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<東京怪談ノベル(シングル)>


3冊目の表紙


 海原みたまは諦めることにした。
 夫が持ちかけてくる傭兵としての仕事は、ごくまれなものなのだ。普段こうして何気なくもたらされる仕事は、探偵やアルバイトを雇っても解決しそうなものばかり。何度も言ったが、もう諦めた。
 これは、傭兵の仕事じゃないわよね?
 もう言うのも飽きてしまったし、言ったところで夫はスマンと頭を下げるだけ。どの道仕事はさせられるのだ。少し前なら、「娘を持っている手前、血生臭い仕事ばかりでは……」と自分や夫に言い聞かせていたのだが、今ではこういった仕事が主流になってしまっている。金が入る以上はこれ以上の文句も言えない。
 だが、自分は傭兵だ。
 こうしてパソコンと古い本を前にしてキーボードを叩く若い女を見て、「彼女は傭兵だ」と唸る人間がこの世に何人いることか。
 この仕事は、打ち込みのアルバイトなのだ。
 かなり時給が高いアルバイトにすぎない。
 みたまはむっつりとした顔で自分にそう言い聞かせつつ、軽快にキーを打っていく――

 みたまが渡されたのは、タイトルすら読めない古書だった。
「なあに、この本?」
「特殊な『本』さ。力を持っている」
 ふうん、とみたまは夫の答えを聞き流した。元より答えなどどうでもよいと思っていたのかもしれない。彼女は爪に赤いマニキュアがぴっちりと塗られた指で、黄変したページをめくってみた。
「……これじゃ、何が書いてあるかわからないじゃない」
 みたまは唖然とした。
 「あ」という文字の次は、「G」だ。「G」の後に続くのは、何やら意味不明の象形文字。ヒエログリフと思しき文字や、幾何学的な記号、ミミズが悶え苦しんでいるかのような紐状の落書き(いやおそらくこれも文字なのであろうが)、古いページに所狭しと整列させられているのは、古今東西あらゆる『文字』だ。
「きみなら、書いてあることがわからなくても、読めるはずだろう?」
「私だけが出来ることじゃないわ。誰にだって出来ることよ」
「でもきみは、それが得意だ。得意な人間に任せた方が安全だし、早く終わるじゃないか。だからきみにやってほしいんだ」
 1ページごとにテキスト化したデータを、このサーバーに落としてほしい――
 そう言って、今、みたまの夫は隣室の隅のデスクに座っている。
「……もう」
 文句も言えずに溜息だけをつくと、みたまはスーパーコンピュータを駆り始めた。

 みたまは1ページ打ち終わるごとに、古ぶるしい本のページをめくり、ガラス窓から夫の姿を確認した。
 夫は、手書きで何かを書いているようだった。
 今どき手書きで、しかもあの人が。
 封筒を用意していることから、それが手紙であるということをみたまは知った。
 誰に書いているのだろうか。
 仕事の書類を送るなら、いちいち手書きの文書を添えたりはしないはずだ。みたまは夫の手書きの文字を読める、身も知らぬ宛先の人間に、ほんの少し嫉妬のようなものを抱いた。
「……つまらないわね」
 自分はあの夫の文字以上のことを知っているではないか。
 たかが文字を見るだけの者に、何を思う。
 みたまは苦笑しながら、『本』のページをめくった。


