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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


【返り血と叫びの記憶 -Madness Ripper-】

.........................Case/向坂・愁

 19世紀末の英国で起きた、『連続殺人の起源』と称される事件である。
 5人もの女性が刃物で何十回と刺されて殺害され、臓器が持ち出されるというこの事件は、当時の英国を戦慄に落とし入れた。
 結果的に犯人は断定される事が無く、事件後100年が経過した現代でも、その犯人像は犯罪心理 分析官達の間で論議を呼んでいる。
 『連続殺人の起源』は『連続殺人における完全犯罪』を立証した形となって、現代人の深層に深く刻まれる結果となったのだ。
 『切り裂きジャック』
 世界中を震撼させた事件の記憶の断片が、東京の片隅で静かに目覚めようとしていた。


0/雨の洋館・a(PM:16:55)
 雨の降る繁華街を通り窮屈な路地を抜けると、道の突き当たりに古く小さな洋館の姿が見えた。錆びた格子状の門は口を大きく開けたまま風に煽られ、耳障りな金属音を響かせている。
 その洋館の前に、一人の黒い男が立ち止まった。
 フロントファスナーのトップスにブラックジーンズ、その上にフェイクファーの付いたジャケットを羽織った男は、訝しげな視線を洋館へと向けている。手にはレザーコートのトランクを持ち、ビニール製の傘をさしたその姿は、どこか冷たげな雰囲気を感じさせた。
「ここか……?」
 洋館の外壁には、錆びた銀色のプレートが打ちつけられ、そこには曲線で構成された書体で『アンティークショップ・レン』という文字が彫られている。
「当たり。この場所だ」
 男は呟くと、ジャケットのポケットから銀色の懐中時計を取り出し、時刻を確認する。アナログ式の時計は、あと五分で五時を指そうとしていた。

「っ!」
 室内に入った途端、咽返る程の煙草の匂いが鼻をついた。
 薄暗い室内には、屋敷の中には雑然と物が置かれ、足の踏み場すら確保出来ない程に空間が埋め尽くされている。窓の無い室内は昼か夜かも解らない程に薄暗く、室内の奥から照らされる頼りの無い光だけが唯一の光源だった。
「なんて場所だ……」
 うんざりとした様子で言葉を吐き出すと、男は周囲の物を崩さない様に気を配りながら足を踏み出した。足の裏に床とは違った固い感覚を何度も感じながらも、奥へと進んで行く。
 あまりに酷い室内の状況に苛立ちを感じながらも、二度とこの場所に来る事は無いのだと、男は己に言い聞かせた。
「おや、誰だい? こんな時間に」
 室内の奥から、酷く間延びをした声が聞こえた。声の主の姿は、積み上げられた物の影に隠れ見つける事が出来ない。
 声の主の他人事の様な物言いに一瞬だけ不機嫌そうに眉を寄せると、男はゆっくりとした静かなイントネーションで用件を告げた。
「こんばんは。向坂・愁(こうさか・しゅう)です。仕事の依頼で、こちらに伺わせて頂きました」
「向坂・愁? あぁ、アンタだったのかい」
 声の主は男の名前を呼ぶと、光を背にして男の前に姿を見せる。そこには、柔らかな毛皮のコートに身を包んだ赤い髪の女の姿があった。
 赤い女、碧摩・蓮(へきま・れん)は、黒い男、向坂のへと視線を向けた。
「よく来てくれたね。それじゃ、今回の仕事の話をさせて貰うよ?」
 向坂は、その長い睫毛を一度だけ伏せると蓮に向けて視線を返した。

「今月に入ってから、千代田区内で三件の殺害事件が発生したって話は、以前にもやっただろう? 被害者はどれも、刃物で体をメッタ刺しにされて殺されていた。犯人は犯行後、死体の頭を叩き潰したり臓物を持ち出して逃げている。こんな狭い範囲で立て続けに起こった事件だってのに、犯人の姿を見た奴は誰もいやしない。
 事件が起こる少し前、アタシの顔なじみの骨董商の店に『切り裂きジャックが使ったとされるナイフ』ってのが流れて来た。切り裂きジャックってのは、女ばっかりを襲ってメッタ刺しにして殺したロンドンの連続殺人鬼さ。そんな事件の凶器だったモノが、最近になってひょっこり見つかったのさ。で、アタシの所にその真贋の鑑定の依頼が回って来た。
 だが、ソイツをウチに向けて運んでいた骨董商の男が、品物を持ったまま千代田区付近で消息不明になっちまった。その直後、三件の殺人事件が起こった」
 そこまでの会話を交わすと、向坂はふに落ちないという様に眉を寄せる。向坂には、蓮の言葉が関連性を無理やりこじつけた様にしか聞こえなった。
「その男性は、現在も行方不明になったままですか?」
「あぁ、その通りさ。まったくもって正解だね」
 蓮の余りにも事件性をこじつけようとする姿勢に馬鹿馬鹿しさを感じながらも、言葉を喉の奥に押し止めて変わりに息を吐き出す。
「それで。今回の僕の仕事は、その殺人犯から『切り裂きジャックが使ったとされるナイフ』を取り戻す、という事ですね? ……ですが、随分と信憑性の低い話ですね。その男がナイフを盗んだ骨董商であるという確証はあるんですか?」
 蓮は、向坂が問いかけて来る言葉を予測していたのが、口の端を軽く上げて言葉を返した。
「ハッキリ言って、確証なんてモノは無い。けど、関係性がゼロだとも言えないのが本音さ。
 アンタには、その殺人犯が『骨董商の男か』って部分から調べて貰う事になる。勿論、違っていればそのまま戻って来てくれればいい。ただの殺人犯なら、警察が何とかしてくれるさ。
 アンタには、その男を見つけ出して『ナイフを取り戻し』た後、アタシの所に持って来て欲しい。それが仕事さ」
 目の中に眩暈のイメージを感じ、向坂は額に手をあてた。
 蓮はそんな向坂の雰囲気を感じ取ったのか、口元に薄く笑みを浮かべて言葉を続けた。
「ヤバくなりそうだったら、男を殺しちまっても構わないよ。アタシが欲しいのは、ナイフだけだからね」
 向坂は、蓮の言葉に小さく肩を竦めて溜息をついた。
「出来れば、そんな事はあって欲しくないんですけどね?」
 蓮は、そんな向坂の仕草に笑い声をあげた。
「あっはっは! アンタ面白いね! 安心しな! バッチリ期待しているからさ!」


