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チチチ。
朝早くからベランダに集まる小鳥たちの声が聞こえてきて、彼は二階の自分の寝室のベッドの上で、けだるそうに瞼を開いた。
「なんや……騒がし……のお」
職業柄、帰りはいつも深夜になる。朝はなるべくなら遅くまで寝ていたい……のだが。
騒音としか思えない程、鳴いている小鳥たち。鳩かスズメか……それとも野生のインコっていう可能性もある。
都会の空に住み着く鳥の種類はさほど多くないだろうが、最近は飼われていたのが逃げだしたたのか、個性的な鳥も時々近所で見かけることもあった……。
(いや……ちゃうな)
瞼を閉じたまま、小さく思考に否定する。
今までは見ていなかっただけなのかもしれない。ビルの街の上を渡る鳥なんて、どれも同じと思っていたから。
最近気づいたのだ。鳥の種類もいろいろとあることを。
小さな笑い声が、ベランダから聞こえたような気がした。
(……まさか)
艶やかな黒髪をくしゃりとかきむしるようにして、月見里・豪(やまなし・ごう)はゆっくりと身を起こした。
魅惑的な漆黒の瞳を持つ、端麗な顔立ちの美しい青年である。まだ睡眠の十分とはいえない体はずっしりと重く感じたが、彼はため息をつきながらまぶしいベランダを振り返った。
ベランダに続くテラス窓の向こうに、長いストレートの黒髪の小さな少女の姿が見えた。
彼女の周りにはたくさんの小鳥が集まっている。どうやら餌をまいて与えていたらしい。
「……」
もうひとつため息をついて、豪はベッドから降りた。
ベッド脇の小机に上にあったリモコンをとり、部屋のテレビのスイッチを入れる。
やたらはつらつとしたアナウンサーの声が響く。まだ……6時25分。
「……蒲公英」
甘く響くアルトの音色。それで自らの名を呼ばれたことに、弓槻・蒲公英(ゆづき・たんぽぽ)は気がつかなかった。
透き通るかのような白い肌に、燃えるような赤い瞳、真っ直ぐに伸ばした長い黒髪は腰どころか膝元まで伸びている。どこか現代の東京にはしっとりと馴染まない外見であることは確かだ。
彼女の手のひらには食パンの欠片があった。そして、それを小さくちぎって分けてあげると、小鳥たちはとても喜んだ。
「ありがとう。もっとちょうだい」
そう話しかけてくるような小鳥達の様子に、表情の少ない彼女も微かに笑顔を見せる。
「蒲公英」
二度目の彼女を呼ぶ声に気がつき、蒲公英の肩は大きく揺れた。
恐る恐る振り返る。その人しかいようはずはないのに、どうしてこんなにびくびくしてしまうのか、彼女にすらわからない。
「……とーさま」
「おはよう」
テラス窓から頭だけ出して、豪が笑った。
「……おは……ようございます」
「俺らも……飯にするか。な?」
返事の代わりにこくりと頷き、蒲公英は残りのパンを小鳥たちに差し出すと、別れを告げて部屋に戻った。
目玉焼きとトーストとホットミルク。
一人暮らしの長かった豪は、手際よく朝食を仕上げる。
「……蒲公英。ちゃんと時間割出来てるやろな?」
部屋から赤いランドセルを運んできた蒲公英に、振り返らずに声をかける。
「……はい」
「じゃ、椅子についてとっとと食べる」
「はい……」
椅子に腰掛け、蒲公英はミルクを口にした。
そんな彼女の様子を、豪は腰に手を当てて、小さく苦笑して見つめる。
とーさま、なんて呼ばれているが、豪は彼女の存在を最近まで知らなかった。突然現れて、なりゆきで一緒に住むことになった。
六本木の有名なクラブで、ナンバー1ホストだった彼にとって、それはけして喜ばしい出来事ではなかったのだが、……それでもこれが自分の子かと思うと見捨てるわけにもいかない。
