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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


メコネの籤【The Lot of Mekone】

【0】
 これは、籤(くじ)だ。
 君の選択が明日以降の世界の運命を決める。
 目の前にはテーブルが二つ。テーブルの上には銀の小箱が1つずつ。テーブルの脇には二人のメイドが立っている。
 寸分の違いもない。
 ただし、片方の銀の小箱には、君らが欲しがってやまない「世界を救う鍵」がはいっている。
 もう片方は空だ。なにもない。あるのは絶望だけだ。
 二人のメイドは機械人形だ。同じ外見をもち、同じ服、同じ声をもつ。
 ただ一つだけ、心が違う。
 片方は正しいことだけを、もう片方は嘘だけを答える。
 質問が許されるのは一度だけ。
 さあ、君はどのようにして、どちらの箱を選ぶ?

 あわてて飛びのいた。
 水音がして、ただでさえ古ぼけて汚い草間興信所のじゅうたんにしみが広がる。
 広がった染みから、白くはっきりと湯気が立っている。こんなのかけられたら絶対にヤケドしている。
「ああっ、ご、ごめんなさい」
 零があわててあやまる。
 一度や二度なら笑って済ませられるが、最近とみに異常なほど零がそそっかしい。
 いや、零だけじゃない、なぜか能力者の知己がどことなく急にそそっかしくなった。
 りんごの皮をむいていてナイフを落とされたり、車を借りたらブレーキが緩んでたり。
 部屋に遊びにいったらなぜか床にトリモチがおちていて、ご丁寧にその上にスリッパがおいてあったりした。
(ちなみに、あれほど見事に転んだのは数年ぶりだ!)
 釈然としないまま、零が割れた湯飲みを片付けるのをみていると、扉がひらいて、この興信所に厄介と飯の種をもってくる、広域犯罪捜査共助準備室の第二種特殊犯罪調査官である榊千尋があらわれた。
 いつもどおり、秋の日差しのようにあたたかい笑みを浮かべていた榊だが、零と床にある湯飲みのかけらをみた瞬間、顔をこわばらせた。
 そして包帯がまかれた左手を額にあてて、小さな声でつぶやいた。
 どうやら、ここも感染し始めてるらしい。と。

「コンピュータウィルス?」
「そう、警察庁と総務省では"Gorgon"と呼んでます。三つのプログラムからなるウィルスでね。"Sthenno"が負荷をかけてコンピュータ機能を麻痺させ、"Eurysle"がネットワーク機能を掌握し、感染を拡大させる。そして最終段階の"Medusa"が起動すると、スクリーンセイバーが動くのですが、これをある種の人間がみたら、強い深層暗示にかかるみたいで」
「ある種……って、おい、お前が出てきたって事はまさか」
「そう、簡単にたとえるなら『異能なる同族を無意識のまま排除せよ。敵意なく偶然を装い排除せよ。特異な力もつ者達よ』ですかね?」
 同族を……無意識のままに……ということは、零の、知己のあの偶然ともいえる数々の事故は……?
「まさか、お前のその手は?」
「ああ、これ?」
 ひらひらと包帯が巻かれてる手を振る。
「ヤケドです。部下にコンビニのお弁当を温めてもらえるようお願いしたら、見事にお弁当とヘアスプレーを無意識に一緒に電子レンジにいれてくれましてね」
 ……そんなことをすれば、爆発する。
 よくヤケドだけですんだものだという、こちら側の驚愕をしってか知らずか、笑顔で涼しくうけながしつつ榊は続けた。
「ウチの情報犯罪捜査担当の段道(だんどう)技術調査官がいうにはね、オリュンポス系の一部のひね曲がったハッカーが作成した代物でだっていうんです。ああ、オリュンポスっていうのはハッカーのコミューンの一つで、全員がギリシャ神話にかかわるハンドルネームを使ってハッキングしてるみたいですね。ま、コミューンといっても仲間じゃなくて中には対立も抗争もあるみたいですけど」
「それで?」
「5日前、テトラシステムの爆破事件の直後から現れたこと、それとプログラミングの癖? からテトラから盗まれたウィルスじゃないかという事と、新宿あたりがウィルスの最初の発生源らしい、とまでは突き止めたんですが。それ以降お手上げ」
 なるほど。
 ウィルスを盗んだ奴を探して欲しいということか。
「早くアンチウィルスのワクチンを作らないと、"Gorgon"の暗示はどんどん深刻になっていくのはわかってます、ただ、アンチウィルスを作るにはマスターファイルの情報がないと無理らしいんです。それと、テトラシステム……いえ、オリュンポス系でもかなり異能力者に対して過激な行動をとるハッカー、Fuliesの系列の者が日本に来ているという情報も得ました。盗まれたのはただのウィルスだけではないとなると、マスターの回収には危険があるかもしれません。すでに感染しているかもしれないウチの部下では何が起こるか、おこされるか予測もつかない」
 言葉を切って肩をすくめると、携帯電話を取り出して画面を見せた。
「こんなものも届いていることだしね」
 榊が持つ携帯電話の白い液晶ディスプレイの上には、蒼いあざやかな文字で英文が刻み込まれていた。
 "Gorgon"を打ち倒す"Perseus"は"Prometeus"が知っている。――"Delphi"と。
 さて、どうする?


