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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


咲いている


 白い肌。
 思い出すのは白い白い肌。
 つめたい感触。
 つめたいつめたい感触。
 あの女は、もともと色の白い女ではなかったし、温もりがあった。あの女は白く冷たくなっていた。
 そして『あの女』は、夜の町ですれ違った女は、青褪めているわけでもなかったし、触れたわけでもなかったが、白く、冷たかった。
 志賀哲生は『あの女』を、ぼんやり、うっすらと口を開けて――自分でもしつこいと思えるほどに長く、見つめていた。

 夜の街を闊歩する男たちが、がつんがつんと哲生の肩にぶつかっていく。哲生は一歩前によろめき、次の瞬間には一歩後ろによろめいた。
「あの女……」
 ついには、そう、口にまで出してしまった。
 夜の六本木であった。
 べつに哲生は女性とのめくるめくディナーの予定があるわけでもなし、かと言って洒落たクラブで女性たちからちやほやされたいという欲望があったわけでもなし、ただ足がものを言う仕事の帰りに、ぶらりと寄っただけだった。セレブと夜をともに出来るようななりでもなかった。彼はいつもの通り、無精髭に、よれたシャツ(2日前につけた香水の匂いは、まだ消えていない)によれたネクタイ、不景気な表情だったのだ。
 その湿った顔が、ひとりの黒衣の女性とすれ違った途端に、うっすらと赤味を帯びて――異様とも言える類の生気に満ちたのだ。
「あの女……」
 再びそう呟くと、哲生は重たい一歩を踏み出した。
 足が重かった。
 行ってはならぬと、誰かか何処かで叫んでいたからだ。
 それでも、一旦進み始めた哲生を呼び止めるには、あまりにもか細い警鐘であった。哲生はふらふらと、クラブで女性たちとともに飲み明かした男のように、頼りない足取りで女の背を追い始めたのだった。

 女の背は――
 黒い、白い、つめたい、女の背中は――
 すぐ近くにあるようで、手を伸ばしても届かない、もどかしいところにまで行ってしまっているようだった。


 すれ違った男は、ひどい匂いがした。
 不潔な匂いではなかったが、センスが悪かった。
 黒澤早百合にとっては。
 ――まったく、化粧のけの字も知らない男が、コロンなんかつけるから……。
 どんな様相の男だったかは、早百合は知らない。振り返りもしなかった。ただ、明らかに「つけすぎ」な香水の匂いは、ただでさえ不機嫌な早百合の心のささくれを増やしたのだ。
 ――あー、まったく。最悪。あー、考えたくもない。何で私は、20代最後の年を、今までとおんなじ年にしようとしてるのよ。あー、私はこのままずるずる80になるまで、こんな年を繰り返すのね。最悪。ほんとに最悪。
 そのくせ、少しは気分をプラスの方向に向けようと、時折ポジティブな考えを巡らせるのだ。
 ――いいのよ、これでいいのよ。子供を作って、こんな因果な稼業を継がせるなんて、『仕事』よりもっと残酷じゃない。
 そうして、
 ――あー、まったく。最悪。こういう風に自分を誤魔化してるから、こんな歳まで結婚できないんだわ。
 結局、また不機嫌な想いに引き返すのだ。
 しかし少なくとも、そして残念なことに、彼女は幸せな家庭の未来予想図を頭の中に思い描くに相応しい雰囲気を持ってはいなかった。
 黒澤早百合は死を纏い、そして、六本木に括られている魂たちを、問答無用で消し飛ばしていくのであるから。


 女は、次第にまばらになっていく人影を意にも介さず、六本木の奥へ奥へと入っていく。
 男は、前後不覚の足取りながら、確実に女のあとを追うのだった。

 女は、死んでいるわけではない。
 これは、死臭ではない。よく似ているが、まったく違う。志賀哲生だからこそ、嗅ぎ取れた匂いなのだ。これは、死の香りなのである。哲生はこの特殊な嗜好に目覚めてから、古今東西あらゆる死の香りに触れてきた。だが――あの、黒いドレスの女が手懐けている香りは、それはそれは強烈なものだった。まるでラムかブランデーのように、香りだけで哲生を酔わせてしまうほど。
 ――あの女に噛みついたら、俺はどうなっちまうだろうな。ああ、間違いなく、まずブッ飛ぶんだろう。それから、いい夢を見るさ。ああ、あの、女。
 ドラッグの経験はなかったが(あればそれこそ大問題である経歴を、彼は持っていた。結局のところ別の問題を起こして、刑事というその経歴に終止符を打ったわけだが)、きっと打てばこういう気持ちになるのだろうと、哲生はぼんやりする頭で精一杯考えた。いや、ともすれば、ドラッグなどより素晴らしいことになっているかもしれない。頭の中が。香りだけで。
 あああ、噛みついてみたい。


 その陶酔が、苛立ちが、ぶつりと途切れた。


 黒澤早百合が、その夜の『仕事』を終えたのだ。
 六本木の、古びて湿った雑居ビルの中、血が飛んだ。
 死の香りが本当の死を呼び寄せた。
 黒いドレスの女は、事務所らしき殺風景な部屋の中、命乞いをする中年の男を、情け容赦もなく――と言っても、残虐ではなく、機械的であった――葬り去ったのだ。ぱらぱらと、取り替えどきを迎えた蛍光灯がちらつく部屋の中で、『仕事』はそれこそあっと言う間に終わっていた。
「それで?」
 早百合は、ふらふらと尾けてきていた名も知らぬ男に声をかける。
「貴方は、誰なのかしら?」

「頭がおかしい野郎さ」
 やっとのことでろれつを回し、哲生はマミーのように手を伸ばした。
 尾けていたことは、とうにあばかれていた。それはそれで、構わなかった。もしかすると、やきもきしていたのかもしれない。いつ気がついてくれるか、いつ声をかけてくれるか、いつ振り返ってくれるか。
 ああ、振り返ったその女は、捕らえてしまいたいほどに美しかった。
 捕らえて……
 捕らえることは出来るけれど、その後、自分は何をする?
 噛みつくか? 夢を見るか?
 自分だけのものにしてしまおうか。
 そうして、自分は何をする……?
 ヂゃらっ、がチん!

