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黄泉の祭 〜『牡丹燈篭』異聞 第三夜
ごらん ゆらゆら鬼火が灯る
蒼くゆらめく火が踊る
無間の闇に咲く花は
怨み 焦がれて 狂って 散って
ゆらゆらゆらゆら
ゆらゆらゆらゆら……
ごらん 闇夜に鬼火が灯る――
日も暮れかかる頃である。
折しも休日だ。繁華街の通りには、食事をしたり、夜の街へとくりだそうとする人々であふれている。
「…………?」
何かが、道の向こうからやってくる。
誰かが、その奇妙なもののすがたに目を留めた。連れの袖をひき、足を止めて見れば、それは、ひとりの少女である。
ぼおうっ……と、黄昏にかすむのは、娘がささげもつ牡丹の花の燈篭。
十代後半とみえる、大変美しい娘である。着物は古風な中国風のいでたちで、しずしずと歩くすがたは、夕闇にまぎれて幻想的な艶やかさだった。しかし同時に、どこかしら現実離れした、幽玄の美とでもいうのか、あやしい心騒がされる風情でもあるのだ。
人々は、テレビの撮影かなにかだろうかとあたりを見回したが、それらしい様子はない。では、あるいは、いささかの頭のおかしい女なのだろうか。ある者は遠巻きに面白そうに見遣り、またある者はあえて目をそらして足早に通り過ぎようとしていた、そのとき。
ばさり、と路上にほどけたものがある。
牡丹燈篭とは逆の手に、少女は巻いた掛軸を持っていたのだ――。
「ユン…………エン……」
男は苦しげに呻いた。
「一体、何が――」
床に倒れ伏していた警備員を助け起こそうとして、雲雁ははっと息を呑んだ。
青褪めた男の肌にはしとどに汗が流れ、がくがくと震えているのである。しかも、その顔にぽつぽつと、発疹のようなものがあらわれはじめてさえいるではないか。
「ひどい熱だ」
「病気なの?」
花霞が、心配そうにのぞきこむ。
「『掛軸』……」
男は意識が朦朧としているようだった。それでも、必死に何かを伝えようとしているのだ。
「女……『掛軸』から……あらわれた……女が、掛軸を持って……」
「呪いだ」
「えっ?」
「これが『掛軸』の術式だったのか」
雲雁のおもてが厳しくひきしまった。
(くそ……。ワナだったんだ。花霞とあれを出会わせることで、術が発動してしまう)
奥歯を噛む。
「じゃあ行こうよ。ああ、でも……みんなを置いていけないね」
「とりあえず救急車を呼ぼう。花霞、あれの場所がわかる?」
「……大丈夫な気がする。あれが描かれるところに、花霞、いたんだもん。妖気をたどれば、たぶん……」
雲雁の幼い友人もまた、決意に充ちた瞳で、彼を見返してきた。
「でも、どうして……みんな病気にされちゃったのかな。掛軸にしかけたあったのは『牡丹燈篭』によく似た術でしょ」
「『牡丹燈篭』のもとになったのが、『牡丹燈記』という中国の小説だって言ったよね」
「うん」
「日本の『牡丹燈篭』は、幽霊の女に、男がとり殺されるところで終っているだろう? 『牡丹燈記』にはまだ続きがあるんだ。そのあと、男も幽霊になってしまって、女と一緒に付近をさまようようになって……それを見た人たちを病気になってしまうんだ」
「そうなの!?」
「はやくあれを探し出さないと大変なことになるぞ……」
不思議な少女の手の中の掛軸――。
