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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


【返り血と叫びの記憶 -Madness Ripper-】
.........................Case/雨柳・凪砂

 19世紀末の英国で起きた、『連続殺人の起源』と称される事件である。
 5人もの女性が刃物で何十回と刺されて殺害され、臓器が持ち出されるというこの事件は、当時の英国を戦慄に落とし入れた。
 結果的に犯人は断定される事が無く、事件後100年が経過した現代でも、その犯人像は犯罪心理分析官達の間で論議を呼んでいる。
 『連続殺人の起源』は『連続殺人における完全犯罪』を立証した形となって、現代人の深層に深く刻まれる結果となったのだ。
 『切り裂きジャック』
 世界中を震撼させた事件の記憶の断片が、東京の片隅で静かに目覚めようとしていた。


0/雨の洋館・b(PM:17:26)
 雨の降る繁華街を通り窮屈な路地を抜けると、道の突き当たりに古く小さな洋館の姿が見えた。錆びた格子状の門は口を大きく開けたまま風に煽られ、耳障りな金属音を響かせている。
 その洋館の前に、一人の黒い女が立ち止まった。
 黒いツーピースのスーツに、同じく黒い厚手のコートを羽織った女は、手にしたメモ用紙と建物を見比べる様にして視線を向けている。黒い大きな傘をさした女の首にはグレイプニルという名前の重厚な黒の首輪が嵌められ、僅かな窮屈さを喉元に感じさせていた。
「……ここで、良かったのかしら?」
 洋館の外壁には、錆びた銀色のプレートが打ちつけられ、そこには曲線で構成された書体で『アンティークショップ・レン』という文字が彫られている。
「間違い無いみたいね」
 女は再度、手にしていたメモ用紙とプレートに彫られた文字を見比べた。

「きゃっ!」
 室内に入った瞬間、女は入り口の直ぐ近くに置かれていた椅子に躓き声をあげた。
 薄暗い室内には、屋敷の中には雑然と物が置かれ、足の踏み場すら確保出来ない程に空間が埋め尽くされている。窓の無い室内は昼か夜かも解らない程に薄暗く、室内の奥から照らされる頼りの無い光だけが唯一の光を作り出している。
「凄い……」
 呆然とした様に言葉を呟くと、女は周囲の物を崩さない様に気を配りながら足を踏み出した。何度も周囲の物に足を躓きながらも、室内の奥へと進んで行く。
「……けほっ! けほっ!!」
 咽返る程の煙草の匂いが強烈な刺激となって、敏感過ぎる女の鼻腔に突き刺さる。女は、僅かに苦しそうな表情で呼吸をした。
「おや、今日はお客が多い日だねぇ。雨だってのにご苦労様」
 室内の奥から、酷く間延びをした声が聞こえた。声の主の姿は、積み上げられた物の影から、。柔らかな毛皮のコートに身を包んだ赤い髪の女が姿を見せた。
 黒い女は口元を手でおさえながら、赤い女へと言葉を告げた。
「こんばんは。あたしの名前は雨柳・凪砂(うりゅう・なぎさ)です。……あの。今日はお仕事の依頼を受けてこちらまで伺いました」
「あぁ、アンタが雨柳・凪砂だね。待っていたよ」
 赤い女、碧摩・蓮(へきま・れん)は、黒い女、雨柳へと視線を向けた。
「それじゃ、今回の仕事の話をさせて貰うよ」
「はい。よろしくお願いします」
 雨柳は、煙の痛みから目元に浮かんだ涙を指で拭い、頷いた。

「今月に入ってから、千代田区内で三件の殺害事件が発生したって話は、以前にもやっただろう? 被害者はどれも、刃物で体をメッタ刺しにされて殺されていた。犯人は犯行後、死体の頭を叩き潰したり臓物を持ち出して逃げている。こんな狭い範囲で立て続けに起こった事件だってのに、犯人の姿を見た奴は誰もいやしない。
 事件が起こる少し前、アタシの顔なじみの骨董商の店に『切り裂きジャックが使ったとされるナイフ』ってのが流れて来た。切り裂きジャックってのは、女ばっかりを襲ってメッタ刺しにして殺したロンドンの連続殺人鬼さ。そんな事件の凶器だったモノが、最近になってひょっこり見つかったのさ。で、アタシの所にその真贋の鑑定の依頼が回って来た。
 だが、ソイツをウチに向けて運んでいた骨董商の男が、品物を持ったまま千代田区付近で消息不明になっちまった。その直後、三件の殺人事件が起こった」
 蓮の言葉に肩を竦めると、雨柳は形の良い口元を強張らせながら苦笑いを浮かべた。
「随分と、出来過ぎた偶然ですね」
「そうさ。二つの事件が偶然だとしたらね?」
 雨柳は、蓮の切り返した言葉に相槌を打つと、口元に手をやり難しそうな表情を向けた。
「こんなにも近い時間に、限りなく近い場所で二つの事件が起こった。関連性を肯定する要素も否定する要素も、今は見つける事が出来ない。……だとしたら、その二つの事件が同一の者によって行なわれたものだと仮定してしまった方が早い。少し、早急な見解かもしれませんけどね?」
 蓮は、雨柳の言葉に同意するかの様に、手の中のキセルを一度だけ回した。
「ピンポーン。正解。ゴチャゴチャ考えるのが面倒だってのよりも、それが一番『妥当な見解』って事なのさ。
 アンタには、そのその殺人犯が『骨董商の男か』って部分から調べて貰いたいのさ。勿論、違っていればそのまま戻って来てくれればいい。ただの殺人犯なら、そのうち警察が捕まえてくれるだろうさ。
 アンタの仕事は、その男を見つけ出して『ナイフを取り戻し』た後、アタシの所にソレを持って来てくれればいいのさ」
 蓮は手の中で弄んでいたキセルの先端を、雨柳へと指し向けた。
「ヤバくなりそうだったら、男を殺しちまっても構わないよ。アタシが欲しいのは、ナイフだけだからね」
 雨柳は蓮の言葉に目を丸くすると、小さく溜息を吐いた。何か言いた気な表情を浮かべるが、直ぐに表情を取り繕い視線を向ける。
「出来る限り手加減はします。ですが、『殺す』という保証も『殺さない』という保証も出来ません。相手を殺したくないという気持ちはありますが、あたしも死にたくありませんから」
 蓮は雨柳の言葉に、面白そうに声をあげて笑った。
「あっはっは! 安心しな! 相手が先に手を出して来たら、全部正当防衛って言い張ってやりかえしちまえばいいんだよ!」
 雨柳は、蓮の言葉に、再度呆れた様に溜息を吐く。
「えぇ、解りました。出来る限り頑張ります……。また、記事には出来ないでしょうけど」
 彼女の呟きは、蓮に届く事は無かった。


