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トリニティ:レポート
静かな夜の始まり。
彼女の屋敷はその日も静かで、彼女の部屋だけに音があったのだが、その音すらも小さく、不愉快なものではなかった。それはパソコンが起動しているときの無機質な唸りであり、キーボードのキーが叩かれているリズムであった。
屋敷とパソコンと音の持ち主は雨柳凪砂。
彼女は今、先日月刊アトラスで起きた儚い恋の物語をまとめていた。この原稿は特に締切を持たなかった。彼女が書きたかったから、書いている。彼女はそうして、自分が関わった事件を小説風のレポートにしてまとめることが多かった。多くは、ろくな事件ではなかった。だが――やはりこの世が一筋縄ではいかないように、殺伐とした事件ばかりが蔓延しているわけではないのだ。凪砂は一区切りついたところで、心地良い満足感を覚えながら伸びをした。
時刻は午後8時、
そんな夜の始まりに、雨柳邸に運送屋のトラックが止まった。
「あら……おじさまから、ですか」
運送業者が次から次へと荷物を屋敷に運び込んでいく。
凪砂はそれを見守りながら、ようやく荷物の差出人の名前を確認した。凪砂が以前多大に世話になった人物からのものだった。
「それと、こちらもご一緒に、と」
荷物の運びこみには1時間余りを要し、すっかり汗だくになった運送業者は、最後に凪砂に手紙を渡すと、気持ちよく挨拶をしてから帰っていった。
屋敷の中に詰め込まれたのは、スーパーコンピュータ。それと、段ボールひと箱分のデータだ。
何でも差出人によれば、この段ボール箱のデータは『人間ひとりの全データ』であるらしい。それは身体のものばかりではなく、精神のデータすらも含まれているとのこと。未だに解明されていない部分も多い人間の中の小宇宙が、段ボールひと箱分のROMに収まったというのである。
「そんな、まさか……。ヒトゲノムのデータだけでも、人類の永遠の謎なのに」
すべてが解明されたとき、それは人間の終わりであり、新たな始まりだ。
差出人は、その始まりを呼び起こすために協力してほしいらしい。
「おじさまなら、やりかねませんか……」
精神データと遺伝子データの量は半端なものではないし、差出人本人が非常に興味を持っているらしく、その辺りの解析は自分でやりたいようだ。凪砂に手伝ってほしいのは、一部データ変質の際に及ぼす他データへの影響の解析。それほど急いでいるものではないので、気が向いたときにやってほしいということだった。
「でも、ものを届けてからそう言われましてもね。すぐにやりますよ、おじさま」
凪砂はずらりと並んだスパコンの方に振り返り、苦笑した。
13歳の少女が、無機物、人間以外への有機体へと変じていくシミュレートの結果が、3枚のROMに収まっていた。
球体関節人形に……キメラじみた海洋生物……ゲル状の生物……架空の生物への変質データが収められていることには、凪砂も首を傾げた。自称好事家としては確かに惹かれるものがあったが、
――本当に、コンピュータが計算した結果なのかしら? まるで実際に起こったことを、記憶しているだけのよう。『恐怖』の感情の揺れ動きが、リアルすぎます。
凪砂はちらりと手紙に目を戻した。
考察は主に3つの分野の視点から行ってほしいらしい。民俗学、心理学、そして宗教。妥当だといえる3分野ではあったが、指定されていた宗教は『クトゥルフ』であった。
――おじさまが変わってらっしゃるのは、わかっているつもりですけれどね。
宗教の中でもとびきり危険なクトゥルフを持ち出してくるとは、何とも非現実的な話だ。何しろあの異形の神々を信仰しているのは、精神的にまともな人間ではないし、そもそも人間ですらない場合も多い。
だが、ともかく、その辺りの知識は豊富だ。
それにこれは単なる知人からの頼み事ではなく、報酬が発生するれっきとした仕事である。
凪砂は過去に自分がまとめたレポートや、古書を引っ張りだし、人間が崩れていく過程を見つめながら、キーを叩き始めたのだった。
クトゥルフそのものが関わっているとは考えにくい、この変質。
凪砂はこの変質過程の嫌な自然さに引っ掛かりながらも、あくまで『シミュレート結果』としてとらえた。
少女は変質の前に、唄や声を聞いていた。
そして、『本』を見ている。
この世に姿をさらけ出してはならない『本』たち。クトゥルフの概念を支える数多の魔道書をも凌駕する力を持ち、使いようによっては人間の未来を脅かす。
――『本』……なぜ、きまって『本』が彼女の変質のきっかけにされているのかしら?
疑問は尽きず、膨らんでいくばかりだ。
凪砂の好奇心は並大抵のものではない。
たとえ両親が生きていたとしても、彼女は北欧に行っていたかもしれない。北欧に行って『友人』と会わなかったとしても、彼女はきっと月刊アトラスや草間興信所がもたらす事件に関わっていて、好事家を自称していただろう。
彼女は好奇心とともに生きている。
うちにかえらなくちゃ。
うちにかえりたい。
あたしはあたし。
あたしはこんなんじゃない。
あたしにはうちがある。
かえらなくちゃ……。
満月もだいぶ西に傾いた。
凪砂の興味は眠気などものともしなかった。
ただ少し、傾いた月を見た頃には、かなしくなってきていたのだ。
人間の精神や遺伝子のすべてを、データに置換出来るはずがない。彼なら成し遂げかねない偉業ではあるけれど、実際に学会に発表したとしても、一体誰が始めに信じるというだろう。
始めのうちはそう考えていた凪砂も、実は、ただ「出来るはずがないと信じたい」と思っているだけだということに気がついた。
これから凪砂は永い間、多くの人間と出会って、別れるのだ。
その人間一人一人が、緑色の文字に収まるだけのものだとは――
考えにくいということを、凪砂は信じたい。
だがこの13歳の少女が持っている現実的な感情の揺れ動きは、人間をデータ化出来たという証拠なのだろうか。データは知識さえあればいくらでも設定を変更できる。もとになった完全な「人間データ」があるのなら、コンピュータの中に「人間」をひとり作り上げることも出来るだろう。
この少女は、ひょっとすると……。
凪砂は、かぶりを振った。
「そんなはずはありません。おじさま、お願いです――こんなこと、やめて下さい」
人間が変わる。
雨柳凪砂は、ひょっとすると歴史的な瞬間に立ち会ったのかもしれない――
だがそれを、立会人本人が認めたくはないのだ。
そしてそのとき、スパコンの筐体のひとつが、ぼん、と煙を上げた。
シミュレート画面が唐突に凍り、いくつもの筐体ががりがりと異様な音を立て始めた。それは、悲鳴のようだった。もう無理だ、もともと無理だったんだ、わたしたちには計算し尽くせないんだ――
「お願いです、これは冗談だと言って、おじさま」
画面では、
うちにかえりたい
その切実な想いが凍っていた。
凪砂はそれでも、立会人になったのだろう。
スパコンが壊れるその直前までに見たシミュレート結果をもとに、レポートを書き上げた。
そのレポートには、一切の私情も挟まれてはいなかった。
無機質な、レポートに過ぎなかった。
<了>
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