「ちょっ……」
 動揺したわけではなさそうだったが、女の文句は途切れた。
 酔った男の手から伸びた鎖は、そこにあるようでそこにはないもの。漆黒のようで透明な手錠であった。女の細い右手首を、手錠は音高く戒めた。
「……あらあら」
 女は呆れたように笑うのだ。
 その背後に、血で濡れた死体を置きながら。
「私が、お縄になるなんて……そんなこと、考えたこともなかったわ。貴方は私の『初めての人』ね。初めて、私を捕まえた人」
「……」
「それで、貴方は……何処の署の、何課の方なのかしら? 私、警察とは折り合いが悪いのよ。……ちょっと勿体無い気もするけど」
 最後のつけたしは、気恥ずかしそうに(或いは馬鹿馬鹿しそうに)小さかった。
 きん、と甲高い音があった。
 女の手首に、絡みついていたかのような鎖と手枷は、切れていた。女は不可思議な刃物を手にしていた。これもまた――そこにあるようでそこにはないもの。
「用は済んだ?」
「百合だ……」
「え?」
「強烈だ。俺には強すぎるんだ……百合と同じだ、香りが、強すぎる」
 どさりと膝をつく男の脇を、女はするりと通り過ぎた。
「貴方もね」
 男は振り返りもしなかった。
「コロン、つけすぎよ」


 気がつくと哲生は、取調室の中だった。
 何でも、酔いが覚め始めた頭に叩き込まれた話によると、哲生は殺害現場で呆然と(或いは恍惚と)座りこんでいて、まっすく警察に連行されたらしい。
 殺されていたのはけちな闇金融業者だった。古い雑居ビルだったため、死体から湧き出した血溜まりが、階下のパブに雨を降らしたらしい。パブの経営者が気づいて110番し、警察が駆けつけ、哲生は血塗れの死体を見ながらうっとりしているところを捕まった。
 酔いが冷めるまで事情徴収は待たれていたのだが、哲生は自分の証言が当てにならない自信があった。雑居ビルの中で何が起きたか、実はあまりにも鮮明に覚えているのだが――言ったところで、一般人は到底理解できないだろうから。
「俺はやってない」
「殺しやったやつはみんなそう言うんだよ。……よく知ってるはずだよな。あんた……ちょっと前に大騒ぎ起こした、あの志賀サンなんだろう」
「かもな」
「……真面目に答えないと、元同僚でも殴るぞ」
「男前が崩れるから勘弁してくれ。折角のジャックマン似が、プレデターになる」
「殴っていいか?」
「だから、勘弁してくれって。俺は酔っ払ってて何にも覚えてないんだ」
 刑事は押し黙った。
 連行直後の哲生の様相は、一般人から見ると――確かに、泥酔状態だった。
 ただ、酒の匂いはなく、薬の反応もなかったのも事実なのだ。
 哲生が何に酔って、正体を失っていたのか……知っているのは、哲生だけなのだ。そして、哲生自身、あのとき自分が何をするつもりだったのか、わかっていなかったのだった。

 2日ほど不味い食事をとる羽目になった。
 ……何故、唐突に牢獄から抜け出すことが出来たのか。哲生は裁判までもつれ込むだろうとある程度覚悟していたので、事情を聞いて息を呑んだ。
 あの、女。
「ホトケさんが死んだ時間、お前さんと一緒に六本木のバーでとことん飲んでたってよ。良かったな。裏も取れてる。バーのマスターも口を揃えやがったさ。何でか知らんが、マスターは真っ青になって震えてたがよ」
 刑事はねっちりといやな調子で哲生に言い放ち、不愉快そうに立ち去っていった。
 黒いドレスの女は、ロビーにいた。
 猫のような微笑みに――白い、冷たい肌に――あの香りに――黒いドレス。間違いない、
 ――俺をとことん酔わせた女。
 ただ、首につけているコサージュが、あの夜は確かに黒い薔薇であったのが――この日は、黒い百合であった。
 女は哲生と目を合わせると、何も語らず、ただ笑みだけを残して……
 否。あの死の香りも残して、
 警察署を出て行ったのだった。
「ああ、待ってくれ!」
 久し振りに大声を上げると、哲生は女の後を、香りを辿るくたびれたシェパードのように、追いかけた。
「……待ってくれ」
 だが、あの黒い目は言っていた。
『私、警察とは折り合いが悪いのよ』
 哲生は伸ばした片腕を、下ろした。

 つけすぎた香水の匂いはようやく消え始めていて、髭はジャン・レノの長さにまで伸びていた。
 哲生は意味もなく、まず家に帰ったらシャワーを浴びて髭を整え、夢を見ようと考えた。
 黒い百合に埋もれる夢を見ようと考えた。




<了>