【1】
 コーヒーの湯気が、薄くなって、やがて消えた。
 榊が説明する間に、すっかり冷め切ってしまったようだ。
 新しく入れ直すかどうか、草間興信所の予算と今の状況を天秤にかけて思案するシュライン・エマの横で、黒月焔が携帯をいじりながらつぶやいた。
「珍しく依頼の話が二つも着たと思ったら、両方とも同じうぃるすとやらが関わってくるとはな」
「どういうこと?」
 耳が聡いシュラインが聞き止めて問い返す。と、ふと我に返った様子で苦笑とも微笑とも言えない表情をうかべて焔が手を振った。
「あ、いや。なんでもない」
 あわてて焔はずいぶん旧式の携帯電話をレザーパンツのポケットにしまい込む。
 この時、シュラインが焔の奇妙なつぶやきを気にして問いつめていれば、この事件の展開は変わっていたかもしれないが。
 未来を予知できない人間にソレをいうのは酷だというものだろう。
 それに、まさか草間とまったく正反対の依頼を焔が受け取っていたなど。
 そして「面白そうだから」で両方の依頼を受諾したなど、まともな考えでは推測できるわけがない。
 ヘタすれば双方に対する裏切りだ。
 さらに付け加えるならば「感染」した零がソファーに座る面々の上に、またまた熱湯をぶちまけようとしたのも間が悪かった。
「零ちゃん!」
「うわあ」
 情けない叫びをあげて、榊が飛び退く。
 さっきの焔のつぶやきもすっかりわすれ、あわててシュラインが零の手を取る。
 熱湯入りやかんが、取り落とされる寸でのところで零の手からシュラインの手に渡る。
「あっぶねー」
 少年らしい機敏さで榊より一瞬早くとびのいていた御崎月斗がため息をついた。
「くそっ、巫山戯たマネしやがって。絶対見つけだしてやる!」
 黒い夜闇のような瞳に、あからさまないらだちを浮かばせて、月斗が吐き捨てる。
 セーターの袖口から見える健康的な小麦色の手首に、白い、いや、白すぎる包帯が見えた。
 朝起きてベッドから降りたら、足下にコタツのコードが罠のように張ってあり、寝ぼけたまま引っかかり、そしてバランスを崩して倒れ、手をついたまでは良かったが、体勢がわるかったのか嫌というほど手首をひねってしまったのだ。
 それだけじゃない。
 くるくると良く動く大きな瞳の脇、頬の上の部分にはバンソウコウがぺったり張り付いている。
 ここのところ期末試験やなにやらで忙しかった自分を後目に、流行のネットワークゲームにはまっていた弟たちがあっさりとウィルスの罠にかかってしまい、結果このザマである。
 今は自分だけが「罠」の対象であるが、このまま症状が進行すれば弟たちが別の誰かを傷つけてしまうかもしれない。
 それだけでも恐ろしいが、傷つけた弟たちの心に、傷がつくかもしれない事がもっとおそろしい。
 現に、出掛けに、なぜかいきなりとんできたカッターを避けきれず、頬に薄い傷をつくってしまったのだが、怪我をした月斗より早く、弟たちが泣き出してしまったのだ。
 怪我をさせてごめん、と。
 ――悪意のない攻撃は、された者よりした者が深く傷つく。
 指先でバンソウコウをなでて顔をしかめる。
 こんな卑劣なやり方は、許せない。
「ハッカーだかなんだかしらないけど、俺は絶対ゆるさねーからな!」
 足で床を蹴る。
 と、その音に驚いたのか部屋の隅にひっそりとたっていた少年が肩をすくめた。
「あ、悪い」
 月斗がいうと、月斗よりずっと年上の少年は柔らかな微笑を浮かべて顔を左右に振ると、銀色の瞳を半分ふせるようにして言った。
「いや、ちょっと驚いただけだから」
 かすかな動きに、細い黒髪がさらりと揺れる。
「ハッカーか」
 零から取り上げたやかんに入っていた熱湯を、狭い台所のシンクに捨てるシュラインの背中をみながら、鷹科碧海はつぶやいた。
(そういえば碧は千尋さんの弟さんに手を貸すことにしたとか言っていたっけ……)
『悪ィ、あお。
 ちょっとアキちゃんのオシゴトのオテツダイする事になったから、晩飯一緒に喰うの無理。
 だからって晩飯くわずに居ちゃダメだからな!』
 携帯に文字が浮かんでる。
 所々に顔文字が多様されているその文章からはそれ以上の事実も、それ以下の現実も見えてこない。
(千尋さんの弟さん……ハッカーらしいって聞いたけど)
 何も起こらなければいい、と想う。
 応接テーブルに、観光雑誌から切り取ったやたらカラフルな都心地図を広げながら、草間と打ち合わせしている榊に目を向ける。
 時折、左手をかばうように後ろに持っていくのをみて、心の奥がかすかに痛んだ。
(また千尋さん怪我してるのか……)
 最近なんだか危ない事ばかりだ。
 慣れているから大丈夫、とあの人はいうけど。
 確かにあの人の仕事の危険さからすれば、大したことのない怪我なのだろうけど。
 それでも、だからといって痛みが消える訳じゃない。
 いつも笑ってばかりで、痛みなんて感じさせない微笑みで。怪我なんかしてないような振る舞いしている。
 だから、よけいに。
 あの人の痛みが分からないのが「痛い」。
 白いニットの胸元をつかむ。
 ――役に立てればいい。それができないのならせめて。
(自分に痛みがうつればいいのに)
「早く治さないと」
 唐突に自分の心を読んだような声に、碧海は再び驚く。
 と、シュラインが腰に手をあてて碧海の隣にたっていた。
「零ちゃんが感染してるなら、ここに来る調査員達があぶないでしょ。普通じゃないから。武彦さんも鈍いから巻き込まれるに決まってるし」
 決めつけるような言い方に、思わず笑いがでる。
「そうですね」
 早く、終わればいい。誰も傷つく事なく。
 シュラインと碧海が同じ気持ちうなづく。と、月斗が相変わらずの元気さで、ソファーを乗り越えて草間の腕を引っ張った。
「んで、草間のおっさん、そのメッセージ見せてくれよ」
 テーブルに載せられた榊の携帯を取り上げる。
「このペルセウスってのがワクチンだとしたら、案外ゴルゴンの構成を真逆にしたらワクチンが作れたりしてな」
「それ、やってみたんですけどね。ダメでした」
 しょぼーん、と変な擬音をつけくわえながら榊がいう。
「プログラムの部分部分にプロテクト……ああ、保護機能がつけられてて、パスワードがないと暗号が解読できないんですよ。解読器にかけてもいいらしいんですが。推定三十四年かかるらしいんですよねぇ、解読器」
「推定三十四年もかかってたら、草間のおっさん、年金生活どころか墓に入ってるじゃん」