1/混濁する思考(PM:18:31)
『コイツが、被害者と骨董商の男についての調査書類。殺害が行なわれた現場の写真と報告書。それと今回持ち返って貰う『切り裂きジャックのナイフ』についての報告書と写真さ。悪いが、コイツに目を通しておいてくれないか? 
 あと、もう一人の依頼者のプロフィールにもね』
 アンティークショップ・レンを後にした雨柳は、日比谷通りを抜け千代田区方面へと向かって歩みを進めていた。黒い傘を差し、雨が降り続ける街の中を人込みを擦り抜ける様にして歩いて行く。
 すぐ近くの地区で連続殺人が繰り返されているというのに、街を行き交う人々の表情に大きな変化を見る事は出来ない。『自分だけは大丈夫だ』という気持ちが蔓延した結果などだという事を改めて実感すると、雨柳は言葉に出来ないやるせない思いをを胸の深い場所に感じた。
「どうして皆、こんな風に笑っていられるんだろう……」
 そこまで呟くと、弾かれた様に周囲を見渡し直ぐに口を噤む。小さく首を左右に振り、感情を振り払う様な仕草をする。今は感傷に浸っている場合では無いのだと考えをシャットアウトさせると、思考を事件の内容へと切り換えさせた。
「いけない。今は、こんな事を考えている場合じゃないのに」
 思考を定着させてしまう為に、雨柳は蓮の店で目を通した報告書の内容を記憶の中から引きずり起こした。
 (今回の凶器とされる『切り裂きジャックのナイフ』は、刃渡り十五センチほどのもので英国内で作られたものだと推測されている。刃が反り返った形のもので、柄には後からほどこされたと思われる『J』の文字が刻まれていた。
 そのナイフが発見されたのが、今から約半年ほど前。現地のアンティークショップに持ち込まれた事が密かな噂となり、今回の事件の犯人とされる骨董生の男『相澤・一貴(あいざわ・いつき)』さんが買取を申し込んだ。アンティークショップの店主は、ナイフの真贋を確かめる事無く相澤さんに売却され、先月、国内に持ち返っている。
 それから直ぐに、相澤さんは碧摩さんに対しナイフの鑑定を頼んだ)
 早足で人の流れに逆らいながら、日比谷通りを新橋の駅側へと向かう。
 雨は時間を増す毎に強くなり、剥き出しになった手と足、喉と顔に冬の風の冷たさを貼り付かせる。吐き出す息の白さに冬の気配を再認した瞬間、雨柳はふいに報告書の中におぼえた奇妙な違和感に気づいた。
「……あれ? おかしいな? どうしてなんだろう」
 歩く速度を落とし、冷たくなった指先を唇に当てて呟きを漏らす。
「買取までの時間は即決といってもいい程の早さだったのに、どうして日本に持ち帰るまでにこんなに時間が開いてしまったのかしら? 現地でナイフの鑑定でも行なっていた? だとしたら、碧摩さんに再鑑定を依頼した理由は? 信頼性が無かったから? まさか……」
 ビルの壁面に打ちつけられた番地の表札を目で追い、細い路地裏の奥へと歩みを進めて行くと、視界の中に小さな雑居ビルの姿が目に入った。テナント名を広告する看板さえも掲げられていないそのビルは、一見すると倉庫ビルの様にも伺える。
 雨柳はそこで足を止めると、褪せたビルの壁面を見た。コートのポケットから小さな紙を取り出し、走り書きされた文字と表札を照らし合わせ、場所が合致している事を確認する。
 壁面から窓、屋上へと視線を上げていく。ビルの中からは光を伺う事が出来ず、人の気配を感じる事も出来なかった。
「そうね。あたしがここで、いくら推測をしても何も解らない。まずは、考える為のピースを揃えなきゃ」
 雨柳は、出入り口の下へと入り丁寧に傘をたたむ。ガラスの向こうに見える薄暗い階段を見据えると、ガラス扉をゆっくりと押しビルの中へと入って行った。