1/迷走する躯(PM:17:03)
『コイツが、被害者と骨董商の男についての調査書類。殺害が行なわれた現場の写真と報告書。それと今回持ち返って貰う『切り裂きジャックのナイフ』についての報告書と写真さ。悪いが、コイツに目を通しておいてくれないか? 
 あと、もう一人の依頼者のプロフィールにもね』
 アンティークショップ・レンを後にした向坂は、手渡された書類に目を通すために緑の看板を掲げるコーヒーショップの中へと入って行った。
 時刻の所為もあり、店内は女性やカップルの姿でひしめき合っていた。
 そんな状況にうんざりとしながらも、向坂はコーヒーのライトノートブレンドを注文して、開いていた窓際のカウンター席へと座る。
 一度だけ視界の端で周囲を伺うと、封筒の中から書類を取り出して思考を周囲から切り離す。周りの世界が視界の中から消滅し、音が遮断されると、向坂は意識を思考の中へと沈めた。
 (被害者は、現在までに三名が確認されている。
 最初の被害者は米谷・富士江(よねたに・ふじえ)。八十二歳の女性。十日前の夕方、日比谷公園を散歩中に消息が不明になる。六時間後、日比谷公園内を巡回していた警察によって死体となって発見された。直接的な死因は、喉を刃物で切られた事による失血死。殺害後、彼女の顔は犯人によって原型が解らなくなる程に破壊されていた。
 次の被害者は朝井・紀子(あさい・のりこ)。二十三歳の女性。夜、東京駅で買い物をすると言って同僚と別れた後に消息が不明になり、三時間後に日比谷公園の中で死体となって発見された。死因は前者同様、喉を刃物で切られた事による失血死。殺害後、彼女の喉は内部を見る事が出来る程に大きく切り開かれていた。
 三人目の被害者は持田・敏之(もちだ・としゆき)。三十八歳の男性。霞ヶ関から日比谷公園を抜け、東京駅へと向かう途中で消息が不明になり、前者二人と同様、日比谷公園の中で死体となって発見された。。死因は、心臓をナイフで刺された事による心肺停止。殺害後、男性の喉から下腹部にかけてが大きく切り開かれ、内臓の一部が犯人によって持ち出されていた。
 死体の切断面から同じ刃物を使い犯行が行なわれた事が判明し、警察は同一犯による犯行とみて捜査を行なっている。だが、目撃者がいない事から捜査に大きな進展はみられていない)
「……でたらめだ。こんなの、馬鹿げてる」
 資料をテーブルの上に置いて前髪を掻き上げると、吐き出す様に言葉を呟いた。突発的というにはどこか狡猾で、計画的というにはずさん過ぎる犯人の行動に、向坂は犯人のイメージを推測する事すら出来なかった。
 (これじゃ、捕まえて下さいと言っている様なものじゃないか。日比谷公園の中を巡回して、怪しい奴を見つけてそれを捕まえれば……)
 そこまで思考するとと、向坂は己の考えに呆れて肩を落とした。
 (いや。三度も同じ場所で事件が起きたからって、四度目も同じ場所で事件が起きるとは限らないじゃないか。警察だってこんな簡単な共通点には気付くだろうし、犯人だって同じ場所で犯行を繰り返せば状況が不利になる事ぐらい解るはずだ)
 向坂はふと、資料の山に埋もれていた一枚の写真を抜き取った。両手で写真の端を抓む様にして、視線の高さにまでそれを上げる。
 その写真には、錆びれた一本のナイフの姿が映し出されていた。
 (『切り裂きジャックのナイフ』……ね)
 柄には、『J』というアルファベットがいびつな形で刻まれている。反った刃は貧弱で、所々刃こぼれすら起こしている。『切り裂きジャックのナイフ』だと噂されるものしては、酷く拍子抜けをする形をしていた。
 (こんな、貧相なナイフが『切り裂きジャックのナイフ』だなんて。こんなナイフ、少し細工をすれば幾らでも作り出せるじゃないか。……そんなの、噂に決まってる)
 瞬間、向坂は己の自答に対し思わず目を丸くした。
(……噂? そうか、噂か! 噂、つまり『人が作り出した認識の歪み』が、このナイフの存在そのものを変えてしまったのだとしたら……)
 向坂は写真から視線を上げ、ガラスの向こうに流れる街へと視線を向ける。
 (人は常に、己の五感を使い『周囲を認識する』事で世界と己自身との認識をはかっている。それは物も同じ事で、己の情報を周囲に認識させる事で己自身を認識している。互いに与え合う情報が一致した時、初めて人や物はその場所に『存在している』という状態になる。
 だがもし、一方に与えられる情報量が膨大であった場合、情報を受け取る側は情報を処理する事が出来ず『混乱した状態』に陥ってしまう。その状態から、さらに『間違った情報』が与えられたとしたら、『本来の情報』が『間違った情報』に書き返られ、受け取る側はその『間違った情報』が『本来の情報』であると認識してしまう)
 きつく眉を寄せると、向坂は己の指先を額に触れさせた。
 (『発狂』『幻聴』『幻覚』『狂暴化』『人を襲う』『徘徊する』。例えば、そんな断片的な意思が、周囲からの『間違った情報』によりナイフの中に植えつけられたのだとしたら。
 ナイフはその断片化された意思を一つのものに繋げる為に、骨董商という存在を使い行動を起こす。ナイフは、己に足りない意思を補い続け、最後には『人を殺す』という『情報』を相澤という男を使い実行させる。
 全ての『情報』が一つに繋がった時、ただのナイフは『本物の切り裂きジャックのナイフ』へと変化する。だが、断片化された『情報』を一つに纏めただけでは本物のナイフとして存在する事は出来ない。『本物』として存在するには『記憶』が欠如してしまっていたのだから。
 結果的に『記憶』の欠如したナイフは『人を殺すだけのナイフ』になってしまった。
 それがこの事件の全貌なのだとしたら……このでたらめな事件にも説明がつく)
 向坂は何かを確信すると、冷めてしまったコーヒーを喉の奥に流し込んだ。
 (この事件には、最初から『人の意思』なんてものは存在していなかった。……あったものは、『ナイフの意思』だけ)
 テーブルの上に出していた資料をトランクにの中に仕舞い席を立とうとした時、ふいに蓮から聞いていた『もう一人の協力者の存在』を思い出した。
 もう一人の協力者の名前は『雨柳・凪砂(うりゅう・なぎさ)』。温厚な性格の女性だが、秘めた強大な能力を保持しているという事で、今回は何かと世話になるだろうと話をしていた。
 (それもそうか。僕には『何もする事は』出来ないから)
 向坂は己の手を見下ろした。細く、何をする事にも向いていないその手には、戦う事の出来る力が備わってはいなかったからだ。
 そんな己に何が出来るのか。少しの思考の後、向坂は何かを決意したかの様にその手を握り締めて目を閉じた。
 雨柳がどんな観点から調査をしているのか、向坂はそれを知る術を持ち合わせてはいなかった。だが、彼女よりも先に犯人を見つける事で、少しでも相手の負担を減らす事が出来ればと考えていた。
「……足止め程度なら、僕にも出来るだろうから」
 言葉を呟くと、向坂はドアを潜り店の外へと出た。
 体の温かさが急激に冷めていき、吐く息は街の外気と混ざり合い消えて行く。
 強さを増した冬の雨と風が、肌にに刺す様な冷たさを貼り付かせた。