 月斗がいう。
「失礼なガキだな、俺はまだ二十代前半だ!」
「……武彦さん」
「嘘デス、ゴメンナサイ。鯖ヲ読ミ過ギデス」
 鋭いシュラインのツッコミに、ぎこちなく草間が反応する。
「ともかく新宿をさがしてみましょうか」
 広げられた地図に、赤いペンでマーキングする。
 かなりの広範囲だ。
「ブロック分けして手分けするしかないわね」
「っとー、俺は俺でやらせてもらうからな」
 それまで黙っていた焔が言う。
「ええっ」
「住所や地名に乗ってる新宿だけが「新宿」とはかぎらんだろうが」
 無造作に椅子にかけてあった、黒いロングコートを取り上げると、焔がサングラスをずらし、その向こう側から深紅の目でシュラインをみた。
「どんなに頑張っても一見さんには、入れない界隈があるって事だ。おわかりか? お嬢ちゃん」
 人差し指を伸ばし、シュラインを刺す。
「格好つけないで。映画の見過ぎよ」
 とがめるような台詞だが、口調はからかうように弾んでおり、蒼い瞳は信頼に満ちていた。
「じゃ、そう言う事で。俺は行く。何かあったら携帯に連絡くれ」
 影のように、音もなく動くと、古びたドアをすり抜けて黒月焔は草間興信所を出ていった。
「まったく」
 いたずらっ子を見る母親のような目で、シュラインは数秒焔が出ていった興信所のドアを見ていたが、気合いをいれるためか、一度手を打ちならすと手際よくブロックを分け、メンバーを分けた。
「だいたい、こんな所ですかね? 私も一度本庁にもどってから、このエリア中心に出回ってみます」
 榊は言うと、同じエリア担当の月斗と碧海を呼び寄せ、必要なモノなどを話はじめた。
 三人の様子を横目でみながら、シュラインは最後のエリアを赤い丸でかこみこむ。
「新宿なら、彼の方がくわしいかもしれないから、連絡しておくか」
 おそらくこの草間興信所で三本の指にはいるだろう、新宿を知り尽くしている青年の顔を浮かべる。
 彼なら、きっと自分たち以上の情報を手にしてくれるだろう。
 その、美しすぎる顔と恐るべき話術でもって。


【2】
 駅の構内はすでにラッシュが始まっていた。
 冬らしくコートやセーターで着膨れしている性か、他の季節よりずっと込み合ってみえる。
 駅を出てエルタワーの方に歩くと、シュライン・エマの視界に目的の人物が飛び込んできた。
「待たせちゃったみたいね」
 ガードレールに寄りかかる、金の瞳もつ青年に言う。
 と、青年――斎悠也は、軽く手をあげて答えた。
「美人に待たされるのは嫌いじゃないですから」
 動きやすさを重視した、メンズもののコーデュロイのパンツに、体形がわかりにくいざっくりとした手編みセーター、そしてなぜかさほど寒くないのにコートにマフラーという姿のシュラインを見ながら、微妙なイントネーションをつけつつ言う。
 が、シュラインは肩をすくめて悠也の額をつついた。
「そういう「武器」は効果がある人に使いなさいね」
「……最近みなさんに、よくそういう類の事を言われます」
 長い手足を器用にあやつりながら、悠也は立ち上がった。
「さて、行きますか。それにしてもペルセウスとはまんまな命名ねぇ……」
「まんま、というと?」
「ゴルゴンを倒す、ならそれはウィルスを倒す。つまりはワクチンって事でしょう?」
 人ごみを抜けながら、シュラインはすらすらと答える。
 なるほど、と悠也は相槌を打つが、実のところ悠也もまったく同じ考えをもっていた。
 ならば。
「鍵はプロメテウスですか」
「プロメテウスの意は「先に考える者」だけど」
 エピメテウスとプロメテウス。
 後に考える者と先に考える者。
 だが、それに引っ掛けているとするならば「エピメテウス」が出てこないのはおかしい。
「むしろそちらより、太陽の火の方が有名ですが」
「人に火を与えるために、神を裏切り盗み出した。か」
 んー。と、うなりながらシュラインは空を見た。
 灰色のそらはどこまでも重く、白い雪の結晶は当分舞い降りそうにない。
「港区なら日赤に像はあるけれどねぇ」
 像じゃない? なら、何だ?
「新宿で大きな当りの出た宝くじ売り場ってあったかしら?」
「は?」
 唐突過ぎる思考の飛躍に、思わず悠也は立ち止まり、瞳を見開いた。
「いえ、ただの連想」
「そうですか……てっきり草間さんの事務所が年末ジャンボ宝くじにすがるまで窮乏したかと」
 笑えない推測を口にして、悠也は安心したようにため息をついた。
「ともかくさがしてみますか」
「新宿界隈の占師等や占いゲーム機等あたりを中心にやってみましょう」
 決まれば、フットワークは軽い。
 地図と悠也の記憶から、ゲームセンターを探し出しては、手がかりになりそうな機械をさぐってみる。
 電子的な騒音に、耳がおかしくなりそうになる。
「んー。占い機じゃないのかな」
「テトラシステムが占い機を出したという話は聞きませんね」
 手遊びなのか、クレーンゲームで赤い猫のぬいぐるみを吊り上げながら悠也が言う。
「もともとがネットワークに特化した会社ですからね。ネットゲームとか、ネットワーク系のコンピュータや機械が主ですね。買収もそのあたり中心だったはずですし」
 さすがは理工学部に所属する現役大学生だけある。
 ついでにシュラインに説明しながら、吊り上げたばかりのぬいぐるみだのキャラクター時計だのを餌に、ゲームセンターにいた少女達をひっかけ、占い師についての噂を聞くが、あまり成果はあがらない。
 しいて言えば「新宿の父」とかいう占い師が良くあたる、といったところか。
 どちらにしてもあまり事件とは関係なさそうだ。
「二人ではラチがあきませんね」
 いいしな、悠也は懐から蝶の形に刻んだ和紙を数枚出す。
 白い蝶の式だ。
 形の良い唇から、歌うように呪が漏れる。
 そして、吐息を吹きかけた瞬間、冬の空に季節はずれの白い蝶が飛び立っていく。
「これで、よし。とりあえず他のエリアも探してみましょう」
「そうね」
 一度駅前に戻ろうと、大通り沿いを二人が歩いていた、ちょうどその時だった。
 紀国屋書店で、悠也は思わず声をもらした。
「あ」
「何? どうしたの?」
「いいえ、何でも」
 というか、何でもないどころではない。
 目の前を今、赤い髪をした男が通り過ぎていったのだ。
 それだけなら特に珍しいことではない。
 だが、その横顔に今にも動きそうなほど生命力を感じさせる龍の顔の刺青があったとしたら。
(黒月さん、が書店に?)
