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<東京怪談・PCゲームノベル>


音楽都市、ユーフォニア ─クシレフの陰謀─

【xxx】

 11月13日午後3時。
 東京都、JR山手線の車内に、ちょっとした騒ぎが持ち上がった。
 否、別に警察沙汰や職員が顔を出すような事件では無い。ただ、異様に目立つ一団が国鉄の1車両をほぼ占領し、隣接した車両や駅のホームの乗客の奇異の視線を集めていた、と云うだけで。
 彼等は全て15、6歳の少年少女だ。それぞれ同じデザインの白いシャツかブラウスに黒のボトムを制服のように整然と着用し、吊り革に掴まりもせずに姿勢を正して立っている。一糸乱れない統率の取れた動きは、どこか共産国家の軍隊を思わせた。
 平日の昼間と云うことでさほど混雑はしていなかったが、一通り座席を占めていた他の乗客は一言の私語も交わさず無気味なほどの無表情を見せている彼等に気を取られていた所為で、その中の一隅でぶつぶつと独り言を呟き続ける私服の少年──里井・薫の存在には気付かなかっただろう。ついでに云うならば、これは制服と同じ髪型の効用で──複数の人間を似通って見せるその効果で、逆に、彼等の顔立ちが全て同じ事にも気付かなかった筈だ。

「……畜生……、あいつ、好き勝手云いやがって……、何様の積もりなんだよ、……シェトランの子供だって云うだけで……、今に見てろ……、畜生、いつか必ず殺してやる」

 巣鴨駅に着いた。里井は独白を止め、一斉に足並みを揃えて車両を降りた彼等に慌てて続いた。

【0I】

 11月13日午後3時頃。
 ウィン・ルクセンブルク(うぃん・るくせんぶるく)は小石川は文京区に、一人暮らしの決心に先立っての物件の下見に来ていた。ちょっとした知人から斡旋……否、紹介された物件なのだが、何でも不定期且つランダムに部屋の間取りが勝手に変わるとか何とか、そういったエンターティメント性はこの際端折っても、大学からもそう遠くは無いし、静かで住み心地も好さそうな風景に彼女は満足していた。
 上機嫌の彼女のバッグの中で、携帯電話がメールの受信を告げた。
 ──葛城・樹(かつらぎ・しげる)。
 あら、樹ちゃんだわ。どうしたのかしら、と名前と共に表示された、従弟の顔写真を眺めながらウィンは小首を傾いだ。
 そう云えば、今日は午前中に新規のアルバイトの面接に行くと云っていた。既にジャズ喫茶でアルバイトをしているのに、何故だろう、そして上手く行っただろうか? などと考えつつ、ウィンはメールを開く。

「あら」

────────────
事情により、電話(通話)
出来ません。至急、例の方
法で連絡願います。 樹
────────────

 添付された写真画像の中では、不自然に口唇を開いた樹が弱った表情でピースサインをしている。……何をしているのだろう。
 ウィンは「例の方法」──テレパスで、樹の気配を探知して語り掛けた。

──樹ちゃん? 何があったの? 今、何処?

 精神レベルの通話で、応答は直ぐにあった。

──ウィン従姉さん、助けて下さい。……大変なんです、

【1DI】

 水谷の事を調べようと思ってアルバイトとして巣鴨ユーフォニアホールに潜り込み、そこでレイが攫われた事を知ったと伝えるとウィンは直ぐに行く、と答えた。
──今、どこに居るの?
──……隠れてます……トイレの個室に……。
 情けないが正直に答えた。が、流石にウィンは兄と違って優しかった。
──そう、それが良いわ、直ぐに行くからね、本当に近くに居るのよ。
──待ってます……。
──所で、香坂・蓮と云うヴァイオリニストが居る、って云ったわね?
──あ、はい。
 知り合いなの、とウィンは告げた。
──彼にもちょっと協力を頼んでみるわ。……ちょっと待って。

【1IJ】

──香坂さん、私、ウィン・ルクセンブルクよ、覚えてる? 
「……、」
 頭の中に聴こえてきた声に、蓮は溜息を吐いた。
 今日は、妙な事ばかりだ。知り合いのドイツ人女性がテレパシーで交信して来ても、今更何も驚くものか。
 少なくとも、里井が今し方3階バルコニーにコーラス隊を連れて入って行き、彼等をずらりと配置した奇怪な風景をずっと見ている事に比べれば……。
「……久し振りだ」
──大変なの、今ね、私の友達が……、
「攫われた?」
 あら、とウィンの驚きがテレパス越しにも分かる。
──何故?
「事情は良く知らないが、多分共通の知り合いだろう。結城レイ嬢が攫われたとか、何とか、今さっき、聴いた」
──香坂さんもレイの事、知ってたの?
「ああ……、それと、彼女の弟と……」
──まあ。……一体、どうした繋がり?
「いや、普通に……音楽繋がりなんだが」
──良く、彼みたいな子と普通に「音楽繋がりで」付き合えるわね。
「……結城か? ……大分精神のバランスは悪そうだが、……普通だと思うが」
──流石香坂さん……。
「それより……、」
 そう、そうだわ、とはたとウィンは本題に入った。
──詳しい事は後で。それより、先ずホールの人間で水谷さんと云う人を信用しないで。今、私の従弟なんだけど樹ちゃんは彼から隠れているの。私ももう傍なんだけど、合流したいから、水谷氏に樹ちゃんが見つからないよう、気を引いてくれない?
「……何だと?」

【1DI】

 ウィンと、蓮の会話をウィンのテレパスでそのまま聞いていた樹はもう大丈夫かな、と適当な所でようやく呪歌を止めた。そろそろ、喉の限界だった所だ。
 ──が。

「か──つ──ら──ぎィ──、」

 無気味に語尾の伸びた声に続いて、個室のドアが蹴破られた。
「ひィッ!!」
 思わず上ずった悲鳴を上げて身を竦めた樹が恐る恐る見遣った先に居たのは、案の定と云うか、磔也だ。
──ちょっと、樹ちゃん、何があったの、どうしたの!?
 混乱と完全に目の座った磔也を目の前にした恐怖で、震えて最早声も出せなくなった樹の脳裏に慌てたように問い掛けを続けるウィンのテレパスが響く。
「……こんな所で発声練習か。……暇そーだなあー、……手伝えよ」
「……あの、……僕別に暇じゃ……、」
 云い訳が皆まで終わらない内に、声帯ごと首を鷲掴みにされた樹の言葉は途切れた。
「……細かい事は気にすんな。……喉、潰されたいか」
──樹ちゃん!? 樹ちゃん、無事!?
 樹は必死で首を横に振りながら、ただ「無事じゃ無いです、あああウィン従姉さん早く来て下さい!!」と心の中で絶叫した。

【1ABCEHI】

「はい、」
 亮一の携帯電話が鳴った。視線を向けた仲間に対し、彼は「ウィン・ルクセンブルク嬢ですよ」と告げた。ここに居る面々は全員何らかの形で彼女を知っている。
 ホールに居た葛城・樹の従姉でもある彼女の連絡があっても不思議では無い。
『初めまして、先日は兄と従弟がお世話になりました、ウィン・ルクセンブルクと申します』
「こちらこそ」
『失礼ながら電話番号は従弟に聞きました。何の用かはお分かりかと思いますけど』
「そろそろ、連絡があるかなと思いましたよ」
 亮一は笑顔で応えた。彼女の双児の兄は万能エスパーであり、ウィンも同等の能力を持つと聞く。
 それに、ルクセンブルクと云えば現代クラシック界で名前を知らない者は居ない。彼女の叔母は、特に母国のドイツ語歌曲では世界的に認められた声楽家なのである。第三者には冷たく中々その実情を知り得ない音楽界の絡んだ事件に於いて、力強い助っ人であるには違い無かった。
『では、単刀直入に申し上げますわね。大体の事情は従弟から聞きました。レイは私にも大事なお友達だわ。黙っている訳には行きません、及ばずながら協力させて頂きます』
「よろしくお願いします。……丁度、『耳の良い』人間が揃っていそうですし、あちらには。あなたの能力は、非常に役立つと思います」
『連絡係は任せて下さいな。早速ですけど、そちらには田沼さんの他にどなたが居らっしゃるの?』
 亮一はぐるりと視線を巡らせながら名前を挙げた。
「先ず、シュライン・エマさん。それに天音神・孝さん、それから涼──御影・涼、あとは俺と、もう一人同じ事務所の関連分局所長で緋磨・翔と云うのが。俺達はレイさんの弟からの依頼で、彼の父親の護衛に成田空港へ行ってたんです。結城・忍さんと云うピアニストで、今は一緒です。それと、空港から別行動になってしまったんですが、カーニンガム総帥も」
 まあ、とウィンは声を上げた。
「巣鴨側の情報収集をお任せしているので、恐らくは先にそちらへ廻って頂けると思うんですが」
『そうなの、じゃあ、ちょっと連絡を取らなきゃ。……あ、そうそう、田沼さん』
 ウィンは、「従弟がホールの見取り図を事務所から盗み出したそうなのですけど、画像を入れたパソコンをちょっとしたトラブルで放置しているみたいなの」と云う。
「大丈夫ですよ」
 亮一は穏やかな笑みを浮かべて相槌を打った。手許では事務所で持ち替えたノートPC、PowerBookG4を操作しながら。
「……見つかりました、助かります。……あ、ファイルに勝手にアクセスするのは緊急事態のみですから」

