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<東京怪談ノベル(シングル)>


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 小春日和とは少し違う気がする、そりゃ当然、今は秋なのだからどんなに暖かな日差しが降り注いでも、それは『小春』ではないのだから。
 だが、それだけでなく、秋の暖かい昼下がりは、春のそれとは少々違った印象を受けた。春の日差しは生命力に満ち溢れ、木々の隙間から零れる日差しも、どこか優しく人々を包み込むような感じがする。だが、今、恵が芝生の上に寝転んで見上げている木漏れ日は、それよりももう少し物悲しい感じがした。何をと言う訳ではないが、何かを赦すような、何かを取り戻そうとするような。だからだろうか。クスン、とひとつ鼻を啜った恵の脳裏に、不意に音を立てて三年前の記憶が蘇って来たのだ。

 『…う、……わ………!』

 思わず恵は目をぎゅっと閉じる。記憶は、ただの思慮だけでなく、嗅覚や聴覚にまでその当時の事を蘇らせたのだ。条件反射なのだろうか。恵にとって、その記憶と連結されているのは潮の香り、漣の音。どこまでも青く高い空が、あんなに切ないと感じたのは、後にも先にもあの時だけだった。
 恵は、身体ごと三年前へと飛び立って行く。

 それは旅行帰りの飛行機内から始まった。

 「おねえちゃん、アメ、食べる?」
 まだ五歳ぐらいだろうか。幼稚園に通うぐらいの幼い男の子が、その小さな掌にひとつの赤い飴を乗せて恵の方へと差し出している。
 「お、私にくれるの?アリガトウ!これは、何の味かな?」
 「ええとね、イチゴ味だよ。ボクが一番好きなアメなんだ」
 そう言うと男の子はにっこりと笑い掛ける。そのタンポポのような笑顔に釣られて、恵も、その褐色の容貌を綻ばせた。
 「へぇ、一番好きなのを私にくれるんだ?さては私の事を好きになっちゃったかな?」
 そんな事を言って揶揄う恵に、男の子はぶーっと頬を膨らませる。その頬がほんのり赤く染まっていた。
 「そんな事ないもん!おねーちゃんなんか好きじゃないもん!」
 「えー、照れなくってもいいのにー」
 「違うもん!」
 恵の揶揄いに男の子がムキになる。だが、恵が「私は好きなのになー」と付け足した一言に途端に機嫌を直した男の子は、更に肩から掛けている小さなポシェットから黄色い飴を取り出し、恵へと差し出した。
 「しょーがないなー、おねーちゃん、ボクのことが好きなら、これもあげる!ボクが二番目に好きな、パイン味だよ!」
 こんなに幼い子にも、男のプライドがあるのか。そう思うと恵は、ただただ笑みが零れるばかりだ。
 「アリガト。じゃあおっきくなったら、おねーちゃんをお嫁サンにしてね?」

 偶然、飛行機の中で隣同士になった、そんな縁もあるのだ。母親と二人旅らしい、その少年は、恵の屈託の無い笑顔や態度に無防備に好意を覚えたのだろう、初めての飛行機と言うのもあってはしゃぎ気味だった男の子は、しばらくはそうやって恵と何やかんやと遣り取りをして楽しんでいたが、やがて疲れて母親の膝に寄り掛かって眠ってしまった。今から思えば、この子がその直前まで、こうして母の膝に抱かれて安らかに眠っていた事は幸運だったのだろう、と恵は思う。
 どんな困難や苦悩が待ち構えていると知っていても、生きようと努力し続ける事が大事なのだと知っている。が、既に失ってしまった命なら、その瞬間、なるべく楽に、苦痛を感じないで死を迎えられる方がいいと思う。それが他人なら尚更だ。自分なら、どんな苛みにも負けずに立ち向かうだろうと言う事が解るが、それを全ての人に要求するのは酷と言うものだ。ましてや、相手はまだ片手程度にしかその生を謳歌していない幼い子供である。何が起こったのか分からないぐらい、呆気なく命を落としてしまっても、それでいいのだと恵は思えた。
 尤も、それは恵がその事故に遭遇してから相当後の事だった。何故なら実に四ヶ月もの間、無人島での漂流生活を送っていた間には、そのような事を考える余裕など到底なかったのだから。

 「……静かだねぇ……」
 本当は、静かな訳ではなかった。砂浜に大の字になって横たわる恵の周りには、打ち寄せる波の音、どこかから聞こえる鳥の声、風が椰子の木を揺らす音。そんな音達が、常に纏わり付いていた。
 何が起こったのか、恵にもその当時は解らなかった。後になって解ったのだが、恵の乗っていた飛行機が、人為的ミスによって空中で爆発を起こし、そのまま機長達の必死の努力も虚しく、半分に折れた飛行機の機体は激しく海面へと叩き付けられたのだ。それでも恵が生き残る事ができたのは、機長が最後の最後まで、海面着陸の望みを捨てずに操縦し続けた為、思ったよりも少ない衝撃で海面に墜落した事、恵が座っていた座席には殆ど被害が及ばなかった事、そして恵自身が衝突のダメージにも耐え得る鍛えられた体躯をしていた事。それらの幸運が重なっての事だった。