 何の用かはわからないが。
 今追わなければ、という気がした。
「すみません、ちょっと用事」
「ええ?」
「あとですぐ連絡しますから」
 シュラインが止める間もなく、悠也は駆け出していた。
「……まったく。いつもながらしょうがないんだから」

 
【3】
 悠也が消えた雑踏の向こうをしばらく眺めていたが、そうしていてもラチが空かないことに気づき、シュラインは今までの考えをまとめるために、近くにあったカフェに入った。
 注文どおりに運ばれてきたカフェ・ラテから、とりとめなくたゆたう湯気を眺める。
 五日前のテロの情報にしても、ニュース以上の事はわからない。
 携帯電話に妙なデータが入っていた、という噂すら聞かない。
(しかし何故榊さんの携帯に連絡が……?)
 携帯電話にメールが入ったということならば、まずメールアドレスを知らなければならない。
 どうやってメールアドレスを知った?
 ハッカーにしてみれば、簡単なことなのかもしれない。だが。
 “何故、榊千尋の携帯電話にメールを送った”のだ?
 必然性があった? あるいは。
「プロメテウスは榊さんの、知っている人物の中にいる……?」
 Delphiとはそもそもパルナッソス山の南斜面にある、ギリシア最古の、最も有名な神託所だ。
 また太陽神アポロンの神託所でもある。
 ――ならば?
(送信名から榊さんの弟さんご存知そう?)
 “Tisiphone”の名前を持つオリュンポス系のハッカー。
 そしてテトラシステムのナンバーツーといわれる研究者兼チーフプログラマー。
 盗まれたなら取り返すはずだ。なら、弟もまた兄と同じようにDelphiの居場所を探している?
 焔はあの時なんと言った?
 (珍しく依頼の話が二つも着たと思ったら、両方とも同じうぃるすとやらが関わってくるとはな、だわ)
 店を飛び出し、 ダッフルコートのポケットから携帯電話を取り出し、目当ての番号を探し出すと通話ボタンを押した。
『何か、わかりました?』
 落ち着いた声が返る。
「わかったわ。この事件には榊さんの弟さんも絡んでいる。そうね?」
 しばらくの、沈黙。
『まいったな。いつもあなたの推理力には驚かされる』
 くすん、と鼻の奥でわらっているのがわかった。
 だがそんないつもながらの能天気さにごまかされない。
「そして、あなたは「プロメテウス」の正体に気づいている」
 一言一言に力を込める。
 榊が息を飲んだ。
『困りましたね』
 ぽつりとつぶやく。
 彼らしくもない、冷たく硬い声で。
『お察しの通り、私はおおよそ「プロメテウス」が誰かは知ってます。確証はありませんけどね』
 携帯電話の向こう側で榊が肩をすくめたのがわかった。
「じゃあ、何でこんな無駄足を折らせるのかしら?」
 新宿を探せ、なんて漠然とした情報より、「プロメテウス」本人を探した方が早い。
『――メコネの籤』
「え?」
『もしプロメテウスが”メコネの籤”をこの事件に持ち込もうとしているのであれば、プロメテウス自身が危ない』
「どういうこと?」
『詳しく説明する事はできません。相手は電子ならばどこにでも介入できる女王ですからね』
 誰の事をさしているのだ。
 わからない。
『ヒントを出しましょうか……Delphyneはそもそも「創造の子宮」を意味する処女母神を意味してるんですよ。そして、使徒にはユダが二人いる』
「ちょっ、どういうこと? あっ」
 唐突に会話を切られた。
 携帯電話の向こうからはもう、榊の声は聞こえない。
「……しょうがないわね。こちらも奇策でいかせてもらうわ」
 あんなヒントともいえないヒントで何を探り当てろというのだ。
「私には私のやり方があるんだから」
 ダッフルコートのフードを目深にかぶり、長い髪を隠す。
 セーターとマフラーで体形もあいまいになっているはずだ。
「こういうときは身長が高いのが割合役に立つのよね」
 ろくでもない役の立ち方だけど、と心中でつぶやきサングラスで蒼い瞳を隠す。
 これで外見的特長はわかりにくくなったはずだ。
 あとは、とつぶやくとシュラインは息を整え目を閉じた。
 耳から余計な音を遮断し、記憶の中にある一つの声だけを響かせる。
 抑揚、テンポ、そしてしゃべる時の癖。
 ゆっくりと、スローなぐらい緩やかで落ち着いた口調。
 少し低めの、けれど男性にしてはやや高めの、少年のような声を繰り返す。
 唇で言葉の形をなぞる。
「よし」
 言葉を吐く。
 と、それはもはやいつものシュライン・エマの声ではなく、先ほどまで電話で話していた榊千尋の声そのものだった。
「榊千尋にメールを送る必然性があったということは、相手は榊さん……もしくは弟さんを探しているということ」
 ならば同じ姿、は無理でも声だけで相手がひっかかってくれるかもしれない。
 路地を歩く。
 手当たり次第に情報屋にテロの情報、Delphiの先を訪ねる。
 無駄かもしれない。
 と想いかけた時。
 繁華街のネオンから離れた路地裏。
 ひっそりと水晶に手をかざす老婆がいた。
 神託を告げると噂になっている、と情報屋が教えてくれた。
 そしてここ数日、そこから行方をくらましている奴もいる。と。
 危険かもしれないが、それ以外に道はなかった。
 こうしている間にもウィルスは電子の網を潜り抜け、ひろがっていく。
「Delphiについて何かしりませんかね?」
 榊の口調を真似して、占い師の前に座る。
 と、うさんくさい黒いローブをまとった老婆が、ちらりと目をあげた。
