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<東京怪談ノベル(シングル)>


茜色の記憶

空が茜色に染まる。授業の終わりを告げるチャイムがのんびりと校内に響き渡った。何気ない日常の、昨日と変わらない光景だ。無造作に教科書とノートを詰め込んだカバンを背にして、御巫傀都は一人校門へと向かう。こんな空の色は一人では見ていたくない。思い出すと甘く哀しい思い出に心が引きずられてしまう。だから心もち顎をひいたままで歩を早める。
「おい、傀都! 今日これからカラオケ行くんだけどお前も来ないか〜」
 同じクラスの男子生徒が陽気に声をかけてきた。金曜日の放課後で明日は授業がないからないのか、どこかうきうきとした様子が伺える。そうでなければさして親しくもない傀都にまで声をかけたりはしないだろう。
「悪いな。ちょっとヤボ用なんだ」
「なんだ、またかよ。でもさ、来る気になったらメールしろよな」
「‥‥わかった」
 携帯電話をかざす男子生徒にいつもどおりの返事をして傀都はきびすを返す。クラスではすごい進学塾に通っているとか、家で凄腕の家庭教師が待っているとか、面白くもうそ臭い噂になっているらしいが気にはならない。そんな瑣末事に構っていられるほど暇ではなかった。言いたいやつには言わせておけという傀都の態度はクラスに半ば反感を、そして半ば一目置く雰囲気を作っていた。
 けれど、大多数の高校生にとっては大きなウェイトを占めるこの場所は、傀都の人生にとってはさして重要ではなかった。ただ、この世界で17歳の少年として生きるには一番穏当な肩書きが『高校生』であった。

 夕方の商店街を抜け電車に乗る。家のある方角とは反対側のホームに立ち、これからするであろう『仕事』のことを考えると、傀都の表情は高校生というまだ子供の部分を残す顔から成人した男の顔に変わる。傀儡術を伝承する家に生まれたのは偶然ではないのかもしれない。なぜなら生まれる前の遠い過去でも傀都は同じような事をしていた。跳梁する魔を滅する事、それが生業であった。あの暗く閉塞された時代の意識を持って見れば、ここは光あふれる平和で満ち足りた極楽浄土の世界だった。もちろん、光を遮られた闇の部分があることを承知してなお、あの時あの人と共に望んだ全てのある世界だと思う。こんなに幸せになれそうな場所にいるのに、幸せになれない。たった一人大切な人がいないからだ。探して探して、探し尽くしても、まだあの人の魂に巡り合えない。過去、どんな苦しみにも耐えた強靭な魂が揺らいで消えてしまいたくなるほど、この絶望は深く辛い。どこにいようとあの人さえいれば幸せだった。初めて幸せというものを知ったのはあの人の存在だった。確かに自分はこの世界に属しているのに、あの人がそばにいないというだけでまるで魂魄だけの儚い存在のような気分になってくるのだ。