2/迷走する躯・2(PM:17:51)
 コーヒーショップを後にした向坂は、道路沿いの道を行き目的の場所へと向けて歩みを進めていた。
「参ったな」
 クリスマスを予感させる鮮やかなイルミネーションと聖夜の恋を唄う女性アーティストの曲が流れる街を抜けると、向坂は己が向かうべき場所を見失い立ち止まった。
 東京の地理を把握していなかった向坂は、目的地に向かう為に恥を凌ぎ、コーヒーショップの店員に向けて地図を書いてくれる様にと頼んだ。その地図を手に、目印になる場所を捜し出し、何度も足を止めて所在を確認しては、向かうべき場所へと歩き続けていたのだ。
 だが、雨の東京を歩き続ける向坂は一向に目的地に辿り着く事が出来ないでいた。
「……参った」
 重く呟く言葉が、空しく己の耳に響く。
 見上げた曇り空からは、相変わらず小雨が降り注いでいる。
「……はぁ」
 向坂は道に迷っていたのだった。

 時間だけが無駄に過ぎる中、向坂は漸くある一つの場所に辿り着く事が出来た。
「確かにこの辺りなんだ。方面は間違っていない。けど、どうして俺は……」
 呟くと向坂は、落胆した様に肩を落とし大きく溜息を吐き出した。
 そこには、彼が目的地とする場所が広がっているはずだった。だが、目の前に在るものは、向坂の目的とする場所とは大きくかけ離れたものが存在していた。
「よりによって、こんな場所に」
 辿り着いた先には『日比谷公園の敷地』があるはずだった。
 だが、向坂の視界の中に広がって見えた場所はニュースや新聞で毎日の様に目にする『国会議事堂』の姿だった。
「見事だよ。こんな時にまで健在なんてな……」
 見事とも思える己の方向感覚の無さに、向坂の口元には自嘲を含んだ薄い笑みが浮かんでいた。傘を持ち笑みを浮かべる黒い服の男の姿は、雨の国会議事堂の前には酷く不釣合いで不気味な姿に見える。
「駄目だ。このままじゃラチがあかない」
 向坂は呟きと共に大きな溜息を吐くと、傘を持ち直すと元来た道を引き返す為に歩き出した。歩きながら道路に視線を向け、何かを探す様に目を凝らす。道路沿いに停車していた空のタクシーを見つけると、向坂は早足でそれに近付いた。
 向坂の姿を見つけたタクシーの運転手は後部座席のドアを開け乗車を促す。ビニールの傘をたたみながら、向坂は運転手に向けて目的地を告げた。
「すみません。距離は近いと思うんですが、日比谷公園ま……」
 言葉を続け様とした時、道路の遠くからパトカーと救急車の低いサイレンが聞こえた。向坂はその音を耳にすると、弾かれた様に顔を上げ道路の中から車両を捜し出す。二台のパトカーと一台の救急車が、猛スピードで視界の中を走り抜けていった。
「あぁ、お客さん。今、日比谷公園に行くのはマズイかもしれませんよ? 今走って行ったパトカーと救急車、日比谷公園の方に向かいましたから」
「……えっ? 今のが?」
「えぇ、そうですよ。どうします? 行きますか?」
 開けたドアから流れ込む冷気に眉を寄せながら、運転手は向坂に問いかけた。
「えぇ、お願いします」
 向坂は後部座席に座ると、運転手に向けて日比谷公園に向かう様にと指示をした。