 今みたまが手にしている『本』の文字そのものに力があるのだとしたら――みたまが何も考えずに打ち込んだ、パソコンの中と、ネットの海の中に流されたデータにも等しい力があるのだろうか。
 画面が揺らぎ、テキストエディタの白背景が、くるりと暗転した。
 黒い文字が、眩しい緑に変じた。みたまは目を細め、眉をひそめた。
 音もなく、爪の赤いマニキュアが緑に変わる。爪の中を、ヘブライ文字が行き来した。
 は、と右手に目を落とせば――本のページをめくっていたその手は、黒と緑の文字にかさかさと(音はなかったが、音があるとすれば、そうだった)侵食されていっているのだ。暗転した画面に、みたまの顔がうっすらと映っている。
 自分の顔が文字になりつつあるのは、画面の文字がかぶっているためなのか、それとも実際に変換されつつあるためなのか――
 自分の背後にあるスパコンの行列が、揃ってがりがりと悲鳴を上げ始めた。一番奥の、右から3番目の筐体が――やはり音もなく、文字になっていく。みたまが侵食されていく速度よりも速かった。黒い画面の中を流れる文字のかがやきが、激しくなった。
「……その辺にしておいたほうがいいよ。おいたが過ぎたら、お母さんに怒られるものだからね」
 その脅しを聞いたか知らずか、知っての上か、『本』は変換速度をまるで緩めず、みたまを我が物にしようとしていた。緩めるどころか、速くなりもしていたのだ。みたまの獅子のような髪の先が、アラビア文字のうねりになった。
 みたまの赤い瞳が燃え上がった。
「いい加減にしなさい!」
 おいたはとうに過ぎている!

 『本』の中に記された、この世にない文字、今もある文字、すべててを瞬時に繋ぎ合わせて、みたまは『本』を叱りつけた。言っても聞かない『本』だった。子供を虐待する親に共感の余地などないのだが、お尻や頭をぺちんと叩く、そんな普通の親の気持ちはわかったような気がしたのだ。
 ぶたれた『本』は大人しくなった。
 スパコンの悲鳴が唐突に止み、沈黙の手助けをしているかのような、低くささやかなファンが回る音が――部屋を包んでいる。
 みたまは軽く溜息をつくと、こきこきと肩ならしをした。
 そして、退屈な打ち込み作業に戻ったのだった。
 彼女は仕事を始めてから終わるまで、ただの一度も椅子から立たなかった。
 夫がパソコンルームに戻ってきたが、みたまは彼を笑顔で迎えもしたのだ。
「終わりそうかい」
「うん、もうすぐ」
「やっぱり、きみに任せてよかったよ」
「そうかもね」
 みたまの笑顔は、苦笑になった。
 2時間後、みたまの仕事は終わった。
 少なくとも、みたまはそう思っていた。
 すべてのデータをサーバー上に落としこみ、みたまは口を開いた。言うべきかどうか迷っていたのだが――夫は確かに今回の仕事の雇い主だとしても、自分の夫であることは間違いない。意見したところで、誰が咎めよう。
「……大丈夫なの? このデータ、無害だとは言えないよ。ネットっていうのは、いくらセキュリティとか注意書きで他人を締め出したって……拓けた場所なんだもの。誰だって、偶然でもその気でも、覗くことが出来るんじゃない?」
「きみは優しいな」
「……」
「大丈夫だよ」
「……そう」
 あなたが言うなら、
 みたまは立ち上がって、『本』を夫に返したのだった。


 その、数日後のことだ。
 みたまは再び夫から仕事を頼まれた。またもや、傭兵の仕事ではなかった。
 いや、それは新たな仕事なのではなく――先日の仕事がただ単に、まだ終わっていなかっただけなのか。
 サーバーに落としこんだデータを集めて圧縮し、ディスクに保存して、サーバー上のデータは消去してほしい、とのことだった。
「……?」
 ?  ?? ?   ??? ?
 みたまは首を傾げ、目を点にしながらも、素直に言いつけに従った。
 例のサーバーを覗いてみると、みたまが懸念した通り――データは増えていた。みたまが打ち込んだ覚えのないデータがある。
 それを器用に吸い出して、『元に戻し』、みたまは自分が手がけたデータだけをぎゅうと圧縮した。
 彼女が文句を言わず、疑問符を頭上に浮かべながらも、夫の頼みを聞いたのは――その仕事内容に、ほっとしたからかもしれなかった。
 少なくとも、真っ白になったこのサーバーが真っ白であり続ける限り、憐れなデータが増えることはないのだから。
「終わりね」
 本当に終わり。
「でも結局、何なのよ」
 みたまは白くなったサーバーを見てから、ようやく頬を膨らませたのだった。




<了>