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<東京怪談ノベル(シングル)>


闇に溶けて

 救いたい。その気持ちは同じだったのに、いつしか進む先が違えていたのは何故だろう。

 幾分か冷たくなってきた風が、頬を撫でてゆく。影崎・雅(かげさき みやび)は安楽寺の裏にある小高い丘で、ただぼうっと下を見下ろしている。
「何年かな」
 ぽつり、と雅は口を開いた。小高い丘からは、下の景色が良く見える。安楽寺にある、墓地も。
「何年でもいいけど」
(いいのか悪いのかですら、分からないんだから)
 雅は小さく笑った。皮肉を含んだ、否、自嘲めいた笑みだ。
「昔話は好きじゃないけど……」
 雅は呟く。昔話が好きじゃないというわけではなく、昔話をしようとしている自分があまり好きじゃないだけなのかもしれない。
「俺が好きじゃなくても、心の奥底で蠢いているのは違いないんだろうな」
 ぽつり、と雅は言ってから苦笑する。これも何も、目の前に広がる景色のせいだと雅は考える。これも皆、景色がそうさせているのだと。
(誰が呼んだか……)
 辺りは少しずつ赤みを帯びていた。太陽は少しずつ西の地平へと下がっていっており、ただ見下ろしているだけの風景が赤く染まっていっている。
(逢魔が刻)

 昔々のお話です。とある所に、高僧がおりました。彼は死後、自分は地獄に行くのだと言っておりました。

 雅は俯き、足元の土をざり、と踏みしめた。自分が動かした足、自分がここにいるという証。
「俺は、まだここにいる」
 否定などしない。だが、肯定など絶対にしない。
「おかしいよな……おかしいかもしれないよな」
 雅は小さく笑う。自嘲めいた笑みだ。
(それでも、ここにいるだなんて)
 踏みとどまって、このまま存在して。思い切りが悪いとか、そういうのでは無いと断固として否定しながら。
「それでも……」
 雅は小さく呟く。俯いたままの顔が、赤く染まる。ただ、全てを吸い込むかのような黒い目だけは赤に侵されていないままだ。
「それでも、俺は」