3/鮮やかな死を(PM:19:22)
 タクシーの無線から、日比谷公園で殺人事件が起こったという報告が流れたのは、向坂の乗車したタクシーが日比谷公園沿いの道路に入った直後の事だった。日比谷公園を巡回していた警察官が三名、全身をメッタ刺しにされ殺されていたのが発見されたのだという。
 一度に三人もの人間が殺されたという状況が今までの事件とは大きく異なっていたが、現場が日比谷公園である事と限りなく酷似した殺害方法から、警察は同一犯による犯行だと断定して日比谷公園に警察官を派遣した。犯人はまだ発見されてはいないらしい。
 パトカーと救急車が停車した管理事務所側の入り口を素通りすると、向坂は大きく迂回をする様に指示をした。
 日比谷公園の入り口から十メートルほど離れた場所に停車させ、その場所でタクシーを降りる。
 市民カレッジ側の入り口には、まだ警察官を配置させる手配が出来ていないのか、警備をする警察官の姿が見当たらなかった。
 向坂はそれを確認すると、たたんだ傘とトランク手に道路を横断し公園入り口へと向かい走り出した。
 湿った空気が髪や肌、コートに貼り付き不快さをおぼえされるが、そんな事に構っていられる余裕は無い。警察が動くよりも先に、犯人と接触をする事が必要だったからだ。
「……っ?!」
 公園の入り口に入った瞬間、向坂は腹部から混み上げる奇妙な吐き気に襲われた。心拍数が僅かに上がり、指先が僅かに震え出す。皮膚の上を寒気が撫で、巧く呼吸をする事が出来なくなった。
「……いる」
 向坂は確信を込めて言葉を呟いた。日比谷公園の中に作られたこの異質な空間に、犯人は存在している。向坂は、全ての元凶とも言えるナイフの力の大きさを、この瞬間に認識した。
 (早く見つけないと……)
 手に持っていたビニール傘を煩わしそうにゴミ箱へと投げ捨てると、向坂は正面から延びる広い道路の上を走り出した。
 点々と点けられた街灯が、道路の上に走る向坂の伸びた影を作り出していた。
 いつものこの時間ならば、一箇所に集まり談笑や食事を行なっているであろう自由人の姿ですら、今は目にする事が出来ない。
 東京の中心部とは思えないほどに、そこは不気味なほどに静まり返っている。遠くから聞こえる車の騒音と己の息遣いだけが、この世界に音を作り出していた。
 (どこだ……どこにいる!)
 周囲に意識を張り巡らせながら、公園の中心へと向かい走り続ける。だが、逸る向坂の意識とは裏腹に世界の中には異質な空気だけが漂っている。だたその空気は、公園の奥へと向かう毎に強さを増している様にも感じられた。
「……は、ぁ」
 慣れない警戒心を張り巡らせ続けている所為か、冬だというのに向坂の額からは一筋の汗が流れ落ちた。

 ゆるやかに道がカーブしたと同時に、視界の右手側に大きく開けた場所が見えた。生い茂る草木の向こう側に時代を伺わせる建造物の姿が見える。人気の無い建造物には灯りの姿が見えず、その大きな姿の輪郭を、夜の中に浮かび上がらせていた。
 向坂は直ぐに、その場所が公園の中心部にある松本楼である事に気付いた。
 広くとられた駐車スペースには、車の姿を見つけ出す事は出来ない。
「あ……っ!!」
 松本楼の前を通りすぎた瞬間、鉄錆の強烈な臭いが向坂の鼻腔をついた。
「……ちの、におい?!」
 あまりの臭いの強さに目の前の世界が大きく揺れ、それは眩暈となって向坂の足を停止させる。向坂は前に躓く様にして崩れ落ちそうになるが、トランクを投げ出し両手と両膝を路面につく事で、全身がアスファルトに打ちつけられる事を回避した。
「……ぁっ! ……くっ!!」
 生臭いその臭いは驚異的な速度で強さを増していき、臭いを認識した十数秒後には、吐き気が込み上げるほどの強い異臭を放っていた。
 眩暈は耳鳴りを誘発させ、こめかみには殴り付けられる様な頭痛が走る。視界の中の世界が大きく歪み、風景の全体像を把握する事が出来無くなった。
「……どうして、ちの、におい……なんて?」
 向坂は、己が置かれている状況を把握する事が出来なかった。
 口元を手で押さえ、吐き出しそうになる胃液を必死に堪える事。状態を保つ事に意識が奪われ、状況を認識する事が巧く出来ない。歪む視界を必死に凝らし、周囲に視線を向ける。
「……」
 次の瞬間、向坂の視界に飛び込んできた映像は、彼の呼吸を停止させるには充分過ぎるものだった。
 向坂の視界の中には、血溜まりの上に転がされた肉の塊の姿があった。正確には、それは以前『人』として生命活動を行なっていたもののなれの果てだった。
 四肢はバラバラに解体され、何が誰のどの部位なのか解らない程に細かく切断されていた。剥き出しになった、肉、骨、脂肪。積み上げられた肉の塊の隙間から、血液が溢れ落ちていた。
 路上に転がされた頭の数は四つ。そのどれもが皮膚の上から頭蓋骨を砕かれ、原型を留めないまま残されていた。
 視界の中に在る惨劇の世界に、向坂の体内を巡る血液が一気に冷める様な感覚をおぼえた。急激に音が遠くなり、視野が狭くなる。視界の中の色が一瞬にして消え、輪郭さえも認識出来なくなった。
「……っ?!」
 何かが落下する音が耳の直ぐ傍で聞こえた。向坂は酷くゆっくりとした仕草で、その音が聞こえた方向へと視線を向けた。その場所には、女性のものとおぼしき頭部が転がっていた。
 上頭部から鼻筋を通り顎から喉へと真一門に切断されたその頭部は、顔面の右半分と左半分がずれた位置であわさりあっていた。
 口を大きく開け、歯と喉を大きく剥き出しにした生命の宿らない女性の目が向坂へと向けられる。その目と視線が重なった様な錯覚をおぼえ、向坂の背筋を冷たい戦慄が貫いた。
「……!」
 向坂は背後に何かの気配を感じ、振り返ろうと首を捻る。だが次の瞬間、喉元が強い力によって締め上げられ状況を認識する事が出来なくなった。
「か……はっ!!」
 視界の中が白く濁り、呼吸が圧迫される。全身の骨が首を中心に軋みを上げ、血液の流れを止められた全身が小刻みに震え出す。
 向坂は喉元を締め上げる力から逃れ様と、必死にもがいた。だが力は弱まる気配を見せず、ただその力の強さを誇示するだけだった。
「……ぁ、っ!!」
 瞬間、視界の中に不気味な色をした閃光が走った。
 向坂はその光が敵意を持つ光であると直感で認識すると、上半身を大きく捻り喉元を拘束する力を力任せに振り払った。
「っ……くっ!!」
 力から開放されると同時に、締め付けられていた呼吸が回復する。だが、息を吐く間も無く向坂の体は冷たいアスファルトの上に叩きつけられた。
「……痛っ!!」
 声を上げる間も無く、向坂の右腕を熱い痛みが貫いた。その痛みと同時に、全身の血液全てがが右腕へと向かい流れ出す様な気配を感じる。
 向坂は左腕を使って上半身を起こすと、右腕に起こった異変を確かめる為に腕を見下ろした。
「……っ」
 向坂の二の腕は、鋭利な刃物で大きく斜めに切り裂かれていた。かなりの強い力で切られたのか、ジャケットとトップスが大きく引き裂かれ、鮮血で濡れる皮膚が生地の下から覗いていた。
 向坂は失血による軽い眩暈をおぼえながら、左手で右腕を庇い膝を立てる様にして立ち上がる。
「……上等だ」
 向坂は吐き捨てる様にして言葉を呟くと、視界の中に揺らめく影を睨みつける。
 視線の先には、血溜まりの上に築かれた死体を背に、一人の男が立っていた。男の腹からは血が溢れ、下半身を赤黒い色に染め上げている。
「ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア」
 その男の手には、鮮血に塗れた一本のナイフが握り締められていた。
 その男こそ、向坂が捜していた骨董商の男、相澤・一貴(あいざわ・いつき)のなれの果ての姿だった。