むろんそれは、いにしえの大陸で花霞を描いたというあの掛軸だった。だが、今はその画面から娘のすがたは消えている。そう、そこにそうして、絵から抜け出た娘が歩いているのだから。
「ひっ」
「何だあれは」
「きゃああ」
夕暮れの盛り場に、悲鳴があがった。
女が解いた掛軸の、なにも描かれてはおらぬはずの画面から――
(嗚呼、苦しや)
したたるような憎悪と怨嗟の、声なき声をあげながら、
(なんと長きに渡る苦悶の闇であったろうか)
腐臭を放つぼろぼろの衣の裾をひきずり、
(苦しや、苦しや)
うつろな眼窩にあやしい鬼火のような燐光を灯し、
(我らが怨み、苦しみ、大地にあまねく知らしめてくれようぞ)
かれらがあらわれ出たのである。
わっと、人々は恐慌に陥った。あるいは、恐怖に立ち尽くした。
それほど、人の根源的な心の闇に深く働きかけるような、おそろしさを、それらはもっていた。
ほとんど骸骨といっていい、痩せさらばえた身体の上に、青白く血の気のない、渇ききった肉と皮膚を貼付けただけの、おぞましいすがた。かッ――と開いた、奈落のようにぽっかりと開いた口から、おそろしい呪詛の言葉とともに、なまぐさい、煙霧のようなものがあふれだした。
そして、それが周囲に充満するや、一息でもそれを吸い込んだり、あるいは、わずかに身体の一部が触れただけであっても、それに接した人々はたちまちに膝から崩れ、ばたばたと倒れ臥していく。見る見るうちに肌は土気色にかわり、ぽちぽつと赤い、不吉な発疹がその皮膚を覆った。
たちまち、夕暮れの街は地獄もかくやの有様に変わり果てたのだ。
人々の苦しい呻き声が充ちる中、少女は、婉然とした微笑をたたえ、ただ静かに、燈篭を手に道を往く。
その後を、燈篭の灯りに導かれるように、あやしい幽鬼たちがぞろぞろと着いて歩く。
それは、黄泉の亡者の行進そのものであった。
女の、紅をさした唇が、邪悪な喜悦に歪んだ。
そのとき――。
「止まれっ!」
凛、と張った声。
「それ以上は進ませないぞ」
常雲雁だった。
女の目が、嘲るように細められる。
(違う)
雲雁は、きっ、と睨み返した。
(花霞なもんか。花霞は……あんなふうに、笑わない。こんなに苦しんでいるひとたちを見て、面白そうにしてたりしない。……いくら花霞を写して描いたからって……あれが花霞なんかであるもんか)
ひゅう――、と、風が吹く。
長い髪をなびかせながら、雲雁のとなりに、その少女――賈花霞が並んだ。
「ユンちゃん……あれ……」
深い青の瞳が、悶えるようにうごめく亡者の行列を映した。
「疫神だ」
「疫――神……?」
「あれももとは、人間だったに違いないよ。掛軸の呪いで病に倒れ、その魂をとりこまれたんだ」
「ひどい」
「呪いとともに人の魂を閉じ込めて、何百年も封印してあったんだ……。いや、それだけじゃないぞ」
雲雁の言葉に、ほとばしるような熱気がこもった。
疫神たちの幾人かが、くずれてぼろぼろになっているとはいえ、あきらかに他のものたちとは違う、今様な衣をまとっているのがわかったからだ。
「いなくなった……警備員のひとたちまで……」
ぎり、と奥歯を噛みしめる。
ずい、と、花霞が前に出た。すると牡丹燈篭の女が、挑みかかるような眼光を放った。
六百年の時を隔てて対峙する、ひとりの少女とその似姿。
女が、采配を振るうように、燈篭を掲げた。
不気味な咆哮とも呻きともつかぬ声をあげながら、疫神たちが躍りかかった。
ごう――!
