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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


夜更けの石鹸


 色々なことがあった。
 今年は、波乱万丈だ。
 藤井葛の卒論は、おかげであまり進んでいない。藤井百合枝の仕事ぶりは相変わらずだが。
 ふたりは見た目も中身もよく似た姉妹であった。艶やかな黒髪に翠の目の、東京に居る姉妹。ただ、少しばかり不思議な体験をする機会に恵まれた姉妹だった。
 明日は日曜で、百合枝の仕事も休みだ。
 葛は土日に予定を入れてはいなかった。ネットゲームの予定は、予定のうちに入らないものと百合枝はみなしている。それに自分が居れば、まず葛はパソコンの前から離れなければならなかった。百合枝は愚痴るし、百合枝は料理をさせるし、百合枝はパソコンの電源を落とす。
 だがそれでも、百合枝は決して災厄ではなかった。
 週末に訪れる必然である。

 葛は壁にかかっている安時計が午後6時をうつと、ネットゲームをログアウトし、パソコンの電源を落とした。姉は時間を守るたちだ。約束の時間、午後7時には必ずやってくる。
「さて、と」
 一人暮らしが長くなると、どうしても独り言が多くなる――
 さすがに、「いただきます」と「ただいま」は言わなくなって久しいが。
 ネットゲームで『ミスって』死ねば、「あっ、しまった、くそっ」。
 ネットゲームで『ラグって』死ねば、「あっ、くっそぉ、こんなときに」。
 ネットゲームでPKされると、「あっ、くっ、こ、このやろ」。
 ネットゲームで……
 ともかく、パソコンに向かっているとき、葛は知らず独り言を口にした。そんな瞬間は孤独だった。独り言を言ったことさえ気がつかない毎日だ。卒論は――どうした。
 そんな葛がパソコンの電源を午後6時で落とし、「さてと」と腰を上げて、部屋を片付けたり流しを綺麗にしたりする夜は――災厄――もとい、姉が来る夜だ。
 さてと、と腰を上げた今夜の葛は、お気に入りのデニムのジャンパーを着ると、外に出た。


 百合枝はその夜、妹に「今夜行く」ということを伝えてあった。最近は伝えるようになっていた。
 しかし、「今度の土曜に行くけど、空いてるかい?」と聞けば、「ああ、空いてるよ」といつでも答える妹には、何だか寂しいような、情けないような気もしていた。しかし、予定がないのはお互い様だ。ひょっとすると、妹も同じことを考えているのではないか。だから、そう考えていることは妹には秘密にしておいた。葛には、人の心が見えてしまう厄介な力がないのだ。
 ひょっとすると、妹も同じことを考えているのではないか。
 百合枝はゆっくり、かぶりを振った。
 自分は知っているはずだ。
『まったく、百合姉ったら、25にもなってさ、毎週土曜にはうちに来るなんて……なっさけないなあ。早く親に孫の顔見せてやれよ。……あぁ、わかってるよ、自分のことは棚に上げてるよ、どうせ』
 自分たちが姉妹でなかったとしたら、一体なんだろうか。
 親子か? はたまた、クローンか?
 考えていることまでそっくりだとは。
 百合枝は思わず知らずにやにやしてしまった。
 は、と明かりに気づいて、笑みを消した。
 煌々とともる明かりは、コンビニのものだった。
「……ああ」
 あの子はずっと子供のままだと思っていた。だが実際には、自分と3歳離れているだけ。自分よりも幼く思えるだけなのだ――葛は、22歳だ。
「いいね、たまには。それに今日は、鍋だし」
 味付けの濃い肉料理には、やはり、酒だ。
 そう言えば、発泡酒が少しだけ高くなった。


 インターホンが鳴り、葛が鍵を開けて、百合枝を出迎えた。
「あら」
 適当に片付けた、といった風の部屋の中央に、見慣れたテーブル。そして上には、カセットコンロと土鍋があった。既に用意は整えられていたのだ。
「いつも10分前には来るのに、今日はぎりぎりだったね」
「途中でコンビニに寄ったから」
「あ、酒!」
「嬉しそうにするんじゃないよ、オヤジくさい」
「失礼だね」
 葛はぱっと浮かべた満面の笑みを、たちまち仏頂面にした。姉の手からビニール袋を奪うと、ゴミ箱とデニムのジャンパーをまたぎながら、鍋のそばに移動した。
「まったく、脱いだらちゃんと畳んどきな。だからすぐ散らかるんだよ」
「オバンくさいね」
「……何だって?」
「わかったよ、謝るよ。謝ればいいんだろ。早く座れば?」
「どこに座れって言うんだい、足の踏み場もないじゃないか」
「片付いてるだろ!」
「どこが!」
 ふたりは言い合いながら腰を下ろした。百合枝の目が、カセットコンロの脇に向けられた。精肉が入ったスチロールのパックがある。目を凝らせば――飛び込んできたのは、金色の『和牛』シール。その下の『10%引き』シールはご愛嬌だが、感熱シールに印字された価格は984円だ。200グラムで、984円だ! しかもスチロールの色は純白ではなく、薄茶色である。このスチロールケースは、入れた良い肉はより良く映え、そうでない肉を入れてもそれなりに見えるという選ばれしアイテムだ。単価が高いのか、豚肉や鶏肉に使われることはあまりない。
「随分いい肉買ったんだね」
「結婚するんだろ?」
「なッ」
 翠の目を点にして絶句する百合枝をよそに、葛は煮立った鍋に高い肉をぱかぱか放り込んでいった。
「冗談冗談。お見合い記念さ」
「待ちな」
「で、いい相手だったのかい?」
「……それ以上言ったらちゃぶ台返しをお見舞いするよ」
「……わかったよ」
 百合枝の目に宿った焔が本物であることを悟り、葛は本当に口をつぐんだ。その話題に関しては、だ。
 しかしそれも、酒が入る前までのルールであった。