4/闇を裂く二つ刃、そして一つの匣(PM:20:19)
 闇の落ちた公園のアスファルトの上に、鈍い金属音が響く。刃とアスファルトの摩擦から、暗闇の中に小さな火花の光が弾けては消える。
「……くっ!!」
 向坂は、なぎ払い、振り下ろされるナイフの刃先を間髪のタイミングで回避しながら、男との間合いを作ろうとする。だが、闇雲に突進し攻撃を仕掛ける男の動きに翻弄され、間合いは直ぐにゼロへと戻されてしまう。
「アァァァァァァ!!」
 大きく開かれた男の口から獣の様な声が発せられると同時に、逆手に持ったナイフが向坂のこめかみに向けて振り下ろされた。その閃光に、向坂の目が大きく見開かれる
「っ!!」
 上半身を仰け反らせる様にして体勢を低くした瞬間、向坂の左足に固い感触が触れた。それは、向坂が所持していた黒い皮張りのトランクだった。
 向坂はとっさにそれを掴むと、顔の正面へとそれをかざし盾にした。
 鈍い衝撃音と共に、ナイフの刃先がトランクの側面へと突き刺さる。男はナイフを振り下ろした体制のままトランクから刃を引き抜くと、再度ナイフを振りかざし向坂の頭上へとナイフを突き立て様とした。

