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<東京怪談ノベル(シングル)>


外法術師、これにあり


 東京を離れ、人里を離れ、しかし日本の中にある、自然とともに生きる者が在る。
 名を御母衣今朝美と云う。
 その姿を目にした者は、まず言葉を失い、我を忘れることもあり、時の流れを忘れるのだった。
 月光の色にも似た銀の髪、山の中にあって白磁の如く白い肌、いつでも涼しげなその瞳は蒼であり、整った顔立ちは日本人離れどころか、人間離れしているとさえ言えるほどだ。注意深い者ならば、今朝美の耳が尖っていることに気づくだろう。しかしながら、悪魔や鬼のような、禍々しい尖りかたではなかった。
 大正、明治、江戸、それ以前の大和の者は、恐らく知るまい。
 西の彼方から運ばれてきた伝説が闊歩するこの時代、ようやく今朝美の正体はこの島国の人間たちに知れ渡るのであろう。
 彼は、森とともに生きる者。
 森の人。
 西の彼方で、エルフと呼ばれている存在だった。


 彼は忘れな草の花で染めぬかれたかのような青と、月光を紡いだかのような白を合わせた、奇妙だが美しい和装姿であった。法衣と狩衣、両の特徴を兼ね備えながら、そのどちらでもない着物であった。普段は藍染めや白の着流しで過ごすがこの着物を纏うのは、仕事をするとき――道楽にうつつをぬかすとき――絵を描くとき、であった。
 彼は、絵描きだと人に言う。
 人は、腕のいい化粧師だと称した。
 化粧師だと紹介されると、彼は子供のように強情になって、自分は絵描きだと言い張った。彼は確かに、描いているのだ。うつくしい色を乗せるのが、紙かキャンバスか半紙か人の顔か、その辺りに相違は無いものだと言ってはばからぬ。
 彼は、森にアトリエを構える画家であった。
 しかし今朝美は、人間のように、キャンバスに向かってパレットと絵の具と筆を用いることはなかった。
 こうして今のように、白と青の服で、ただ自然の中をさくりさくりと歩いては――
 袖から真白い穂先の筆を取り出し、すう、と在るものを撫ぜるのだ。
 見るがいい、
 たちまちその穂先には、自然の『色』が乗っている。
 七竈から赤を、木通の美から紫を、山吹から山吹を。自然の中に無い色は無く、今朝美に採れない色はなかった。木漏れ日、月光、風、生と死、この星の自然にある色を、彼はいとも容易く操った。人は彼の絵に安らぎと、抱擁、ときには厳しさを感じることが出来た。人が捨てたものを、彼は描いているのだった。

 一見すると吹けば飛びそうな体躯であるのに、彼は毎日アトリエから一里は離れた源流から、飼葉桶一杯の水を運んできていた。時には、両手に桶をさげて、まったく息一つ乱さずに、アトリエに戻ることさえあった。彼は誰に自慢することもなかったが、山で永く生きていたために、身体は丈夫なのである。
 一見すると吹けば飛びそうな体躯であるのに。

 人里離れた山の中、隠者のように暮らしているわりには、今朝美のアトリエにはたびたび来客があって、郵便物が届くことさえあった。
 最寄りの村から片道7時間はかかるという道なき道を辿り、その日、久し振りに郵便配達人がアトリエの戸を叩いた。
「ご苦労様です。……本当に」
 今朝美は汗を噴く配達人にいつも、自らこの地に留まることを選んだ経緯も棚に上げ、素直に労いの言葉をかけるのだった。
 その日の手紙は、友人からのものだった。
 今朝美は差出人の名前を見て微笑んだあと、すぐにすまなそうな顔になり、「それじゃ」と立ち去ろうとする配達人を呼び止めた。
「お茶をお淹れしましょう。先日鳩麦が獲れましてね」
「お気遣いどうもです、ははは。ああしかし、今から下りないとちょっと……」
 配達人は汗を拭いながら、腕時計を見て、顔を曇らせた。
「ほんの15分ほどです。お疲れでしょうし、もし遅れたら、道に迷ったと言えばよろしいでしょう」
 今朝美はゆったりと言葉を紡ぎ、配達人は何度も時計を確認したあと、「それじゃ」とぺこぺこしながらアトリエに入った。
 今朝美は笑みを大きくして、戸を閉め、炒ったばかりの鳩麦を古いやかんに入れた。

