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かがみのなかの真実
彼女たちの父親は、姿こそめったに現さないものの、愛の証だとでも言いたげに、よく贈り物をしてくれる。
それは、彼女たちがそのときに強く欲しているものにはかすりもしていないものの――大概、彼女たちを喜ばせた。そして、時折ひどい目に遭わせた。
次女である海原みなもは、よくひどい目に遭う方だったが、その災難を「いい経験」として記憶に留め置くような、芯の強さも持っていた。ともすれば、その贈り物の数々が、彼女の芯を育んだのかもしれないが。
そうして、その夜にみなもが父から贈られたのは、大きな姿見であった。
「きれい」
自然と口をついて出たのは、その賞賛。
姿見は確かに見事なものだった。みなもの賞賛は純粋なもので、皮肉や文句は何ひとつ含まれていない。
『 大事にしてくれると父さんは嬉しいよ 』
姿見には申し訳程度に、そんな手紙がついていた。
「大事にするよ。1980円の鏡なんかと比べられないもの」
みなもは苦笑して、鏡に目を戻した。
骨董品であるようだ。
一歩離れただけで全身が映るほどの大きさだった。その大きさの鏡は無論裸ではなく、5世紀以上もの時を渡ってきたかのような、古く厳めしい装飾に囲まれている。
近代的な――というか、この時代に相応しい姿の海原家の中にあっては、少々不釣合いとも思えたが、みなもは何故かこの姿見に惹かれていた。一目見たその時から、姿見から伸びている見えざる手に引っ張られているような――そんな錯覚まで覚えるほどに。実際に、磨き上げられた鏡面に触れると、指が吸われているかのような不可思議な感覚を覚えることが出来た。不快ではなかったが、ただ不思議だった。
"Cognosce te ipsum"
装飾の中にひっそりと身を横たえる、古びた文字列。
英語ではないようだった。みなもは読めず、また、意味を理解できなかった。製作所の名前か、もしくはこの装飾を造りあげた者の銘かもしれないと、そう解釈するだけに留まった。
みなもは重い姿見を、ひとりでやっとこさ自室(末の妹と同室なのだが、妹もきっとこの姿見を気に入ると思った)に運びこみ、しばらく自分の姿を映して、眺めていた。
つくづく、美しい姿見だと思えた。
パジャマに着替えてベッドに入ったところまでは、確実に、自分は現実の中にいたと断言できる。
だが、今は――?
暗闇の中でぼんやりと光る姿見に、恐る恐る近づいた記憶――
そこに映っていた自分の姿――
そっと笑ったその自分は、
果たして現実のものであったのだろうか。
微笑んだつもりなどなかったみなもは、鏡のひんやりとした冷たさにぎくりとした。自分の腕を掴んでいるのは、鏡に映ったみなもであった。
青い髪、青い瞳、穏やかな笑顔。
すべては、鏡に映った自分そのものであった。
だが、どっと倒れこんだその先の温もりは、男のものであったのだ……。
一糸纏わぬ姿になって、ふたりのみなもの姿がもつれ、みなもはぼんやりと考えた。
――男のひとにこんなことされる夢をみるなんて、あたし、欲求不満かな。
青い髪、青い目の男――おそらく『自分』は、自分と同じ微笑みで、みなもの耳元で囁いたのだ。
「これは夢だと?」
「きっとそう」
「でも、ようやくひとつになれたね」
「ようやくって……あたし、そんなの、待ってないよ」
「待ってたんだよ」
ふうっ、と男は溜息を漏らして、消えた。
みなもは一人きりで、我に返った。
男の姿はなく、自分はちゃんと服を着ていた。セーラー服だ。土曜と日曜以外はずっと着ている、この少し窮屈な服は、もう慣れている。
ああ、自分は、ようやくひとつになれたのだ!
完全なものになったのだ!
みなもはそれを知っていた。
待っていたはずではなかったのに、悲願を果たした満足感に浸りながら、みなもは身体を起こした。快楽の余韻と痛みと疲れなどは、ついぞ感じることもない。先刻の記憶は、『夢』の中のものであったかのよう。
ざぶん。
潜る。
どこまでも深く。
だが足と手と耳はひれではない。
みなもは着慣れた服のままで、導かれるかのように、深く深く潜っていく。
思い出すのは、『自分』との融合。
満ち足りた喜び。
快感。
そこにずらりと並ぶものを、みなもはすでに『恐ろしい』とは感じない。
『憐れ』だとすら思わない。何故なら、彼女は完全なるものであるからだ。
ねじくれた、苦悶と恐怖の表情で固まった自分。
樹となり、叫びながら枝を伸ばし続ける自分。
無機質な球体関節人形となった自分。
海のキメラと化し、海に郷愁を抱く自分。
どろりと溶けながらも、「うちにかえる」とひたむきに思い続ける自分。
心までもが文字になるわけがないと、強く信じている自分。
姉に妙な格好をさせられて、真っ赤になっている自分。
幸せに笑いながら妹と食べ歩く自分。
泳いでいる。
鱗に覆われた、美しい、アクアマリン色の尾びれ。
恐ろしい、牙と爪を持つ水竜。
痛み。
想像を絶する恐怖。
海に眠る、名も忘れられた存在。
――あたしが帰らなくちゃならない処は?
――もっと奥よ。
ざぶん。
"Cognosce te ipsum"
汝自身を知れとがなりたてる門があり、みなもはその重々しい扉に手をかけた。音もなく開いたようで、無数の音があった。自分の悲鳴、笑い声、囁き、怒号、すすり泣き、溜息、詠唱、嬌声、産声、断末魔。
歩けば、ぴたり、ひたり、ぴたり、ひたり――濡れた乾いた足音がする。自分は裸足で、パジャマを着ていた。
みなもは、こまでに見た『みなも』をすべて受け止めていた。あれらは、受け止めざるを得ないものであり、また、通過するべき姿であった。みなもはあれらの恐ろしい姿や、悲しい姿、微笑ましい姿を、必然としてとらえることが出来ていた。
何故ならば、彼女は完全なるもの。
彼女はここにおいて、神である。
神が完全なものであるならば。
足音だけが、ひんやりとして、それでいて乾いた暗闇の中に響き渡る。
音は反響しているようで、吸収されている。
闇の中を、時折見えぬ『黒』が通りすぎ、『黒』をかぶった『黒』が行き交う。
「あなたは?」
「ああ、あたしなのね」
ここが行き止まりとは思えぬ。
だが、みなもはそこで足を止めた。
天井や床など見えないが、確かに天井や床からは、黒の鎖が伸びている。鎖に繋がれた者の姿が、ぼんやり、くっきりと闇の中に浮かび上がっている。
青い髪、青い目、白い肌。
さきに、男に抱かれていたその裸体。
黒の鎖に繋がれているのは海原みなも。
明日の朝いちばんに洗うつもりのパジャマを着た、裸足のみなもが見つめている。
みなもの視線が、そのとき、音もなく(自分の悲鳴、笑い声、囁き、怒号、すすり泣き、溜息、詠唱、嬌声、産声、断末魔)かち合った。
ああ、とみなもは声を漏らした。
知っている。知っていた。今、知った。
何を?
「なんだろう……」
「なんてお約束な夢」
目を覚まして姿見を見たみなもは、ぷっと噴き出した。
さあ、妹を起こして、着替えて、パジャマを洗おう。そうして、妹に姿見の感想を聞いてみるのだ。夢を見たかと、尋ねてもいい。
今日が始まって、終わってしまう前に。
<了>
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