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<東京怪談ノベル(シングル)>


名も知らぬ彼女へ

【幻の女】

 雨は、どうやら、夕刻から降り始めていたらしい。
 だが、総決算期の締めの仕事に追われていた私は、深夜、ベッドに入るまで、まるっきり、この事実に気付かなかった。
 明日、目を通さなければならない書類の山のことを思い描いて、思わず溜息を吐く。夜の静かな一時に、音楽を聴いたり、本を読んだりするのが馴染みの日課になっているはずなのに、その気力さえも湧いてこなかった。
 早く休んで、少しでも体力を蓄えておかなければと、急かされるように考える。
 目を閉じた途端、雨音が、急速に耳元に迫ってきた。
 
「雨……」

 起き上がり、窓辺に寄り、カーテンを開ける。
 黒く沈んだ窓ガラスを、透明な水の群れが、幾つも幾つも叩きつける。珍しくも何ともない光景であるにも拘らず、なぜか、私の脳裏には、一人の女性の姿が浮かんでいた。

 雨の夜に出会った、あの女(ひと)。
 名前すら、知らない。

 長距離列車の、無人に近いグリーン車両の中だった。雨が降っていた。雨水の流れ落ちる夜の窓を背景に、微笑んでいた、彼女の美しい貌が、鮮烈に目の前に甦る。
 雨の似合う女。

 彼女が、どこの駅から乗り込んできたかは、わからない。
 目の前のドアが開き、彼女が、私以外は乗客のいないグリーン車に、踏み込んできた。
 車両一つを貸し切った気分で、久々の長旅を楽しんでいた私は、正直、がっかりしたものだ。無人の空間は、人ひとりが現れただけで、無慈悲なまでにその雰囲気を変えてしまう。
 
 こんな時期外れに、わざわざ高価いグリーン車の切符を取る酔狂な客など私くらいのものだと思っていたのに、物好きは何処にでもいるらしい。
 私は、何気ない振りを装って、そっと彼女の顔を盗み見る。彼女は視線にはまったく気付かず、まっすぐ前を見据えたまま、やがて、私の横を通り抜けた。
 ふわりと漂ってきたのは、香水の香とは似ても似つかない、雨の匂い。
 雨の気配。
 私は思わず振り返り、去ってゆく彼女の後ろ姿を凝視する。
 長い髪は、水を含んで、しっとりと濡れていた。彼女はグリーン車を出て、そのすぐ向こうに、佇んだ。出入り口の自動ドアの窓ガラスを、じっと見つめる。

 おかしな客だ。
 私は、興味を掻き立てられる。

「座らないのですか?」

 気が付けば、彼女に話しかけていた。
 今日は、自由席も、指定席も、どこもかしこもがら空きで、立っていなければならない理由などない。暖房の入らない狭い乗降口を、わざわざ選んで立ち続ける彼女の意図が、不思議でならなかった。
「ここにいたら、すぐに降りれるから」
 彼女が答えた。
「一刻も早く、渡さなければならないものがあるの」
 相も変わらず、視線は窓の外にやったまま、彼女が取り出したのは、一枚の封書。
「大切なものなの……」
 本当に、宝物でも見るような眼差しを、薄い紙の包みに投げかける。中身は何だろう? 「力」を使ってそれを知るのは、簡単だ。けれど、私は、彼女の口から、直接聞きたいと思った。
「それは何ですか?」
「秘密」
 あっさりと、かわされてしまう。思わず、苦笑した。
「ごめんなさい。誰にも、教えられないの。大切な、物だから……」
 窓の外の、遠い遠い景色に、目を向ける。彼女がじっと見つめている先にあるものは、ただの闇と雨。私には、それ以外の何者にも見えなかった。
「お願い。間に合って」
 列車の唸る声に掻き消され、彼女の小さな囁きは、私の耳には届かなかった。
 
 

