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<東京怪談ノベル(シングル)>


波が引くまで



 学園祭を終えて――。

 通り掛かった廊下。
 クラスメートの子たちが興奮冷めやらぬ様子で話し込んでいる。
(何を熱心に話しているのかなぁ)
 レストランの名前を出しているから、どうやらこれから打ち上げに行くみたい。
(打ち上げかぁ)
 やっぱり学園祭ってみんな盛り上がるもんね。終わったあとにはしゃぎたくなるのもわかる。
(でも)
 あたしがはしゃぎたくなる時間はもっとあと。
(今から演劇部のミーティングがあるから――)
 内容は『狼と七匹の子豚』の練習。学園祭の後に練習を行うのは、当日に先輩の演技を観ているから。こういうのって、その場でやる方が上手く出来るみたい。
 ――とは言っても、あたしに上手く出来るかな?
(出来るといいな)
 不安と少しの期待を胸に抱いて、体育館へ向かう。集合場所はグランドなんだけど、その前に衣装を着なくてはならないから。
 着るのは勿論子豚の衣装。中に入って動けば暑くなるのはわかっているけれど――今は早く着たい気分。
(だって、寒いんだもん……)
 風が吹いて――ふるる、と身体を震わせる。
(寒い)
 体育館へ続く通路は外に繋がっているせいもあるけど、一番の理由は、あたしが体操着しか着ていないから。着替えやすいだろうと思って着たんだけど、失敗だったかもしれない。
 さっき浴びたばかりのシャワーのせいもある。浴びた直後はあたたかくても、少しでも時間が経つと、濡れ髪のために寒さは増倍。
(髪は濡らさないようにしたんだけど)
 肩にシャワーをかけるとどうしても毛先は濡れてしまう。体操着に着替えた時や動いた時に濡れ髪が首筋に当たって冷たい。滴が垂れ落ちて服の中に入り込む時なんて、一瞬動きが止まるほどの刺激だ。もうこんなに寒い時期なんだなぁ……。
(髪留めを持ってくれば良かった)
 髪留めがあれば、シャワーを浴びる時に髪を濡らさずに済んだから。
 体育館に着く頃には、体操着の後ろの毛先が当たるあたりがうっすらと湿っていた。あんまり乾かす暇も無く走ってきたせいだ。
(とりあえず、これはもう脱ぐから……)
 今よりは冷たい思いはしなさそう。着ぐるみだって、遊園地にいるようなものよりはずっと薄いけれど、体操着よりはあたたかい筈。
 体操着を脱いで、潜るようにして着ぐるみの中に入った。初めて着るせいか、ちょっぴり動き辛い。
(大丈夫なのかなぁ)
 躓かないように歩いてグランドへ――。

 ――でも。
 グランドは今も陸上部や下校途中の生徒で溢れているし――何でわざわざグラウンドで練習するのかな?

「それは勿論、人に見られることに慣れてもらいたいからよ!」
 先輩は力強く言った。
(確かにそれは必要なことだと思うけど――)
 何か誤魔化されている気がするような……。
「決していじめなんかじゃないわ」
(そうかなぁ……)
 先輩はやたらと嬉しそうな笑みを浮かべているけれど――。
「私たちだって先輩にやらされたんだから」
 つまり伝統的になっているいじめ、と。
 事情は見えてきたけど、やり辛さは変わらない。
 着ぐるみ故の動きづらさもそうだけど、周りの視線も。
(恥ずかしい)
 みんな、変な目をしてジロジロ眺めてくるから――。
「じゃあ、まず身体を動かすわよ。上半身を左右に捻って!」
 先輩の声にそって上半身を捻る。その後跳ねたり上半身を前後へ折ったり。傍から見ると、ピンクの子豚が体操をしている様子になる訳で――。
「じゃあ発声ー! あ、い、う、え、お、あお」
 上級生があたしを振り返って話し込んでいる。何してんだろ、とかネタ?とか――話し声が思いっきり聞こえてくる。
 こんなんじゃあ、大きな声なんて出せない――。
「海原さん、どうしたの?」
 先輩に気付かれてしまった。
「声出てないよー?」
「は、はい……」
 恥ずかしいんです……なんて言える筈はなく、頭を下げるあたし。でも周りから見れば頭を下げているのはピンクの子豚――遠くからかみ殺した笑い声が響く。
(何をやっても恥ずかしい)
「ふーん……」
 先輩は数秒黙った後、座り込んで地面を軽く叩いた。
「海原さん、ここに寝て」
 え……――地面の上に?
「いいから、仰向けに倒れて」
「はい」
 膝を折って座り、それから上半身を倒して足を伸ばした。着ぐるみの外から、うっすらと冬の冷たさが肌に染み込んでくる。
「この状態で声を出して」
 あー……とあたしは声に出した。今の視界だと先輩しか入ってこないからさっきより楽だ。
 先輩はあたしの上腹部に手を置いて、あたしの発声を聞いている。
「そう、この状態なら声が綺麗に出るでしょ」
 先輩はあたしを抱き起こして、着ぐるみについた土を払ってくれた。
「じゃあ、今度は猫のあくびのときのようなポーズを取ってみて」
(猫?)
「いいから、いいから」
 半ば無理やり腕立て伏せに近い姿勢をさせられる。先輩はそこから更にあたしの足を掴んで地面に当て――あたしの胸と背中を両手で抱きかかえて、上半身を反らせた。
「さっきの発声を思い出して、声を出してみて」
 さっきと同じ、と言われても。さっきとは状況が少し違う。今は思い切り人の束が見える。その中で、こんなに身体を反らせて大声を出すなんて――。
「声を出して」
 先輩の声が強くなる。あたしはヤケになった気持ちで声を出した。
「力が入りすぎよ。もっとリラックスして」
 この視線の中でこんなポーズで声を出すのは、リラックスなんて言葉とは程遠い状況です――と言いたいけど言えない。
「はい……」
 先輩があたしの肩を抱いた。それに合わせて深呼吸を繰り返し力を抜くようにする。
「そう。その状態で、声を前に出すイメージでやってみて」
 ゆっくり息を吸い込んで声を出す――さっきよりも自然に声が外へ出た。
「そう、それでいいの」
 あたしの肩から手を離し、先輩は二メートル程離れた所に立った。
「他の子も、同じようにやってー」
 みんなが身体を反って声を出す。あたしも空を眺めながら同じようにする。
 肩にはまだ肩にはぬくもりが残っていた。背中にも胸にも――さっきふれられた箇所全て。
 夏のときとは違って、まとわりつくような熱さじゃない。外からではなく内側から熱が生まれて来ている。
 風が吹いて着ぐるみを冷やす。対比するように、肌が熱くなる。一度内側からの熱を感じると、箍が外れたときのように止まらなくなる。
 なぜなら、熱は胸から顔から指先から――溢れる水のように行き渡り、思考はそれを感じることに溺れていくから――。
 身体だって同じ。枯渇した井戸に水を撒くようなもの。少量の水では潤いきれず、井戸は更なる水を求めるのと似ている。
 熱が枯れ井戸に撒かれる少量の水なら、周りの人は水を「捲く」役割を担っていたのだろう。羞恥心を掻き立てる視線は、身体の熱を高くさせる。
 視界の空が揺れた。それは映写機の映像が揺れたときのように微弱なもの。その軽い揺れの中で意識と周りに薄い膜が出来たように、ぼんやりと思考が乱れていく――。