「あんたの前に……」
「え?」
「あんたの前に二つの道がある。どちらかは天国へ、どちらかは地獄へつながっている」
 何を言っているのだろう、と想った。
 だが、老婆の目を見ているうちに、何かにとらわれたように動けなくなっていた。
「道の前にはそれぞれ同じ姿形をしている天使がいるが、どちらかは悪魔で、天使のほうは正しい事だけを答え、悪魔は嘘だけを答える」
 しわがれた指が、目の前にかざされた。
「あんたは一度だけ質問して、天国の道を選ばなければならない」
 何か、ひどく甘いにおいがした。
 どこか頭の奥が紫がかったもやに閉ざされた気がした。
「どうする?」
「……私は」
 それでも何とか、声を作ったまま答えようとする。
「双方共に「嘘をつかない」かを聞く。YESorNOで質問してNO側が本物……」
 のはず。
 そう思った瞬間、世界が回った。
 どこかで何かが笑っているのを感じた。
 椅子から崩れ落ち、地面に倒れる。
 間違った、のだ。
 それは天国じゃない。
 ソレハ天国ジャナイ。
 ソレハ……。

 
【4】
 頬が冷たい。
 そしてなんだかざらざらする。
 手足も妙にこわばって、痛い。
 ぼんやりとする意識のままシュラインは感じた。
「おい、どういう事だ。こいつティシポネじゃないぞ」
「間違ったようだが、まあいい。あの声を使ったということはティシポネを知っているという事だ」
「人質にはなるだろう」
 ぼそぼそと、男達が話している。
(どういうこと? ティシポネって……榊さんの、弟さん?)
 はっ、と息をのんだ。
 そうか、と唇をかみしめる。
 声に注意しなければならない、そう思っていた筈だ。
 だがそれなのに自分は捕まった。
 しかも人質として。
(冗談じゃないわ)
 普通の女性なら混乱し、涙もでそうなものだが、怪奇探偵の事務所にころがりこみ、あまたの事件にかかわってきたシュラインにとっては、この程度の事態など、日常とまではいかなくとも、まだまだ精神的余裕を持っていられる状態だった。
 榊にメールを出した。
 ということは、内心保護を求めているということだろうか。
 保護は大げさでも、手助けを必要としている?
 冷静に事象を分析する。
 一つ、プロメテウスは榊さんが知っている人物である。
 一つ、この正体不明の男達は「ティシポネ」と自分を間違えた。
 一つ、プロメテウスが”メコネの籤”をこの事件に持ち込もうとしているのであれば、プロメテウス自身が危ない。
 ぼんやりと薄暗い視界の中、コンクリートの床を睨みながら考える。
 ティシポネは、自分の記憶に間違いがなけらば榊の弟である榊千暁であるはずだ。
 ならば一番目と二番目の事実から、プロメテウスは榊千暁だと推察できる。
 問題は三つ目だ。
 メコネの籤、とは何だ?
 ひきつってきた腕を動かそうとするが自由にならない。
 どうやら手首を粘着性のテープでぐるぐる巻きにされているようだ。
(メコネの籤、か)
 確か牛の分け前を巡ったギリシャ神話だった筈だ。
 人と神で牛を奪い合い、メコネの神殿においてプロメテウスが策略をもちいて、神に骨を選ばせ、人が肉を食らう事をみとめさせたという。
 もしプロメテウス――榊千暁なら、彼は誰に骨を選ばせようとしている?
 そして人に選ばせようとしている肉とは何だ?
(おそらく、肉はプログラム)
 それを、誰に?
「お目覚めのようだな」
 茶色いローファーを履いた足がみえる。
 シュラインは顔を無理にひねって上をみた。
 と、そこには白髪に病的な白さを持つ顔をした、やせた男がいた。
「ええ、とっても良い目覚めだわ。紳士的な対応に感謝しなくちゃね」
 唇を三日月の形にゆがめて笑う。
 聞かなくてもわかる。この男がデルファイだと。
「ずいぶんと気が強い女性だ。怖くはないのかね?」
「身の危険を感じないからかしら? それより、何が目的で榊さんの携帯電話にあんなメッセージを送ったのかしら? 内心保護を求めてると」
 デルファイは答えない。
「もし保護を願うというのなら、そのマスターファイルおよびテトラから盗み出したあらゆる資料を交換条件に、何とかできるかもしれないけど?」
 そんな気はないのだろう。
 なければシュラインをここまでつれてくる事も無かっただろうし。
 人質にしようとは想わないだろう。
「目的は何?」
「なぁに、ちょいと内の下っ端がヘマをやってね」
 濁った灰色の目でシュラインを見る。
「起動させなくていいウィルスを起動して、何人か感染しやがった」
 なるほど、と想った。
 だからペルセウスが……ウィルスのワクチンが欲しかったのだ。
「もちろん、ワクチンの他にも作ってもらうつもりだがね……たとえばあの暗示を破壊のみに特化させたものにすり替える、とか」
「……心霊テロ」
 ぼそり、とつぶやくと同時に男達の正体がみえた気がした。
 密やかに、だが、確実に体をむしばむ毒のように世界に広がりつつある破滅を至上とする、霊的テロリストの集団を。
 テトラシステムをおそったテロリスト――それは『虚無の境界』。
 であるなら、自分を盾にとってプロメテウスにワクチンを、そして新たなテロに使えるウィルスを開発させようという腹なのだろう。
 世界を無に返すために。
「さて、お仲間が来たようだ」
 ぐい、と襟元をひっぱられ無理に起こされる。
「感動の対面をして、せいぜい命乞いしてもらおうか……我々の目的を果たす為に」