 人間、生きる事を放棄したとしても、自ら命を絶たない限りは、そう簡単には死なないものだ。ましてや恵は、生きて帰る事を望んでいた。これまで、世界中を旅したりアウトドアに明け暮れて身に付けた知識、それらが役に立った。恵の場合、アウトドアと言っても昨今のアウトドアブームに乗じた便利グッズ等は使わない、不便さの中に楽しさを見出す本格的アウトドアだった事も幸いした。だから、命を繋ぐ事自体は然程難しい事ではなかった。恵が流れついた島には飲める湧き水もあった、食べられる果物も、動物達も存在したからだ。それよりは寧ろ、救助を待つ間の途方もない時間、いつまでと区切りが付けられるかどうかさえ分からないような退屈な時間を、どう過ごすかの方が難題だったのである。

 「……ええと、色やや褪せる名誉革命……だから、1688年か。でも広場は歓声、名誉革命ってのもあるんだよね…まぁどっちが覚え易いかって言ったら、どっちもどっちなんだけど」
 なんて事を、わざわざ声に出して喋っているのは、何も言わずにただ頭の中でだけ考えていると、そのうち人の言葉を忘れてしまいそうになるからだ。或いは、動物の鳴き声しか聞こえないこの場所で、人の声がないと寂しさに押し潰されそうだったからか。勿論、もしかしたら他にも居るかもしれない生存者が、自分の声を聞きつけて来てくればいいな、とは思っていたが。
 「…にしても…こんなに空って綺麗だったんだね」
 顎を仰け反らせて恵が、赤く染まり行く夕暮れの空を仰ぐ。日中はとても強い日差しと、温暖な気候から、ここが南の島であることは解る。が、それ以上は、さすがに恵でも割り出せない。星の位置から大体の場所は解るが、解った所でそれを知らせる術が無いのだから、分からないのと同じようなものだ。そう理解してしまえば恵の判断は早く且つ簡潔で、救助が来るまで己の体力を温存させる事に全ての意識を集中した。恵が立つ白い砂浜からは、海面に沈み掛けの飛行機の残骸が遠くに見える。あれが完全に沈み切る前までに捜索のヘリなり船なりが来れば助けて貰える。そうでなくでも、偶然通り掛かる船や飛行機に、のろしなり砂浜に海草で書いたSOSが目撃されればいいのだから。
 「…大丈夫大丈夫」
 そう呟くと、うん、とひとつ頷いた。

 ふ、と恵が目を瞬くと、そこは先程まで仰向けになっていた芝生の上だった。記憶を巡る旅から一旦戻ったらしい。そして恵は、この先の記憶を探るのを拒否したかった。が、一度目を覚ました記憶はそれを許してくれなかった。思わず、恵は何も見たくなくて、ぎゅっと堅く目を閉じる。

 だがしかし。その記憶は視覚ではなく、嗅覚で恵を呼び戻したのだ。

 「……な、んで………」
 掠れたような声で、恵が言葉を絞り出す。その日、いつもの白い砂浜に打ち上げられたひとつの物体。どれぐらいの間、海を彷徨って来たのだろう。殆ど原形を留めないそれは水を孕んで膨れ上がり、腐敗臭が漂っている。が、恵にはそれが『誰』なのか分かってしまったのだ。その、元は人間であった塊が纏っている衣服。肩から掛けているポシェット。どうして分かってしまったのか、恵は、今更ながら己を恨んだ。
 「う……うわぁあああぁぁぁ―――…!!」
 誰も聞かない、聞く事の無い恵の慟哭。その様子を、何かがどこかから見ている。
 「なんでッ、なんでなの――…!なんで私だけ……私だけが―――……!!」
 今まで、ずっと胸の奥にしまい込んでいた、ひとつの疑問が湧き上がって溢れ出た。どうして自分だけが生き残ったのか。どうして自分だけがこんな孤独に苛まれなくてはならないのか。日々の飲み物や食料にも事欠き、夜には猛獣から怯えて朝を待ち。何か物音がすれば、仲間かと期待に打ち震えては緊張を強いられて。
 悔しい、悔しい、悔しい!
 その疑問は、悲しみではなく怒りだった。そんな恵の強さに、何かの興味は引かれたようだった。

 そ ば に い て や ろ う。

 何かが、どこかからそう囁く。尤もその声は、人が聞く事の出来ない類いのものであったが。

 「…………あ―――…」
 どこか茫然と、恵が声を漏らす。目を瞬かせると、その先には風に揺れる黄色く色付き掛けた木々の葉っぱと、その隙間から零れる陽光。恵は、記憶から呼び戻されたのだ。
 「……あーあ」
 えへへ。と恵は笑って頭を掻いた。私は生きている。ほら、手の平を太陽に―――…ってね。

 赤い色は記憶を繋ぐ色。そして、私を奮い立たせる勇気の色。