「──……それなら良いの。そうなの、急な仕事かしらね。たまには所長本人にも確りお仕事して貰わなきゃ」
 携帯電話に向かってそう告げたシュラインが電源を切り、話の輪の中に戻って来た。
「?」
 孝が「何?」と云う風に小首を傾いでシュラインを見ている。
「草間興信所よ、何か別な情報が無いかと思ったんだけど、武彦さん、留守みたい」
「ほー、草間さんが?」
 相槌を打つ孝は如何にも珍しい、と行った表情だ。
「昨日かららしいから、少なくとも煙草の買い出しでは無いわね。武彦さんが直々に仕事中となれば、私達も確り依頼を完遂しないとね」
「お待たせ」
 翔が後ろ手にドアを閉め、戻って来た。
「どんな感じです?」
「ん、まあ手配は上々、か? ところで、シェップの事で面白い事が分かったぞ」
「何?」
 孝は浮かない表情のまま訊ねた。珍しく彼、何か思い詰めているらしい。
「……所で孝君、結城さんを連れて先に巣鴨に行っといてくれないか」
 翔は話の前に徐ら、孝に目配せした。もちろん、交通機関で行けと云うのでは無い。孝の得意な超短縮方法、異世界の召還に拠る空間移動でだ。
「……オーケー」
 忍に聞かれたくないのだろう、と咄嗟にピンと来た孝は気安く請け合った。
「じゃ、行こうか、結城さん。……あ、それと、空間は繋いでおくから。終わったら適当に来いよ」
 忍を促し、孝はそう云い置いて事務所のドアを開けた。
 ドアが再び閉まった後には、足音一つ聴こえて来ない。……さて。
 翔はシュライン、亮一と涼に向き直った。
「sheep dog。牧羊犬。そっから来た徒名らしいな、シェップって云うのは」
「?」
「奴、……今回、完全にスタンドプレーらしい」
「何?」
 声を上げ、眉を顰めたのは涼である。
「……おかしいと思った。いくら何でも、IO2が娘を人質に取るなんて卑怯な真似をするなんて」
「落ち付けボウヤ。……シェップは、現東京コンセルヴァトワールが以前、東京音楽才能開発研究所と云う機関だった時から、妙にそこばっかり目を光らせてたらしい。どうも、遺伝子操作だとか乳幼児に対する常識外れな音楽的訓練を行っていた気狂いじみた機関らしいがな、超常現象では無いからIO2の専門外であるに関わらず、だ。それに、情報も独占して他には洩さなかったらしい。……どうも、個人的に恨みがあるみたいだな」
「……それじゃ、IO2に対して気を遣う必要は無い、と云う事かしら?」
「気を遣う?」
「だって、不味いなと思ってたのよ。私達、明らかに異能者じゃ無いの。特に……、(この時彼女は、某魔法少女の消えたドアの先をちらりと見遣った)いえ、まあ、そんな私達があまり深入りすると、還ってIO2に都合の良い攻撃材料を与える事になってしまうんじゃ無いかって。だから、何とか妥協点が見つからないかと思ってたんだけど」
「恐らくね。逆に、スタンドプレーに走った上に一般人(自称)を人質に取るような真似をした事をネタに威せるでしょう」
「脅すって」
 呆れた表情のシュラインに、翔は苦笑を返した。
「実はね、私の旦那、ちょっとIO2とも関わってるもんで。まあ、脅すと云や聴こえは悪いけど」
「……それにしても、全く無し、ですか? その東京コンセルヴァトワールサイドに、異能者の存在は」
「無い。寧ろ、触れるとすれば実際の法律の方。実は、それで前身の東京音楽才能開発研究所は証拠を隠す為に一旦閉鎖したと云う噂らしい。今は、表立ってそんなヤバい事はやってないみたいだが……。……6年、だ。当時訓練を受けた子供が、ぼちぼち大人になってる時期だな」
「……もしかして、磔也?」
 翔は、未だ全てを話していない涼に向けて微妙な視線を向けた。
「……そうだ。あのボウヤは7歳までそこに居た」
「……俺、ちょっと先に行くよ」
 腰を浮かせた涼に、シュラインが声を掛けた。
「御影君、……磔也君、見張っておいてくれないかしら?」
「勿論、その積もりですけど」
「彼……、何をする積もりか知らないけど、絶対に、手を汚すような事が無いように」
 涼は神妙に頷いてドアの向こうに(本当に)消えた。
「……異能では無い。……だとすれば、音楽……音……。……音響物理学的な仕組みを利用したテロ的な行動かしら?」
 シュラインの呟きを、亮一と翔は黙って聞いていた。
「音……鼓膜で機械的振動変換、中耳耳小骨で振動圧力増、蝸牛管に振動として伝わり電気パルスに情報変換され神経へと繋がる。磔也君はこの仕組みを音響等々で効果上げ使用、つまりIO2対象外の自然現象の悪用を?」
「何にせよ、我々も向かいましょうか。大丈夫です、優秀なメンバーが揃ってますしね、最悪、……、」
 そこまで云ってちらりと翔を見遣った亮一は、「最悪、何?」と首を傾いだシュラインに笑顔で手を振った。
「いえ、何でもありません。最悪、俺の方でちょっとした反則をやらせて貰いますから」

【1gi】

──セレスティさん、
「……、」
 突如、意識の中に割り込んで来た声の正体を瞬時に理解したセレスティは、──また余分な心配を修一に掛けさせないように──声に出さず精神レベルでの応答を返した。
──おや、……あなたは。
──覚えていて下さって、ウィン・ルクセンブルクですわ。
──勿論ですよ。あなたのように美しい女性の声を忘れるなど。

「陵君」
 数分後、セレスティは修一に都内のとあるオーケストラの練習場へ向かうよう命じた。

──私の叔母が、近く共演するオーケストラなんです。叔母に、今度のユーフォニアホールでソロを歌う歌手やグルックのオペラについて訊ねようと思ってたんですけれど、偶然にもそのオーケストラの助演に東京コンセルヴァトワールの非常勤講師が居るそうなんです。直接話を伺いたいのですけれど、今はレイの救出が先ですわ。私は先に巣鴨に行きます、お手数で無ければ、寄って頂けません? 

【xxx】

「はい?」
──『インスペクター』、巣鴨の里井より要請在り、コーラスを各20名ずつ派遣しました。もう直ぐ、レイクイエムが奏されるでしょう。予め了承願います。
「……ああ、そうですか。……僕、ラッパ吹きに行った方が良いですかね?」
──その必要は在りません。恐らくは『キリエ』のみかと。『トゥーバ・ミルム』は演りません。
「なら良いです。……にしても、その曲にしては少人数ですね」
──計算の内です。あくまで、合唱団の貸し出しを許可したのは実験としてですから。総編成は必要在りません。インスペクターには、ただクシレフとシェトランの様子を見て頂くだけで結構です。
「了解しました。それじゃ」

【xxx2】

『メールを受信しました』

────────────
from sydney_xx@XX.mu
sique.fr

インスペクター? 磔也が
何かやらかすみたいね。詳
細希望! 返信待つ!
 Sydney.