 五階建てのビルの中は、淀んだ生暖かい空気が充満していた。建物内の換気は殆ど行なわれていないのか、人の匂いと建物の匂いが空気の中に入り混じり、呼吸をする事に躊躇いを感じるほどの不快さを含んでいる。雨柳は、己の嗅覚の良さに少しの恨めしさを感じながら小さく溜息を吐いた。
 ビルが作られたのが古い時期なのか、中を見渡すがエレベーターの姿を見つける事は出来無かった。エレベーターが無い事に小さく落胆すると、雨柳は階段を見つけると上の階へと向かう為に昇りはじめた。
 雨に濡れたブーツが、薄暗い階段の上にいびつな足跡を残して行く。
 目的の階は4階。そこには、今回の事件の犯人とされている相澤・一貴の事務所が入っていた。
 相澤は、インターネットオークションのみで品物の売買を行なう骨董商だった。そのため、事務所では、品物の管理と事務のみが行なわれていた。相澤はその場所を自宅としても使用しており、他にマンションを借りていたという話は無かった。
 四階へと昇り、短い廊下を抜けると正面に寂れた鉄製のドアが見えた。曇りガラスの付いたドアには、端が破れて色の褪せた紙が色褪せたセロテープによって乱暴に貼りつけられている。そこには、黒のマジックにより汚い文字で『相澤骨董店』とだけ書かれていた。
 主の居なくなってしまった室内からは光が漏れる事も無く、物音一つ聞こえる事も無い。
「これは……調査なの。不法侵入じゃないわ。もしも誰かに見つかっちゃったら……うん。適当に誤魔化しましょう」
 雨柳は己の言い聞かせるかの様に言葉を呟くと、ドアのノブに手を掛けた。だが、ノブを回した瞬間、雨柳はようやくある事を思い出した。
「あっ、いけない。相澤さんがいなくなっているんじゃ、ドアが開くはずなんて……」
 言い掛けた時、重い金属音と共にドアがゆっくりと押し出される形で開かれた。薄暗い室内がドアの隙間から覗き、埃を含んだ匂いが外へと漂って来る。
「……あるんだ」
 無用心にもドアには鍵が掛けられておらず、雨柳は容易に事務所の中に入る事が出来た。
 余りの拍子抜けする事柄に、雨柳の全身から一気に力が抜けた。


2/混濁した残像(PM:18:37)
 後ろ手にドアを閉めると、明かりの無い室内はさらに暗い闇に包まれた。壁沿いに手を這わせ灯りのスイッチを探す。指先に固い感触があると、それを押してスイッチを入れる。だが、室内には電気が通っていないのかスイッチを入れても一向に灯りが点く気配は無かった。
 仕方ないという様子で溜息を吐くと、雨柳はこめかみに意識を向け室内へと目を凝らした。視界の中に映る映像が、灰色のフィルターに掛けられたかの様に少しずつ鮮明なものへと変わって行く。まるで色が浮き上がるかの様に、雑然とした室内の映像が網膜の中にに映し出された。
「こんな時ぐらいは、感謝をしなくちゃね」
 言葉を呟くと、雨柳は首に嵌められた首輪に指先で触れ、その力の強大さを再認した。
「……さてと。何があるのかしら?」
 雨柳は思考を切り返る為に、少し大きな声で言葉を呟いた。
 室内は、咽る様な埃とカビの匂いに満たされていた。
 主であった相澤という男は大雑把な性格をしていたのか、品物とおぼしき物が入った箱やケースが、部屋のいたる所に乱雑に置かれていた。
 入り口の直ぐ傍には、木製のテーブルと対になる様に置かれた古いソファーが二つ、正面にはアルミ製のデスクと木製の本棚が置かれていた。左側の壁には木製のドアがあり、その向こうにはもう一つの部屋がある事が解る。両側の壁には窓が無く、正面の壁にのみ窓があり、その窓には分厚いカーテンが引き下ろされていた。
「骨董品を扱う人としては……マイナスの点数ね」
 そんな皮肉を呟き、雨柳は正面のデスクへと向かおうとするが、直ぐに足を止める。床が何かで埋め尽くされているのだ。
 よくよく目を凝らすと、床には無数の書類が散乱し、足の踏み場も無い状態になっていた。
 雨柳はその状況に大きく肩を落とすと、盛大な溜息を吐いた。
「……あたし、この場所に何をしに来たんだろう」
 まずはこの書類を拾い、その中から必要なものを見つけ出さなければならない。
 気の遠くなりそうな作業の量に、雨柳はただ溜息を吐くしか出来なかった。


