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破滅に至る病 〜孫次郎〜
「……穢れた魂」
玻璃で出来た鈴の音色のような声音が、冴え冴えとした青い月明かりの下、落ちる。
と……ん……とん。
一定の間隔で何かが跳ねる音。そして、その音に寄り添うように流れる童歌。
月明かりに紅い八重菊の手毬が踊る。
吹く風も冷たく、吐息が凍るほどの温度であるのに、手毬をつきながら歌う主の唇からは白いそれは見えない。
「因果は巡る……悪しき魂は、裁かれねばならぬ……な?」
その言葉は誰に向けたものか、同意を求めるような響きのそれを残し、手毬をついていた少女は───忽然と姿を消した。
面打ち師というものがいる。
主に能や狂言に使われる面が代表であるが、それを作り出す者の事をいう。
能面の技術は基本的には、先代の作った面をそのまま忠実に再現する……『写し』という事を行い、代々受け継がれていく。
ここに、一人の面打ち師の男が居た。
既に還暦を迎えた男は、師匠という立場にあった。
優れた面打ち師であった男を慕い一人の若者が弟子入りした事から、男の心に水に落とした墨の如く黒々とした染みが広がっていった。
若者は、類稀なる才能を持って居た。
それこそ、乾いた大地が水を吸収するように、余す所なく男の技を学びそして己の力としていった。
やがて、若者の作り出すそれが、男のそれを凌駕していくのにさほど時間はかからなかった。
────…俺の名前で、発表すれば。
小面や若女と呼ばれる、他の女性の顔を表現した面よりやや面長で、きりりと引き締まった頬と、やや高めに位置する眼が特徴で、どこか全体的にほっそりとした寂しげでいて上品な雰囲気を漂わせている…──見事としか表現できない、『孫次郎』の面。
孫次郎の名前の由来となった作者と同じように、亡くなった恋人の顔を思い出しながら、作り上げたのだというその面を見、男は師匠として面打ち師として思ってはならない事を考えてしまった。
───…なに、あいつには金を渡せば……。
美しい面を見つめ、男はほくそえんだ。
この面を最近、思うような面が作れなくなってきた己の作ったそれであると発表すれば、己の体面は保たれると。
気づいた弟子が何か言って来たとしても、金で黙らせてしまえば良い……と。
歪んだ、歪んだ想い。
「……醜悪な」
不意に、ぽつりと、誰も居ないはずの部屋に声が響き、ふぅっと明かりが消え去り、男を闇が包み込んだ。
「誰だっ!?」
一人、板張りの広い作業部屋で弟子の作った見事な面を眺めていた男は、手に痺れが残るほどに驚いて振り返った。
とん……とん……とん……。
等間隔に何かが跳ねる音を伴い、きしりと微かに床をきしませて近寄ってくる……その、気配。
「穢れた魂に、滅びを」
涼やかな声は、淡々としているが故に逆に男の恐怖心を煽った。
窓からうっすらと差し込む月光に、声の主の姿が照らし出された。
鴉の濡れ羽色の長い髪をうなじの辺りでひとくくりにした、闇に鮮やかに浮かび上がる紅の振袖を纏ったほっそりとした少女の影。
男の瞳がそれをとらえた瞬間大きく見開かれた。
八重菊の手毬をつきながら現れたその少女の表には、男が先ほどまで眺めていた孫次郎の面があった。
月明かりにほっそりとした面に陰影が浮かび、寂しげなそれはどこか哀れむようにも、凍てつくような笑みを浮かべているようにも見えた。
「……っあ、あ、あぁ」
言葉にならない悲鳴をあげて、男がずるずると尻で床をすべり後じさる。
近寄ってくる少女から、逃れるように。
「素直に弟子の成長を喜んでおればよいものを……」
どこか嘲笑うような言葉に、男は死を覚悟した。
そう……それはある意味で正しい。
「た、助けっ…───」
傍でみて滑稽な程、じたばたと腰を抜かした男が伸ばしていた手が、なにかコツンと硬いものに触れた。
近寄ってくる少女に投げつけてやろうと手に取ったそれは、少女がつけているはずの孫次郎の面。
「……な、んで」
少女がつけているのがこれならば、何故ここにあるのだろうと男が少女を振り返るより早く。
ちくり、と首筋に痛みを感じた。
薔薇のそれよりも微かな痛み───その正体をなんだろうと思うより早く、男の意識は闇に飲まれた。
「……我がお主を裁くのではない、御主が御主自身に裁かれる……それだけのこと」
鈍い音を立てて男が倒れこむのを、静かに見下ろした少女は、男に伸ばしていた手を引き寄せる動作でゆっくりと面を外す。
「己と弟子のそれも気がつかぬとは、ほんに、欲に汚れたことよ」
手に取った面を男に放りながら、少女はにぃ、と愉しげな笑みを見せる。
人にあらざる紅の瞳を愉悦にゆがめながら、手毬を胸に抱いた少女は……踵を返す。
「我は、御先……悪しき魂を滅ぼすもの。ゆめゆめ忘れることなかれ──」
誰も居なくなった部屋に、床に落ちた面が割れる、乾いた音が響いた。
─FIN─
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