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<東京怪談ノベル(シングル)>


『Insomnia』

 大都市東京、その郊外―
 安眠を妨げる騒音も、此処からは遠かった。
 黄昏どきまで降り続いていた雨音も、今は無い。
 怖いくらいに静かな夜。

「……………」
 それなのに、すぅ…と瞼が開いてしまう。
(――…眠れない)
 肌を暖かく包み込むベッド、その温もりは心地好いのだが。
 眠りに付くまでは、何時もと何等変わることのない平穏な一日だったはず。
「……………」
 もそもそと寝返りをうち、いま一度瞼を閉じる。
 不摂生からは程遠い、一応は規則正しい生活を心がけている凪砂。当然眠気もあるはずなのに、然し…意識の一部が何処かで眠りを妨げている様子。軽い不眠症――?
 暗がりの静寂に小さく刻まれるアンティーク風味の時計。秒針の音がやけに煩く耳に響き、その微弱な音が、眠ろうと集中する意識に水を差す。と、気が散って仕方が無い。
 凪砂はとうとう、温もりの中で小さく溜息を零した。
 如何したことか無理やりには眠れないらしい。

「ん………」
 諦めて瞼を開くと、温もりを残すベッドからゆっくりと降りた。
 秋の夜長も、部屋に満ちた冷気は冬を感じさせる。指先をそっと擦り合わせながら、慣れた様子で直ぐ近くにあるスタンドの電気を点ける。途端、寝室を照らしだす仄かな光。
 浮き上がった凪砂の姿は、シンプルなデザインが逆に洒落た感じの、手編み風ニットのパジャマ。柄と色合いが心持ち幼く、少々年齢に不釣り合いかもしれないが、これはこれで暖かくて宜しい。
「今…何時?」
 呟きと同時に零れた息は白い。
 明かりの近くにある小さな時計――針は午前2時を指していた。
 確認して一つ溜息を零す凪砂。彼女はレースの幕が引かれた窓まで歩み寄ると、そっと窓の外の景色を覗くかのごとく、少しだけカーテンを開けた。
 黒曜石を想わせる眼差しが、外の景色を映せば、珍しくも今夜は夜霧が濃かった。
 二階から見下ろす屋敷の広い庭も、一面霞に覆われた別世界の様。
 すぅ、とカーテンを閉め直す凪砂。
 翻るレースに、合わせるように揺らぐ黒髪は艶やかで、さり気無く甘い香りを空気に捲いた。
「――…厭ね」
 ゆるりと瞼を伏せながら紡ぐ。
 こんな霧が深い夜には…何故か、あの時ことを悲しい思い出が胸を過ぎる。
 再びベッドに戻り腰を下ろす凪砂。
 白い指先がさらさらと純白のシーツを撫でていく。物憂げに閉ざした瞼、その奥に隠れた瞳。それは…過去、遠い遠い、古い記憶を思い出すように見つめ。
 無意識に、指先が綴るその文字は―――、
「また、想い出してしまう…」
 あの日が自分にとっての悲しみの始まり。
 あの時が私にとっての最初の孤独…。
 薄っすらと蘇って来た映像に、ゆるっと頭を振る。
(寝付けそうに無いわね…少し、飲んで落ち着きたい…)
 腰を上げた凪砂は、椅子に掛けてあるシックなガウンを手に取るとそれを羽織り、スタンドの淡い明かりそのままに、静かに寝室を後にした。

******

 自分の両親は取り立てて言うところの無い、いわゆる普通のサラリーマンと専業主婦だった。何処から見ても平凡で、故にこそ幸せな家庭だったと想う。父親は娘である私には時折甘かったが、養育者として十分な人であったし、母親は幼かった当時の私には、美しく温かかった。傍目にも幸福な家庭であっただろう。今でも薄っすらと両親の温もりを憶えている。幸せなこと――、時にはそれが辛くもあるが――、
「あはっ、ちょっと苦い…」
 広い洋風の居間で、一人照れたように呟く凪砂。声には少し力が無く。
 相槌を打つようにカランと、グラスに浮かんだ氷が小気味好い音を奏でた。
 琥珀色の液体は言わずと知れた、眠れぬ夜の必需品。
 もともとあまり飲むほうではない凪砂だったが、今夜に限れば珍しくそれを好んだらしい。そもそも以前の持ち主の趣味がそのまま残っていて、アルコールに関しては事欠かない屋敷だった。今夜は一品拝借させて貰う。…というか既に凪砂のモノであるのだが、本人は拝借する心積もりで。
 因みに凪砂は気にしなかったが、実は相当高価な洋酒。
「ふぅ…」
 喉を潤す強いアルコールに微熱染みた息。
 追憶に耽るあたしを、沈んだ気分にさせる僅か手前で、救ってくれるのがお酒の温もり。味はいまいち分からなかったが、とりあえず感謝してはまた過去を想う。
(不思議――本来ならば、あたしがこんな立派なお屋敷に住まうことなんか、ない筈だったのに。今では当たり前のようにあたしはここに居る)
 