3/混濁した残像・2(PM:19:14)
「さてと。これで終わり、かな?」
 デスクの上に山積みにした書類を見下ろしながら、雨柳は満足そうに告げた。大きな書類の山が二つに、小さな書類の山が一つ。その小さな書類の山が、今回の事件に関連していると思われる内容が記載されたものだった。
 雨柳は小さな書類の山を手にすると、再度紙に印字された文字の羅列に目を通した。
 (相澤さんは、『切り裂きジャックのナイフ』の鑑定を現地で七回も行なっていた。その度に異なった鑑定結果が渡され、それはどれも信憑性に欠けるものばかりだった。
 まずは、比較対象とされる『切り裂きジャックのナイフ』についての資料が極端に少ない事。
 歴史上では凶器とされたナイフは見つかってはいない事から、『正当な資料』と言われているものでされ疑わしいとされたのがその理由だった。
 正当な資料だとされ出典されたものは『ナイフの写真』『過去の鑑定書』『歴代の持ち主のリスト』など、どれも実際に疑わしく感じられるものばかりだったのも、理由の一つとされた。
 それも、鑑定人によって出典されるものの出所が異なり、信憑性の薄さは明白なものだった)
「徳川の埋蔵金伝説の伝承並に怪しいものだった、って事かしら」
 雨柳は思わずそんな皮肉を呟いた。
 (その為、真贋を確かめるという意味からでは無く『そのナイフがいつの時代のものであるのか』という観点から、ナイフを鑑定する事が行なわれた。
 だが、この結果にも案の定ばらつきが見られた。
 十九世紀末に作られたものだと言う人もいれば、近年に作られ極端に劣化が激しくなり現在の状態になったのだと言う人もいた。挙句の果てには、刃と柄の部分が別の年代のものだと言う人も現れ、鑑定は暗礁に乗り上げてしまった。
 何よりも、現在までに何度も『切り裂きジャックのナイフ』と言われた『まがいもののナイフ』が出まわった事があり、頭からあしらい同然の扱いをされた結果とも思われる。か)
「結局、相澤さんは本物かどうかを確かめる事が出来ないまま、ただナイフの存在に振り回されただけだった、って事か」
 予想通りの結果に小さく溜息を吐きながらも、雨柳の中にささやかながら期待をしていた気持ちがあった事も確かだった。
 だがこれは、冷静に思考すれば結果は導き出される結果であった。現実では『見つかっていない』ものが突然『現れる』事など、奇跡にも近い確率とも言えただからだ。
 ふいに雨柳は、奇跡を故意に作り出す『贋物』の存在に奇妙な恐ろしさを感じた。
 過去にどれほどの件数があったのかの検討はつかないが、これだけ有名な事件の凶器ならば、同じ時代のナイフを持ち出し『切り裂きジャックのナイフ』と偽称して出まわらせる事など造作も無い事だっただろう。
 現実に、何人もの骨董商がその真贋について振り回されているのだ。その後ろでは金銭と情報が交錯し、真実が事実という時間の中に置き去りにされてしまう。
 ナイフそのものの真贋が判明するまでには手間と時間が必要となり、その間はその贋物のナイフが『本物の切り裂きジャックのナイフ』と称されて存在する事になる。
 本来はあるはずの無い、存在するかどうかも解らないナイフが、現実に『存在する』とされて有り続けるのだ。
 もし、何らかの形で本物を証明する事が出来たとしたら。その『本物と証明された個所と合致する贋物』が存在してしまった場合、その贋物は『本物である』と認識がされてしまうのだろう。
「本来有るはずの無いものが『有る』とされてしまった時、それはその瞬間から『本物』に変わってしまう。……それは物質だけに限った事じゃない。伝承や事件、そういった人の間にあるもの全てが、『本物』に変わってしまう可能性がある。
 真贋を問われてはいたものの、今回の事件のナイフは『切り裂きジャックのナイフ』とされて、鑑定が依頼された。そして、結果的には、そのナイフを持っていた相澤さんは殺人事件を引き起こしてしまった。
 ……本当。この世界の『本物』はどこにあるのかしら」
 自嘲を込めた呟きを後、雨柳は書類の中に、左上をホチキスで留められた束になった書類がある事に気づいた。関係の無い書類が混じってしまったのだろうかと、無意識に文面を斜め読みする。
 だが文面の内容を理解した瞬間、雨柳は驚きのあまり目を見開かせ、言葉を無くしてしまった。
「……えっ?」
 沈黙の後、ようやく発した声は言葉としての意味を持ってはいなかった。
 (相澤さんが鑑定を依頼した七人の鑑定士のうち、五人が精神に異常を持つ行動を発症させた。
 一人の鑑定士は、ナイフを受け取った直後に消息が不明になり、半月後、ナイフを手にして公園を徘徊していると所を警察に保護された。
 残る一人の鑑定士は、鑑定を依頼されたナイフを使い、妻と息子二人に対し襲い掛かろうとした所を取り押さえられた)
「なんてことなの。あのナイフを手にした人達全員が、依頼後に何らかの異常をきたしていたなんて」
 次の瞬間、雨柳の思考の中で事件の全てのピースが当て嵌まった。目を細め、確信を込めた表情で口を開く。
 その形の整った唇から発せられた声は、いつもの彼女の声とは思えないほどに低く威圧的なニュアンスが込められていた。
「最初から、この事件には『切り裂きジャックのナイフ』なんてものは存在していなかったんだわ。存在したのは、『切り裂きジャックのナイフだと噂をされたナイフ』だけ。どれだけの長い年月をそのナイフが生きていたのかは解らないけれど、何の変哲も無かった一本のナイフが、外からの『噂』という認識よって『切り裂きジャックのナイフ』へと変えられてしまった。
 けど、結局は『噂』によって生み出されたナイフは贋物でしか無かった。
 本来、本物のナイフならば持っているはずの『殺人の記憶』を『贋物のナイフ』は『記憶していなかった』。それが、七人の骨董商を病的な行動へと駆り立てた結果となった」
 言葉を切ると、雨柳は苦々しそうに唇を噛み締めた。
「なんてことなの。この世界の認識が、『切り裂きジャックのナイフ』を生み出してしまったなんて。このままじゃ、果ての無い殺人が繰り返されるだけ……」
 言葉を呟いた瞬間、雨柳は何かに気づき、弾かれた様に顔を上げて壁に掛けられた時計へと視線を向けた。時刻はもう直ぐ午後の八時を指そうとしていた。
「……そういえば」
 雨柳はふいに、アンティークショップ・蓮の主人である碧摩・蓮から告げられた『もう一人の協力者』の存在を思い出していた。
 名前は『向坂・愁(こうさか・しゅう)』。冷静で知的な印象の男性だが、戦術として使用する事の出来る能力は持ち合わせてはいないのだと聞いた。だが、相手はその手に浄化の力を宿す事が出来るらしい。
「向坂・愁(こうさか・しゅう)さん。ここに来れば、向坂さんとも合流が出来ると思ったのに。……そういえば、ここに来るまでに、それらしい人を見かけなかった様な気が。……まさか!」
 雨柳の全身を、冷たい戦慄が貫いた。己よりも先に調査を始めたのにも関わらず、いまだにこの場所を訪れてはいないという事。それは、一つの答えを導き出すには充分な材料だった。
「……まさか、向坂さん!」
 雨柳は悲痛な声をあげると、何かを決意したかの様に唇を噛み締めた。
 カーテンを開け、窓を全開にする。冬の外気が肌へと突き刺さり、その冷たさに思わず眉を寄せる。上空を覆っていた雨雲は風に流され、今は薄曇りの空の向こうに薄っすらと月の影を見る事が出来る。
 震える指先を握り締めると強く瞼を閉じ、全身の神経を心臓へと集中させる。
 一度だけ大きく心臓が鼓動した事を確かめると、雨柳は目を開く。
「向坂さん! ……どうか、どうかあたしが行くまで無事でいて!」
 雨柳は窓枠に手を掛けて大きく身を乗り出すと、東京を覆う空の中へとその身を躍らせた。