────────────

【2DFI】

──樹ちゃん、樹ちゃん!?
──……ウィン従姉さん……。
 樹は、前を歩く磔也に気付かれないよう気遣いながら、ウィンに答えた。
──もう巣鴨よ、ここからハーモニーホールを目指せば良いのよね。所で何があったの?
──磔也さんに掴まっちゃったんです……。
──何ですって? 莫迦ね、トイレの個室でしょう、鍵掛けてなかったの?
──掛けてましたよ! でも、蹴破られちゃって。「か──ぁつ──ぅら──ぁぎぃ──」、ってもう怖かったですよ、貞子みたいで……、
「うあッ!?」
 不意に、樹はバランスを崩してその場に倒れ込んだ。磔也が片方の膝裏を蹴飛ばしたのだ。
「何グズグズしてんだ、さっさと歩け」
「ちょっと、止めなさいよ。何やってるの?」
 不意に、凛とした少女の声が更に樹を蹴飛ばしそうだった磔也を制止した。
 最早そこいらのヤンキーと化した磔也と、また彼より身長が大分高いにも関わらず苛められている樹を冷めた目で眺め、腕を組んでいたのは倉菜である。
「……硝月、」
「調律、終わったわよ。お姉さんを助けるんでしょう、弱い者苛めしてる場合じゃ無いんじゃない?」
「弱い者……、」
 どちらかと云えば、樹本人にはそんな何気ない一言の方がショックだった。
「苛めて無ェよ。暇そーだったから手伝って貰おうと思っただけ」
「それが人に物を頼む態度? ……折角調律し直したけど、あのピアノ、平均律に戻して欲しい?」
「……あー、もー適わ無ェなあ、分かったよ、つー訳でレイがIO2に攫われた、奪回したいから手伝ってくれ」
 ようやく、磔也はやる気無さそうに一応頼んだ。樹が服をはたきながら立ち上がり、「それは勿論ですけど……」とまで云った時だ。
「つーか、何で知ってんだ、レイが攫われた事」
「ああああああっ、あの、それは田沼さんから、」
「余計な事してんじゃ無ェよ!」
 今度は殴られそうな予感を察知した樹は両腕で顔を覆いながら反論した。
「だって、磔也さんが電話で云ってたじゃ無いですか、僕と一緒に居たって! だから、田沼さんが確認の電話を、」
 その時、倉菜は丁度前方のエントランスホールで、件のペルセウス像の前で振り返った青年に注意を喚起された。
 背が高く、茶色い髪に青い瞳の横顔の青年は倉菜を素通りし、磔也の襟首を後ろから掴まえた。
 倉菜は首を傾いだ。
 ……この人、何所かで見たような。

【2I】

 巣鴨に着いてみれば、後はサイコで気配を辿って行けば目的の建物には楽に辿り着けた。

──あの子と付き合うんですって? 本当!? 良かった、アイツも見る目あるんじゃない、……良かったわね。いやあ、本当に嬉しいわ、あれでも大事なペットだから、それがこんな素敵な女性を選んだなんて。彼、ちょっとフラフラしてるから確り引き留めておいてね。あなたなら安心して任せられる。

 最近、レイに云われた言葉を思い出した。ウィンの双児の兄を勝手にライバル視している大分変な娘だが、そうして無邪気に祝福してくれた彼女は、それでも大事な友人だ。仲間の命が危険に晒されたと知って、黙っている訳には行かない。多少無理をする事になっても、ベストを尽くす積もりだ。 

 それにしても、とウィンは樹の精神を通して感じた結城少年の気配を思い出しながら考え込んだ。

 なんて、殺気立った子なのかしら。
 確かに血の気の多い年頃だろう。寧ろ、同じ年頃にしては樹などの方が大人し過ぎるのだ。然し彼については、ただのやんちゃでは済まない気がする。
 何が、彼をそうしてしまっているのだろう。
 彼は内面に一体何を抱えているのだろう。
 
 ガラス張りの壁からエントランスホールの様子が見える。 
 ……丁度、そこに居た樹が磔也に膝裏を蹴飛ばされて倒れ込んだ所だった。

【3ABCDEFHI】

「いい加減にしろ、磔也」
 それは、御影・涼(みかげ・りょう)だった。
「レイさんの事で多少は必死になってるかと思えば、これだ。年上を虐めるんじゃない」
「……、お前こそタッパに物云わせて説教するんじゃ無ェよ」
 エントランスホールへ入ったウィンは、涼と樹を交互に見遣って肩を竦めた。
「……あああっ、ウィン従姉さん!」
 ウィンに気付いた樹が慌てて立ち上がり、駆け寄って来たと思うと彼女の陰に隠れるように背後に回る。
「……庇われてるのね、樹ちゃん」
「……誰だ、あんた。……つーか……、」
 磔也はくるりと背後を振り返った。何処からか、シュライン、亮一、翔までもがぞろぞろと現れて来た。──それに。
「……磔也」
 父親も。
「忍……、久し振りだな」
 シュラインが、咄嗟に涼の腕を掴んだ。「注意して、よく『見て』!」とその表情が告げている。
 忍の内面に存在すると思われる「シェトラン」、磔也と対峙する事で何かその片鱗が見えるかも知れない。
「一体、どういう事なんだ? 私が命を狙われたの、レイが人質に取られたのと……」
「煩い。……つまりだ、あんた、存在自体邪魔なんだよ。あんたが居るからこういう面倒にもなった訳。……あーあ、この際、あっさり『はいどうぞ煮るなり焼くなり』つってIO2に引き渡せたらどんなに良いかな」
「磔也! お前、父親に何て事云うんだ!」
 涼は磔也を窘めたが、それでも磔也の感情の変化には意識を集中させていた。
 ──妙だ。先程、忍の精神を伺っていた時と云い、何故こんなにも何の変化も無いのだろう。磔也がはっきり、「シェトラン」と云ったに関わらず。
「そうだぞ、素直になれよ、な? 心配して護衛まで依頼した癖に」
「……、」
 更に背後からの声に、磔也の血の気がさっと引いた。──何故か一足遅れて現れたのは、孝だ。素早く振り返った磔也は、「よ」と親し気な笑顔を浮かべて手を挙げた孝に「近づくな!」と怒鳴った。
「磔也ー」
 寂しそうな表情の孝とは対照的に、磔也は不安の所為かトラウマに拠る怯えか或いは単純に殺気か、ガタガタと全身が震えている。
「……俺の、半径2メートル以内に入ったら、即効殺す」
 あまりにも不穏な台詞だが、何故かシュライン、涼、亮一は笑いを堪え切れずに一斉に口許を覆った。それでも洩れる忍び笑いが更に磔也を殺気立たせる。
「笑うな! 手前ェら全員ぶっ殺す、つーか、天音神は今ここで殺す」
「やめなさいな」
 シュラインはぴしゃり、と磔也の手を叩いた。何だか、本当に冗談では無く勢いで人一人刺しそうな少年なので目が放せない。
「磔也、なんて事を。……すみません、……暫く目を放していたもので、……普段から、こういう事を云うんですか、この子は」
 忍が慌ててシュラインに詫び、勿論、と一同が頷く前に本人が「親の教育が悪かったもんでね」と嘯いた。
「……一体、何の騒ぎなの」
 呆れた顔で、倉菜が腕を組んで冷めた声で誰とも無しに訊ねた。
「……あなたは?」
 亮一が、ふと見慣れない少女に対して訊く。
「……硝月・倉菜と云います。……本当は、単にアルバイトの面接に来ただけなんだけど……。一体何事かしら」
 亮一は楽し気に倉菜に笑いかけた。笑いかけた、と云うよりも先程の抑え切れない笑いが残っていたのを上手く転嫁した、と云う感じで。
「ああ、この事は気にしないで結構です。実は、彼天音神君と云って──」
「田沼! 黙れ!」
「……、」
 明らかに殺意を向けられて居るのに気付く様子も無く、「たーくーやー、怒ってる? だから、不幸な事故なんだって、ほんと」とか何とか云いながら磔也の半径2メートル内に入りたそうにしている青年を、倉菜は冷たく眺めた。
「……、」 
 ふと、孝は冷たい視線に気付いて顔を上げ、──倉菜を見て顔色を変えた。
「あぁっ!? ……」
「……、」
 倉菜の無表情が「何か?」と云っている。……が、あれは……。
 
「……、」
「何見てる? 涼」
 翔が、やや一団から離れていた涼に声を掛けた。
「……ん、これ」
 涼の視線の先にあるものは、こうしたホールなどに良くある類の鋳像である。これはまた、古典的だが無気味な題材だ。
 女の首を掲げた男性が首から下だけの女性の身体を踏み付けにしている姿、──ペルセウス、ギリシャ神話の。
「何か、妙か?」
「……うーん、これさ、金属だよね……、」
「だったら?」
「……これも、楽器になるかなあ、なんて思って」
「ならないだろう、いくらなんでも。穿ち過ぎだ。……ま、こんな無気味なもの、わざわざ置く人間の神経は疑いたくもなるが」
「……そう、か」
 涼は未だ首を捻る。……一応、気をつけておこうか。

