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<東京怪談ノベル(シングル)>


破滅に至る病 〜劫火〜

 さながら、悪魔の愛撫のようだった。
 炎は、なかば朽ちかけた木材の上を、ゆっくりと這ってゆく。
 その時ならぬ灯りが、青年の顔を照らし出した。ごくり、と喉がなる――。
 思い詰めたような瞳に、踊る火の精たちのすがたが映じて揺れた。もれる息は白い。冬のさなかの、夜更けのことである。だが、決して暖をとるためなどに、彼は火を起こしたのではない。
 くく――っ、と……かすかな笑いが唇を歪ませた。
 堰を切ってあふれてくる笑いを抑えようと、泣き笑いのような、むずがゆさに耐えるような、奇妙な表情になった。
 火は、いよいよ勢いを増し、あたりにはいやな臭いがたちこめはじめる。
 やがて――。
 深夜の路上に、遠ざかって行く渇いた足音が響き、しばしののちに、甲高い、不吉なサイレンが付近の住民たちの眠りを妨げたのだった。
 杉並区に相次ぐ放火――
 そんな見出しが載った新聞が配達されたのは、その翌日のことである。

「ちょっと根性が足りねえんじゃないのか、え?」
 凄みを利かした主任の声と眼光に、たちまち、頭が真っ白になってしまう。
「あ、あの……」
 何を云ったって駄目なことはもうよくわかっている。
 ただ、彼はそこに案山子のように突っ立って、青ざめた顔に脂汗を流すことしかできないのでった。
「給料貰ってんだろ。違うのか。だったら、そのぶんは働いてもらわんと、会社としても困るわな」
 給料といったって、ほとんどが歩合だから、実は彼の月収は耳を疑うほどだ。だがそれでさえ――そのぶんの働きができているかといえば、やはり、反論などできはしない。
「来月もノルマこなせねえようだったら、ちょっと考えんといかんな」
「あ、その、それはちょっと……」
「わかったら、ここで油売ってるヒマはないんじゃないのか。営業はアシだって何度云われたらわかるんだ、このクソ役立たず!」
 そしてまた、彼は今日も、思いカバンを持って、寒い街へと放り出されたのである。
 カバンの中に入っているのは、子ども向けの英語教材だったのだが――。
「あのう……わたくし、株式会社フューチャープロジェクトの――と申しますが、お宅さまにはお子さまはいらっしゃいますか。あのう、たいへん、素晴らしい英語教材のご案内をですね、ええ、あの、お話を聞いていただくだけでも……あの……」
 最初は……ほんの偶然の――あるいは、事故だったのだ……。
(ちくしょう)
 苛立ちをこめて、マッチをこすった。
(バカにしやがって。こんなしょぼいもん、売れっつうほうがどうかしてるぜ)
 寒空の下に立ち尽くす。マッチ売りの少女よろしく、惨めな思いで、しかし擦ったマッチの火は、煙草に火をつけるために使って、放り投げた。
 火は消えていたつもりだったのだが――
 彼がマッチを投げた生け垣から、煙があがっているのに気がついたのは、もうずいぶん歩き出してしまってからである。
 心臓がわしづかみにされたような感覚があった。
 だが次に考えたのは……
(誰かに見られたか?)
 ということだった。
 見られてなどいない。だから、彼は足早に走り去ってしまったのである。
 杉並区で不審火。寝たきりの老人一人焼死。
 ……そんな新聞の見出しをみたとき、ぴしり、と、彼の中の何かに亀裂が走った。