4/闇を裂く二つ刃、そして一つの匣(PM:20:01)
 不規則に立ち並ぶ建造物の上を、驚異的な速度で跳躍する影があった。雨柳の姿である。彼女は、己の内に眠る『魔狼フェンリル』の力を僅かながら呼び覚ましたのだ。
 その力を用いれば、相澤の事務所から日比谷公園までの数キロの距離を、たった数分で移動する事が出来る。だが、今の雨柳にとってはその数分すらも、己の感情を焦らせるには充分な時間だった。
 向坂の生死。今の彼女の意識は、それを確かめる事だけに支配されていた。
 (……邪気が、濃い)
 日比谷区に入り、視界の中に日比谷公園の姿を確認した瞬間、雨柳の全身が酷く不快な気に覆われた。霊的というよりは人的と言える、血生臭い空気。
 雨柳は下腹部に吐き気にも似た不快感をおぼえ、思わず口元を手で押さえた。
「……なんて、嫌な臭い」
 視界の中に見える日比谷公園の姿が大きくなるにつれ、不快感は強さを増していく。
 そして、その大きさが最大になった時、雨柳は一つの金属音を耳にした。

「向坂さんっ! 飛んでぇぇぇぇっ!!」
 突然、頭上から響いた女性の声に、全身を黒い服に包んだ男性、向坂・愁(こうさか・しゅう)の意識は引き戻された。黒い革張りのトランクを持ち、よろめく両足でアスファルトを蹴りつけ横へと跳躍する。
 半瞬の後、向坂の目の前に立っていた男、相澤・一貴(あいざわ・いつき)の頭上目掛けて黒く細い塊が振り下ろされた。
「ガァァァァァァッ!!」
 強烈な打撃音と共に、男の口から低い叫び声が上がった。男の体は大きくくの字に曲り、街路樹の向こうへと弾き飛ばされる。その距離はおよそ五メートル。街路樹の枝をなぎ倒す様にしながら飛ばされた男の体は、一本の気に全身を激突させる事で停止した。
「……ごめんなさい。手加減は、しました」
 よろめく体を起こそうとする向坂の目の前に、黒い人の影が細い水飛沫をあげて降り立った。
「向坂さん! 大丈夫ですか?!」
「……」
 空から舞い降りた全身を黒い服に包んだ女性、雨柳・凪砂(うりゅう・なぎさ)の姿に、向坂は一瞬呆然とし言葉を無くした。
「……あっ、あの」
 ゆっくりとした仕草で、雨柳の顔から手に視線を向けた。その手には、不自然に折れ曲がった黒い傘が握られている。それに気づいた時、向坂はようやく、雨柳が空から飛んで来て男の体を傘を使いなぎ払ったのだという事を理解した。
 予想を大きく上回るの彼女のポテンシャルに、向坂の思考はしばらく止まったままだった。
「あの、貴方が……?」
 ようやく口を開いた向坂に向け、雨柳は柔らかな笑みを浮かべる。
「はい。あたしが雨柳・凪砂(うりゅう・なぎさ)です。初めまして、向坂・愁(こうさか・しゅう)さん。……良かった。……無事だった」
 緊張が途切れたのか、雨柳は言葉を告げると立てるとアスファルトの上にへたり込んでしまった。その黒い瞳には涙の色すら見える。そんな雨柳の姿に、向坂の意識は小さな痛みをおぼえ眉を寄せた。
「すみません。ご心配をお掛けしてしまって。……初めまして。僕が向坂・愁(こうさか・しゅう)です」
「本当、心配したんですから! 相澤さんの事務所に行っても逢えないし、もしかしたらと思って……。……っ! 嫌だ、向坂さん! 腕から血が!!」
 雨柳は、向坂の右腕にこびりつく血に気づくと、小さく悲鳴に近い声を上げた。雨柳の声に困った様に眉を寄せるが、向坂は直ぐに笑み作り気丈に振舞う素振りをした
「先回りをして相澤を足止めするつもりが、逆にやられてしまいました。……すみません。足手まといにならない様にとやった事が、裏目に出てしまったみたいです。大丈夫。見た目ほど大きな傷じゃありませんから、心配はいりませんよ」
「そんなっ! こんなにも血が出てるじゃないですか! 早く止血をしないと、大変な事になりますよ! 向坂さんは、あたしとは違うんだからっ!!」
 向坂は、今にも泣き崩れてしまいそうな雨柳に向けて優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫、血はもう殆ど止まりましたから。……それよりも、依頼を片付ける方が先です。……大丈夫、雨柳さんには雨柳さんの戦い方がある様に、これが僕の戦い方だと思っています。だから心配しないで下さい」
 表情は優しいものの、言葉には揺るぎ無い力が含まれている。血の気が引き、青白い向坂の表情からは、その言葉は全て気丈に振舞う演技なのだという事にも気づいていた。
 だが、雨柳は向坂の言葉を真実として受け止め、小さく頷き笑みを返す。
「解りました。……けど、ナイフを取り戻したら、直ぐに病院へ向かって下さい。約束です」
「えぇ。……約束です」
 向坂は雨柳の言葉に安心した様に笑みを浮かべると、直ぐに表情を険しいものへと変化させ、街路樹の向こうへと視線を向けた。
「雨柳さん。相澤という男は加害者ではなく『被害者』だったんですよ」
「……えっ?」
 突然呟いた向坂の言葉を、雨柳は直ぐに理解をする事が出来なかった。
 そんな雨柳に対し一度だけ視線を向けると、向坂は街路樹の向こうへと視線を戻す。雨柳も、向坂の仕草につられる様に街路樹の向こうへと視線を向けた。
「……それは、直ぐに解りますよ」
 向坂が言葉を呟いた直後、雨柳は彼の言葉の意味を嫌でも理解する事となった。

