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<東京怪談ノベル(シングル)>


片道切符

「さあ、見てってや〜。坊ちゃん、坊ちゃん。幾つや? お母さんと買物か、ええもん買うてもうたか?」
 はにかんだような子どもの笑顔。
 見物人たちのあいだから、くすくす、と微笑ましい笑いが起こった。
 夕刻。大勢の人が行き交う駅前の広場に、人の輪ができている。
 なにかと思って足を止め、人の肩ごしにのぞいてみたものがいたとすれば、そこにはまるで生きているようにきびきびと動く人形のすがたを見ることができただろう。古風な和装をまとった十ばかりの少年である。まだ幼さを残した顔には、むろん、もともとそういう造りなのであろうが、まるで血色よく頬に朱がさしたようで、ときおり見せる若武者のように凛々しいまなざしといい、上方風の滑らかな口上といい――はっとするほど活き活きとした所作振舞いなのだった。
 では、この見事な人形操りを見せる芸人のほうはどうかといえば、これはまた違った意味で、見るものをはっとさせずにはおかない人物である。
 少女だった。
 歳の頃は相棒である人形よりもわずかに歳上としか見えぬ。それにも増して奇異なのは、彼女の、あまりに端正な顔立ちが、盆に澄ました水の、水面にさざなみがひとつ立たないがごとくに、しんと、揺るがぬことである。
 艶やかな黒髪に、抜けるような肌、ふしぎな深い青色の瞳をした、美しい娘である。だがそれだけに、これほど人形を愉しげに動かしていてさえ、表情がぴくりとも動かぬのが異様な感覚をよびさます。そう――それはまるで、この少女のほうこそが人形で、動いている少年の人形のほうが生命をもつ本体であるかのような、あやしい惑いを抱かせるほどであった。
 少年の人形が飾太刀をふるって、ガマ油売りのように紙をまっぷたつにしたり、その紙に筆で観客の似顔絵を描くやら、書をしたためるやらするたびに、まばらにだが拍手が起こり、かれらの前に置かれた容れ物に小銭が放りこまれる。
 こんな、まだ大人だとはいえぬ少女が、路上で芸を披露して稼ぎを得ていることに、ひそやかにかぶりを振るものもいなかったわけではない。だが、ほんとうのところ、彼女の素性や境遇について確かなことを知っているものなどいなかったのだし、いたとしても、あえてかかわろうとするものなどいない当節である。
 ただそうして、ゆっくりと、陽は傾き、街には灯がともりはじめる。
 芸を見守っていたひとびとも、やがては自分の用向きを思い出したり、飽いてきたりして、輪を離れていったし、そのぶん新たに足を止めるものもあったが、さすがにだんだんと観客は減ってくるのはいなめない。それをいえば、駅前を忙しく通行する群集の中には、そもそも大道芸などに足を止める人のほうが少なかった。ましてや、小銭を放ってくれるものの割合など、なにをかいわんやである。
 ふと――
 少女の、静かな湖水のような瞳が、魔法が解けたようにゆらめいた瞬間があった。
(…………!)
 刹那、人形が、手に持っていた紙片を取り落とした。
 さすがに、彼女の芸を一部始終見守っていたものなど皆無とはいえ、実はその日、芸が始まって以来、彼女がし損じたのは、それがただひとたびのことだった。
 はらり、と夕闇のしのびよる路上に舞い落ちる、白々とした紙切れ。
「お……おっと、すまん、堪忍な!」
 少年の人形がぱくぱくと口を動かした。
「急やけど、用事思い出してしもてん。今日は店終いやでぇ!」