「……とーさまは……食べられないの……ですか?」
「俺は朝はコーヒーだけでいいんや。だけど、子供は食べなあかんで? 蒲公英、お前学校でも小さいほうやろ。しっかり食べな」
「はい……」
蒲公英はあわてて口を動かし始める。
ようやく朝食を終えると、ランドセルを背負って、「それじゃ行ってきます」と蒲公英はぺこりとお辞儀をした。
「ああ、行ってらっしゃい。気ぃつけてな」
「はい……」
豪はしかし、その様子にどこか不審なものを感じ眉をひそめた。
特にやり取りはいつもとおりなのだが、何かひっかかる。
「蒲公英」
玄関で靴を履いている彼女を追いかけて呼び止める。
「……なんで……しょう」
赤い瞳がまっすぐに豪を見つめた。
「いや……車にはホント気をつけるんやで」
「はい……あの、とーさま……」
今度は蒲公英が呼びかけた。
「なんや?」
「……今日も……おしごと……いそがしい?」
「うーん、まあなぁ」
豪は頭をかいた。最近控えめにはしていたが、そろそろアフターの面倒も見なければ不満を訴えるご婦人達がいるのも事実。
これから午後からも常連客達とカラオケに行く約束もあるし、それに支店長と新しい支店候補の場所を視察してみようという約束もあった。
「がんば……ってくださいませ……」
ドアがばたんと閉まった。
しまった。ドアを閉める前、蒲公英がどんな表情をしていたのか、わからなかった。
女心の難しさをとっても理解している豪にとって、それはとても大きな損失のように思えた。
「おはよう」
「おはようございます」
「おっはよー」
明るい声が教室に飛び交っている。
その声を遠くに聞きながら、蒲公英は自分の机の上にランドセルを下ろし、教科書やノートを机に詰めていた。
クラスの隅で、楽しそうに話していた女の子達が、突然ヒソヒソと蒲公英を見ながら話し始めた。
蒲公英の長い髪や赤い瞳が、彼女たちには気に喰わないのだ。
一度、気に入らないと思うと、その人の何もかもが嫌で気味が悪く見えるらしい。彼女達の発想はそうだった。
ことあるごとに噂話をし、悪口の種を探す彼らの視線を、蒲公英は気づかないフリをするだけで精一杯だ。
それに気がついてるのか、いないのか、隣の席に腰掛けたクラスメイトが、蒲公英に笑いかけた。
「……今日はじゅうぎょうさんかんだね。たんぽぽちゃんちはだれがくるの?」
「……とーさまはおいそがしいので」
「こないの?」
「……」
蒲公英は小さく頷いた。
言い出せなかった。とーさまは、私が引っ越してきたことだけでも多分困ってる。お仕事も忙しそうだし、わがままなんていえない。
「そうなんだ。ざんねんだね」
クラスメイトは眉を寄せて、悲しそうな表情をした。
「しゅくだいはできた?」
「……」
頷くと、彼女はようやく話題を見つけたように「難しかったよね〜、昨日遅くまで頑張っちゃった」と今度は笑って話し出した。
彼女はそういえば面倒見がいいので学級委員長に選ばれてなかったか。
もしかしたら、悪口を言われている自分を励まそうとしてるのか、もしくは彼女たちを気にしないためにわざわざ話しかけてきたのかもしれない。
ありがとう……と言うべきなのかな。
蒲公英は心の中で小さく悩む。
でも、それを伝えられないまま、始業のベルがやがて鳴り始めた。
「……それじゃ、うん午後2時にハチ公前やな……そないベタなところでこんないい男、待ちぼうけさせたらあきまへんで?」
携帯電話を片手に、声を消したテレビに映るワイドショーの画面を見ながら、豪は笑っていた。