「向坂さんっ! 飛んでぇぇぇぇっ!!」
 突然、頭上から響いた女性の声に、全身を黒い服に包んだ男性、向坂・愁(こうさか・しゅう)の意識は引き戻された。黒い革張りのトランクを持ち、よろめく両足でアスファルトを蹴りつけ横へと跳躍する。
 半瞬の後、向坂の目の前に立っていた男、相澤・一貴(あいざわ・いつき)の頭上目掛けて黒く細い塊が振り下ろされた。
「ガァァァァァァッ!!」
 強烈な打撃音と共に、男の口から低い叫び声が上がった。男の体は大きくくの字に曲り、街路樹の向こうへと弾き飛ばされる。その距離はおよそ五メートル。街路樹の枝をなぎ倒す様にしながら飛ばされた男の体は、一本の気に全身を激突させる事で停止した。
「……ごめんなさい。手加減は、しました」
 よろめく体を起こそうとする向坂の目の前に、黒い人の影が細い水飛沫をあげて降り立った。
「向坂さん! 大丈夫ですか?!」
「……」
 空から舞い降りた全身を黒い服に包んだ女性、雨柳・凪砂(うりゅう・なぎさ)の姿に、向坂は一瞬呆然とし言葉を無くした。
「……あっ、あの」
 ゆっくりとした仕草で、雨柳の顔から手に視線を向けた。その手には、不自然に折れ曲がった黒い傘が握られている。それに気づいた時、向坂はようやく、雨柳が空から飛んで来て男の体を傘を使いなぎ払ったのだという事を理解した。
 予想を大きく上回るの彼女のポテンシャルに、向坂の思考はしばらく止まったままだった。
「あの、貴方が……?」
 ようやく口を開いた向坂に向け、雨柳は柔らかな笑みを浮かべる。
「はい。あたしが雨柳・凪砂(うりゅう・なぎさ)です。初めまして、向坂・愁(こうさか・しゅう)さん。……良かった。……無事だった」
 緊張が途切れたのか、雨柳は言葉を告げると立てるとアスファルトの上にへたり込んでしまった。その黒い瞳には涙の色すら見える。そんな雨柳の姿に、向坂の意識は小さな痛みをおぼえ眉を寄せた。
「すみません。ご心配をお掛けしてしまって。……初めまして。僕が向坂・愁(こうさか・しゅう)です」
「本当、心配したんですから! 相澤さんの事務所に行っても逢えないし、もしかしたらと思って……。……っ! 嫌だ、向坂さん! 腕から血が!!」
 雨柳は、向坂の右腕にこびりつく血に気づくと、小さく悲鳴に近い声を上げた。雨柳の声に困った様に眉を寄せるが、向坂は直ぐに笑み作り気丈に振舞う素振りをした
「先回りをして相澤を足止めするつもりが、逆にやられてしまいました。……すみません。足手まといにならない様にとやった事が、裏目に出てしまったみたいです。大丈夫。見た目ほど大きな傷じゃありませんから、心配はいりませんよ」
「そんなっ! こんなにも血が出てるじゃないですか! 早く止血をしないと、大変な事になりますよ! 向坂さんは、あたしとは違うんだからっ!!」
 向坂は、今にも泣き崩れてしまいそうな雨柳に向けて優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫、血はもう殆ど止まりましたから。……それよりも、依頼を片付ける方が先です。……大丈夫、雨柳さんには雨柳さんの戦い方がある様に、これが僕の戦い方だと思っています。だから心配しないで下さい」
 表情は優しいものの、言葉には揺るぎ無い力が含まれている。血の気が引き、青白い向坂の表情からは、その言葉は全て気丈に振舞う演技なのだという事にも気づいていた。
 だが、雨柳は向坂の言葉を真実として受け止め、小さく頷き笑みを返す。
「解りました。……けど、ナイフを取り戻したら、直ぐに病院へ向かって下さい。約束です」
「えぇ。……約束です」
 向坂は雨柳の言葉に安心した様に笑みを浮かべると、直ぐに表情を険しいものへと変化させ、街路樹の向こうへと視線を向けた。
「雨柳さん。相澤という男は加害者ではなく『被害者』だったんですよ」
「……えっ?」
 突然呟いた向坂の言葉を、雨柳は直ぐに理解をする事が出来なかった。
 そんな雨柳に対し一度だけ視線を向けると、向坂は街路樹の向こうへと視線を戻す。雨柳も、向坂の仕草につられる様に街路樹の向こうへと視線を向けた。
「……それは、直ぐに解りますよ」
 向坂が言葉を呟いた直後、雨柳は彼の言葉の意味を嫌でも理解する事となった。