 今朝美にとって、時などは、些細なものであった。
 日が昇れば1日が始まり、日が沈めば1日が終わるのだ。人間たちが定めた暦は、獣と自然と同様に、今朝美にとっては意味を持たないものだった。今朝美は、誰かから聞かない限り、その日が何年何月何日何時何分なのか、さっぱり把握していないのである。
 そんなことだから、彼は自分がいくつなのかも知らなかった。彼はもとより、365日でひとつ歳を取るという概念すらよく理解出来ないでいたのだ。
 ただ、自然が次第に憂いを帯びて、色が褪せ始め、人間たちの色彩が濃くなってきていることには気づいていた。それでも彼は、変化を見守るだけだ。
 今こうして鳩麦茶を飲んでいる配達人のように、その日のうちにやらなければならないこともない。
 だが、目的を持つことを嫌っているわけではなかった。
 彼は彼なりに変化というものを受け止めていたし、退屈に思うときもあって、自ら人里に降りることもあるのだ。

 郵便配達人は15分きっかり休み、鳩麦茶を旨い旨いと飲み干して、汗もようやく引いた頃に――「それじゃ」と今朝美のアトリエを出ようとした。
「ああ、お待ち下さい」
 今朝美は珍しく、そのとき、急いだ、
 配達人を呼び止めてアトリエに引っ込むと、自作の水彩紙――野草の繊維が、混じっていた――を引っ張り出すと、袖から虹のような色の乗った筆を取り出した。
 さらさらと氷面を滑るように、筆は水彩紙のうえを走った。
 描かれたのは、極彩色の班猫だ。
 まるで水彩紙に焼きつけたかのように精細なその絵が、ぼんやりと光るのを――今朝美の他には、誰も見なかった。
 派手な着流しの伊達男が、その光をほどきながら現れたのも。
「表の配達人さんに、麓の村までの近道を教えてあげて下さい。……ああ、あまり険しい道はいけませんよ」
「合点。そいじゃ」
「お気をつけて」
 派手な男はアトリエを出て、配達人と一言二言言葉を交わし、先を歩き始めた。
 5歩行っては立ち止まって振り返り、3歩行っては振り返り――
 跳ぶように3歩、跳ねるように5歩、道を進んでは振り返るその様は、極彩色の班猫そのもの。
 今朝美は微笑み、配達人と道教えが見えなくなってから、アトリエに戻ったのだった。

 かさり、と届いた手紙を開く。
 友人はいつもの口調、いつもの文字で、いろいろと近況や、東京の様子を語ってくれた。近いうちにアトリエに行く、ああ、旨い酒も持って行ってやるから大いに感謝することだ、そんなご挨拶で手紙は締め括られていた。
 この友人は先日「これが時代の最先端だ」と、フライドポテトなるものを意地悪な冗談で持ってきてくれたのだが、それはことのほか今朝美の口に合ってしまった。島国の変化を舌で感じたことに、喜びさえした今朝美を――友人は少し呆れたような顔で見ていた。
 いつの日かの出来事を思い出して、そして手紙の文面ですらもいつも通りの友人に、今朝美は苦笑し、月と星の光に照らされる描きかけの絵に目をやった。掛け軸にしようとやおら思い立ち、丈の長い半紙に先週から描いているものだ。彼は一分もかけずに絵を仕上げることが出来るのだが、そのくせ、時折気が遠くなるくらい時間をかけて描くことが多かった。
 何度描いても飽き足らず、また彼に与えられた永い時間を持ってしても描き切ることなどできはしない、自然の姿がそこに乗せられている。
 手紙をくれた友人が来る(おそらくは、酒とフライドポテトを持って)前に、描き上げることにしようと――
 彼は久し振りに、大きな目的を作った。
 今朝美は翌日に採りたい色を考えながら、掛け軸になる予定の絵を見やりながら、月が沈むまで床に入らなかったのだった。




<了>