「きゃっ!!」
 雨柳は、突然視界の中に現れた存在に言葉を詰まらせた。口元を手で押さえ、酷く表情を強張らせる雨柳に向け、向坂は言葉を続けた。
「……あれが『被害者のなれの果て』です」
 二人の目の前には、体を大きくくの字に曲げた男の姿があった。
 男の両腕と腰の関節が僅かに折れ曲がり、口と耳と腹部が己の血で赤く染まっている。手にはナイフが握り締められ、それを振りかざす様な体勢のまま男は二人の元へと近付いて来た。その動きは不自然なほどに遅く、人の動きというよりもモノの動きの様にも感じられた。
 その男の姿に、きつく目を閉じると雨柳は悲痛な声をあげた。
「お願いします! こっちへ来ないで下さい! あたしは、貴方を殺したくなんかないっ!! お願いだから、そのナイフを返して下さいっ!!」
「無駄ですよ。……あの男はすでに死んでいますから」
 腕を庇っていた左手で雨柳を制すると、向坂は言葉を諌める様に小さく呟いた。
 その声に反応するかの様に、歩み寄る男の足が制止する。ナイフを持つ手を小刻みに震わせながら、足を前後に大きく開かせ重心を後ろへと傾ける。体の軸が微妙にズレ、腹部から血が吹き出しアスファルトの上に血溜まりを作り出す。
 そして、その体は大きく傾くと、己の血溜まりの上に崩れ落ちた。
 その姿はまるで、映画の中のシーンの様にも見え酷く滑稽な姿に思えた。
「この場所で起こった全ての殺人は、この男が持つ『ナイフの意思』によって行なわれたものです。ナイフを保持した者は、そのナイフの強力な意思によって己が意思を消滅されられてしまう。結果、意思が消滅してしまった肉体にナイフの意思が宿る事で肉体は再生し、殺人を犯す」
「……どうして、そんな事を?」
 問いかける雨柳に向け、向坂は無意識に眉を寄せた。
「『本物の切り裂きジャックのナイフ』になるためですよ。たった一つの類似点。恐らく、柄に刻まれた『J』という文字から、ナイフは『切り裂きジャックのナイフ』ではないかと噂をされたんでしょう。
 外からの情報、つまり人間の意思が、ナイフの中に『切り裂きジャック』としての情報を与え続けたため、最終的にはその認識がナイフそのものの『情報』を書き換えてしまった。
 その結果、ナイフは自分自身を『本物の切り裂きジャックのナイフ』だと勘違いしてしまったんですよ」
「長い時間を掛けて与えられ続けた『間違った認識』が、ナイフのそものの存在理由を変えてしまった。けど、ナイフ自身は『切り裂きジャックのナイフとしての記憶』を持ってはいなかったから……?」
「そう。『殺人を行なう』という情報だけが残った、ただのガラクタになってしまったんですよ」
 向坂は吐き捨てる様に言葉を呟くと、血溜まりの中に崩れた相澤の慣れの果てへと近付いた。うつ伏せになり崩れた男の体を、左手を使い仰向けにさせる。赤い泡を吹き出し、白目をむいた男の姿を見下ろしながら、向坂が男の手に握られたナイフへと手を伸ばす。
「向坂さぁぁぁぁんっ!!」
 雨柳のとっさの制止も間に合わず、男の手のナイフが向坂の左肩へと突立てられた。
 肩から全身に巡る様に鈍い音が鼓膜に響き、ナイフの刃先が向坂の肩の肉へと沈んで行く。
 向坂の肩が、黒い色から赤黒い色へと変わっていく。自分の血とも男の血とも解らない血液によって、向坂の全身は汚されていった。
 だが、肩にナイフを突立てられた向坂の口元には、薄い笑みが浮かべられていた。
「……終わりだ」
 向坂は左手で男の腕を掴むと、引きずり起こす様にして男の体を立ち上がらせた。雨柳の最初の一撃により全身の骨が砕かれてしまっていたのか、男の体はまるで向坂の肩からぶら下がっているかの様にも見える。
「ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア!」
 全身を痙攣させながら、1ミリでも深く向坂の肩にナイフを突立てようと男の腕が動く。
 肩を貫く激しい痛みに表情を歪ませながらも、向坂は肩に食い込むナイフの刀身を右腕で力強く握り締めた。
 瞬間、男の全身を激痛が支配する。向坂の手に辿る浄化の力が、ナイフの持つ邪気を相殺したのだ。
「アァァァァァァァァァッ!!」
 男の口から、低い叫び声が吐き出された。全身を大きく痙攣させ、ナイフを握り締める向坂から逃れ様とする。だが、深く突立てられたナイフは中々引き抜く事が出来ない。
 痛みに意識を委ね、気絶しそうになる意識を辛うじて繋ぎ止めながら、向坂は雨柳に向け声をあげた。
「……早く! 腕を、腕を切り落として下さい!!」
「……っ! はっ、はいっ!!」
 その言葉の意図に気づくと、雨柳は体勢を低くしてもがき苦しむ男へ向けて大きく踏み込んだ。僅かに顔を覗かせる月の力を借り、雨柳はフェンリルの力を呼び覚ます。
 右手に意識を集中させると、雨柳は獣の爪にも似た力をその手の中に生み出した。
「はぁぁぁっ!!」
 雨柳はその手を大きく振りかざし、ナイフを持つ腕へ向けて垂直に振り下ろした。弧を描く右手の軌跡と共に、雨柳の長い黒髪が夜の闇の中で大きく舞い上がる。
 防御をする事も回避をする事も出来ない男は、己に向かい腕を振り下ろす鮮やかで美しい女の姿を、目で追う事しか出来なかった。
「ヒギャァァァッ!!」
 肉を絶つ濡れた音と、骨が砕かれる乾いた音が、雨柳の手の中で同時に響く。ナイフを握り締める手首を残し、男の体が足元の血溜まりの中へと沈んだ。
 まるで生き物か何かの様に、残された手首が虚しく痙攣する。
 向坂は、刀身を握り締めたまま肩からナイフを引き抜くと、男の体が横たわる血溜まりの中へと膝をついた。
「すみません。……トランク、無い……ですか?」
 虚空を見つめる向坂の唇から、かすかに声が漏れた。
「……あっ、はいっ!」
 雨柳はその声に気づくと、弾かれた様に顔を上げる。辺りを見渡し、視界の中に血に濡れたとランクが転がっている事に気づくと、それを手に向坂の元へと駆け寄る。
 向坂は雨柳の手からトランクを受け取ると、震える指でトランクを開け様とした。だが、力無い指先はトランクのボタンをかすめるのみで、巧く蓋を開ける事が出来ない。
 雨柳は向坂の脇からそっと腕を伸ばすと、トランクのボタンを押して蓋を開けた。中には、桐の木で作られた細長い匣が入っていた。
「……これを、その、なか……に」
「向坂さんっ!!」
 向坂の唇が小さく震えた直後、向坂の体は糸が切れた人形の様に崩れ落ちる。
 悲痛な表情を浮かべた雨柳の腕が、寸での所で向坂の体を体を抱き止める。
「向坂さんっ!! 向坂さん、しっかりして下さい!! お願いだから、目を開けて下さいっ!!」
 雨柳の腕の中に抱かれた向坂は、酷く冷たい体をしていた。


