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愛が落ちた
■序■
応接間のソファーにゆっくりと腰を下ろしたのは、身なりの整った初老の夫婦だった。見たところ、突然白目を剥いて幽霊の言葉を伝え始める様子もないし、「実は自分らは死んでおるのです」と言い出したりもしなさそうではあるが、油断は出来ない。何しろ草間武彦についている称号は『怪奇探偵』なのだから。
「すみません、突然お伺いすることになってしまって」
「構いませんよ。うちは、その……もうすっかり、調査員斡旋所みたいなもんです。24時間相談に乗れるくらい、人員が多くて」
草間は自分で言って自分で噴き出したが、すぐにその笑みを他所に突き飛ばした。
初老の夫婦には、笑う余裕がないらしかったからだ。
まあ――興信所を訪れる者に余裕があるとしたら、人間は一体どこで緊張するのだろうか。これがあるべき姿なのだ。草間は、煙草を灰皿に置いた。
依頼人はこの鱶町夫妻。
鱶町氏は、都心に大きなビルを持っているほどの実業家で、独立した子供がふたりおり、3人の孫にも恵まれた、幸せな男だった。
だが、長女の家族のことで悩んでいるのだそうだ。
長女夫婦の子供は息子ひとり、今年5歳になる。その孫は、会うたびにどこかに新しい傷をこさえているのだそうだ。それも、すり傷や打ち身といった、よくあるものではなかった。乳歯は何本か折れており、肩は脱臼癖がついていて、以前には右目が試合後の格闘家のように(または、四谷怪談のお岩のように)なっていたという。
「……虐待ですか」
それはそれで、相談するところが違うのでは――
そう思ったが、草間は言わなかった。氏は、力持つ者だ。世間の噂に簡単に左右されてしまう力である。おそらく、国や行政に頼らずに、秘密裏のうちに解決したいのだ。
「娘は、暴力を奮うから夫とはもう別れたと言っています。確かに、娘の旦那を見なくはなったのですが……孫は未だに怪我をしているのです。娘は知らないの一点張りで……お願いします、孫を救っていただきたい」
だが果たして、本当に救ってほしいのは――孫なのか、自分の地位なのか。
ともかく、一聞した限りでは、稀にみる『まっとうな依頼』である。
草間は、短くなった煙草を手に取った。
■和郎■
シュライン・エマと光月羽澄はすでに興信所を出た。彼女たちは行動が早い。
かと言って藤井葛と藍原和馬の行動が遅いということにはならなかった。このふたりは単に、シュライン、羽澄とは注目したところが違ったし、取る行動も違っただけのことなのだ。
シュラインと羽澄は、鱶町氏から、娘の元夫の住所をあっさりと聞き出すことが出来た。
「失礼ですが、鱶町さんは……この元旦那さんと、お孫さんのことで話をしたことはないのですか?」
シュラインが尋ねると、鱶町夫妻は顔を見合わせて、表情を曇らせた。
――あら、訊いてはいけないことだったかしら。
都合が悪ければ話してもらわなくてもいいですよ、とシュラインは付け加えようとしたが――
「何度か話したことはあります。いけ好かない男でしたが、娘と相思相愛であったことは確かです。これまで娘に近づいてくる男は、私の後釜や資産が目当ての者ばかりでしたが、彼は娘を愛していましたし、娘もまるで周りが見えなくなっていたのです」
「恋は盲目、愛はもっと見えなくなるものよ」
羽澄がぽつりと呟いたが、鱶町夫妻もシュラインも、その呟きに水は差さなかった。
「2年ほど前から、私は事業の一部を息子に任せております。少し余裕が出てきて、その孫……晋吾というのですが……晋吾と触れ合う時間が多くなりましてね。晋吾の怪我に気がついたのは、その頃からなのです」
「じゃ、少なくともお孫さんは2年も――」
シュラインと羽澄は黙りこみ、ただ顔を見合わせた。
少なくとも。
少なくとも、2年……。
依頼人の娘、鱶町桔梗の夫であった男は、目黒区に住んでいるという。
その情報はひと月前のものだった。だが、警察や組織に追われている身の上であるわけでもなし、鱶町氏が掴んだその住所に住んでいるだろうと、シュラインと羽澄は目黒区に向かったのだった。