 溶けるような思いで、考えるのは――。

 ………………………………。
 ――肌を撫でたあとに軽く爪を立てられたような感覚。
(視線?)
 完全に顔を上げることは出来ないから確証はないけど、多分先輩の視線。
(見られてるんだ……)
 他の人の視線とは明らかに違う。棘があるような、動きの一つ一つを細かく見られているような――。
 複数の視線は着ぐるみを通してから熱に変わって沈み込む。まどろみのときのように曖昧に入り込んだ熱は、吐息に宿ることで重くなり――深い吐息が体内に入り込んでくる。

 溶けていく――。

 それなのに、一つだけ走り続けている――焦燥感。
(どうしよう?)
 鐘が鳴り響くように、ずっと。
 何がどうしようなのか、輪郭のない不安。否、輪郭があるならそれだけでいい――。
(これからのあたし――)
 どうなっていくのか――
 どうなっていくのか――例えば、将来自分は何をしたいのか。
(わからない)
 何も、見えてこない。不安だけが先回りして、出口を塞いでしまう。
(せめて)
 小さな未来でも見えてきたなら。畏れることはないのに。
 未来についての話。未来を見通す話。
(幻を掴むのと同じ)
 今日は全て幻みたい――。視線だって、声だって、視界に映るものだって――この不安さえ、フィルターがかかっている。
(全部は熱が見せていることなのかもしれない)
 息を吸う音がやけに大きく聞こえる。澄ましてもいないのに、いつもよりずっと音がよく聞こえるのだ。
 枯渇していた井戸は既に潤っていた。熱は外側の肌に至り、渦を巻き、滴に変わり首から胸へ流れていく。
(暑い)
 午前の舞台のときと同じくらい暑い。でもあのときとは違って、汗を拭えない。
 肌を流れる滴――感覚が鋭くなっているだけに気になってしまう。それに、熱に混ざった汗の匂い。
(感覚だけが先に立ってる)
 思考がついていけない。自分が何をしているのかもわからなくなる――。
 振り払うように、意識して声を出す。
 喉を震わせる、音の感覚。
 声を出すたび、水分を取られ飢えた喉が擦れ、痺れていく――。

 あとはただ、落ちていく。
 花が朽ちるように意識はまどろみ、熱を抱いた恍惚の波が引くまで。

 夕暮れ――。
 着ぐるみを脱いでから、自分がどれだけ汗をかいていたのか気付かされた。
(内側の熱がひどく、外側にはあまり気が回らなかったから)
 冷めた意識の中で、呟いてみた。
「あたし」
 怖いのは未来云々の前にもある。これからのあたしの社会的な「存在」――それにすら不安を抱いている自分。
 肩を震わせた。両肩は湿り、胸元は水をかけたように汗をかいているのだから、熱が引くとすぐに寒くなってくる。
(もう寒い季節だから)
 身体が氷のように冷えている。その肩に、熱いシャワーを当てた。
(熱い)
 でもあたたかさが心地よく、氷を溶かすように身体の芯からあたためてくれる。
(心も溶かすように)
 瞼のあたりが膨らむ――涙が出た。
 怖くて泣いている訳でも、嬉しくて泣いている訳でもない。悲しいだけでもない。
 だけど、止まらない。
 肩から胸を伝い腿をなぞり足元へ流れ落ちるシャワーを眺め――今日だけは泣いてもいいという気分になっていた。
 昨日も明日も不安も安定も関係なく。
 今はまだ、このままで。


 終。