「ちょっと、すみません」
 好き勝手な行動に出ていた一同の注意を亮一が喚起した。
 亮一はPower Bookを起動させている。……その画面、ホールの見取り図の画像が表示さえているそれを認めたウィンは樹にウィンクを投げた。無事、手渡せたわね、と。
「4時2分過ぎ、……いずれにせよ、そろそろじゃ無いでしょうか、彼等の到着」
 亮一は更に忍も呼び寄せた。磔也は、涼が殆ど羽交い締めにして連れて来た。孝と樹の護衛を兼ねて。
「磔也君、どうする気なんです? 交渉するとして、外でやるんですか、それともここで?」
 亮一は不満そうに涼を睨んでいる磔也に適当に注意を促した。
「……中で」
 中、と云って磔也が見遣ったのは、この建物の中の、ホールだ。
「……中、ですか。……矢張り、単純に要求を呑む気じゃ無いようですね」
「当たり前だ。文句あるか」
「……いえ? 安心しましたよ、お父さん想いで」
「嘘吐け。……俺は外に出てる。忍連れて中に入っててくれ。……いいか、くれぐれも勝手な真似すんじゃ無ェぞ。……だから放せよ、優男! 分かったよ、この一件が片付くまで天音神は生かしといてやる!」

「……、」
「結城さん?」
 亮一は、ぼんやりとその鋳像に視線を向けていた忍に声を掛けた。
「あ、いえ……失礼。何でもありません」

──何故、これがここに……。

【4ABCDEHI】

「──……、」
 ホールの外は、数台の車に分乗していたIO2のメンバーが御丁寧に銃で武装した上で取り囲んでいた。
 その中心に、シェップが居る。磔也は両手を軽く挙げ、抵抗の意思が無い(振り)事を示しながら彼に歩み寄った。数歩歩いた所で、傍に居たメンバーに押し止められる。
「……何だよ、」
「一応、調べさせて貰う」
 シェップが云う傍から、彼等は磔也のポケットや袖を調べ出し、真っ先にバタフライナイフを見付けて顔色を変えた。
 メンバーが投げて寄越したナイフを見たシェップは眉を吊り上げ、「何だね、これは」と問う。
「……確か、姉の方も持ってたな。物騒な家族だ」
「ただの日用品だよ。俺も姉貴も鋏が持てないもんでね」
 勿論そんな云い訳が通用する筈は無い。結局、ナイフの他にも携帯電話や煙草、ライター等が全て一通り引っ張り出された。
「煙草もだ没収だ。……こんな物を粋がって持ち歩いているガキを見ると、苛々する」
「煩ェ奴。……携帯、後で返せよ」
「困るかね、無いと?」
「当然だろ。……今時の高校生はな、ケータイが無きゃ生きてけ無ェんだぞ」
「御託は良い、シェトランはどこだ」
「そっちこそ、レイはどこだよ」
「安心し給え、近くに居る。……妥協して、君の指定した場所に来てやったんだぞ、そう簡単に人質の居場所を教える程甘くは無い」
「この卑怯者、姉貴に何かしてみろ、本気で殺すぞおっさん」
「……姉思いな事だ」
「いや、一回云ってみたかっただけ」
 こめかみを引き攣らせたシェップの前で、磔也は平然と云ってのけた。

「何やってるのよ、全く、喧嘩売ってるような物じゃ無いの!」
 ウィンのテレパスと、それをアンテナとして皆に伝える翔の能力を借りるまでも無く、一人特殊な聴覚でそんな遣り取りを聴いていたシュラインが業を煮やして駆け出した。
「シュラインさん、どこへ!?」
 亮一が慌てて止めるが、シュラインはドアの手前で立ち止まって「安心して」と微笑した。
「交渉に行くだけよ、弟君には任せておけないわ。微妙に方向性間違ってる、彼」
「気を付けて」
「大丈夫、彼等だっていきなり発砲するほど大胆じゃ無いでしょう」

「……それじゃ、俺達も行こうか」
 シュラインの背中を見届けた涼が、立ち上がった。
「ウィンさん、もう大丈夫です、ありがとう、大体分かりました」
「……、」
 ウィンは額に滲んだ冷や汗を拭って、涼に微笑んだ。
「大丈夫ですか? ……無理したんじゃ……」
「大丈夫よ、大事なお友達の為だもの」
 ウィンは、限界レベルで解放したサイコ能力をようやく緩めてほっと一息を吐いた。どうにも好戦的で、某幻想世界では無茶苦茶な程の能力の使い方をした兄とは違って、ウィン自身はテレパスと千里眼を同時に使用するのは初めてだった。
 私情でスタンドプレーに走っているというシェップを信用するのは危険だ。
 ウィンや涼を始めとして、ほぼ全員の最優先事項は人命である。慎重に行動すれば、交渉よりも先にレイの身柄を奪還出来ると考えた。そこで、ウィンのサイコ能力が必要となったのである。
 そうしてウィンの精神に「感応」した涼が共にレイの居場所を探る。
「孝さん、行こう」
「よし」
 孝も涼に続いて立ち上がった。
「よろしくね、私と樹ちゃんは、もう少し事務所を調べてみる。合流先は田沼さんの事務所で良いのね」
「ん。ま、居場所さえ分かりゃ人質奪回は確実だ」
 孝は自信有り気な発言──何せ、空間を繋いでレイの身柄だけ奪回すれば、安全に追手も撒けるし、この世界での戦闘が楽勝な武器、電磁剣も彼にはあるし──の割りに、浮かない、と云うかやる気の無いトーンだ。孝にとっての問題は、寧ろ奪還後……。

【5DIJ】

「水谷さん、」
 蓮は、丁度事務所へ向かおうとしていた水谷を見付けてその背中を呼び止めた。
「……おや、香坂君」
 何か、とやや面倒そうに水谷は応えた。どちらかと云えば、急いでいるように見える。
「未だお帰りじゃ無かったんですか?」
「いえ、あの、ホールの音響の事で気になる事があったのでお話を」
 息を切らした蓮の脳裏に、ウィンの「そうよ、その調子! その調子で引き留めて!」と云うテレパスが響く。
──全く、無茶を云う……、知らないぞ、途中で打ち切られても。出来るだけ引き留めるが。
──お願い!
「何でしょう?」
「先刻、ホールには未だ音響設備を追加すると仰っていましたが……、」
「ええ」
 蓮の記憶はフル回転している。この際、正当性はどうでも良いから出来るだけ論議を吹っかけられるような話題を探すのだ。水谷は蓮の言葉に相槌を打ちながらも、ちらちらと忙し無い視線をあちこちに向けている。
「特に、オーケストラピットのレスポンスの事で。思い出したんです。以前、音大でオーケストラをやっていた時に色々なホールに出張したりしましたが、たまに時間差が酷いホールがあったんです。一見、音響は良く聴こえる。然し、響きが良過ぎる分舞台上でさえ音の伝達に遅れが出て、奏者には大きなネックなんです。弦楽器は未だ良い、皆トップの右手を見て弾きますから。でも、管セクションが特に──」
「有難う、是非参考にしたいのですが、今はちょっと急いで──」
 そうは行くか。蓮は更に喰い下がった。
「いえ、これは今度の公演に大いに関係すると思う問題ですから、是非早めに。先程はオーケストラピットまで見ませんでしたが、ああした半地下に位置する構造では心配です。このホールも特に響きが良いので」
──ファイト! ファイトよ香坂さん!
──香坂さん、格好良いです。
──無茶苦茶だ! 水谷氏、多分あんたらを探してるんだぞ! そんな時にオーケストラのレスポンス云々と云って聞くか!
「ああ、大丈夫です、その辺は何とかなりますから」
「なりません。僭越ですが奏者としての意見なんです。結城が何を云ったか知りませんが、ああした勢いで突っ走る奏者はそうした事に注意しないんです。グルックですよ、そんな正確さを要求される演目で指揮者だけが頼りでは……」
 水谷刻一刻と苛立ちを募らせている。ほぼ投げ遺りに、「御心配無く、今度はオーケストラは入れませんから」と云い捨てて駆け出した。
「水谷さん、……」
 蓮は尚も引き止めようとしたが、……この数分で溜った疲労が一気に押し寄せて、もうあとはどうにでもなれ、俺は元から無理だと云ったんだ、と内心独りごちた。

【6DI】

 水谷の相手を蓮に任せて、事務所のコンピュータ内を漁っていたウィンと樹は、果たして東京コンセルヴァトワールに繋がると思しいデータベースを開く事に成功した。どの程度のレベルまでアクセスが許可されているのか分からないが、膨大な人間のデータベースの中には結城忍や、果ては磔也、レイの名前まで見つかった。
 ゆっくりと見ている時間は無い、とにかく二人は急いで樹のノートパソコンを接続し、データをコピーし始めた。
 ──と……。

「何をやってる!」
 水谷だ。──時間切れか。
 だが、観念して樹を羽根のように広げた腕に庇おうとしたウィンは従弟の呪歌を聴く事になる。
「──……、おいで、精霊、サンドマン!」
 土壇場の精神状態の中で、天性の勘か、樹が呪歌で召還したのは眠りの精霊、サンドマンである。
 行け、と云うように樹は腕を水谷へ向けて伸ばす。