「そううまくいくかしら?」
 意識するより早く、シュラインは宛然と微笑んでいた。
 傍目には虚勢と見えたかもしれない。
 だが、それが虚勢ではないことを。
 他の誰でもない彼女が知っていた。


【5】
 歪んだ結界から抜け出した先は、コンクリートで四方を囲まれた地下倉庫だった。
 そこいら中においてある木箱には、大量のおがくずと、そして、鈍く光る鉄のかたまり……ライフルだの拳銃だの、果てにはロケット砲とおぼしきものまで詰め込まれていた。
 いくつか蓋をされたままの木箱の上には真新しいディスプレイとキーボード、そしてパソコンなどがおかれており、4名ほどの男が必死でキーボードを叩き続けていた。
 時折甲高い電子音がなるのは、おそらくパスワードロックを解除するのに失敗している音なのだろう。
「すごい」
 ささやくように碧海がいう。
「まったく、大した情熱です」
 嫌そうに言うと、榊はポケットから携帯電話を出した。おそらく応援の警察官を呼ぶつもりなのだろう。
 だが、それは果たせなかった。
「おい、あれ」
 月斗が顔をこわばらせて、倉庫の中央を指す。
 そこには、いつもより若干着ぶくれしたシュライン・エマが、両手をガムテープでぐるぐる巻きにされたまま、頭を拳銃でつつかれながら、歩いている姿があった。
「あらら。ま、こうなるんじゃないかなと想ってたりしましたけどね」
 いつも通り緊迫感のない声で榊がいう。
「いい加減姿を現したらどうかね?」
「そうします」
 あっさりと、榊が答える。
 結界を抜けた時点で、おそらく気づかれていたのだろう。
(何とか、しなきゃ)
 碧海は想ったが、この状況ではどうにもならない。
「そちらも出てきて頂きましょうか」
 容貌を年老いたものに見せている白髪をうっとおしげに振り払い、シュラインを人質にとっている男が笑った。
「Delphi」
 と、榊によくにた声が響いた。
「早く出てこないと、恋人がどうなってもしらないぞ」
 せかすようにデルファイと呼ばれた男が続ける。
「まさか草間さんとか……ねぇか」
 月斗が苦笑する。
 いくつかの足音が乱雑に響いた。
 そして。
「シュラインさん?!」
 聞き慣れた声……焔、悠也、碧が、異口同音に彼女の名前を呼んだ。
「ごめんねぇ。やっちゃった」
 ぺろり、と舌を出して笑う。
「本当にやらかしてくれましたね。驚きです」
 ひょい、と肩をすくめて榊がいう。その後にあたりに聞こえるか聞こえないかの声で「まあ、人質になって取り乱さず、冷静でいるあたりは上出来」とつぶやいた。
 かき消えた榊の言葉の後に、酷く榊に酷似した声が聞こえた。
「ヒロ」
 視線の向こうに、榊によくにた、だけど若干おとなびた顔立ちに肩まで伸ばした髪を持つ男がいた。
「さて、どうしたモノかな。これは。実に感動的じゃない双子の再会だな。アキさんよ」
 冗談めかせて言った焔の言葉が、やけにコンクリートの壁に反響しつづけていた。
 だが、当の双子同士は、視線を合わせようとはしない。
 一人は悠然とその存在を無視し、もう一人は怯えるように視線を逸らして逃げた。
「まあ、一応要求をききましょうか。聞かなくてもだいたいわかるのですが」
 物事には手順というのがありますからね。
 悠也は言って、近くにある空き箱の端に腰かけて足を組んだ。
「デュカリオン計画を発動させるキーワードと、ワクチンの作成だ」
「予想通りですね。そんなことだろうとおもった」
 榊がうなづく。
「私としてはワクチンがいただければそれでもかまわないですが」
「千尋さんっ」
「アホ榊っ、てめぇ」
 鷹科兄弟がそれぞれ抗議するように叫んだ。が。
「まだ死者がでたわけじゃないですからね」
「超法規的措置というわけか。なるほどな。法を杓子定規に解釈するだけなら、六法全書もった幼稚園児にもできるからな」
 司法取引をしよう、ということなのだろう。
 テロリストを見逃すかわりに、シュラインとワクチンをよこせと、逆に要求しているのだ。
「なんて言うか、したたかなヤツだな。おっさん」
 呆れたように月斗がいう。
 彼も同じで、ワクチンが手にはいり、弟たちが元にもどればいいのだ。
 今テロリストを倒す必要性はない。
「相変わらず、警察官らしくない台詞ね」
 頭に銃をつきつけられているのをものともせず、いつもの調子でシュラインが皮肉をいう。
「そうでしょうか? 警察官僚らしい考えしていると想いますよ。国家としての国をどうまもるかが私には重要な事ですから」
 あはは、と世間話をするように笑う。
「でも、もしそれに応じてくれないというのなら実力行使ですかねぇ」
 周囲を見渡す。
 倉庫にいるテロリストは二十名。
 戦って勝てない数ではない。
「ここでシュラインさん尊い犠牲になってください。とかいったら私だけ悪人ですよね」
 微かにうつむいて、目線だけを上げる。
 勝手に、体が震えた。
 月斗はふるえを止めるために両肩をだいた。
 榊の緑の瞳が、冷たく、底知れない輝きに満ちていた。
 悪魔より狡猾に、神よりすべてを見抜くように。
(怖い)
 碧海も、また、かつての事件の時と同じ榊の眩い瞳に、胸を押さえる。
「さて、シュラインさん、最後の言葉はありますか?」
 冷たい榊の瞳に、本当に見殺しにされるのではないかと、背筋が凍る。
(何、どういうつもり)
 瞳で問いかける。
「最後の、言葉はありますか?」
 もう一度、聞かれる。
 最後の言葉?
 最後の……?