5/やさしい記憶(PM:XX:XX)
『それで……。あの子の容態はどうなんだい?』
「えぇ。それでしたら、もう心配は無いとの事です。かなりの血液が体から奪われましたが、何とか一命はとりとめました。術後の経過も順調で、今は点滴を打って眠られています。ただ、疲労が激しくて、目覚めるにはまだ時間が掛かると、お医者様が……」
『……そうかい。まぁ、大丈夫なら安心したよ。随分と、大変な事になっちまったみたいだからね。……悪かったね。こんな事を頼んじまって』
「いいえ。これが、あたし達の仕事ですから。お気になさらないで下さい。……なんて、あたしが言える立場じゃないかもしれませんが」
『いいや。そう言って貰えるだけでも、こっちは助かるよ。本当にすまなかったね。……あぁ、そうそう。アンタから受け取ったナイフの事なんだけどね』
「あっ、はい。あれからどうなりました?」
『ナイフは破棄するよ。あんなヤバイもん、うちじゃ扱いきれないからね。アタシの知り合いにヤクザな骨董商がいるんでね、ソイツに押しつけちまおうかと思ってる』
「……そうですか。確かに、それが一番安全ですからね」
『それと、公園の件についてなんだが、警察の発表じゃ表向きは犯人の自殺って事でカタが付いたみたいだね』
「えっ? 犯人の自殺ですか?」
『事情を知らない奴らにしたら、何が起こったかなんて解りゃしないだろう? 犯人っぽい男の死体はグチャグチャだわ、手首から上が無くなってるわ、凶器は見つからないわじゃ』
「……あっ。そっ、それも……そうです、よね」
『まぁ、犯人は死んじまったんだから、これから連続殺人が起こるって事は無いだろうけどね』
「あっ、あの。……一つ、うかがっても良いですか? ずっと気になってた事があるんですが」
『あぁ、何だい? アタシが答えられる事なら良いよ』
「はい。……その。相澤さんはどうして、ナイフに憑かれたりしたと思います? それと、どうして殺人現場が日比谷公園を限定した範囲で行われたんだと思います?」
『あぁ、そんなモンは簡単だろう?』
「えっ?」
『相澤が、日比谷公園の中で匣を開けちまったんだろう? ナイフの入っていた。で、スイッチの入っちまったナイフのヤツが、日比谷公園を『ホワイトチャペル・ロードと勘違いをした』んだろう? ま、今になっちゃ全部推測だけどね』
「けど、夜ならともかく昼間にナイフを持って歩いている人がいれば、あんなに人が多い場所なら、目撃者ぐらいいてもおかしくないのに。……どうしてそんな人が、今まで人に見つからずに存在出来たんでしょう」
『さぁねぇ? 昼間は土の中にでも埋まってたんじゃないかい? ゾンビみたいに』
「えっ?! まっ、まさか! そんな事が?!」
『あっはっは。冗談だよ。アンタ、面白い子だねぇ』
「……。からかわないで下さい」
『でもまぁ、気持ちの悪い謎は色々と残っちまったけど、無事にこなしてくれて良かったよ。ありがとう』
「いえ。……そんな」
『それじゃぁ、あの子にヨロシク言っておいてくれよ』
「はい。解りました。失礼します」