「……ねえ、樹ちゃん」
 実際に眠りに落ちた水谷を前にしているお陰で、大分精神的に余裕が生まれた。データベースを流し読みしていたウィンが、樹を呼び寄せた。
「これ、見て。……磔也君のデータなんだけど」
「どうして、この中に磔也さんのデータが?」
「ん、それより……ここ」
 ウィンがカーソルを合わせて示した一分は、視力や聴力等の身体能力に関する項目だった。
「彼……、」
 と、そこまでを呟いたウィンは突如、脳内に流れ込んで来た激しい絶叫を聴く事になる。
 
【-】

 俺が未だ10代のガキの頃、母親は軽度の精神衰弱で自宅療養しながらセラピーを受けていた。その病院では、デイサービスの一環として当時日本では未だ珍しかった音楽療法を取り入れていた。親父も俺も、音楽による癒しなんかがプラスになるとは思えないまでもまさかマイナスになるとは思ってもいなかった。
 演奏に来ていたのはボランティアのアマチュアグループで、療法士は自身は音楽知識の無い人間だった。だから、演奏の善し悪しに無頓着だったんだ。
 俺も何度か見学に行った。拙いバッハの弦楽四重奏なんかを一生懸命に演奏しているボランティアは気の良い人達で、好感を持った。それがまさか、母親にとって凶器になるとは思えなかった。
 誰も、気付かなかったんだ。アマチュアの演奏する高音楽器が発する甲高い音が、特に精神を病んだ人間にとって余りに不愉快な刺激を与えていた事に。
 母親は、何故か日毎に悪くなって行くようだった。余程精神状態にガタが来てたんだろうと、医者も父親もセラピーの悪影響を疑いもしなかった。
 
 ある日、セラピーの最中に母親は狂ったように絶叫しながら病院の窓から飛び降りた。

 精神患者の専用病棟じゃ無かったから、セキュリティは甘かったんだ。
 後になって、音色の悪い高音楽器の倍音が母親に過度のストレスを与えていたんだと知った。

 その時のボランティアを、俺は恨んではいない。あの人達には善意しか無かった。
 だが、俺はそれ以来どうしても音楽だけは好きになれない。

 ──その音楽を、意図的に凶器として使おうとしている連中は絶対に許せ無い。

【7AEDFHI】

 ──The Spell of the Voice。 
 超聴音と常人の音域を遥かに越えたヴォイスコントロールにより、ありとあらゆる音を聴き取り再現する能力だ。

「止めて──……!!」
 耐え兼ねたシュラインの絶叫は、彼女本来の声では無く、恐らくは無意識に里井の声を模倣した音に拠って発せられた。然し、その声量の差は歴然である。然も、シュラインの場合、それを予測して予め待機していた翔が『増幅』させたものだから──。 

「……、」
 亮一、倉菜、翔、は一様に両耳を覆っていた。
 ……凄い声だ。
 実際には、音は何も聴こえなかった。シュラインが発したのは、人間の聴覚では感知出来ない程の高周波数の声、云ってみれば超音波である。それは、聴こえなくとも凄まじい空気の振動を通して鼓膜を突き抜け、亮一がその干渉を遮断していた3人にもその壮絶さが知れた。
 音楽が、止んだ。不快極まりないレクイエム、キリエが。
 3階バルコニーに居たコーラスの少年少女達と里井、ピアノの前の忍と舞台下のシェップは意識を失ってその場に伏した。

「……凄い声だな……、」
 予想していたとは云え、あまりの効果に肩を竦めて翔はシュラインを見遣った。
「……だって、あんまりよ」
 ──問題は。
 コーラス全員や、忍までが意識を失った今の音を「聴いて」いた筈なのに、磔也だけは平然とした顔で元の位置に立っていた事だ。
 真摯なシュラインを嘲笑するように薄ら笑いさえ浮かべて。
「……沼、あのボウヤまで遮断したのか?」
「いえ、そんな筈は……、」
 何故、平気なのだろう。亮一にもそれは理解出来なかった。
「……何かあったか?」
「一体、どういう神経の構造をしているのかしら。信じられないわ」
 あの図太さ。あれじゃ繊細な音楽なんか演奏出来ない訳ね、と倉菜は冷めた視線を磔也に送った。
「……おい、何やってんだ、里井、未だ終わって無ェぞ」
 本当に何も気付いていないように3階バルコニーに向かって声を掛けた磔也に応えたのは、ウィンだった。──樹も居る。つい今しがた、舞台へ続く通路から入って来た所だ。
「無駄だわ。彼等、里井君も含めて全員気絶しているわよ。ついでに、お父さんも」
「……何?」
 眉を顰めた磔也はウィンと樹を一瞥した視線をそのまま忍に向け、はっと表情を変えた。
「……そう、矢っ張り『聴こえ』無かったのね、磔也君」
「──!」
 磔也はその一言で明らかに狼狽した。
「……どう云う事です?」
 亮一は2階からウィンに訪ねる。余計な程の音響の良さで、無理せずとも会話が通じた。
「……今のシュラインさんの声、聴こえなかったのよね、あなたには」
「手前ェら……、」
「葛城君、」
 亮一が次ぎに質問を向けた樹は、磔也へ遠慮勝ちな視線を向けながら切り出した。
「……磔也さんの聴覚は、壊れ始めてるらしいです」
「葛城! 黙れ、ぶっ殺すぞ手前ェ!」
 怒号を受けた樹は慌てて後ずさった。──穏やかじゃ無いこと。ウィンは、動揺して集中力の散漫になっている磔也の目を盗んで移動を始めた。
 樹は一旦廊下へ飛び出した後、階段を登って亮一達に合流した。そこで、先程水谷のコンピュータを介して入手した東京コンセルヴァトワールのデータベースを見せる。

────────────────────
<No. XXX3-001>
<氏名:結城・磔也>
<生年月日:1986年5月26日>
 ・
 ・
 ・
<聴力レベル:SA ※但、現時点で障害の発生が確認される。既に高音域を認知不可、進行中。(難聴までの予想期間1年(2003年現在))幻聴等も認められる。原因は不明、現在調査中>
<特記事項:(No.XXX3-000)『ZERO』結城・レイを姉として家族に設定、現在結城・忍の養子として戸籍に登録>
────────────────────

「……まさか、それだけの為に?」
 倉菜は愕然とした。
 聴覚に異常を来した事で自棄になって、こんな大騒ぎを引き起こしたと云うのか。
「……最低」

 ──そうとは云い切れない。
 倉菜の言葉を聴いたウィンはどこか悲しい気持で考えた。
 不思議な事に割合磔也と親しくしているらしい蓮が云っていた、あいつは相当精神のバランスが悪い、と。
 精神的な不調は、実際にはフィジカルな故障が根本的な原因である事が実は多い。
 肉体的、感覚的な不自由さが感情にダイレクトに反応するのだ。
 聴覚障害が全ての原因では無いだろう。だが、磔也のこの気狂いじみた行動には幾らか関係がある筈だ。
 この際、はっきりさせよう。

「ごめんなさい、許してね!」
 唐突に、ウィンは背後から磔也を抱き締めた。先日、兄が磔也に対して取った行動を聞き知っていたウィンは、咄嗟に彼の弱点を突く事に成功した。完全に虚を突かれた磔也は硬直して、反撃も出来ずに居る。

──悪いけど、あなたの心、見せて貰うわ。

「……結城氏と云い、磔也君と云い……役得続きですねぇ」
 亮一がのんびりと呟いた。

【8I】

──シドニーの奴……俺の事まで監視してやがる、煩ェ女──レイが、妙な連中を集めてベルリオーズの幻想を、……クシレフ、相当因縁があるな、お前とは、──クシレフは、あらゆる肉体の障壁を飛び越えて俺の前に現れた、……「シェトランの息耐える時、それが芸術の革命の上にユートピアが建設される時だ」──6年前、IO2に目を付けられて大人しくしてたと思ったら……シェトランを煽って呉れよ、俺は忍が邪魔なんだ──レイの奴、忍の気を引こうとして手首切りやがった、そんなに死にたきゃ殺してやる、……違う、殺す気なんか無かった、あんなに殴る気じゃ無かった、──一命を取り留めてから、レイは前髪で顔を隠すようになった、……俺への当て付けか、同じ遺伝子を持つ俺と同じ顔だから、──忍が、フランスへ行った、東京を出るか消されるか、……清々した、──7歳だった、俺が家へ来たのは、──「君達の将来には芸術の勝利の地が約束されている、そこには理想郷としての音楽都市、ユーフォニアが建設されるだろう」──退屈な奴ら──絶対音感が何だって? そんなもん何の役にも立ちやし無ェよ、何回やっても同じだ、俺は本当は音名で聴いてるんじゃ無い、今の音は345ヘルツと512ヘルツ、差音は172ヘルツのF──

 ……俺は、ただ壮大な破壊を渇望しているだけなんだ。

──何? ……何処なの、ここは……、
 
 目紛しい磔也の記憶の逆流を通過したウィンは、見慣れない風景の中に立っていた。
 肌寒い程の冷気。周囲を岩肌に覆われた暗い空間、足許は水に浸されている。その水面は遠くの入口から差し込む陽光で輝いていた。輝かしい空、鴎の影が行き過ぎる。

──……!! 磔也君!?