「えー、そないなこと言うてん……俺なしじゃもう生きられへんのじゃないの?はははっ、当たりやろっ」
甘えたり拗ねたり、文句言ったり、女というのは素直ではない生き物だ。
そんなつまらない言葉遊びでこちらがビジネスと割り切っているのか、それとも少しは本気なのか駆け引きを楽しんでるのを想像すると、可愛いとも思ってしまうのだが。
女性は感情の生き物だと思う。
子宮で物を考える、とまでは言わないが、ムードやそのとき胸に抱く感情が、男には想像つかないほど、彼女達を大胆にしたり辛辣にしたりする。
例えば。
普段、豪は、店の中にいるときはクールで大人の雰囲気をたっぷりを漂わせるようにしている。
それは彼の勤める店の雰囲気に合っているし、彼の前に引き寄せられる女性たちもそれを愛してくれるからだ。
けれど常連となり親しくなった女性には、ちょっぴり甘えて見せたり軽い口調で話したりすることもある。
そうすると彼女たちはとても喜ぶ。「他の人には見せない彼の一面を見たんだわ」と一人で喜んでくれる。
今、彼が電話で話してる相手もそんな人だった。
銀座でクラブのホステスをしている女性で、同じ水商売だけにやり口をよく知っている賢しい相手。
甘え方も上手で話も面白い。けれど胸のうちは、案外こちらが考えているよりシビアなのかもしれない。
先日、彼女が店に訪れたときに、こう尋ねられたのだ。
『最近忙しくしてるんでしょ? なに? 本命でもできたの?』
豪の手のひらで点されたライターの炎に煙草の先をつけながら、女は笑った。
否定したら、笑って「そう。それならいいの」とクスクス笑う。
信じてくれていないことは一目瞭然。
この店の常連客は、彼女と同じ店のメンバーも多いという。そんなことを言いふらされたら適わない。
「そんな意地悪言わんと……どうしたいんや?」
優しく尋ねると、彼女は甘えてまたくすくす笑った。
それが今日のデートの約束へとなったのだ。
ようやく電話を切って、豪は小さく息をついた。
勘の強い人だから用心していかねばいけない。例え、「突然、俺の子供が現れた」といっても一笑に伏しそうなタイプではあるが、ホストの意地みたいなものもある。
「……まったく」
早起きのせいで、少し体はまだけだるい。蒲公英を見送った後、もう一度、ベッドにもぐりこもうと思っていたのに。
洗濯物を取りに、廊下の方へと足を向けると、その途中にある蒲公英に与えた部屋の扉が開いているのに気がついた。
中を覗く。彼女の私物と机の上に無造作に置かれた数冊の本が見えた。
「片付けんと……もう」
部屋に入って、机に近づく。
積み上げられた教科書を手に取り、ひとつずつ本たてに戻す。そのとき、足元にあったくずかごに気がつかず、蹴飛ばしてしまった。
その中から丸まった紙くずがひとつコロコロと転がった。
「変なとこに置いて……」
紙くずを拾い上げて豪は苦笑した。その紙くずの色からして何かのプリントらしい。
「なんやアイツ……0点の答案でも貰ってきよったんか?」
どうせ捨てるのなら見てからでもいいやろ。
しかし、意外な内容がそこには書かれていたのだ。
『参観日のお知らせ』
「へぇ……懐かし」
手にとってよく眺める。広島で暮らしていた少年時代、そんなものもあったなぁと懐かしく思い返しつつ眺めていると、その開催日付が目に留まる。
「……今日やないか」
それに。
彼女の保護者って、……自分じゃないか。
「………………」
豪は、出かける前の何か言いたげだった蒲公英の視線を思い出した。
「仕事忙しいの」とはそういう意味だったのか。
なんできちんと言わへんのやっ! こないな大事なことっ!!