 はっ、と息をのんだ。
 そして。
「あああああああああぁあぁぁ」
 腹のそこから、力一杯叫んだ。
 自分の持ちうる限りの最高の高音で。
 人の聴覚限界に近い高い、高い、オクターブのかかりすぎた声で、咽が痛むまでさけんだ。
 たまらず、デルファイが耳を押さえた。
「焔さん、悠也さんっ、月斗くん」
 榊の真意を読んだ碧海が、気の裂帛を放ち、手近にあった木箱を飛ばして壊すと同時に叫んだ。
「承知してます」
 混乱の中、短く告げると、悠也は流麗な動作で木箱をけって地面に降りると、まるで踊りに誘うように手刀を空にすべらせ、デルファイの喉元を突いて、シュラインを抱き留め保護した。
「よし、こい。伐折羅大将! 急々如律令っ」
 ポケットから符と小さな木像を取り出し、月斗が呪を唱える。
 と、顔を溶岩のごとくそめ、身の丈ほどある宝剣をふりかざした神将が現れる。
「いけっ」
 人差し指と中指で符をはさんだまま、自分の額の真央と、敵の場所を指し示す。
 残像を残しながら風のごとく間合いをつめた式神の剣が、武器のつまった木箱ごと敵をなぎはらう。
「若いってのは、良いことだな」
 自分もまだ若いくせに、焔は老人ぶって言うと、自分に向かってライフルの照準を合わせようとしていたガスマスクの男二人を睨んだ。
 刹那、空気が歪んだ。
 焔から一瞬の、しかしそれだけに鋭い殺気が放たれた。
 全身にからみつくように彫り込まれた龍が、焔の気が揺らぐのにあわせてなまめかしく身じろぎした。
 瞬間、焔から照準をずらし、お互いの頭に銃口を向ける。
 幻覚ではない。
 強い催眠の力。死してなお説けない催眠の能力を解き放つ。
 理性は残したまま、体だけが焔の想うままに動かされていく。
 そして。
 銃声がして、二人の男の頭が、まるでトラックにぶつかったスイカの用に砕け散った。
「っと。これはあまり、教育上によろしくないか」
 頬に一滴だけ跳ね返ってきた返り血を指先でぬぐって、ぺろりとなめて焔が笑った。
「アキちゃん!」
 血にまみれた戦場と化した倉庫を、アキが駆け抜ける。
 見止めるが早いか碧もそれを追う。
 そこに襲いかかろうとする男達を、ある者は拳で、ある者は回し蹴りで昏倒させながら後を追う。
 と、アキは動いているパソコンの一つの前に来ると、ピアノを弾くように旋律的にキーボードをはじきはじめた。
「解除するぞ」
「え」
「ウィルスを解除するから、防御頼む」
「合点承知っ!」
 短く言うと一瞬だけ瞑目し、息を整え、気を満たしていく。
「おらおら、近寄るとあぶねーぞ! 今日の俺はマジに出血を大サービスだからなっ」
 言葉通り、気の白い光を体に当てられた男が、内から血をはきながら数メートル吹っ飛ばされる。
「そろそろ、終幕にしましょうか」
 ほとんどテロリストを制圧した、と関知した悠也が、シュラインの手からガムテープをはぎとってつぶやく。
「適当に身をまもっててください」
「適当にって……もうっ!」
 シュラインが聞き返す間もなく、悠也は倉庫を走り抜けシュラインの視界から消える。
「それを持って行かれると、困るですよ」
 逃げようとしていたデルファイの前に、唐突に現れしな悠也は言葉にした。
「な、何の事だ」
「デュカリオン計画。時代錯誤もいいところです」
 腕を組み、呆れた表情をつくりあげて言う。とたんにデルファイが胸を押さえた。
「なるほどやはり「そこ」でしたか」
 突如、奇声をあげて、デルファイが悠也に遅いかかる。
 それはもはや正気ではない、目が血走り、口からよだれすらたらしながら、手をめちゃくちゃに振り回す。
「最後のあがきにしては、っつ」
 頬を爪がかすり、一筋の血が流れる。
「このっ」
 手加減する余裕などない。
 地面を蹴ると、片足を軸にして足を斜めに振り上げた。
 鈍い音がして、デルファイの鳩尾に悠也のつま先が吸い込まれる。
 胃液を吐きながらデルファイは倒れると、エビのようにのたうち回り、奇声とも悲鳴とも突かない声を上げ続ける。
 変だ、と感じた時は遅かった。
 血を吐いて、病的な白さをしていた顔が、土色に変化した。
 息が、途絶えた。
 あわてて抱き起こして首筋を見る。と、小さい牙がささったような痕があった。
「まさかっ!」
 おいてきた筈の少女を思い出す。
 彼女の名前は……ヒュドラ。
「アキさんが、危ない?」
 その可能性に気づくが早いか、デュカリオン計画のファイルをデルファイの胸ポケットから奪うと、悠也は元来た道をかけもどる。
 戦闘はほぼ終わっていた。
 ただ、コンピュータの前でしきりにキーボードを打つアキだけが、せわしなく動いていた。
「アキさん!」
 悠也が叫んだ瞬間。
 銀色のナイフが戦いの合間を裂くように、倉庫を横切り、アキの体に突き刺さった。
「え?」
 きょとん、とアキが目を見開いた。
 そしてナイフがささった脇を触り、血がその指先を汚したと同時に倒れた。
「アキちゃんっ!」
 碧が叫ぶ。
「どこだっ」
 予想外の出来事に焔が目を血走らせて周囲を見る。
 再び飛来する数多のナイフ。
 だが、それは一瞬のうちにすべて砕け散り、細かい銀の砂礫となり、空気を舞った。
 誰の力か、などと考えている余裕はなかった。
 ナイフが飛来した方向を計算する。
 ヒュドラの居場所を……アキの命を狙う暗殺者の居場所を頭の中で導きだす。
「悪いな、手加減する余裕は、ない」
 そこにいる、と確信した場所に向かって一気に距離を縮めると、焔はブーツに隠していた細身のナイフを抜き取る。
 そして目の前に立ちつくすヒュドラの頸動脈を狙い投げつけた。
 血の花が倉庫中に広がる。
 肉という圧力をうしない、血管という檻から解き放たれた血が倉庫を染め上げる。
 だが少女は笑っていた。
 唇が最後の力で微かに動く。
 Hydraの血は毒。
 裏切り者は死。
「馬鹿が」
 吐き捨てる。
 哀れむ気はない。彼女は信じた者に殉じたのだ。
 そこまで信じられる、狂える何かがあるというのは幸せなことだ。
 歩いて、倒れたアキと、そのそばにしゃがんで叫ぶ碧のそばに行く。
 碧のダッフルコートの裾を荒々しくつかむ。
「くそ、やっぱりだ。あいつ気絶する前にコートに発信器つけてやがった」
「え……」
 碧が青ざめる。
 記憶がよみがえる。
 確かにあのときコートの裾を捕まれた。あのとき、発信器をつけられた。
 だから。
 俺のノ性デ?