 ウィンの足許に、全身を水に沈めた磔也が仰向けに倒れていた。目は閉じられていて、死んだように動かない。慌てて手を伸ばそうとしても、どうしても彼へ近付けない。身体を動かしているのに周囲は全く変わらなかった、──そう、夢の中の感覚に似ている。

──……ここは、磔也君の意識の中の風景? ……それにしても、一体何処なの、ここは……。

 ──……、幽かに、音楽が聴こえた。美しいヴァイオリンのアンサンブル、輝かしい管楽器の旋律、……何所かで聴いた曲だ。だが、何だっただろう、俄には思い出せない。然し、磔也のピアノとは違う。革命的で、暴力的なまでに激しい不協和音とダイナミクスを伴う音楽では無い。ただ、穏やかで美しい。

「──……、」

 ウィン従姉さん、──樹の声だ。ウィンの意識は現実へ引き戻された。

【8DI】

「……大丈夫ですか? ……心配しました、従姉さんまで意識を失ってしまったみたいで」
 樹が、心配そうにウィンを覗き込んで居た。
「大丈夫……、磔也君は?」
 樹は視線で磔也を示した。仰向けに倒れた磔也は完全に意識を失っている。如何に虚を突かれたとは云え、ウィンのような美女に抱きすくめられた事でショックを受けたと云うのは余りにも失礼なので有り得ないとして、恐らくはその後、ウィンのサイコ干渉を受けて一緒に自らの記憶を一瞬で観てしまった事への精神的な負担だろう。
「単に気絶してるだけだと思います、……どうでした?」
「磔也君の記憶は……、……彼がこんな風になってしまった理由が生い立ちから見えた気はするわ、詳しい事は後で話すとして……、」
 所で、とウィンは言葉を継ぐ。
「樹ちゃん、この曲何だったかしら? どこかで聴いたけど思い出せないのよ、」
 ウィンは先程聴いたヴァイオリンの旋律を口ずさんだ。
「……あ、メンデルスゾーンですね。『フィンガルの洞窟』、別名『ヘブリディーズ』、聴いた事はあると思いますよ、オーケストラの演奏会用の序曲だから」
「フィンガルの洞窟……、」
「でも、どうして?」
 磔也君の意識の中で聴いたの、とウィンが答えると樹は小首を傾いだ。
「……メンデルスゾーンですよ。磔也さんはどっちかと云えば昔のリストとかベルリオーズとかの破壊的な音楽の方が好きみたいだけど、メンデルスゾーンは同時代でも音楽性は正反対だ、ダイナミクスも上品だし、ロマンスも端正で──、」
 もしかしたら、とウィンは磔也の記憶の風景を思い返しながら呟いた。
「……磔也君の求めている音楽は、違うのかも知れないわ。……こんな、音楽の破壊的な革命を目指したのは……或いは、『目指すように』教育された所為かも知れない。……刷り込みよ」

 所で──。ウィンは周囲を見回し、シェップの姿が無い事に気付いた。
「あの人は?」
 あ、そうだ、と樹は声を上げる。
「ウィン従姉さんが磔也さんの精神の中に行っている間に、大変な事があったんですよ」
 そして樹は、「ディテクター」と名乗るサングラスで顔を隠したIO2の他のメンバーが現れてシェップを連れて行った事を告げた。
「……『ディテクター』……?」
「……ええ」
 ディテクター、……探偵? 

【9DIJ】

 意識を現実に引き戻したウィンと磔也を迎えたのは、先程の不快な倍音だらけのキリエとは比べようも無い、澄んだ、美しい音楽だった。
 蓮が、ヴァイオリンで弾いているのは「Sanctus」、先程のキリエと同じモーツァルトのレクイエムの内一曲だ。
 コーラス曲を即興で変奏しているが、本当は大分高度なテクニックである筈の重音をカデンツァのように軽やかに使っている。余分な情感は一切無い、が、それがマイナスにならないだろう事は先刻、ドアの外まで聴こえて来たキリエを聴いて分かっていた。
 あまりに反響が良いこのホールの音響の中で特に気をつけるべき点は最初にカプリスを弾いた時に分かった。音程の狂いである。
 ヴァイオリンは音程を全て奏者が決定しなければならない。そしてそれは、実はあまり響かない場所では気にならない事が多いのだ。だが、ここでは──。
 プロのヴァイオリニストとして、何は省いても正格な音程を維持する為の音階練習は日々欠かさない。その点、自信はあった。
 だからこそ、逆に磔也がわざと音程をずらした調律を倉菜に依頼したのだと云うことは何となく理解出来た。
 蓮は、その完璧な演奏でモーツァルトのレクイエムを忠実に再現した。何も、破壊的なだけが即興では無いのだ。

「……香坂、」
 短い続誦を弾き終えた蓮は、舞台上に座り込んだままぼんやりと自分を見ていた磔也を振り返った。
「音楽は、決して不快感を与えてはならず、楽しみを与える、つまり常に『音楽』でなければならない」
 磔也が、目を細めて蓮へ顔を向けた。
「……何、云ってんだ」
「モーツァルトの言葉だ。仮にもモーツァルトを演奏しようとする人間が作曲者の意図も知らないでどうする。……お前は、モーツァルトの音楽を決定的に取り違えている。理論は知っておく可きだ。だが、革新などと云う問題の前に、一番基本的な事を忘れていたな」
「──……香坂……、」
「それだけは、一言云っておきたかったんだ」
 磔也は暫く蓮を見詰めた後、絶望したように微笑んだ。
「……香坂なら、分かってくれると思ってたけどな。まさか、あんたまでそんな夢みたいな事を云うなんて、……がっかりした。……お前程弾ける奴が」
「技巧を修得するのは奏者として当然の事だろう。だから、何だ?」
「──技巧こそ全てだ!」
「ガラミヤンか?」
 勢いに任せようとしていた磔也は余裕のある蓮の返答に言葉を切った。
「そんな名言もあったな。だが、それもお前の勘違いだ。ガラミヤンは何も技巧を見せ付けて聴衆の不安を煽ろうなんて考えては居なかったと思うぞ。技術無くしてはどれだけ想いがあってもその演奏は聴衆には伝わらない。だからこそ技術を得る。奏者には、元々想いがある事を想定した正論だ」

【9ABCEFGI】

 事務所へ戻ったシュラインは先ず目にした光景に「またやってる……」と溜息を吐いた。
 そう、彼女と、それに続いた亮一と倉菜を出迎えたのは淡い緑色の髪を靡かせた金色の
瞳の美少女だったのである。
「……御影君は居るし、……レイさんね、さては」
「いや、これには訳が」
 美少女、基いあまねちゃん、基い孝はシュラインの姿を前ににして慌てふためいて云い訳する。……が、シュラインは最早呆れしか感じ得ないようで、鷹揚にひらひらと手を振って「良いわよ、別に」と微笑んだ。
「……それにしても、好きねえ」
「誤解だって! シュラインさんてば!」

「……おかしいな」
 分離したレイを見下ろしながら、孝は髪を掻き回して首を傾いだ。
「どうだった?」
 未だ意識を失っているレイを抱き起こしてソファに寝かせながら、涼が訪ねる。
「……フツーだった」
「普通?」
「……ああ、本当に普通。……気を失わせたのが悪かったかなあ。けど、それにしても特に何も変わった事、無かったんだよな。……あれ、磔也が余っ程特殊なのかなあ」
「あり得るかも」
「……くそっ、そうなると余計に後が怖いな」
 慌て出した孝を、くすくすと笑って見上げながら涼は殊更優しくレイの頭を撫でた。
「あーあ、可哀想になあレイさん。あんなに厭がってたのに。……そろそろ起しても良い頃かな?」
「やめてくれ! つか、俺は今から逃げる、あと数分したら起して良いぞ」
「駄目だって。意識を失ってて、ある意味良かったね、あまねちゃん。命拾いだよ。……まあ、目が冷めた時は覚悟が必要だけど」
「ああもう土下座でも何でもするよ、」
 自棄半分に、孝は盛大な溜息を吐いた。
「……それにしても、怖かったね、レイさん。……もう大丈夫だから」
 整えてやろうと、レイの前髪を撫でていた涼はふとその指先を止めた。
「……、」
 前髪の隙間から覗いた、──ちゃんと見るのは始めてのレイの目許が露になった。

──磔也……?