「きゃっ!!」
 雨柳は、突然視界の中に現れた存在に言葉を詰まらせた。口元を手で押さえ、酷く表情を強張らせる雨柳に向け、向坂は言葉を続けた。
「……あれが『被害者のなれの果て』です」
 二人の目の前には、体を大きくくの字に曲げた男の姿があった。
 男の両腕と腰の関節が僅かに折れ曲がり、口と耳と腹部が己の血で赤く染まっている。手にはナイフが握り締められ、それを振りかざす様な体勢のまま男は二人の元へと近付いて来た。その動きは不自然なほどに遅く、人の動きというよりもモノの動きの様にも感じられた。
 その男の姿に、きつく目を閉じると雨柳は悲痛な声をあげた。
「お願いします! こっちへ来ないで下さい! あたしは、貴方を殺したくなんかないっ!! お願いだから、そのナイフを返して下さいっ!!」
「無駄ですよ。……あの男はすでに死んでいますから」
 腕を庇っていた左手で雨柳を制すると、向坂は言葉を諌める様に小さく呟いた。
 その声に反応するかの様に、歩み寄る男の足が制止する。ナイフを持つ手を小刻みに震わせながら、足を前後に大きく開かせ重心を後ろへと傾ける。体の軸が微妙にズレ、腹部から血が吹き出しアスファルトの上に血溜まりを作り出す。
 そして、その体は大きく傾くと、己の血溜まりの上に崩れ落ちた。
 その姿はまるで、映画の中のシーンの様にも見え酷く滑稽な姿に思えた。
「この場所で起こった全ての殺人は、この男が持つ『ナイフの意思』によって行なわれたものです。ナイフを保持した者は、そのナイフの強力な意思によって己が意思を消滅されられてしまう。結果、意思が消滅してしまった肉体にナイフの意思が宿る事で肉体は再生し、殺人を犯す」
「……どうして、そんな事を?」
 問いかける雨柳に向け、向坂は無意識に眉を寄せた。
「『本物の切り裂きジャックのナイフ』になるためですよ。たった一つの類似点。恐らく、柄に刻まれた『J』という文字から、ナイフは『切り裂きジャックのナイフ』ではないかと噂をされたんでしょう。
 外からの情報、つまり人間の意思が、ナイフの中に『切り裂きジャック』としての情報を与え続けたため、最終的にはその認識がナイフそのものの『情報』を書き換えてしまった。
 その結果、ナイフは自分自身を『本物の切り裂きジャックのナイフ』だと勘違いしてしまったんですよ」
「長い時間を掛けて与えられ続けた『間違った認識』が、ナイフのそものの存在理由を変えてしまった。けど、ナイフ自身は『切り裂きジャックのナイフとしての記憶』を持ってはいなかったから……?」
「そう。『殺人を行なう』という情報だけが残った、ただのガラクタになってしまったんですよ」
 向坂は吐き捨てる様に言葉を呟くと、血溜まりの中に崩れた相澤の慣れの果てへと近付いた。うつ伏せになり崩れた男の体を、左手を使い仰向けにさせる。赤い泡を吹き出し、白目をむいた男の姿を見下ろしながら、向坂が男の手に握られたナイフへと手を伸ばす。
「向坂さぁぁぁぁんっ!!」
 雨柳のとっさの制止も間に合わず、男の手のナイフが向坂の左肩へと突立てられた。
 肩から全身に巡る様に鈍い音が鼓膜に響き、ナイフの刃先が向坂の肩の肉へと沈んで行く。
 向坂の肩が、黒い色から赤黒い色へと変わっていく。自分の血とも男の血とも解らない血液によって、向坂の全身は汚されていった。
 だが、肩にナイフを突立てられた向坂の口元には、薄い笑みが浮かべられていた。
「……終わりだ」
 向坂は左手で男の腕を掴むと、引きずり起こす様にして男の体を立ち上がらせた。雨柳の最初の一撃により全身の骨が砕かれてしまっていたのか、男の体はまるで向坂の肩からぶら下がっているかの様にも見える。
「ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア!」
 全身を痙攣させながら、1ミリでも深く向坂の肩にナイフを突立てようと男の腕が動く。
 肩を貫く激しい痛みに表情を歪ませながらも、向坂は肩に食い込むナイフの刀身を右腕で力強く握り締めた。
 瞬間、男の全身を激痛が支配する。向坂の手に辿る浄化の力が、ナイフの持つ邪気を相殺したのだ。
「アァァァァァァァァァッ!!」
 男の口から、低い叫び声が吐き出された。全身を大きく痙攣させ、ナイフを握り締める向坂から逃れ様とする。だが、深く突立てられたナイフは中々引き抜く事が出来ない。
 痛みに意識を委ね、気絶しそうになる意識を辛うじて繋ぎ止めながら、向坂は雨柳に向け声をあげた。
「……早く! 腕を、腕を切り落として下さい!!」
「……っ! はっ、はいっ!!」
 その言葉の意図に気づくと、雨柳は体勢を低くしてもがき苦しむ男へ向けて大きく踏み込んだ。僅かに顔を覗かせる月の力を借り、雨柳はフェンリルの力を呼び覚ます。
 右手に意識を集中させると、雨柳は獣の爪にも似た力をその手の中に生み出した。
「はぁぁぁっ!!」
 雨柳はその手を大きく振りかざし、ナイフを持つ腕へ向けて垂直に振り下ろした。弧を描く右手の軌跡と共に、雨柳の長い黒髪が夜の闇の中で大きく舞い上がる。
 防御をする事も回避をする事も出来ない男は、己に向かい腕を振り下ろす鮮やかで美しい女の姿を、目で追う事しか出来なかった。
「ヒギャァァァッ!!」
 肉を絶つ濡れた音と、骨が砕かれる乾いた音が、雨柳の手の中で同時に響く。ナイフを握り締める手首を残し、男の体が足元の血溜まりの中へと沈んだ。
 まるで生き物か何かの様に、残された手首が虚しく痙攣する。
 向坂は、刀身を握り締めたまま肩からナイフを引き抜くと、男の体が横たわる血溜まりの中へと膝をついた。
「すみません。……トランク、無い……ですか?」
 虚空を見つめる向坂の唇から、かすかに声が漏れた。
「……あっ、はいっ!」
 雨柳はその声に気づくと、弾かれた様に顔を上げる。辺りを見渡し、視界の中に血に濡れたとランクが転がっている事に気づくと、それを手に向坂の元へと駆け寄る。
 向坂は雨柳の手からトランクを受け取ると、震える指でトランクを開け様とした。だが、力無い指先はトランクのボタンをかすめるのみで、巧く蓋を開ける事が出来ない。
 雨柳は向坂の脇からそっと腕を伸ばすと、トランクのボタンを押して蓋を開けた。中には、桐の木で作られた細長い匣が入っていた。
「……これを、その、なか……に」
「向坂さんっ!!」
 向坂の唇が小さく震えた直後、向坂の体は糸が切れた人形の様に崩れ落ちる。
 悲痛な表情を浮かべた雨柳の腕が、寸での所で向坂の体を体を抱き止める。
「向坂さんっ!! 向坂さん、しっかりして下さい!! お願いだから、目を開けて下さいっ!!」
 雨柳の腕の中に抱かれた向坂は、酷く冷たい体をしていた。


5/やさしい記憶(PM:XX:XX)
『それで……。あの子の容態はどうなんだい?』
「えぇ。それでしたら、もう心配は無いとの事です。かなりの血液が体から奪われましたが、何とか一命はとりとめました。術後の経過も順調で、今は点滴を打って眠られています。ただ、疲労が激しくて、目覚めるにはまだ時間が掛かると、お医者様が……」
『……そうかい。まぁ、大丈夫なら安心したよ。随分と、大変な事になっちまったみたいだからね。……悪かったね。こんな事を頼んじまって』
「いいえ。これが、あたし達の仕事ですから。お気になさらないで下さい。……なんて、あたしが言える立場じゃないかもしれませんが」
『いいや。そう言って貰えるだけでも、こっちは助かるよ。本当にすまなかったね。……あぁ、そうそう。アンタから受け取ったナイフの事なんだけどね』
「あっ、はい。あれからどうなりました?」
『ナイフは破棄するよ。あんなヤバイもん、うちじゃ扱いきれないからね。アタシの知り合いにヤクザな骨董商がいるんでね、ソイツに押しつけちまおうかと思ってる』
「……そうですか。確かに、それが一番安全ですからね」
『それと、公園の件についてなんだが、警察の発表じゃ表向きは犯人の自殺って事でカタが付いたみたいだね』
「えっ? 犯人の自殺ですか?」
『事情を知らない奴らにしたら、何が起こったかなんて解りゃしないだろう? 犯人っぽい男の死体はグチャグチャだわ、手首から上が無くなってるわ、凶器は見つからないわじゃ』
「……あっ。そっ、それも……そうです、よね」
『まぁ、犯人は死んじまったんだから、これから連続殺人が起こるって事は無いだろうけどね』
「あっ、あの。……一つ、うかがっても良いですか? ずっと気になってた事があるんですが」
『あぁ、何だい? アタシが答えられる事なら良いよ』
「はい。……その。相澤さんはどうして、ナイフに憑かれたりしたと思います? それと、どうして殺人現場が日比谷公園を限定した範囲で行われたんだと思います?」
『あぁ、そんなモンは簡単だろう?』
「えっ?」
『相澤が、日比谷公園の中で匣を開けちまったんだろう? ナイフの入っていた。で、スイッチの入っちまったナイフのヤツが、日比谷公園を『ホワイトチャペル・ロードと勘違いをした』んだろう? ま、今になっちゃ全部推測だけどね』
「けど、夜ならともかく昼間にナイフを持って歩いている人がいれば、あんなに人が多い場所なら、目撃者ぐらいいてもおかしくないのに。……どうしてそんな人が、今まで人に見つからずに存在出来たんでしょう」
『さぁねぇ? 昼間は土の中にでも埋まってたんじゃないかい? ゾンビみたいに』
「えっ?! まっ、まさか! そんな事が?!」
『あっはっは。冗談だよ。アンタ、面白い子だねぇ』
「……。からかわないで下さい」
『でもまぁ、気持ちの悪い謎は色々と残っちまったけど、無事にこなしてくれて良かったよ。ありがとう』
「いえ。……そんな」
『それじゃぁ、あの子にヨロシク言っておいてくれよ』
「はい。解りました。失礼します」