 黒い公衆電話の受話器を下ろし、雨柳は小さく溜息を吐いた。
 平日の昼間だというのに、広い病院の待合室には人の影は見当たらない。オレンジの花がアレンジメントされた籠を手の中で持ち直すと、慣れた見慣れた待合室を横切り病棟へと続く廊下を歩いて行く。
 廊下を右へと曲りエレベーターホールの前で足を止めると、雨柳は小さく溜息を吐いた。
 (あの日から十日。依頼されたナイフは無事に碧摩に渡す事が出来た。向坂さんの出血は酷かったけど、手術も終わり状態も順調に回復してる。……けど)
 軽い電子音と共にエレベーターのドアが開く。エレベーターの中に乗り三階のボタンを押すと、ドアの上に取り付けられた階数表示のランプを見上げる。
 (あれから、まだ向坂さんは意識を回復させていない。……もうそろそろ、目覚めてもいい頃なのに)
 軽い上下振動が起こり、再度電子音がエレベーターの中に響く。ドアが開きエレベーターから下りると、雨柳は向坂の病室へと足を向けた。
「あれっ?」
 ふいに聞こえた女性の話し声に、雨柳は一瞬足を止めた。エレベーターホールから、ナースステーションの見える廊下を覗き込む。その時、ナースステーションの前に立っていた一人の女性看護士が、雨柳の方へと近付いて来た。
「あっ。貴方は確か、向坂・愁さんのお知り合いの……」
「はい、雨柳です。……向坂さんが、どうかしたんですか?」
 無意識に、雨柳の表情に緊張の色が帯びる。向坂に何かあったのだろうかと、意識の中に緊張が走る。
 だが、相手の看護士はそんな雨柳に対し、優しそうな笑みを浮かべて言葉を返した。
「向坂さん、お目覚めになりましたよ。お会いになりますか?」
「……はい!」
 看護士の言葉に嬉しそうな表情を浮かべると、雨柳は大きく頷いた。

「……心配し過ぎなんですよ。彼女は」
 薄く目を開け、そう呟く向坂の姿を、一人の女性看護士が見下ろしていた。看護士は向坂の言葉に笑みを浮かべながら、向坂の腕に繋がれた点滴の調整を行なっている。
 視界の中に広がる白い天井は、フィルターが掛かったかの様にぼやけて見える。まばたきをして、天井へと視線を向けると、向坂は再度小さく言葉を呟いた。
「……本当、心配し過ぎなんです」
 そう呟いた向坂の表情には、どこか優しげな色が浮かんでいた。

..........................Fin




■登場人物■■■■(この物語に登場した人物の一覧)
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【能力】PCが持つ能力

【2193 / 向坂・愁 / 男 / 24 / ヴァイオリニスト】
【能力】手に持った物全てに、強力な浄化の力を宿す。

【1847 / 雨柳・凪砂 / 女 / 24 / 好事家】
【能力】『魔狼フェンリル』の“影”に獣化し、凄まじい肉体格闘能力と超再生能力、そして神殺しの力を得る。本物程ではないが万物の事象を喰い尽くすことも可能。“影”などの二次元に対しての干渉、影変化も可能。

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■ライターより■■■

<ご挨拶>
 初めまして。黒崎蒼火(クロザキソウビ)と申します。今回は、シナリオ【返り血と叫びの記憶 -Madness Ripper-】に参加頂き、本当にありがとうございます。
 今回が初めてのお仕事という事もあり、不自由な部分やお見苦しい部分があり申し訳ありません。これからも精進していきますので、とうぞよろしくお願い致します。

<シナリオについて>
 今回のシナリオの主軸となる事件は、実在した過去の歴史をモチーフに構成しました。シナリオの都合上、かなりのアレンジを加えております。どうぞご了承下さい。
 今回のシナリオは、捜査方向が2パターンに分かれています。どうぞ、もう一方のシナリオを併せてお楽しみ下さい。

<私信> 雨柳凪砂PL様
 初めまして。こんにちは。
 今回は戦闘シーンで『上空から傘で敵をなぎ払う』という、かなり豪快なアクションを行なって頂きました。まるで「お姫様を助ける王子様みたいだな」などと、書きながら感じていた事はナイショにしておいて下さい(汗)。

 それではまた。

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