シュラインが考えていた通り、氏は男――和郎と云った――の身辺をある程度調査していた。氏が「いけ好かない」と言ったのには、その経歴にも原因があるようだ。男は家業の海苔屋を継がずに東京に飛び出し、最近両親が立て続けに息を引き取っているのだが、葬式にも出なかったという。仕事はいくつか経験していたが、どれも長続きせず、中には上司に殴りかかったために解雇された職まであったのだ。
「典型的なロクデナシってやつね」
「……よくこんな男に娘さんあげようと思ったわねえ」
「言ってたじゃない? 娘さんは周りが見えなくなっていたって」
無論、鱶町夫妻は反対したらしいのだ。
だが娘は聞かずに、ほとんど駆け落ち同然の運びで、このロクデナシと結婚したらしい。
「あ、ここだわ。新山アパートの201、と」
「……シュラインさん、ここ……」
「……お仕事だもの、入らなくちゃ。行きましょ。……私もイヤよ」
和郎が住んでいるらしいアパートは、築30年は経っているであろう、木造二階建てだった。
シュラインは床をあまり見ないようにしながら、踏み抜いてしまいそうなほどに古い階段をのぼり、狭い廊下を歩いた。羽澄は息を止めていた。黴の臭いと生ゴミの臭いが、とてつもなく不快だった。家賃は安いだろうが、おそろくそれだけが取り柄にちがいない。北西向きに建てられていて、人類に平等に降り注ぐはずの日の光さえ満足に浴びていないのだ。
201号室は、2階の片隅にあった。
シュラインが、建てつけの悪いドアをノックする。
返事はなかった。
鍵は開いている。
「……ちょっと、お邪魔しますよ」
ドアを開けて、羽澄がそっと先に入った。
そして、先に入ってよかったのかもしれないと思った。黒いアレが3匹ほど、羽澄の気配を感じて隅に駆けこんでいったのだ。如何なる超常現象にも動じないシュラインが恐れる唯一の生物だった。
1匹見たら、居るのは30匹。3匹いたと言うことは……
羽澄は肩をすくめると、靴を脱いで歩くのもためらいたいほどの室内に入った。
ゴミが散乱し、万年床は乱れに乱れ、服が脱ぎ散らかされていた。
「人格が伺えるわ」
シュラインが呆れた溜息をついた。
「まだ、ここには住んでるみたいだけど」
羽澄がそう言ったのには、根拠がある。
玄関先に、和郎名義の電気代の請求書があったのだ。ダイレクトメールもあり、宅急便の不在届も入っていた。
「……いえ、住んではいないかもしれないわよ」
「え?」
「見て」
シュラインが、汚いテーブルの上に放置されているコンビニ弁当の空き箱を示した。
弁当の消費期限は、ほぼ1ヶ月前の日付だった。
羽澄はそれを見るなり、冷蔵庫を開けた。ひどい悪臭が鼻をついた。電気を止められているようで、冷蔵庫に入っていた野菜と惣菜は、みな腐っていた。そしてポケットの牛乳の消費期限は、1ヶ月前だった。
鱶町氏は多忙だと言うことで、葛と和馬との話には、夫人が付き合ってくれた。三人は興信所を出た。夫人が、場所を変えたいと言ったのだ。品のある歩き方の夫人のあとを、葛と和馬はひそひそと言葉を交わし、ときに言い争い、ときにどつき合いながらついていった。
場所は興信所から、娘桔梗の自宅の近くだというファーストフード店に変わった。喫茶店よりも混んでいて、話す声も程よくかき消されるからと、夫人はロッテリアを選んだのだ。
「しかし、旦那と別れたあとも怪我をしてるっていうことは……」
さすがの和馬も、そこで言葉を濁した。葛の翠の睥睨が届く前に、言葉を切ったのだった。しかし夫人は安いコーヒーを一口飲んだあと、頷きながら溜息をついた。
「考えていらっしゃることはわかります。わたくしどももそう思うのですよ。――晋吾の怪我は、桔梗がやっているに違いありません」
「でも、証拠はないわけでしょう」
「有り難う。でも、他に誰があの子をぶつというの?」
夫人はすがるような目を和馬に向けた。
和馬は口篭もった。
夫人からは、血の臭いはしない。氏からもだ。だとすると本当に、
他に誰が晋吾をぶつというのだ。
「奥さんは、その――もし娘さんがやっているとしたら、原因に心当たり、ありますか?」
重苦しい沈黙(そして周囲は残酷なほどに賑やかで、明るいのだ)を葛が破る。すでに覚悟し、認めているのならばと、葛は遠慮しつつもそう尋ねた。