『こちら巣鴨、どう、無事?』
 ウィンの声だ。

 ……そうか、若しかしたらレイさんが目許を隠していたのはこの所為かも知れないな──、涼は孝に見えないように、再びレイの目許を前髪で覆ってウィンのテレパスに答えた。

「無事です、レイさんにも、……結城さんにも異変はありません」
 結城、と云う時にシェトランの存在を意識して貰えるよう、やや強調して涼は答えた。

『所で、涼さんホールの音を聞きたいって云ってたでしょう、今、丁度香坂君がヴァイオリンを弾いてるの、……来たら?』

 ──あ、急いで意識を向けようとした時、折良く入口からセレスティが現れた。

「……こちらにも一騒動あったようですね」
「骨折り損でね」
 孝が憮然と答えた。
「……然し丁度都合が良い。御影君、レイ嬢をそのまま私に貸して頂けませんか? あなたはホールの音楽を聴いて来ると良い、先程の不快なコーラスとは違って、良いヴァイオリンですよ、中々。参考になるでしょう」
「じゃあ、」
 何をする気か、またこの麗人、何を企んでいるのかは気になるが、涼は一先ずレイをセレスティに預け、涼は今しがたセレスティの通って来た空間へ入った。

【10CDIJ】

「……何を、そんなにムキになってるんだ、磔也」
 蓮、ウィン、樹、磔也はそう云いながら現れた涼を見遣った。
「あれ……、」
「私が呼んだの」
 そうか、と樹は納得した。そうであれば、孝の残していた空間を考えれば突如涼が現れても何の不思議も無い。
 訝しそうな蓮には、「私達の友達」とウィンが手短に紹介した。
「何って……、」
「香坂さん、ですよね。俺もちょっとヴァイオリン齧ってるから、今の演奏がどれだけ難しいテクニックを駆使してたかは想像が付く。……あ、すみません、趣味の俺がプロのヴァイオリニストにこんな僭越な事云う可きじゃ無いんだけど」
「いや、別に」
 蓮は素っ気無く肩を竦め、軽い会釈で涼に応えた。
「でも、そんなテクニックの前に今の演奏には素晴らしい物があったよ。音楽に対する謙虚さと理解、……お前は何も思わなかったのか?」
「思わないね。そんな事はどうでも良い、それよりはヴァイオリンって楽器でここまで完璧な音程で3度6度の重音、4和音を取った技巧は大したもんだ」
「それだけじゃ無いでしょう、磔也君。少なくとも、あなたの心の中の音楽はそれだけじゃ無かった」
 ウィンの耳の奥に、先程の音楽が甦った。
「磔也の心の中の音楽?」
 涼は小首を傾ぎ、樹がどうだか、と云う風に「メンデルスゾーンらしいですよ」と、──磔也とは視線を合わさないように──応えた。
「……煩ェんだよ、そういう感傷。お前ら全員、鬱陶しい。他人の感性が、そう簡単に変えられると思うなよ、俺は、」
 樹が顔色を変えた。──磔也の殺気が頂点に達したので。
「俺は、革命を起す。音楽の力で勝利を得るだけの技巧が、俺にはあるんだ、情感だとか何だとか、せいぜい馴れ合いを続けてろ、──そんな生易しい人間、破壊して見せる、全て」
「──待て!」
 高揚して殆ど半狂乱の体で御立派な事を高らかに宣言し、舞台を飛び降りて出口に向かう磔也を追い、涼は彼の腕を掴んだ。
「……何で、そんな事云うんだよ、本当に素直じゃない、お前って」
「何とでも云え。お前みたいな人間は嫌いだって、前にも云ったよな」
「磔也!」
 手を振り切って駆け出した彼を、何故か突如沸き上がった物悲しさから涼は追い損ねた。

「……どこ、行ったんだろう」
「全く、直ぐにいなくなる奴だ」
 樹の横で蓮は一応、携帯電話を掛けてみた。──さっきの今だが、と駄目元で、果たして圏外、と云うことだ。勿論、蓮は知らなかったのだが。彼の携帯電話はシェップに取り上げられたままで、恐らくは永久に日の目を見ないだろう事は。
「……どうする?」
 ウィンの言葉には、涼が応えた。
「取り敢えず、亮一さんの所に皆集まってますから。……香坂さんは、どうします?」
「……ついでだから寄せて貰うか。硝月にヴァイオリンも返さなければいけないし」
 良かった、と涼は微笑んだ。
「じゃあ、そこででも又、ここで実際に演奏した感想聞かせて貰えますか。音響の事は気になってたから」
「別に構わないが、──……、」
 そこで、蓮は引っ掛かりを感じて3階バルコニーを見上げた。──里井、……奴はどうしただろう。
「……あ、急がないと彼等が起きるかも知れない」
 そして、涼、樹、ウィン、蓮も一先ず亮一の事務所へと空間を渡る事にした。

【11】

「と、云う訳で総括だ」
 結城親子が引き揚げた後、事務所に集まった面々を前に、翔が音頭を取った。
「シェップに関しては、今回奴は完全にスタンドプレーだった。昔、母親が素人の演奏に拠る音楽療法でストレスを溜めて自殺した事で、音楽を憎んでいたらしい。……ちょっとした借りは出来たが、元はと云えば向こうが悪いんだから相殺だろう」
 そして翔はちらりとシュラインを見遣る。──彼女は彼女で、別の問題を思案していた。
「私が思うに、これは磔也君一人どうこうして済む問題では無いと思うわ。寧ろ、彼は利用されている気がする。彼の精神的な不安に付け込んで、破壊衝動を煽られていると云うか」
「俺としては、水谷和馬自身が過去には何も東京コンセルヴァトワールなどとの繋がりを持たない、本当の一般人だった事の方が気になりますね。彼が関わっている理由は、矢張り……、水谷の空の肉体を乗っ取った存在……『クシレフ』……か」
 シュラインと亮一の意見は一致しているようだ。根本的な悪意は東京コンセルヴァトワールという組織にあるらしい、と。
「……でも、音楽をやっている彼が聴覚を失いかけているなんて、本当に可哀想。……まあ、あそこまで荒んだ性格は元々あった傾向かも知れないけど」
 ウィンは心底気の毒そう、と云うように目を伏せた。私だって音楽は大好き。殊更、「音楽しか」無い人間がそれを失ったら、と思えば──。
「それ、遺伝的な物なのかな?」
「いや、外的要因だろうと私は思う。……そうだろう、沼」
「同感ですね」
「どうして?」
 翔と亮一は目配せを交わし、「仕方ないか」と云う風に翔は口を開いた。
「涼には云い難かったんだが、あの家庭、大分複雑なんだ。結城氏に結婚歴は無し。磔也とレイは養子だ。……が、姉弟自体は血が繋がっているらしい。それと、ルクセンブルクさん達が入手して来たデータの遺伝子情報をざっと照合したんだが、妙な事に戸籍上の親子である筈の結城氏と姉弟、……同じなんだ。結城氏と。遺伝的な物であるとすれば、染色体には男女差があるから姉には現れ無いとしても、同じ男性の結城氏はとっくに聴覚を失っている筈だ」
「? ……ちょっと、意味が良く分からないな。遺伝の問題はともかく、養子なのに遺伝があるとか、」
「そう云えば、涼は見て無いですよね。3階の人達」
 涼は頷いたが、代わりには倉菜が肩を竦めた。
「ああ、あの全員同じ顔のコーラス達?」
「何それ、」
「見る? 覗いても良いわよ」
 涼の『感応』能力を大体察知していた倉菜は、件のコーラスの少年少女達の視覚的な記憶をイメージしながら涼に顔を向けた。「ごめん、」と断り、涼は彼女の精神に意識を集中した。
 そして、涼も見る事になる。100人近い人数の、全く同じ制服の上に、全て顔立ちから体つきまでが同じ少年少女達の軍勢を。
「……これ、映画じゃ無いよね?」
 ──余りに薄ら寒い。涼はわざと冗談めかして訊ねたが、倉菜は「当たり前よ」と素っ気無い。
「実際に、居たんですよ。3階バルコニーに」
「……どうだ、クローン人間だとしか思えないだろう」
「クローン人間、そんな非人道なって法律が──」
「だからこそ、証拠隠滅の為に東京コンセルヴァトワールは姿を変えたんだ。前身である東京音楽才能開発教育研究所から。結城忍、磔也もレイも元々はそこの出身だ。私が思うに、結城忍がわざわざ姉弟を養子に引き取ったのは逆に、単に戸籍を得る為の手段だったんじゃ無いかと思う」
「クローン……、まさか、……レイさん達が? つまり、才能あるピアニストのコピーとして?」
 出来れば否定したい気分の涼の脳裏に、ある光景が甦った。──介抱中に、ちらりと見えたレイの素顔。彼女が執拗に隠していたその顔が、姉弟とは云えあまりに弟に似過ぎていたと感じた事を。
「どうも、そんな事ばっかりやってた機関らしいぞ、東京音楽才能開発教育研究所。表向き、一応まともな音楽教育機関らしく音楽教室なんかも併設していたらしいが」
「磔也君の聴覚障害の件にしても、元々人間の聴覚は加齢と共に衰えて行くものです。ですが余りにその進行が早い事の外的要因として、……幼児期に無理な音感訓練を行ったとか。それも、実験の一環として弊害も予想の上で」
「……酷い」
 珍しく憤りを抑えられない涼に、翔は一応「あくまで予測だからな」と釘を刺しておいた。
「……所で、その東京コンセルヴァトワールの人間に会われたそうですね、カーニンガムさん?」
 翔は、質問をセレスティに向けた。麗人は一度ウィンを見遣って微笑む。
「ええ、ルクセンブルク嬢の御紹介で。自分はあくまで非常勤講師だと仰っていましたが、彼も若い時分には東京音楽才能開発教育研究所付属の音楽教室で学んでいたと云うことで、大分関わりは深いと思われます。暗に、脅されましたしね。あまり関わるな、と云いたかったように思います」
「何か、分かりまして?」 
 ウィンの問いに、セレスティは軽く首を傾いだ。
「そうですね、簡単には洩さないだろうとは思っていましたが、それだけに、矢張り磔也君や巣鴨ユーフォニアハーモニーホールの上には東京コンセルヴァトワールがある、と云う証拠とも云えるかと」
「その、東京コンセルヴァトワールを探る方法は無いかしら」
「私もそう思いまして、ルクセンブルク女史の御名前や資金援助の話を出したのですが。『堅いし、気取った所だから』とやや閉鎖的だと云う感じですね。……そうそう、」
 セレスティはそう、と涼に声を掛けた。
「御影君、ホールにあった彫像を気にしていたそうですが」
「はい、……何か不気味だし、……あと、結城氏が『何故これがここに?』って感じていたように思ったんです」
「あの彫像、元はどこにあったものかお分かりですか?」
「どこに?」
「東京音楽才能教育開発研究所の施設内です。閉鎖後、東京コンセルヴァトワールの倉庫あたりに押し込んで隠していたようですが」

