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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


現実よりの逃走(失敗編)
 ブラインドの隙間から差し込む朝の光に、うっすらと目を開いてみる。ずきずきと痛む頭と乾いた喉──それらに少しばかり不機嫌になりかけていた村上・涼(むらかみ・りょう)は目覚めて一番に目に入った部屋の天井に──明らかに日々をすごしている自分の部屋のそれとは違う光景に、ぱちくりと目を瞬いた。
「……えーと……」
 明らかに違う。
 いつも見ていた天井とは明らかに材質も色も異なっている。少し途方にくれつつ、そして僅かに嫌な予感を覚えながらも涼はゆっくりとベッドから体を起こした。とたんにずきりと痛む頭──だが、そんなささやかな問題にかまっている場合ではない。
「──!」
 おそるおそる、現在の自分の服装などを確認して思わず声にならない悲鳴を上げた。直接肌に触れる白いシャツ一枚──。
「……まさか……」
 呆然と呟きつつ、涼はぐるりと室内を見渡した。どちらかというと無駄がない──ある意味殺風景ともいえるこの部屋は──否、この雰囲気には覚えがあるかもしれない。だが、この部屋の主が涼の想像する人物と同一であった場合、それは彼女にとってはかなりつらい現実と直面することと同義だった。
 いやちょっと待て、と涼は最悪の想像をしかけた自分を心の中でたしなめる。
「えーと、そうよそうこういう場合まずは現状把握よ大事なのはまず落ち着くことよ……!」
 だがいくら落ち着いてみたところで、そして何回現状を把握してみたところで、『朝目覚めたらシャツ一枚で知らない部屋にいました』という現実にいささかの変化もみられそうにはなかった。どれほどに願ったとしても案外現実というものは頑固で人の意のままには動かぬものであるらしい。
 とりあえず昨夜の出来事を思い出せるところまで思い出してみよう──涼はふむ、といつも見ているものとは明らかに違う天井を恨みがましく見上げる。
 既に見知らぬ部屋で目覚めてしまったという厳然たる事実がある以上、昨夜の出来事の検証など現実逃避に等しくはあったが、それでも涼はそうせずにはおれなかった。
 よく考えてみよう──そう、昨日は常日頃草間興信所に出入りしている面子での忘年会が行われ、そして当然のように集まった面子の顔ぶれにふさわしく一次会などで大人しく終了する筈もなかった。さらに騒ぎが好きな涼が途中で帰ることなど出来る筈もなく、最後まで──明け方近くまで飲み明かしたのだ。問題はその最後。そう、三次会での記憶だけがすっぱりと抜け落ちている。
 激しくなる動悸を押さえるべく、シャツの布地をぎゅっと握り込み胸に押しつける。ベッドの上にぺたりと座り込み、呪文のように何度も同じ言葉を繰り返した。
「落ち着け落ち着け落ち着くのよ私……!」
 ただひたすらに、精神集中よろしくぶつぶつと呟きを繰り返している涼を最初に発見したのは、水城・司(みずしろ・つかさ)だった。もっともこの部屋の主は、涼が思い描いた最悪のシナリオの通りに彼に他ならないのだから、第一発見者が司であるというのはごくごく自然の成り行きではある。
 そして、ドアを開いて真っ先に目に入ったのが男物のシャツ一枚を身に纏ったうら若き女がベッドの上にぺたりと座り込み、悲壮ともいえる表情でぶつぶつと何やら呟いているという光景だった。
 おそらくその鬼気迫る表情から察するに、部屋の主である司がドアを開いた音にすら気がつかなかったのだろう。ごくごく普通の神経の持ち主であれば、涼の様子を見ただけで逃げ出してもおかしくはない。
 だがその光景を目にした司には一瞬の躊躇も見られなかった。
 片手をドアノブに、そしてもう片方の手にはほのかに湯気をたてるカップを二つ。
「慌てたら負けよとにかく落ちついて落ちつくのよ……慌てたら敗北者よ……!」
「勝ち負けはともかくとして、まあ確かに落ち着いた方がいいだろうね」
「…………!」
 聞き覚えのある声に短い悲鳴が口をついて出そうになるが、涼はそれを何とか堪えることに成功した。そう、ここで悲鳴など上げては何を言われるか分かったものではない──それは、目の前の人物との最近の関わりで嫌というほどに──むしろ嫌すぎるほどに熟知している。
(まさか……ひょっとするとひょっとしちゃうってことは……)
 ふと湧き上がる疑惑。
 なにせ昨夜の自分は完全な酔っ払いだ。そんな自分の記憶などこれっぽっちもアテになど出来はしない。だからといって司に『昨夜の出来事』を尋ねるのもひどく恐ろしいことのように感じられる。
 ちらりと、そしておそるおそるといった様子で自分に向けられた涼の視線に、司はすかさず彼女が何を考え、何を恐れているのかを察したらしい。だが察したからといって彼女が抱く疑惑や不安を取り除いてやろうとは思わない。むしろこれは利用すべきチャンスだ。
 躊躇は一瞬だった。決めてさえしまえば行動は早い。獲物は目の前なのだ。
 また何を想像したのかぶんぶんと激しく首を左右に振っている涼の様子に、司は笑みを深くするとゆっくりと足を進めた──涼のほうへと。
 手にしたカップの一つを、涼へと差し出し告げた──ベッドの上に片膝だけをつき、あえて距離を縮め、そしてあえて耳元で囁く。
「嫌がることはしてないよ」
「信用しろっての?」
「信じたいんじゃないかと思ってそういったまでだよ──基本的に俺は人がいいんでね」
「その物言いが既に否定してるじゃないのよこっちのささやかな願いとかを! 私はねー、私はねー……私はこれでも平穏無事に生きていきたいのよ!!」
「人の生き方を否定する趣味はないからね。いいんじゃないかな別に──」
「否定ならまだ可愛げがあるわよ誰よハナっからブチ壊してんのは!? もう駄目だわ駄目なのよとにかく駄目ったら駄目よ!!」
 混乱気味の涼に、差し出されたコーヒーを受け取るだけの精神的余裕がないことは司の目から見ても明らかだった。彼はカップをサイドテーブルの上に置くと小さく肩を竦めてみせる。
「──で」
「?」
「誰が脱がせたのよ……」
「だから、嫌がることはしてないよ」
「そーゆーコト聞いてるんじゃないわよこのザル頭!!!」
 とりあえず司の今までの人生において、『ザル頭』などといわれたのはこれが始めてであることは言うまでもない。
 そして司は涼のその発言が、彼女の混乱故であると解釈して寛大に許すことにした。とりあえず『今は』許すことにした。そして鷹揚に頷いてみせる。
「それはいいとして、とりあえずシャワーでも浴びて落ち着いてきたらどうだい。その間に朝食でも用意するよ──」
「ありえないわ認めないわこんな人生!」
「なににせよ、そんなに喜んでもらえるとは光栄だね」
「さてはその耳は飾り物か置き物のどっちかね!」
「タオルはおいてあるものを好きに使ってくれて構わない。落ち着いたらおいで」
 涼はまったく司の話を聞いてはいない。だがそれは司とて同じことだった。とりあえず伝えるべきことを伝えた司は朝食の支度とやらを開始するために部屋を出て行く。そして、涼はといえばやはり素直に司の言うことを聞くはずもなかった。
 ベットサイドに置かれた椅子の上に、綺麗に折りたたまれた自分の服を発見すると、涼は猛然とした勢いでそれを着込む。そろそろと、物音を立てないようにドアをゆっくりと開き、その先に司の姿がないことを確認し、そして。