最近のニュースを鵜呑みにする限りでは、我が子を虐待する親は後を絶たず、それどころか増えてきてもいるようだ。子供を殴りつける理由も、段々と幼稚なものになってきている。テレビドラマのテーマにされているような、深刻な理由はなくなっているのだ。ただ五月蝿かったから、ジュースをこぼしたから、ちっともなつかなかったから――
「親馬鹿なだけかもしれないけれど、そうなる理由がわからないの。桔梗は幼稚園から大学まで、ただの一度だってケンカをしたことがありませんでした。本好きで大人しい子でした。……家では、よく笑っていたわ」
「……結婚してから変わった、ってェことは?」
和馬がそう尋ねると、夫人の顔の翳りは一層ひどくなった。
「……それでも、暴力を奮いだすような変わり方ではありませんでした」
鱶町桔梗という娘は、親が話した通りの女であるようだった。
近所付き合いはあまりせずに、息子の晋吾を片道1時間半の隣町にある私立の幼稚園に送り出すと、家に篭もったきりになる。買物は、食品すらも通販ですませていた。近所の奥様がたは、よく運送会社のトラックがその家の前に止まっているところを見ている。
晋吾は、有名であるようだった。
いつでも怪我をしているということで。
和馬と葛は、そのうち、気になる話を耳にした。
桔梗の夫、晋吾の父は、2ヶ月ほど前に家を出ていったようだが、先月まではたびたびこの辺りに姿を見せていたという。公園でひとりで遊ぶ晋吾と言葉を交わしているところを見たという者もいるのだ。
「公園で見る限りじゃ、にこにこしてて、仲良さそうな親子だったけれどねえ」
鱶町氏の危惧はむなしいものになりそうだ。
もう、近所の噂にはなっている。
晋吾はいつだって絆創膏と痣だらけだったと――話を聞いた者すべてが、言っていた。
■鱶町桔梗■
その日は日曜で、世田谷の公園の中ではまばらな歓声と犬の鳴き声が飛び交っていた。
鱶町桔梗は家に篭もりがちな女性だが、日曜だけは例外であるらしかった。その話通りに、桔梗の姿は公園にあった。スキップを踏みながらごきげんな息子と手を繋いで、仲良く散歩をしていた。
「あ、シュラインさん……羽澄さんも」
「来てたのね」
4人の調査員は、公園で合流した。
秋の風がかさかさと吹いて、犬が追いかけるフリスビーに悪戯をしている。
「で、どうだった? 元旦那の話」
「それが……」
和馬の何気ない質問に、シュラインと羽澄はちらりと目を合わせた。
「元旦那は消えてたわ。噂は掴めたけどね」
「総合すると、ロクデナシ」
「ほお、俺と同類ってわけか」
にやりと悪びれずに言い切る一馬の鳩尾に、葛の肘が入った。
「うごフ!」
「みっともない開き直りはよしな」
「うっせ! いってェなあ」
「それで、桔梗さんと晋吾くんは見つかった?」
「ほら、あれ」
葛が、花時計の前に人差し指を向けた。
どこにでもいる母子の姿があった。
「話、聞けるといいけど」
シュラインと羽澄が、まず、その幸せな母子に近づいていった。
「え? 話? ……虐待センター?」
「ええ。子どもの虐待防止センター。こういうものです」
羽澄はしっかりと用意していた。ネットに出回っていた画像をもとにして偽造した名刺を、鱶町桔梗に差し出す。
鱶町桔梗は、長い黒髪に大きな目を持つ、若い女に過ぎなかったが――シュラインと羽澄は、得も言われぬ影を、この桔梗に見たのだった。それは、幾度となくこの世の闇と対峙してきたふたりだからこそ読み取れたものなのかもしれない。
だが、きっと、多くの者は桔梗を見たときに、こう印象を持つだろう。
……陰気な、女だ。
桔梗はのろのろと羽澄の名刺を受け取り、食い入るように見つめたあと、傍らの晋吾にやさしく声をかけた。
「晋吾、おかあさんはこのおねえさんたちと話があるから、これで遊んでなさい」
「うん」
桔梗は持っていた戦隊ヒーローの人形を晋吾に渡した。晋吾はすでに怪獣の人形を持っていて、素直に頷くと、少し離れたところで一人遊びを始めた。
離れる前に、ちらりと、ふたりのおねえさんを見上げていったが。
見上げる右目のまわりには、治りかけた痣があった。
唇には、切れたあとがあった。
「……それで、何の話でしょう……」