 黒い公衆電話の受話器を下ろし、雨柳は小さく溜息を吐いた。
 平日の昼間だというのに、広い病院の待合室には人の影は見当たらない。オレンジの花がアレンジメントされた籠を手の中で持ち直すと、慣れた見慣れた待合室を横切り病棟へと続く廊下を歩いて行く。
 廊下を右へと曲りエレベーターホールの前で足を止めると、雨柳は小さく溜息を吐いた。
 (あの日から十日。依頼されたナイフは無事に碧摩に渡す事が出来た。向坂さんの出血は酷かったけど、手術も終わり状態も順調に回復してる。……けど)
 軽い電子音と共にエレベーターのドアが開く。エレベーターの中に乗り三階のボタンを押すと、ドアの上に取り付けられた階数表示のランプを見上げる。
 (あれから、まだ向坂さんは意識を回復させていない。……もうそろそろ、目覚めてもいい頃なのに)
 軽い上下振動が起こり、再度電子音がエレベーターの中に響く。ドアが開きエレベーターから下りると、雨柳は向坂の病室へと足を向けた。
「あれっ?」
 ふいに聞こえた女性の話し声に、雨柳は一瞬足を止めた。エレベーターホールから、ナースステーションの見える廊下を覗き込む。その時、ナースステーションの前に立っていた一人の女性看護士が、雨柳の方へと近付いて来た。
「あっ。貴方は確か、向坂・愁さんのお知り合いの……」
「はい、雨柳です。……向坂さんが、どうかしたんですか?」
 無意識に、雨柳の表情に緊張の色が帯びる。向坂に何かあったのだろうかと、意識の中に緊張が走る。
 だが、相手の看護士はそんな雨柳に対し、優しそうな笑みを浮かべて言葉を返した。
「向坂さん、お目覚めになりましたよ。お会いになりますか?」
「……はい!」
 看護士の言葉に嬉しそうな表情を浮かべると、雨柳は大きく頷いた。

「……心配し過ぎなんですよ。彼女は」
 薄く目を開け、そう呟く向坂の姿を、一人の女性看護士が見下ろしていた。看護士は向坂の言葉に笑みを浮かべながら、向坂の腕に繋がれた点滴の調整を行なっている。
 視界の中に広がる白い天井は、フィルターが掛かったかの様にぼやけて見える。まばたきをして、天井へと視線を向けると、向坂は再度小さく言葉を呟いた。
「……本当、心配し過ぎなんです」
 そう呟いた向坂の表情には、どこか優しげな色が浮かんでいた。

..........................Fin




■登場人物■■■■(この物語に登場した人物の一覧)
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【能力】PCが持つ能力

【2193 / 向坂・愁 / 男 / 24 / ヴァイオリニスト】
【能力】手に持った物全てに、強力な浄化の力を宿す。

【1847 / 雨柳・凪砂 / 女 / 24 / 好事家】
【能力】『魔狼フェンリル』の“影”に獣化し、凄まじい肉体格闘能力と超再生能力、そして神殺しの力を得る。本物程ではないが万物の事象を喰い尽くすことも可能。“影”などの二次元に対しての干渉、影変化も可能。

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■ライターより■■

<ご挨拶>
 初めまして。黒崎蒼火(クロザキソウビ)と申します。今回は、シナリオ【返り血と叫びの記憶 -Madness Ripper-】に参加頂き、本当にありがとうございます。
 今回が初めてのお仕事という事もあり、不自由な部分やお見苦しい部分があり申し訳ありません。これからも精進していきますので、とうぞよろしくお願い致します。

<シナリオについて>
 今回のシナリオの主軸となる事件は、実在した過去の歴史をモチーフに構成しました。シナリオの都合上、かなりのアレンジを加えております。どうぞご了承下さい。
 今回のシナリオは、捜査方向が2パターンに分かれています。どうぞ、もう一方のシナリオを併せてお楽しみ下さい。

<私信> 向坂愁PL様
 初めまして。こんにちは。
 今回は、二つの初依頼が重なり、かなり緊張の中の執筆となりました。
 浄化という能力を使った結果が病院送りという、かなり幸先の悪いスタートになってしまい申し訳ありませんでした…(汗)。どうか、ナイフの傷跡が体に残りません様に…(泣)。

 それではまた。

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