花霞が、舞うように手を広げる。ぱっと、風に髪がひろがり、そして、見えざる真空の刃が空を切り裂く。疫神たちの身体が、突風に押し戻されながら、その身に裂傷をおびてゆく。
「急々如律令!」
花霞のうしろで、雲雁が手に印形を組み、よく通る声で叫んだ。
「『汝、麿呂が教えに従ってこの神国を立ち去るか、さもなくば、この茅の輪に十束の宝剣をもって、汝が一命討ち取ること只今なり』――!」
そのことばが、響き渡るにつれて――
疫神たちの身体が、土くれででもあったかのように、ぼろぼろと朽ちて、崩れ去っていく。
燈篭の女の目が、驚きに見開かれた。
「疫神をはらう神楽の口上さ。……土は土に、塵は塵に、黄泉のものは黄泉へと返れ」
疫神たちは、もはやあとかたもなく崩れ、塵として風に吹き飛ばされていった。
ただ独り残った燈篭の女は――
「う……」
思わず、雲雁の口から呻きがもれる。
女の形相は、一変していた。
いかに邪悪な表情であろうと、あくまでも美しい娘であったのだ。それがいまや、優雅に結い上げられていた髪は風にほどけてくずれ、玉の飾も落ちてしまっていた。それはあたかも、つねに若く美しい姿で生を謳歌している天界の人間が、それでも死ぬ時には衰えを見せるという天人五衰のさまを思わせた。それだけではない。朱をさした小さな花のほころびのようだった口は大きく裂け、そして白く秀でた額からはまがまが角が生えようとしているのだ。
鬼――。
ごう、と、音を立てて、女の燈篭が炎を吹き上げた。
それに怯むこともなく、鬼と化しつつある女は、雲雁と花霞を睨み付けながら、そこに立ち尽くしていた。
「さても口惜しや」
いんいんと響く声が告げる。
「我があるじが御為に、地均しをせんとするに――」
「あるじだって?」
と雲雁。
「それは六百年も前の話だろう」
「愚かなり。魔界のものに人の子らの時の、なんの意味があろうか」
くくく、と低い含み笑いが漏れた。
「我が牡丹燈篭が、我があるじを導こうぞ」
「させるもんか!」
再び、印形を組もうとするが。
女が燃え上がる燈篭を振るった。炎の雫が、意志あるもののように宙を舞い、雲雁を狙う。
「…ッ」
「ユンちゃん、大丈夫!?」
「平気だ。花霞……」
「うんッ」
ふたりはうなずきあった。
青白い閃光。
女がおもわず目をそむける。その間隙を突いて、風が奔った――!
「おお――」
雲雁の手に握られた、輝く刃。
短器械・手蘭――その名を、花霞!
かつて、いにしえに彼女の似姿として描かれ、あやしい闇の生命を与えられた鬼女の胸に、まるで、みずからの姿をその手に取り戻そうとでもいうかのように、刃は、吸い込まれるように収まった。
尾を引く、甲高い断末魔の叫びが、唸る風をも越えて響き渡る。
「おのれ……」
風にさらわれる、怨嗟の名残り――。
その姿もまた、砂の楼閣のように、さらさらと零れ、形を失ってゆき……。
風が、烈しく哭いていた。
六百年の時を越えてよみがえり、そして今、消えゆこうとする、呪詛のかたしろを、悼むかのようであった。
そして。
件の掛軸は、今もまだ、美術館の奥にひっそりと飾られている。
すべてが風にさらわれたあと、掛軸の表面には元通り、明代に描かれた娘のすがたが浮き出ていた。だが、もはやそこには、いかなる妖気もこもっておらぬようだった。
長い時の果てに、呪いとともにとどめられていた花霞の幻影は滅び、ただ絵筆の跡だけが残ったのである。
「この頃のこと、あんまり憶えてないんだよね……」
再び、並んで掛軸を眺めながら、花霞はぽつりと呟いた。
「花霞……」
その声が、思いのほか寂しげにひびいた気がして、雲雁ははっとして、年下の友人の横顔を見つめた。しかし、
「でもいいや」
彼女は屈託なく笑うのだ。
「今は哥々やパパさんや、ユンちゃんたちがいるから!」
「花霞――」
「さ、行こう。ね、ユンちゃんのお店で飲茶にしない?」
「そうしようか」
「ユンちゃんの奢りで〜」
「なんでそうなるんだよ!」
駆け出してゆく。
そんなふたりの後ろ姿を、掛軸の中からは、はかなげな少女のまなざしが、羨むように見つめているのだった。
(『牡丹燈篭』異聞――終劇)
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