「そう云えば、水谷さんはあの後どうなったかしら?」
 ふと、ウィンは素朴な疑問を発した。樹が精霊サンドマンを召還して眠らせたままの水谷。
「そろそろ、起きてると思いますけど。……でも、完全に顔は覚えられただろうし、履歴書まで渡して来ちゃったしなあ……僕はもうホールへは行けないです」
「今後の動向調査に、アルバイトの身分は有効だったんだけど、仕方無いわね。相手がその『クシレフ』とやらじゃ、そうそう簡単に記憶操作なんかの精神戦には持ち込めないし」
 それまで、訳が分からないと云う風に取り敢えず黙って話を聞いていた蓮が口を開いた。
「俺は、多分大丈夫だろう。何せ水谷氏の事は今日始めて知った位だからな。今後も音響チェックのアルバイトに行く事になると思う。未だ不完全だと云うホールに何か仕掛けが追加されれば、直ぐ分かるだろう。何かあればまた情報は提供する」
「私も」
 倉菜も蓮に倣って名乗りを上げた。亮一は軽く頷く。
「じゃ、そちらの事はお二人にお願いしましょう」
「……それと、香坂さん、」
 ウィンが急いで云い足した。
「磔也君、香坂さんには割と親しそうだったわよね」
「そうなのか? あの態度」
 だとすれば迷惑も良い所だが、蓮にはその辺りの基準が良く分からない。
「……全然扱い良いですよ。……僕なんか……、」
 呟くような独白を吐く従弟を横目に、ウィンは蓮と会話を続ける。
「あの子、当分帰って来ない気がするの。気になるわ。もし、連絡なんかがあれば教えて欲しいの」
「……分かった」

【xxx】

 一週間、何事も無く過ぎた。──ただ、磔也の消息が知れない事意外。

「……もしもし、あの、2年D組結城磔也の姉ですが。……弟、学校には……、……ですよね、あ、いえ、あの、風邪なんです。そう、ずーっと、そうです、ただの風邪ですから。ただ、あの通りバカなもんで一度熱出すと下がらなくて。まだ当分休むかも知れませんけど、どうぞご心配無く。留年決定で結構ですから」
 
──……そう、このまま居なくなってくれればどんなに良いか。

 レイは受話器を置き、ダイニングの父に向かって声を上げた。
「パパ、取り敢えず御飯にしよ、コーヒー煎れるね、いつものインスタントだけど」
 ああ、と気の無い返事が返った。だが、彼はどれだけ気掛かりな事があっても表面上は決して面倒そうな態度は取らない。
──……反抗期か。余程疎まれているらしいな、私は。昔から、不意に何日も居なくなる子だった。……珍しい事じゃ無い、多分、友達の家にでも泊まっているんだろう。冨樫君と一緒に居るのを見たと云う話も聞くし、……大丈夫だろう。……そうであれば良いが。
 レイはインスタントコーヒーを煎れ、湯を湧かしながら笑みが溢れるのを禁じ得なかった。 
──何があったか知らないけど、もし、本当にこのまま磔也が戻らなければ。
 父の帰還で大分浮かれているレイは、単純に目先の希望だけで他に注意を払えなかった。

「……そうだ、パパ、今度のコンサートね、香坂さんに招待するって云ってるの。この間逢ったんだっけ? 音響チェックで、アルバイトでヴァイオリン弾いてたでしょう? 凄く良いヴァイオリニストだと思わない? 今度、クロイツェルあたり二人で弾いて欲しいなー。……うん、だから招待券が出たら貰って置いてね。……あ、シュラインさんとか、御影君に葛城君も呼ぶかなあ。そうだ、ウィンさんもだ。ねえねえ、気付いてた? 金髪の凄くキレイなドイツ人の女の人が居たでしょう、彼女、あの声楽のルクセンブルク女史の姪なのよ。吃驚? ……でしょう? いっそ20枚くらい、纏めて貰って来て。……うん、お願いね──」
 朝食の後片付けをしながら、レイは背後の父に向かっていつまでも話し掛け続けた。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0931 / 田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】
【1532 / 香坂・蓮 / 男 / 24 / ヴァイオリニスト(兼、便利屋)】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
【2124 / 緋磨・翔 / 女 / 24 / 探偵所所長】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人】

NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】
【結城・忍 / 男 / 42 / ピアニスト・コンセルヴァトワール教師】
【水谷・和馬 / 男 / 27 / 巣鴨ユーフォニアホール人事担当者】
【冨樫・一比 / 男 / 34 / オーケストラ団員・トロンボーニスト】
【里井・薫 / 男 / 24 / 歌手】
【陵・修一 / 男 / 28 / 某財閥秘書兼居候】
【シェップ / 男 / 31 / IO2エージェント】
【ディテクター / 男 / 30 / IO2エージェント】

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■         ライター通信          ■
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皆様、今回も音楽都市への御参加を頂き、ありがとうございました。
前回は私としても反省点が多く、今回はそれを払拭しようとしたのですが、裏目に出て最後になって辻褄が合わなくなったり、また予定外の仕事が入ったりとして、このように大変お待たせする事となってしまいました。この場を借りてお詫び致します。

一部、戦闘メインのシナリオを期待された方も居らっしゃったと思いますが、全体的にプレイングを統合した結果、ほぼ無し、と云う流れになってしまいました。
本シリーズはあと2話、続きますがどうも戦闘レベルは今作程度に留まりそうです。

次回の受注は12月7日日曜日、午後8時からを予定しています。
危惧していた通り、どんどん話がマニアックな方へ流れていますが良ろしければ遊んで下さい。
また、次回シナリオではある点を多数決で決める形を取ります。里井に関しては、次回のプレイングで予想投票して頂く形になります。

最後に、改めて今回の御参加へのお礼とお詫び申し上げます。
最近、突発的な用事が入る事が多く、構想や実際の執筆に掛けられる時間が減ってきました。今後はシナリオノベル、シチュエーションノベル等全て納品期間に日数を追加、実際の納品もギリギリになる事が多くなると思います。いつもお世話になっている方々には申し訳ありませんが、どうぞ御了承の上、気が向かれた時にはお相手下さいませ。

■ ウィン・ルクセンブルク様

負けそうです……ルクセンブルク嬢の真摯な思い遣りに……。
微妙に、磔也に感傷があったのはここまでして頂いて根っからの悪人じゃ悪いか……とちらりと思った所為かも知れません。

『彼』にはライターからもあくまで役得であって、と云い訳と謝罪をしておきます……。

x_c.