 牛肉はやはり、美味かった。
 浮かぶアクを取るのは専ら百合枝の務めであった。葛はアクが絡まった白菜も葱も、まるで構わず食べていた。百合枝は、構わないのはやめろと説いた。だがこれからしばらく、葛は構わないままかもしれない。だが、ダシ汁の味はよくなっていた。葛の料理の腕は、間違いなく上がっていた。百合枝は軽く嫉妬した。彼女はまともに料理できたためしがなく、自然とキッチンから離れてしまっている。だから下手なままなのだ、これこそが悪循環なのだ。妹からそう言われるまでもなく(実際言っていたし、言わなかったとしても百合枝にはわかるのだ――)、百合枝は自覚していたが、すでに結婚同様諦めており、最早悟りの境地に辿りついていると言っても過言ではなかった。
「……それで、いい男だったのか?」
 ぶっ、と百合枝はウメッシュを吹いた。
「きたなッ!」
「あんたがいきなり話を振るからだよ!」
「そんなんだから25になっても……」
「……なんだって?」
「……なんでもありません」
「はあ……」
 鍋の中身はすでに空に近い状態になっていたが、百合枝は箸を入れると、意味もなくぐるぐるとアク混じりのダシ汁をかき回し始めた。
「あの親父もさあ、焦ってるのかねえ」
「そりゃあ――」
 葛は言いかけたが、そこですんでのところで文句を飲みこみ、姉の顔色を伺った。しかし姉は、火照った顔でぐるぐるダシ汁をかき回しているのみ。酒が入っているせいもあるだろうが、姉は姉なりにいろいろ考えているのだ。
「そりゃあ、年頃の姉妹が浮いた話のひとつもなくてさ、普通の親なら焦るだろ」
「そうだねえ、やっぱり、そうだろうなあ」
「百合姉は焦ってるのかい?」
「どうなんだろうね」
「百合姉が焦ってないんだとしたら、私も焦ってないんだろうな」
「何だい、それ」
「私と百合姉は似てるから」
 葛は、ちらりとテーブルの脇に目をやった。
 百合枝が買ってきた酒はまだある。
 ああ、このビール――アサヒのスーパードライ。
 葛が初めて飲んだ酒。
 家を出て、このマンションで一人暮らしを始めた18の頃に、百合枝が買ってきたのだ。
『あんたももう大人だから』
『未成年だよ』
『でも、もう大人だよ』
 ビールはただ苦いだけだと感じた。
 だが、あの味を忘れることはないのだろう。
「ほら、飲みなよ。まだ残ってるぞ。肉はないけど」
「肉のない酒なんて」
「ポテチが余ってる。明日は休みなんだから、飲んじまおう。私は一人だと飲まないからさ」
「……そうなのかい?」
「女が一人で酒を飲むのって、恥ずかしいことだろ」
「あんたでも、恥ずかしいと思うなんてね」
「思うだけなら自由さ」
「まあね」
 ぷしッ、
 葛が開けた缶ビールの中身は、百合枝のグラスに注がれた。


 百合枝は飲みすぎてしまったらしい。
 うとうとと眠りこんでしまった。
 葛も少し、飲みすぎた。
 だがせめて顔を洗って着替えてから眠ろうと、葛は立ち上がり、洗面所に向かった。
「ああ、しまった」
 また独り言。
 というのも、スーパーまで行ったのに、買うのを忘れてきてしまったのだ。洗顔用の石鹸がない。いつも使っている石鹸があった。いつも行っているスーパーには置いてあるのだ。いつも買っている石鹸を買い忘れて、めったに買わない牛肉を買ってくるとは。
「ほら」
 葛は、呼びかけられて振り向いた。
 目がほとんど開いていない百合枝が、石鹸の箱を持って、葛の後ろに立っていた。
「先週来たとき、もうほとんどなくなってただろ。どうせ今日まで買ってないと思ってね――この石鹸で間違いなかったかい?」
「ありがとう、助かったよ。……うん、これでいいんだ」
「私は、もう、寝るよ……」
「もう意識ないじゃないか」
「ははは……確かに」
 百合枝はのろのろと、よろめきながら居間に消えていった。
 きっと顔を洗って戻ってみたら、百合枝は自分のベッドを占領している。葛はそう考えて、ちいさく噴き出した。
 葛は、石鹸のパッケージを開けた。
 実は、いつも使っているのはその石鹸ではなかった。

 午前2時をまわっている。
 この週末も、葛の卒論はあまり進まなかった。




<了>