 逃げた。
 村上涼現実よりの逃走はここから開始する。


 だがその逃走は失敗の気配が濃厚だった。
「ありえないありえないありえないったらありえないうそよー!!」
 とりあえず勢いのままに部屋を後にして気づいてみれば、忘年会の時には持っていた筈のバッグがないことに気づく。さらに歩き出してみれば、現在位置がわからないので手近な駅に向かうことすらままならないことと、そして何故かヒールを片方しかはいていないという現状にも気づく。
 マヌケ極まりない。
 そしてそんな人間に対して通りすがりの人々が向ける眼差しとはひどく冷たいものだ。
 うるさいわねーどーせ酔っ払いよ二日酔いよそれなんかより、こちとらもっと重要な人生の大ピンチ中なんだからほっといてよう。
 やさぐれた気分でそんなことを考えると、涼はううう、と少しだけ悲しげにうめきつつ電柱にごつりと額をぶつけた。そのままよりかかる。
「うそよ悪夢ようそようそよ嘘よー!!」
「一人でも騒がしいね」
「う……」
 聞き覚えのある声──つまり現実よりの逃走は失敗に終わったということだ。額の痛みに顔をしかめながらもおそるおそる振り返れば、そこには当然のようににこやかな──そして何を考えているのか分からないし分かりたくもない笑顔を浮かべた司の姿がある。
「忘れ物だよ──それに、一人で部屋を出たところで帰り道もわからないだろう」
 差し出されたバッグをひったくるようにして受け取る。
「気合でなんとかするわよ気合で! 二メートル以上近づかないでよね」
「ひどいな。まるで人を化け物扱いだ」
「下手すりゃ化け物より始末悪いわよ!」
「道が分からないだろうと思って、わざわざ探しにきてやった俺にこんな仕打ちとはね──」
「ところで靴は?」
 二メートルの距離をきっちりと測りながら、涼は遠巻きに司に問いかける。そんな涼の言葉に司は初めて彼女の足元に視線をやった──ように見えた。そしてまるで初めて彼女が片方しかヒールを履いていないことに気づいたかのように、ぽんと手を打つ──それも実にわざとらしいタイミングで。
「ああ。忘れた──なにせザル頭なものだからね」
「男のクセにいつまで根にもってんのよ……」
「言われなれない言葉だったんで衝撃も大きかったな。なにせザル頭だ」
「うるさいわねー。とにかく靴よ靴!」
「部屋にあるよ」
「う……」
 またあの部屋に戻るのか。あの危険がごろごろしていそうなあの部屋に。
 思わず片方裸足のままで帰ってしまおうかと考えたところに、司が小さく笑う。
「酔っ払い女の朝帰り──靴がないとなれば完璧な図式だな」
「うるさいわよ戻るわよ! ただし靴はいたら即効でかえるわよ私は!」
「まあ、とりあえずついでに朝食でもご一緒してくれるとうれしいね。珍しく妹が外出しているものだから寂しくて仕方がない──俺はこうみえても寂しがりやで一人だと死ぬんだ」
「さらっとウソついてんじゃないわよ……」
 項垂れながらも、涼はとぼとぼと元きた道を歩き出した。
 そしてその後から続くのは、司の足音。その足取りの軽さに、振り返って蹴りの一つもお見舞いしてやろうかと、部屋に戻るまでの道すがら延々とそんなことを涼が考えていたことを、おそらく司は知らない。
 多分、おそらくは──。