とてもとてもとても陰気な声が、晋吾の様相に言葉を失うシュラインと、傍らの羽澄に向けられたのだった。
「よう、フカマチシンゴくんだな?」
母親、シュライン、羽澄から離れたところを見計らって、和馬がさっと晋吾に近づいた。右手に赤い戦隊ヒーロー、左手に怪獣の人形を持って、擬音語を口にしながら遊び始めているところだった。
「そうだよ」
晋吾は素直に答えたが、怪訝そうな顔をしていた。
「お、……ジュウレンジャーか」
「ちがうよ、アバレンジャー」
ヒーローのバージョンを即座に訂正すると、晋吾はくるりと和馬に背を向けた。
一歩下がったところで見守っていた葛も、顔をしかめた。
切れた唇に……黄色くなりはじめた痣。
「かあさんたちは大事な話してる。にいちゃんと一緒に、その……レンジャーごっこでもすっか?」
「だめ」
「うん?」
「しらないおじさんとあそんだら、だめなの」
葛が、あッと声を上げて制止するよりも早く――和馬はさっと晋吾の眼前にまわり、恐るべきにこやかさで小首を傾げた。
「おじさんじゃないだろー、俺はな、おにいちゃんだ」
「和馬!」
「黙ってろ! シャラップ!」
「だめなんだよ。だめなことしたら、ママおこっちゃう」
晋吾はこまった顔をすると、和馬からまたしても背を向けた。
「ぼくおこられるの、やだ」
「なあ、晋吾くん」
とてとてと歩きだす前に、葛がしゃがみこんで、傷ついた目を覗きこんだ。
晋吾は――葛の目を見て、驚いたようだった。
「おねえちゃん、めのいろ、かわってるね」
「うっと……そうかい?」
しまった、この歳の子供の相手はまだ慣れていない。
葛はぎこちない笑顔になった。
「ママはやさしいかい?」
晋吾は頷いたが、口を固く結んでいた。
「ママは好き?」
「おこったママ、こわい。ぼく、いいこにしなくちゃ」
■愛している■
この家庭が壊れていることを、4人は知った。
鱶町桔梗の顔にさす、紅ならぬ影。
噂を総合するとロクデナシになる父、和郎。
いい子にしていようと努力している息子、晋吾。
この愛はとっくに壊れていて、もともと愛というかたちすら持っていなかった。
桔梗の破壊的な笑顔がそれを証明し、晋吾の傷がそれを物語る。
「あの人はね、とっても優しかったの。わたしを殴ったあと、すごく優しくしてくれた。痛いのはいやだったけれど、あの人に優しくしてもらえるなら、喜んで我慢したの。それが……晋吾が生まれて……あの子が歩き出して、話し始めるようになってから……あの人、わたしじゃなくて、晋吾を殴るようになった。殴ったあとは、優しいの。殴らなかったら、ただの人。そんな人、わたし、好きになったつもりはないの」
それはそれ、愛は愛。世界には様々な愛がある。60億の愛が。
少し変わった愛ではあったが、桔梗がそれを愛だと感じたのなら――和郎の暴力は、愛だった。
「だから、別れたの?」
羽澄が尋ねると、桔梗は急に笑みを消した。
「……好きでもない人と暮らすなんて、そんなの、ごめんだもの。そう思わない?」
「晋吾くんを殴り続ける理由にはならないわ」
シュラインが鋭く切り込んだ。
桔梗は、恐ろしい勢いで振り返った。
羽澄が、声を上げるよりも先に動いた。桔梗の平手は、シュラインの頬をとらえる前に掴み上げられた。シュラインはしかし、切れ長の青い目で桔梗を見据えたまま、微動だにしていなかったのである。
「お仕置きよ! わたしはお仕置きしているだけよ! あの子は悪さをしたのよ! わたしの和郎を獲ったのよ! わたしは、そのお仕置きをしてやる!」
きいいいっ、という泣き声が――桔梗のヒステリックな金切り声に重なった。
「おいおいおい、秘密裏も何もなくなっちまうぞ」
和馬が呆れた声を上げて、葛が泣き叫ぶ晋吾を抱きしめた。
「ママ! ママあ、ママ、ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ごめんなさああああい、ママあ、ママ、ママああ!」
「お仕置きよ、晋吾! あんたの顔の皮を引っぺがしてやる! パパと同じお仕置きを受けなさい! 晋吾! 承知しないからねッ!!」
その過激な叱咤に、4人がぴくりと顔を上げた。
秘密裏に進めろ?