「出血は少ないな」
「毒です」
 悠也がかけより、短く言う。
「デルファイがやられました。ナイフには致死性の毒があるはずです」
 俺が、なんとか治癒系の術でおさえますが。とつぶやき、目を閉じたままうめくアキを見る。
 解毒は毒の種類がわからなければ、出来ない。
「アキちゃん、俺、どうして」
 完全に理性を失った緑が、手をとりながら、泣きそうな顔でいう。
 事実、目の回りには涙がたまりかけていた。
「……ト」
「え?」
「ラスト、解除ワードだけだから。打って……くれ」
 うっすらと瞳を開いて、アキが碧を見る。
「だって、俺」
「こんな、馬鹿やってる、暇ねーの。こうしてる、間に、ウィルスがどれだけ広まると」
「しゃべらない方がいいです。消耗が激しすぎると、体が……」
 術に耐えられない、と悠也がいいかけるのを制止して、アキは体を起こす。
「ていうか、俺、まるご、と、林檎コンポート喰ってない、し」
 に、と笑う。
「碧君、責任を感じてるならやりなさい」
 いつの間に来たのか、榊が冷たい口調で命令した。
 だが、反発する気にはならなかった。
「OK、どうすればいいんだ? 教えてくれよ」
「半角英数、文字」
 ――Dabit deus his quoque finem.
 アキが最後の解除ワードを告げる。
 ふるえる指でタイプする。
 と、画面白一色に変わり、何度か明滅する。
 ――Running CounterVirus Program
 ネットワークを中継して、ワクチンを配布します。とコンピュータが告げた。
「やった」
 月斗が短くつぶやく。
 これで弟達は元に戻るのだ。
 が。
 このままではアキが……榊千暁が死ぬという事が、本当の喜びから月斗を隔てていた。
「どう、すれば」
 碧海がつぶやく。
 だが、榊だけは、兄の千尋だけはどこまでも冷淡だった。
「立って下さいね」
「おい」
 さすがの焔も制止しようとした。
 だが、榊はただひたすらに冷たい目で倒れたアキを見下していた。
「プライドがあるなら、自分で立って、ナイフをぬくんだね。……アキ」
「この、アホ榊てめぇいい加減にしろよ!」
 碧が叫んだ瞬間、アキが笑った。
 笑って、ゆっくりと立ち上がり。
 そしてナイフを抜いた。
「これで、満足か? ヒロ」
 あざけるように、怒るように、そしてどこか悲しげにアキがいう。
 と、榊は微かに笑った。
 一瞬だけ同じ顔の、同じ瞳が触れ合った。
 そして。
 アキが倒れた。
「ちょっ」
 シュラインがあわてて駆け寄る。
 だが、もう、アキから血は流れては居なかった。
 気を失ってはいたが、アキは穏やかな呼吸で眠っていた。
「どういうこと?」
 いぶかしがるシュラインの前で、榊はくるりと背中を向けた。
 そして肩越しにひらひらと手を振った。
「傷、なおしておきましたから」
 全員が絶句した。
「あ、それとあと一時間後に応援よびますから、警察に合いたくない人は逃げてくださいね」
 軽く言ったまま、榊は倉庫を出ていく。
「ち、千尋さん」
 碧海が榊を追いかけた。
「まあ、これで解決って事かな」
 月斗が訳がわからないままつぶやいた。
「そうですね」
 寝息を立てるアキの横で、悠也はポケットからデュカリオン計画の磁気ディスクを取り出すと、焔に渡した。
「燃やしてください、焔さん、お得意でしょ」
「ん……」
「ない方がいいんですよ。こんな代物は、ね」
 呪文が微かに聞こえた。
 焔の指先に火がともる。月斗も呪でそれに力を貸す。
 どろり、とプラスティックが溶けていく。
 異様なにおいなのに、なぜか心地よく感じるのは、血と硝煙のにおいで鼻が壊れたからだろうか。
 人騒がせなファイルが炭化し消えた倉庫に、密やかに冬の風がはいりこんできた。
 そして、それと同じくひそやかに。電子の世界でワクチンがウィルスを中和していっていた。
 だけれど、それは、誰もしらない。
 ここに居た者達以外は。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 /草間興信所事務員&翻訳家&幽霊作家】
【0164 / 斎・悠也(いつき・ゆうや)/ 男 / 21 / 大学生・バイトでホスト】
【0308 / 鷹科・碧海(たかしな・あおみ)/ 男 / 17 / 高校生】
【0599 / 黒月 焔(くろつき・ほむら)/男/27/バーのマスター】
【0778 / 御崎・月斗(みさき・つきと) /男性/12/陰陽師】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは立神勇樹(たつかみ・いさぎ)です。
 今回はロジックをいれてみましたが。
 難易度高かったかもしれません(汗)
 解答を試みた人全体をみて、正解者が半数以下の場合はテロリスト側の手に「デュカリオン計画」のファイルが渡され。
 解答を試みる人が一人も居なかった場合は「デュカリオン計画」のファイルの存在に気づけないという構成になっていましたが。
 いかがでしたでしょうか?
 こちら側のパラグラフとしては「Prometeus」を何と捕らえるか。です。「人」かつ「裏切り者」とみた方が居た場合はウィルスは解除されます。
 ともあれ、参加していただいてありがとうございました。