(火事だって)
(また?)
(やっぱり放火らしいよ)
(怖いわねえ)
(どこなの?)
(角のアパートだよ)
(あそこは木造だから)
 ものの焼け焦げる、不快な臭いとともに、かわされる囁き声。
 消防車の投げかける赤い光が、野次馬たちの目をあざやかに射った。
「子どもが! 子どもがまだ中に!」
 半狂乱になってわめいている中年の女性を、防火服の男達が必死で押しとどめている。
 遠巻きの、群集の中から、ひときわ熱っぽい目で、そんな有様を眺めている若い男の姿があった。
 ああ、燃えている――。
 炎は、今や怒り狂った破壊の使徒となって、真っ赤な翼を夜空に広げ、はばたいているのだった。目にしみる黒煙が冬の星座をかき消し、かわって、火災の明りが周囲を真昼のように照らし出す。
 消防車から太い水の束が放たれたが、火の勢いは思いのほか烈しいものだった。
 燃えている。
 あらゆるものを、火は凌駕するのだ。
 一切のものを赦さず、平等に焼き尽してゆく――。
 火事を見守る青年のおもてに、あの、恍惚の微笑が浮かんだ。はあ、と、深い息を吐く。あのおそろしい猛火が、自分の手が放ったほんの小さな、マッチ一本の火から育ったのだと思うと、えもいわれぬ充足感が、彼の胸を充たした。
 すこし遅れて、救急車が到達したようだった。
 火に襲われた家に、わが子を置き去りにしてしまったらしい母親の嘆きは今や目も当てられないものになっていた。
(ざまあみやがれ)
 したたるような憎悪が、血液のように男の体内を駆け巡っている。
(どいつもこいつもおれをバカにしやがって)
(燃えちまえばいいんだ)
(みんなみんな……なにもかも……燃えてしまえば)
 男は、人の目など意識しておらぬのか、にやにや笑いを隠そうともしなかった。
 燃え盛る炎に、じっと魅入られたように、そこにいつまでもたたずんで――

 ちりん……

 鈴の音――
 それはごくかすかな音だった。
 なのに、ざわつく野次馬たちのただなかにいた彼の耳にはっきりと届いたのである。
「…………」
 振り返ったが、何もありはしない。
 だがしかし、まるで誰かに呼ばれたとでもいうように、男の足はふらふらと群集を離れ、夜道をたどった。
 民家が密集するこのあたりは、細かい路地が多い。
 彼が迷いこんだのも、そんな裏路地の一本だった。
「あ……」
 どうしたことか、ほんのすこし離れただけなのに、火災現場の喧騒は聞こえなくなっていた。かわりに、耳が痛くなるような静寂。そして濃密な闇。
 その闇の中に、すうっと浮かび上がってきたのは――
 ちりん。
 鈴を鳴らしていたのは、この子だったのか。
 紅い振り袖を着た、小さな女の子。
 にっ、と、少女は、男を見て笑った。猫のような目が愉しい玩具を見つけたように輝く。
「こんな季節に、花火かえ」
 少女は云った。
 可愛らしい声だったが、どこか、人を嘲るような調子がこもってもいた。
「…………」
 男は、なにか応えようとしたが、身体が動かない。
 なぜだ。こんな小さな女の子相手に、おれはなぜこんなに――
 ちりん。
 こんなに、震えているんだ――?
 ぱちぱち、と、火がはぜる。少女の細い指が線香花火をつまんでいるのだ。
「子どもがひとりで火遊びはいかぬと、躾けられておらぬようだな」
 暗闇に咲いた、あやしい彼岸花。
 その先端に、紅い火の玉がふくらみ、やがて――

 ぽとり、と、落ちた。

 その夜は――
 新宿ででも、火災のために何台もの消防車が駆り出されることになった。
 歌舞伎町のはずれの古い雑居ビルだ。窓からもうもうと煙を吐くさまは、まさに断末魔の悶えを思わせた。
 この火災によって、幾人かの死者が出たことが報じられるや、火災に対して充分な対策を怠っていたビルの管理者の責任が、後に問われることになった。ビルの店子の大半はいかがわしい風俗関連の店であったが、火元になったのは意外にも二階に入っていた商社の事務室であることが後になってわかった。
 英語教材の訪問販売をしているというその会社の、若い営業マンが、夜中に事務所にしのびこみ、火をつけたのであるらしかった。だが、おとなしい青年だったという件の人物が、なぜそのような凶行におよんだのかは、今となっては確かめようもない。
 彼もまた、無残な焼死体と成り果てた犠牲者のひとりだったからである。
 ただ――このビル火災から逃れたもののひとりが、全身火だるまになった青年が、気の狂ったような笑い声をあげて、フロアをかけまわっているのを目撃している。その光景はまるで、地獄の炎の中で、永劫の責め苦を負わされている咎人そのものであった。

 目撃者はまた、しきりと首を傾げながら、かすかな鈴の音を聞いたような気がするとも語っているという――。

(了)