 あの人は雲の上の人だった。両親に大切にかしずかれ、いずれどこかの貴公子を通わせ婿とする事を定められた身分の人だった。望めば主上のあまたいる妻の一人として入内することも可能だっただろう。一介の陰陽師であり殿上人でさえない自分とはあまりに身分の隔たりがある人だった。本来ならば一度も会うこととてなく、名を知ることもなかっただろう。その日、その御殿に呪詛の疑いがあるとして陰陽寮から派遣されたのが傀都ではなかったら、一生会わずにいたかもしれない。朝廷にて権力を握る有力貴族ならば、公的機関である陰陽寮に手を廻すことなど造作もないことだろう。ただおおっぴらにも出来ないのか派遣されたのは傀都だけであった。広大な敷地内を自分の目だけで探すのは困難を極める。傀都は懐から呪符を取り出し式神となした。かわいらしい白い猫の式が沸いて出るようにそこに出現する。猫ならば御殿の貴人達もどこかで飼われているのかと気にも留めないだろう。白猫達のまん丸の瞳はひたと傀都を見つめ、既に何をするべきか理解しているようだ。
「行け!」
 傀都が短く命令すると猫達はいっせいにあちらこちらへと走りだした。猫達の目は傀都の視覚となり、耳は聴力となる。多くの情報が殺到するのを瞬時に把握し目指すべきモノを探す。通常、呪詛には形代が必要だった。だからこの屋敷のどこかに隠されたそれを探しだし処理すれば仕事は終わる。簡単なことだった。暇つぶし程度だと思えばこそ、納得のいかない仕事にも異を唱えることなく来たのだ。けれど、今にして思えば無意識に未来を先見していたのかもしれない。その時、想像もしていなかった築山の方角から若い女の悲鳴があがった。傀都も、そして傀都の式神たちも悲鳴があがった方向へと走る。夜目にも鮮やかな衣の色が見える。
「馬鹿な‥‥」
 女とは、それもあのように高価な衣を身に着ける程の高貴な身分の女はこのような場所にいるはずがない存在だった。奥殿の御簾や几張のさらに向こうにこそいるべき人だ。なのに、普段ならばあらわにしない白い顔がかがり火に照らされて茜色に染まっている。美しいと思った。恐怖に震える姿も可憐で心惹かれる。その人は生ける闇に絡めとられていた。気を失うことも、恐ろしい闇のからも目をそらす事も逃げることも出来ず、赤い唇は悲鳴の形に凍り付いている。
「具現したか‥‥」
 傀都はいまいましげに言った。どのような契機によってかはわからないが、呪詛が発動してしまったのだろう。闇の奥に見える異形のもの‥‥この様な類のあやかしを傀都はよく知っていた。ただの鬼ではない。もっと力ある破滅のためのモノ、それが今目の前にある。
「きゃああぁぁぁ」
 女の悲鳴がもう一度あがった。闇がうごめ始めたのだ。女にもこの鬼が見えるのだろう。首を振りながら力なくもがくが微かな衣擦れの音が聞こえるだけでにさらに深く闇に吸い込まれていく。このまま同化するつもりなのか‥‥と、傀都は焦りを感じた。一度同化すれば鬼は女の力を吸い尽し奪い、或いは命まで消えてしまうかも知れない。躊躇していはいられなかった。
「その人を返せ! 浅ましき鬼よ」
 高貴なる人に手を触れることは禁忌であったが、傀都は迷わなかった。強く握ったら折れてしまいそうな細い腕をつかみこちら側へと手繰り寄せる。鬼が不快な咆哮を放った。怒気が圧力となって女と傀都を襲う。
「式よ!」
 傀都の叫びに猫の姿だった式神達は巨大化し、背の毛を逆立てて闇へと踊りかかる。白い式神の牙が闇へとつきたてられると、一瞬闇がひるんだようだった。今しかない、傀都は渾身の力を振り絞り女の腕を袖ごと引く。ずるりと闇から女の体が現れ傀都の腕に抱きかかえられた。その香の匂いも髪のしっとりと腕をくすぐる様も、吐息も、そして間近で見る花の顔も‥‥全てが傀都の体を沸騰させた。風も波も時さえも止まったかと思うほどの一瞬だった。そしてすぐさまに狂おしい思いが駆け巡り、強い思いと強い力がこんこんと胸の奥から沸き出て尽きることがない。この人を守るためなら,この人のそばにいることが出来るなら俺は無敵だ‥‥ふとそう思った。目の前の鬼も呪詛も傀都の敵ではなかった。

 不浄なる気配は消えていた。ただ、静謐なる静けさが2人を包んでいる。
「‥‥姫」
 名も知らぬ高貴な人を傀都はそう呼ぶ。
「お待ち申しておりました。もう永い長い時間を‥‥」
 姫の紅唇から消えりそうな声がもれた。その白い手がそっと傀都の頬を触れる。もう離れない、いや離れることは死と同じ事だった。

 数日後、傀都はさらうようにしてその人を屋敷から連れ出した。

 その遠い日からどれほどの時が過ぎただろう。あの人の魂を求めて彷徨いながら、あの日の様にこの世に仇なすモノを滅ぼす。いつかあの人に巡り会う日が、例え叶わないと思うほど望みのない願いだとしても断ち切れない。いつか必ずこの手にあの人を取り戻す。この手はその為だけにあるのだから。
「いたか‥‥」
 ビルの隙間に沈む太陽が最後の光が茜色となって傀都を照らす。式神が伝える方向へと向かってゆっくりと歩を進めた。その先で、いつかあの人と再会出来ると信じて‥‥。