「……もぉ……」
ヘアが乱れるのもかまわず、思わず頭をかきむしる豪であった。
給食が終わって、昼休みが終わったら、その次の授業が参観授業である。
そして昼休みも終わりに近づき、クラスに児童達も戻り始めていた。
クラスメイト達はすっかり自分の母親たちの話で、あっちもこっちも盛り上がっている。
蒲公英は一人机に腰掛けて、自分の書いた作文を眺めていた。
テーマは『私の家族』。
蒲公英にとっては少しだけ難しいテーマだった。
ほどなくチャイムが鳴り響き始めた。
ガタガタと音が鳴り、皆が席に戻った頃、先生が教室に入ってきた。
午前中の授業の時と服装が違う。いい服に着替えたんだな、とみんな思った。
「……国語の授業をはじめます。皆さん、宿題の作文はちゃんと書いてきましたか」
「はーい」
いつもより声が揃った返事が響きわたった。
その授業の後ろ側で一人ずつ、保護者達が教室に入ってき始めた。
机から振り返り母親に手を振ったり、自分の子の席を探すために視線を泳がしたり、一瞬ざわめきが起こり、すぐに静かになった。
「それじゃ先生に呼ばれた人から順番に読んでいってくれるかしら? まずは……」
指された少女は、立ち上がると、胸を張って大きな声で作文を読み始めた。
犬がいておじいちゃんとおばあちゃんがいて、パパとママと弟がいる明るい家族の話。
彼女はその中でいちばんおばあちゃんが好きで、次に犬が好きだという。
「……な、おまえのとこ、だれがきてんの?」
後ろの席からエンピツで背中をつつかれ、蒲公英は振り返る。
いつも蒲公英に意地悪ばかりしてくる男の子だ。
「……」
首を軽く横に振ると、「なんでぇ、つまんねーの」と彼は頬を膨らませた。
だが。
ガタン。
教室の後ろの扉が鳴った。新たな保護者の登場である。
振り返るついでに、視線がそちらに向かった。
「……あ」
黒いスーツを身につけたハンサムな……ハンサムすぎる青年がそこにいた。少し恥ずかしそうな顔をして。
「よぉ、蒲公英」
彼女に届くはずもない小声で、豪は笑って、蒲公英に手のひらを小さく振る。蒲公英は何故かとても真っ赤になった。
「……とーさま……」
どうして?
嬉しい、というよりも、先にそれが心に浮かぶ。
あの丸めて捨てた紙を見たのだろうか。
お仕事で忙しいはずなのに……。
「……なんだ、あいつか?」
後ろの席の少年が口をとがらせる。同じ方向を向いて、「わー」と小さく唸った。
「げいのうじんか?」
「……」
ふるふると首を横に振る。少年はへぇと少し感心したようだった。
……ちょっとだけ、心が嬉しくなった。
蒲公英はちゃんと前を向いて座り、微かに笑顔を浮かべた。
「さて……次は」
先生の声がして、あわてて黒板の方に視線を向けた。
先生の視線も豪に向けられているようだった。その視線が、ふいに蒲公英を向いた。
「弓槻さん、お願いします」
「……は、はい……」
蒲公英は驚きを隠せないまま、立ち上がった。
その様子に、クスクスと失笑する子供たちもいたが、そんなことは気にしない。
震える声で、蒲公英はゆっくりと作文を読み始めた。
『わたしのかぞく
わたくしは、とーさまといっしょににくらしています。
ずっといっしょにいたわけではありません。
でも、今はとーさまとくらすことができて、うれしいです。
とーさまは大きなおうちと、ひろいベランダのあるおうちにすんでいて、
そのベランダにはたくさんとりがきます。
とりもわたくしのかぞくです。
ぱんをもっていくといつもあつまってくれます。
そしてやさしくしてくれます。
とーさまもやさしいです。
おしごとがおいそがしいのに、わたくしにごはんをつくってくれるし、いっしょにねてくれます。
とーさまがいるとさびしくないです。
とーさまといるとしあわせです。
かみさま、だいすきなとーさまとこれからもいっしょにいさせてください。
おねがいします』
滅多に人前では話さない蒲公英の、緊張した硬い声で読み上げられたそれは、たどたどしく聞き取りにくいものではあったけれど。
一瞬しーんと静まりかえった教室は、やがてぱらぱらと拍手が響いた。それに気づいたように皆の拍手が続く。
蒲公英は真っ赤になったまま、席に戻った。
「……大変よく書けてますよ、弓槻さん」
先生の優しい声に、蒲公英はうつむいたまま、さらに深く頷いた。
「へぇ……」
豪は、こんなときどんな顔をしていいのかわからなかった。
なのでニヤニヤしていた。
授業の終わりまで待っていたら、渋谷で待つお客との約束に間に合わない。
もともと少し覗くだけのつもりで来ていたのだ。
でも、このまま授業の終わりを待って、蒲公英を抱きしめたくなった。「よく書けてたぞ」って父親の顔をして。
さあどうする。
何かワクワクするような胸の高揚を彼は感じていた。
そして、待たせている彼女への言い訳を胸の中でいつの間にか色々考えて始めるのだった。
+++おわり+++
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