 黄昏が宵に替わろうかという頃合である。
 いよいよ駅前は、帰宅する人々と、これから夜の街へ繰り出そうという人々とでごったがえしている。
 それに対して橘は小柄だ。人並みに逆らって進むのは容易ではない。
 気ばかりが焦る。息が上がった。
 さきほど――
 芸を披露していたとき、彼女はたしかに見たのである。
 観客の輪の後ろを横切った、背の高い人物の後ろ姿を――。
 いったいどうして、見間違うはずがあるだろうか。ひとえに、その人影を追うことだけを念頭に、長い旅を続けている橘なのだ。
 よもやこのようなところで行き当たることになろうとは。
 だが。
 行く手を阻む人のは群れである。しかしここで逃しては、次にどこで好機に恵まれるかわからない。必死に、人をかき分けようとするが、背の高い大人たちの壁が前に立つ。無情にも、濁流に押し流される流木のように、後退さえ余儀なくされる。
 橘の脳裏に、いつか見た夢の光景がよみがえる。
 あれもこんな血のように赤い夕陽の中でのことだった。
 陽を照り返す稲穂の海の中を、遠ざかる後ろ姿の影を追って、どこまでもどこまでも駆け続けているという夢である。
 いくら叫ぼうとしても声は出ず、ゆっくりとではあるが、一歩ずつ、捜す人の背中からは引き離されてゆく。
 そんな。
 視界がにじんだ。
 呼び掛けたくても、彼女は叫ぶことはできない。声を失っているのである。そのことは夢ではなく、現実だった。
「すんません! ちょっと通してんか!」
 甲高い声に、ひとびとはぎょっとして道を開けた。
 声を出したのは人形である。
 むろんあやつったのは橘自身であるのだが、まるで、それに助けられたかのように、悲愴な決意に燃える瞳で、前を見据え、彼女は進んだ。まっすぐに、進んだのである。

 何処に――。
 何処に行ったのだろうか。改札口までたどりついた橘は、息を整えながら、周囲を見回したが、目指す人影は目に入ってこない。
 立ち尽くす橘を、不審な横目で一瞥したり、ときには肩にぶつかったりさえして、人々の群れは彼女を取り残し、流れていく。
 まぼろしだったのだろうか。
 黄昏は魔性の跳梁する時刻だという。すれ違う人の顔がよく見えぬがゆえに誰彼(たそがれ)と呼ぶのだ。そんな魔の時が見せた、幻影だったのだろうか。
 うなだれる。
 じっとくちびるを噛んだ。
(――?)
 そのときだ。
 視線を落した橘の目に、映り込んできたもの――。
(花……)
 はっと虚を突かれたような表情で、彼女はそれに駆け寄った。
 傍を過ぎる人々が、いっそう迷惑そうに、ふいにしゃがみこんだ少女をよけて通った。無情な革靴たちからそれを守るようにすくい上げると、橘は、大切に両手で包み込むようにして持つのだった。
 ――否。まぼろしではなかった。
 それは、一輪の、小さな白い花だ。
 五枚の薄い花弁をそなえた、可憐な造作。
(ほうら、よく似合う)
 そっと、髪に花を挿してくれたときの、やさしい手のぬくもりとともに、深い声の調子までもをまざまざと思い出す。
 かのひとの、くれた花。
 橘は、とりたてて、植物に関する知識が豊富というわけではない。
 だから本当は、かつて髪に飾った花と、この花が同一だと言い切れはしなかった。だがそれでも……たとえ、すべてが偶然で、錯覚だったとしても、たまたま捜し人に似た背中を見つけた駅で、導かれるように手にした花だ。
 信じてみたい、と彼女は思った。
 顔を上げると、駅の表示が目に入った。

 ――東京行。

 彼女は、切符を買うと、吸い込まれるように、ホームへと歩みをすすめた。
 東京。
 かつてはとても遠く感じていた街だ。
 すこし、おそろしいようにも思う。
 そこに何が待っているとも、何も待っていないとも、まったくわからない。わからないのだが……。
 発車を告げるベル。
 そして橘は、その夜の列車に乗ったのである。
 手の中には小さな白い花――。
 それはあたかも、彼女を運命へといざなう片道切符のようだった。

(了)