした?」
ようやく話が戻った。
「寝てるの」
「てことはお前」
「一人で散歩か」
「すごいじゃないか」
口々に、南天たちは感心した。雪ウサギになれる彼らに褒められて、ますます蘭はにこにこする。
「そろそろ行きなさい」
わいわい騒ぐ南天と蘭の頭上で、重々しく樫の木が言った。
「風が冷たい。あまりじっとしていると、芯から冷えてしまう」
樫の言うことはもっともで、実際蘭も顔がかんかんに痛くなってきたので、素直に神社に歩き出すことにした。
赤い鳥居が、木々の間から零れて見える。
相変わらず、人通りはない。
「あれぇ?」
鳥居の下に、誰かが居た。黒い髪を伸ばした女性は、コートに袖を通した腕を身体に回して、寒さに耐えるように身体を丸めている。マフラーは付けていなかったが。こげ茶色の手袋をしていた。コートから覗くのは、蘭も見覚えがある冬用の部屋着だ。
彼女は、近づいてくる蘭に気がついて視線を向けた。目が合う。
蘭はとうとう駆け出した。寒そうに背中を丸めた彼の持ち主は、蘭が駆けてくるのを待っている。
「持ち主さん」
「遅い」
開口一番、寒さに震える声で彼女は言った。近くで見ると、コートの下は出かけてくる時に見たパジャマのままだった。蘭のことを心配して、先回りして神社で待っていてくれたらしい。蘭が駆け寄ると、寒風に吹かれて冷えた緑色の髪を、手を伸ばしてくしゃくしゃにした。
「どこまで行ってたんだ。うちからここまで、十分とかからない距離だぞ」
形のいい蘭の頭の後ろを軽く押して、主は先に歩き出す。ちょこちょこ後を追いかけながら、蘭は彼女を見上げた。
「あのぅ、寝なくて良かったの?」
「帰ったら寝るよ。眠いから」
答えてからもう一度、「何をしていたんだ?」と聞いた。
蘭は足りない言葉で一生懸命に、山茶花の話をし、パンジーの話をして、その家の犬が子どもを産んだことを話した。
「ナンテンの実さんが、持ち主さんに、挨拶してほしいって」
彼らの前を通りがかる時、ふと思い出して蘭は主人を振り仰いだ。
それまで黙って話を聞いていた彼女は、蘭の言葉に立ち止まり、低い位置にある少年の顔を見下ろした。
それから、塀の上に彩りを添える赤い実を見上げ、蘭と手を繋いでいない方の手を上げた。
「よ」
そして、手を下ろしながら蘭を見下ろす。
「こんなんでいいのか?」
風が吹いて、しゃらしゃらと赤い実が鳴った。
「うん。喜んでるの」
「そうか。それはよかった」
行くぞ、と促されて、蘭は歩き出す。
風は冷たかったけれど、寝起きで体温が高い持ち主さんと、繋いだ手だけは暖かかった。



-「初冬散歩」-