 有徳の身で、何故地獄か?と問われ、答えたその答えは至極簡単なものでございました。「自分が行かねば、誰がそこで苦しむ者を導くのか」

 雅は口だけで笑んだ。認めている。それは確かだ。それは絶対的に確かな事なのだ。
(そうとも、俺は認めていたんだよ。お前を、お前の言う事を)
 それでも納得は絶対に出来なかった。認めてはいたけれど、それは素晴らしい事だと理解はしていたが、納得だけは出来なかった。
(当たってたよ。完全に、お前の言う事は正しいと思えたよ)
 苦しむ者を導きたいだなんて、何とも素晴らしく甘美な言葉であろうか。
「己を必要としているから、だと」
 くく、と雅は笑った。おかしい訳ではない。自嘲めいている訳でもない。ただ声にすると、自然と笑みが溢れてきた。悔しさからか、哀しさからか、それとも。
「お前の言っている事は正しく……そう、限りなく正しかったな」
 ざりざり、と土を踏みしめる。
『必要とされているから』
 声が響く。笑みと誇りを含んだその声は、年月を経ても雅の心を苛んでいる。
(何だよ、まだこんなにも鮮明なのか)
 それは余りに滑稽で、余りに愚かなような事だと思えてきた。一方通行の思案。答えなど出そうにも出るはずも無い。
「必要、不必要……」
 まるで花占いのような呟きに、雅は自身で笑った。馬鹿みたいだ、とも呟く。実際に馬鹿なのは自分なのか、それとも。
「だからと言って、あっさりと身を投じるなよ」
 今はもう、届かない声。届いたとしても、返事など戻ってこない。一方通行のまま、ただ真っ直ぐに突き進むだけの声。
「あっさりと投じて何になるって言うんだよ?」
 否定はしない。それは確かだ。やった事が馬鹿な事だと、おろかな事だと、そんな事は決して思わない。それを思うならば、先程花占いめいた事を呟いていた自分の方がよっぽど馬鹿馬鹿しく、愚かしいのだから。しかし。
「それもアリだ。それは認めている。そんなの、ずっと前から認めていたんだからな」
 それでも。
 そうは言っても。
「だけどな……闇に落ちかけている者はどうするんだ?」
 ぽつりと呟く。
(闇に落ちるその前に、落ちかけた者を救えるのが一番良いんじゃないのか?)
 落ちてしまった者を救うのも正しい。落ちてしまった者を導くという行為は、決して間違ってなどいない。だが、その一段階前で止めることが出来たなら。落ちる前に、落ちそうになっている者を救う事が出来たなら。
(それに勝るものが、あると言うのか?)
 雅の考えは、そこから動く事は恐らく無い。
 昔にいたという高僧。彼は偉い。得があるのに、地獄に行って一人でも多くの人を導こうとしたのだから。並大抵の覚悟では出来ないし、そう思えるという事自体が既にすごいことなのだ。
(そして……)
 その考えに同調し、己が必要とされているからといってあっさりと無明の闇に身を投じてしまった者がいた。
「俺はお前を認めている」
 ぽつり、と再び雅は呟いた。
「お前の力も、考え方も……その何もかもを充分すぎるほど認めているんだ」
(だからこそ、決して頷く事はしない)
「頷いたり、倣う事は至極簡単だ」
(だからこそ、簡単にはいかない道を俺は歩む)
「お前とは、何処までも対等でありたいんだ」
(相手のやり方はそのままにして、俺は俺自身のやり方を貫く)
 そうである事によって、互いが互いを思う事が出来ると信じて。道はたった一つなどではないと、そう思っているから。
「最終地点は同じなのかもしれないけどな」
 同じ場所に行き着くのならば、余計にその行程は違っている筈であった。
(俺は、俺のやり方が正しい事を証明してやる)
 どちらが間違っている訳でもなく、どちらもが恐らく正解である。正しい正しくないという二つに分けるのならば、そのどちらもが正しいという方に分類される。
「だから、お前のやり方がアリならば……俺のやり方だってアリ、だ」
 それを証明する為に、雅は未だこの世界に留まっている。
(証明できたとしても、もう既に証明できたと言いたい奴はいないんだけどさ)
 それだけが悔しく……哀しい。否、哀しいわけではないのかも知れぬ。ただ分かるのは、何かしらの負の感情が支配しているということだけだ。
「お前はお前のやり方で……俺は俺のやり方でやってみればいいんだ。俺はこの世界にもうちょっと粘ってみるよ」
 赤く染まる地平線。墓地にある墓石たちも、赤く赤く染められていく。
「どーせ行き着く先は同じなんだからさ。何年先か、何十年先かは分かんないけど」
 小さく苦笑し、雅は墓石の一つをじっと見つめた。
(形だけの、墓)
 その墓石の下には、何も無い。骨壷も、何もかも。そして墓石には何も刻まれてはいない。勿論、墓誌にも。
(何も刻む必要なんざ、無いさ)
 じっと墓石を見つめたまま、雅は苦笑する。
「俺が覚えておくからいいんだ。覚えているから、それでいいんだ」
 静かに語りかけるように、雅は言った。赤く染まっていた地平線も、もうすぐ来るであろう闇に押され始めていた。今ではほんのり地平の向こうが薄く赤く染まっているだけで、辺りは随分薄暗くなってしまっていた。
「何だか、久しぶりに色々考えちまったな」
 うーん、と雅は伸びをした。何が自分を喋らせたのかは分からない。赤く染まった空が、赤く染められた墓石が……ここにいる自分の存在がふと思われて。
「よく言ったもんだよ。逢魔が刻、だなんてさ」
 不思議な魔力に捕まってしまったようだった。自らと対談したような気分がした。闇が近付いている。捕らえようとして、身を投じろと迫りながら。
「残念ながら……俺は、まだもう少し粘ってみる」
 雅はそう言って踵を返して安楽寺へと向かった。完全なる闇の時刻が迫っていた。雅が吐き出した思いも、信念も、そうっとそこに解けていくことだろう。ただ、雅の胸のうちにだけ残したままで。

 真に救いを求める者は、地獄にこそ在るのです。

 それは確かな答えである。しかし、地獄に落ちようとする者にも救いは必要なのではあろうか。その問いに、答えは無い。今はまだ、答えを裏付けるだけの証拠が無いのだから。今はただ、闇に溶けるその時だけを待ち……夕日は完全に地平の中へと沈んでいく。存在した全ての思いを、感情を、理念を、全て飲み込んで。

<全てが闇に溶けてしまいながら・了>