 それは凪砂がまだ幼い少女の時のこと。
 平凡な一家はある日を境に、徐々に平凡ではなくなって行ったのだ。一家に訪れた幸福も、思えばそれ以上の不幸を凪砂にもたらしたのかもしれない。
 先ず最初に一家に舞い込んで来た幸運とは、父が気軽に購入した僅かな宝くじ、それが巨額の大金を当ててしまったという、周囲が羨望してやまない出来事だった。
(幼かったあたしだったけれど、あの日のことはよく覚えてる…)
 無論、両親の驚きようの意味を深くは理解できなかったが、何か大変なことが起こったのだと、子供心にも理解できた。そしてそれは決して悪いことではないと直感出来るくらいには「おませ」さんだったらしい。ぬいぐるみを抱えながらはしゃいでは、母を困らせ、父に窘められたことを覚えている。
 が、普通ならば当選金額に踊り狂って我を忘れそうな所を、両親、特に父は堅実な人だった。
「確か、――こんなものがあっては人が狂ってしまう、…だったかしらね?」
 母と真剣に話し合っていた父が漏らしたその言葉も、凪砂の脳裏におぼろ気にだが刻まれている。結局父は当選した金額の殆どを投げ捨てるかのように株に投資したらしい。それも百円単位の弱小企業ばかり。
(………………)
 自分に置き換えて考えてみて、なかなか出来ることではない気がする。
 つくづくあたしの生みの親は偉い。
「〜〜っ」
 お酒のせいか、思い出しながらの感傷か、少しばかり泪目になってきた瞳を伏せてテーブルに頬をくっ付ける。
 ひんやりと冷たいテーブルの感触が、今はかえって心地好い気がした。
 胸のうちから不思議な懐かしさと切なさがじわり、と溢れて来た。其れらはゆっくりとだが、お酒によって助長されるように体全体に広まって行く様で、が…回想は終らずに先へと進む。
 投資後は当然、平穏な元の生活が戻った。
 然しそれも実は、一時的なものでしかなく、次に一家に訪れた幸運は宝くじの比ではなかった。
 
 そう、当時多くの株主たちが慌て、大企業も倒産の憂き目を見ていた最中、父の投資した弱小企業はバブルがはじけたのが逆に働き、どれも一躍優良企業に転じたのである。信じられないことに一夜にして両親は大株主。あたしは即席のお嬢様になった。

******

 その頃からだろうか、両親が居もしなかった"親戚"たちに悩まされ始めたのは。幸せな家庭に、徐々に不吉な影が射し始め、そして不幸は最悪の形で訪れる。
 
 両親の事故――。

 結果として父と母、最愛の存在を同時に失うことになったのだ。
 あたしは、風邪で寝込んでいた為に両親とは一緒におらず、幸いにもそれが事故に巻き込まれずに済んだ理由となった。
 後に調べたところ、詳細は『事故』という言葉が余りにも不自然な、一方的な車両激突によるもので、正直…本当に"事故"だったのかどうか疑問であった。
 もっとも当時のあたしは幼く、目まぐるしく動き廻る周囲の状況に考える余裕など無かったが…。

 両親の葬儀――、

 『親戚』たちがとり行うそれは、不思議なことに酷く事務的だった。真に悲しんでいるのは実はあたしだけだった気がする。
 子供心にも漠然と、今後に対しての不安を感じてはいたし、そんなあたしに誰一人として味方が居ないような直感があれば、恐怖は更に大きかった。
 やがて、間を置くことなくその後の相続問題が始まる。
 弁護士を味方につけた『親戚』たちは、餌に群がる飢えきった肉食獣の様で。葬儀のときから全身に感じた『親戚』たちの舐める様な…欲に目の眩んだ視線。それらは当時のあたしにとっては何か別の生き物に映り、ひたすら嫌悪と恐怖を感じたものだ。
 あたしは『喰われ』そうになった。
 事実、あの時『叔父様』が現れて全てをまとめてくれなかったら、あたしの今は無かったと断言出来る。

(叔父様………)
 不思議なことに想えば想うほど、首輪をくれた人と同じ感じがする。
 勿論――心象的にで、外見がどうの、とかではない。
 突然あたしを救ってくれた人としても、あたしに与えてくれた微かだけれど、確かな温もりにしても…。
 やっぱり似ている。
 考えてみれば時として謎の多い叔父だったし、「彼」に到っては謎だらけだった。
 それなのにあたしは信頼している様だった。温もりに偽りは無いと、そう感じるからだろうか?
「叔父様………」
 湿りを帯びた呟き。
 テーブルに突っ伏した凪砂。
 握っているグラスの中身は、既に空となっていた…。
 
******

 立て掛けられた由緒ありそうな古時計が、三時半を指す頃…。
「ん…」
 自らの鼻先を擽る、これも自身の艶やかな黒髪に気づき、薄っすらと目を開ける。
 頬がちょっと痛い。――どうやら回想に耽っていて微睡んだらしい。
「お行儀悪い。でも…お酒のお陰かしら」
 漸く眠りにつけそうな気分だ。
 ゆるっと時計へと投げかける眼差し、時間も時間だった。明日は休日という訳ではない。凪砂はグラスを片付けると、居間の明かりをそっと消す。
 軽い酩酊感に浸りながらも、トントントン、と危なげない足取りで幅広い階段を上がっていく凪砂。廊下を戻る際には、同居人を起こさないようにと気をつけながら。

 部屋へと戻ると、スタンドの明かりは点けられたままだった。
 凪砂はガウンを脱ぐと長椅子にそれを掛け、仄かな明かりを消し、沈むようにシーツの海に身を投げた。
 ほろ酔いの意識は直ぐに、待ち望んでいた眠りへと誘われ。
 明日の朝は軽い二日酔いに悩まされることだろう。
 それでも、悲しい回想を癒せれば。
(叔父様………)
 願わくば、夢を見ずに深い眠りへ…と。
 
―END―