 列車が終着駅に到着すると同時に、彼女は外に飛び出した。
 広いホームに呆然と佇んで、困惑したように辺りを見回す。
 その動作で、わかった。
 彼女は、東京に初めて来た人間だ。いきなり目の前に開けた、怪物のようなこの巨大不夜城に、どう対応すればよいものか……惑う背中に、不安がありありと描かれている。
「どこに行きたいのですか?」
 私が訪ねる。彼女は、泣き出しそうな顔をして、答えた。
「東都大学病院」
「タクシーを拾いましょう。こちらへ」
 東京駅の広い構内は、私には、もう、庭のようなもの。目を瞑っていても歩けるほど、馴染み深い。
 即座に最短の道を頭の中に弾き出し、私たちはタクシー乗り場へと急いだ。途中、彼女が、あれほど大切にしていた封書を、持っていて欲しいと、私に差し出した。
「あなたに、持っていてもらいたいの。お願い……」
 その糊代にすぐさま手をかけるほど、私は無粋な人間ではない。封書を、外套のポケットに突っ込んだ。
「東都大学病院まで、お預かりしましょう」
 タクシーが、動き始めた。
 運転手の腕と知識を信用しないわけではなかったが、私は、道筋に細かく指示を出した。
 間違っても渋滞に巻き込まれないように、知る人ぞ知る裏道ばかりを、走らせた。ほんの少し、占いの力を応用しただけで、こんな芸当も可能になるのだ。

「着きましたよ」

 そして、東都大学病院に、到着した。





【望みを繋ぐもの】

 私は、決して、不注意な人間ではない。
 まして、明らかに二十歳を過ぎた大人相手に、迷子にならないようになどと、目を光らせているはずもない。
 タクシーから降りたのは、彼女が先だった。
 私は運転手に料金を払い、それから車を後にする。ほんの数秒、遅れた程度だっただろう。にも拘らず、彼女の姿は、どこにもいなくなっていた。私に託した封書が無ければ、夢か幻でも見たのかと、思わず頭を抱えたくなってしまうほどに……唐突に、鮮やかに、彼女は姿を消していた。
「どこへ……」
 探そうにも、私は彼女の名も知らないのだ。
 神秘は神秘のまま、残しておきたいという意識が、逆に仇になった。これでは探せない。

「封筒……」

 唯一の手がかりは、あの、開かずの封書。
 約束、と言っている場合ではなくなった。私は、悪いと思いつつ、封書を開けた。中身は、手紙とカードが、一枚ずつ。

「これは……」

 それを見た瞬間に、私の中で、全ての疑問が氷解する。私は、忙しく立ち回る看護士を捕まえた。ほんの数時間前、病院に担ぎ込まれた、事故等の重傷者はいないかと尋ねると、案の定、この四時間ほど前に、交通事故で意識不明の重態で運ばれた女性がいたと、教えてくれた。
 私は、少しばかり「能力」を行使して、彼女の居場所を強引に聞き出す。緊急オペを終え、今は集中治療室に入っているとのことだった。

「確かに、これは、今の君には、命よりも大切なものですね」

 封書の中身は、臓器提供意思表示カード。そして、二十歳までも生きられないと、死刑宣告にも等しい予言を突きつけられた、重度の心臓病を抱える妹へと宛てた、短い手紙。



「私が死んだら、私の心臓を、あげるからね」

 
 
 だから、必死だった。懸命だった。死にかけた命が、完全に潰える前に、彼女は、このカードを、壊れた自分の体の傍らに、届けなければならなかったのだ。
 自らの死を、絶対に無駄にはするまいと、それだけを願って。

「大切な、物ですか……」
 
 たとえ脳死の判定が下されても、カードがなければ、彼女の心臓は、誰の元にも生かされない。いずれは焼かれ、灰になり、全てが土くれに戻って消えてしまう。
 そうなる前に、妹を助けたかったのだ。きっと、仲の良い姉妹だったのだろう。互いが互いを支えるように、ひっそりと片隅で過ごしてきた時の長さを、確かに感じる。



「安心してください。カードは、必ず、届けますから」



 雨の夜に出会った、名も知らぬ彼女に、約束をしよう。

 宿星を変えられる存在の、名に懸けて。私に会えた、それこそが、姉妹の運命への挑戦であったに違いないと、思えてならない。

 姉は死んだ。けれど、妹は死なない。妹は、医者の死の宣告など撥ね退けて、生きるのだ。姉もまた、妹の一部となって、生き続けるのだ。





【名も知らぬ彼女へ】

 たゆたう雨音を聞くたびに、彼女の声を、思い出す。
 曇る窓ガラスを見るたびに、彼女の姿を、思い描く。

「君の妹は、心臓病を、克服しました。君の力を借りて、見事なまでに。彼女は、今、一児の母になっています。その子は、亡くなった姉と、同じ名前だそうですよ」

 命は、こうして、続いていくのかもしれないと、考える。
 


 いつの間にか、雨は止んでいた。