とんでもない。
進めてたまるものか。
「羽澄ちゃん!」
「はいッ!」
羽澄は暴れる桔梗から手を離し、すでに和馬と目を合わせていた。
「はいよ、任せときな」
シュラインと羽澄が走り出し、和馬は周囲の視線に愛想笑いを向けながら、桔梗を引きずって公園を出た。晋吾を抱いた葛が、黙って和馬に続いたのだった。
■世田谷区のレザーフェイス■
桔梗、和郎、晋吾の家は、小奇麗に手入れが行き届いた庭を持っていて――玄関口には、花篭を首からさげた陶器のセントバーナードがいて――緑の郵便受けが花に囲まれていて――凄まじい死臭を閉じこめていた。
「今回はタダ働きね」
「それでもいいわ」
シュラインと羽澄の耳に届いたのは、まぼろしか。
お仕置きよ!
見なさい!
パパを見て!
悪いことしたら、お仕置きするって言ってるでしょ。
黙ってお外に出るなんて、なんて悪い子!
パパと同じお仕置きをしてやる。
パパみたいになりたい?!
お仕置きされたくなかったら、いい子にするのよ!
わかった?!
わかったのね?
そう、わかってくれたのね。
おいで、ほら、チーズケーキがあるのよ。
ビデオもあるの。『アイスエイジ』。観たかったでしょ?
ふふふ、ママも観たかったの。
いい子ね。
おいで。
ちゃんと手を洗うのよ。
洗わなかったら、お仕置きよ。
「私、ちょっとあの母親を驚かせてみようとも思ったのよ」
「どうやって?」
「虐待された経験のある殺人鬼が、この辺りをうろうろしてるって。……こんな話しても、あの人は、きっとけろりとしてたかもね」
桔梗は虐待をしていた自覚はないに違いない。やっていたのはお仕置きだ。そして、殺人鬼の噂にも動じなかっただろう。殺人がそれほど恐ろしいものだとは思わなかったはずだ。重労働だとは、思うだろうが。
居間の天井から吊り下げられているのは、腐乱が始まったパパの死体だ。殴りやすいように鼻を削がれ、歯を残らず抜かれていて、眉毛を丁寧に剃られていた。
大量のファブリーズが、居間に散乱していた。臭いは布に沁みこんで、布が臭いを吐き出している。
かさかさと黒いアレが部屋を横切り、シュラインは始めて悲鳴を上げた。
腐乱死体ではなく昆虫に悲鳴を上げる自分に、シュラインは、末期宣告をした。
「依頼人の鱶町さんは、何を見ていたのかしら?」
羽澄は呟いた。後ろでは、シュラインが警察を呼んでいる。
「孫には会ってると言っていたけれど、この家には来てなかった――娘さんの家のことも知らないで、ふたりは何を見ていたの? そんなことで、愛していたつもりだったというの……?」
だがそれもきっと愛だ。
娘と孫の家に寄る時間はなくても、外で会って、孫と娘の服に沁みこんだ臭いを咎めて……娘はたくさんファブリーズを買った。きっと、両親の愛に応えるために。
ママは遠くに行ってしまった。
晋吾は葛の腕の中で、睨むような視線をパトカーに向けていた。子供のヒーローたるおまわりさんが、ママを連れていってしまった。
「あーあ。タダ働きだな。これじゃ、依頼人も満足なんかしないだろうよ」
「そうかい? 晋吾は、助けたよ」
葛が眉をひそめるその下で、晋吾は、ぎゅうと葛のジーンズを掴んだ。
「ママ、ぼくにだまって、どっかいっちゃった」
「……おしおきだ」
葛と和馬は、何も聞かなかったことにしたかった。
<了>
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1282/光月・羽澄/女/18/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員】
【1312/藤井・葛/女/22/学生】
【1533/藍原・和馬/男/920/フリーター(何でも屋)】
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ライター通信
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モロクっちです。『愛が落ちた』をお届けします。
……結局、死体ですよ……。
まあ、ダンナは死んでいるというオチは決まっていたのですが、あれよあれよと言う間に桔梗のセリフがコワくなり、挙句の果てには自宅に死体。ああ……。
しかし最近は、隣の住人が死んでいてもわからなかったという話なんてざらになりました。虐待で子供が亡くなるという話も。受注をしてからこのノベルを書くまでに、2件も3件も虐待事件が報道されて、つくづく暗い気持ちにさせてくれます。
さて、いかがでしたでしょうか。
ちょっと背中が寒くなるような、そんな話になっていたらと思います。
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