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「ふたりの世界」
「おんちゃん、ありがとう〜。ただいまぁ、わが愛しき自宅マンションっ! うぃっく。」
タクシーの運転手に景気のいい挨拶をしたのは、酒が入ってご機嫌の四方峰恵だった。彼女は愛用のリュックを担ぎ、千鳥足でエレベーターへと乗りこんだ。自分の部屋のある階の数字ボタンにそーっと指を伸ばす……それに振れると当たり前のようにボタンが輝く。それを様子を見て、なぜか手を叩いて爆笑し始める恵。よほど楽しい飲み会だったのだろう。この調子では箸が転んでも大喜びしそうだ。左手にはその会合のおみやと思われる包みを持っていた。今度はそれと視線を合わせると、さっきまでとは違った音色で笑い声を奏でた。恵はなんだかとてもご機嫌だった。
恵がエレベーターをゆっくりと降りて自分の家へと続く通路を見据えた瞬間、急に何かを感じて身構えた。彼女の全身を妙な緊張が包み込む……背中を伝う汗はアルコールを帯びていたのか、不思議なことに酔いはすっかり冷めてしまっていた。怯えた獣のように立ち止まり、ただ目前に迫った扉を凝視する恵。
「何だか今帰ったら危ないって直感が言ってるんだけど……いや、マジで。本当に……これ、どうしよう。野宿はできるんだけど、家の近所じゃなぁ……でも、ドアの向こうから感じられるこの……独特の冷たさが……なんとも……」
恵の家には同居人がいた。4LDKもの広さを誇るマンションの表札には恵の名前だけでなく、その同居人の名前もあった。そこには『新野サラ』という名前が自分の名前とともに併記されている。サラは恵の親族にあたり、正確には従姉妹になる。海に山に農村に海外にとにかく懐が暖まったら外に出て思う存分人生を楽しみに行き、家を平気で長い間空けてしまう恵にとってはとてもありがたく頼りになる女性だ。サラはある大学の図書館に勤めているため、恵のように長い間この家を空けることはない。そんな対照的なふたりだったが、同居生活はお互いに楽しいものだった。
しかし、楽しいだけで毎日を過ごせるはずはない。その苦難の時が今だった。ふたりの家が風雲急を告げるのは、サラが恵を説教する時と相場が決まっているからだ。それを知っている恵の足取りは徐々に重くなる……扉の前にやってくる頃には忍び足でつま先からそ〜っと音を立てずに着地する始末だ。プリン色に染まった髪の毛が逆立ちそうなほど震えている恵は、なぜか外から覗き穴を片目で凝視する……彼女はサラが扉の前で待っていると思ったのだろうか。息を潜めて見えるはずのない家の玄関の様子を伺う……目玉が右に左に動き回ったかと思うと、恵は腕組みをしてつぶやいた。
「あっちゃあ、玄関の電気ついてる……って、サラ姉がこの時間にいないわけがないか。もう夜中だもんな……」
自分にしか聞こえない声で話したはずなのに、なぜか扉の向こうで錠が下りる音が鳴り響いた……その音は恵の心の奥底まで染み渡った。そして勝手にドアは開き、ひとりの長身の女性が家族をわが家に誘おうとしていた。彼女はやさしそうな笑みを浮かべ、まっすぐに恵を見据えた。
「おかえりなさい、恵さん。外は寒いんだから、早くお入りなさい。」
「サ、サ、サラ姉……たっ、ただいま。」
この状況だけ見れば、恵は家族から最高のもてなしを受けたかのように見えるだろう。だが彼女はサラと目が合った瞬間、心の中で絶叫した。その暗く沈んだ瞳、かっと見開かれた目……そんな表情が心から恵の帰宅を喜んでいるだろうか。いや、そんなことはないだろう。サラが彼女をさっさと家に上げようとするのは、この後に待つであろうお説教タイムへの布石以外の何でもなかった。サラには恵の帰宅の遅さを心配する気持ちもあっただろう。その気持ちが彼女の心を説教モードへと進化させる。恵は無断で旅行に出た時と同じくらい怒られるんだろうなぁと勝手に予想を立てて、その時の恐怖を思い出しまたも震え上がるのだった。
サラは超人的な記憶力と洞察力を兼ね備える女性だ。冷蔵庫やタンスの中身、果ては本棚に収められている本の並びまで記憶している。恵が彼女の買ってきたケーキをつまみ食いしようものなら、その記憶を元に恐ろしいまでの推理力を発揮して追い詰める。些細なことでもこの有様なのだから、今回もただでは済むまい……もはやすべてを諦め、静かに玄関へと歩を進める恵。そんな覚悟もどこ吹く風、そそくさと恵愛用のスリッパを出すサラだった。
家のリビングは明るかったが、決して賑やかな雰囲気ではなかった。紫色のカーテンが夜の闇を遮っているにも関わらず、なぜか部屋は薄暗いように感じた。よく見ると全部の電気がついていない。恵が天井を見上げたその時、サラがスイッチを操作して部屋を明るくした。そんな薄暗い暗い部屋で、サラはファッション誌でも見ていたのだろうか……一冊だけ近くのソファーで仰向けになっていた。恵はサラが家で自分を待っていた時の行動を推理しながらソファーに腰掛け、リュックを自分の隣に、そして釜飯弁当をガラスのテーブルの上に置いた。しかし、恵はしまったという表情を見せながら、ゆっくりこっそりとリュックを膝まで手繰り寄せ、自分の部屋にあるお気に入りのテディベアの人形を可愛がるのように抱きしめた。この中には隠さなければならないものが満載だった。
サラはキッチンでよく冷えた氷の入ったグラスに水を注ぐ……氷とグラスがぶつかる音が軽く響く。サラはめいっぱいまで水が注がれたそれを両手に持って恵の近くまでゆっくりと歩く。リビングに姿を現したサラをまともに見ようともしない恵。サラはグラスをテーブルには置かず、彼女の目の前に差し出した……
「はい、恵さん。酔った後は水がいいでしょ?」
「はがっ、はいっ。」
返事まで豪快に噛んでしまった恵は半ばやけくそでその水を一気に飲みこもうとする。だが、そんなに素直に飲ませてもらえるわけがない。サラの言葉が恵の全身を貫く。
「恵さん、少し聞きたいことがあるのだけど……」
「ぶぅえっ……げほげほっ! な、何を?!」
今度はコップの水で溺れそうになった恵。そんなことはお構いなしに話を進めていくサラ。しかし彼女は、決して単刀直入に聞こうとはしない。まずは外堀をゆっくりと埋め始める……
「めったに使わない割烹着をお使いになったみたいだけど、明日お洗濯するから出しておいてもらえません?」
「あ〜あ〜、それは……私が洗っておくから。サラ姉は何の心配もしなくていいってば!」
「そう……だったら、いいのだけどね。あ、そう言えば……」
「な、なんでしょう?」
「そんなものと一緒にサングラスがなくなってるって、どうしたことでしょうね……私に無断で南米探険に出た時に使っていたあのサングラス。たしか玄関に飾ってあったと思うんですけど。その辺を飛んでいるカラスが持っていったのかしら。そんな訳はないわね、きっと恵さんがお持ちになったんでしょう?」
「きっと恵さんがお持ちになったんでしょうね……」
わざとらしいとぼけっぷりを発揮するサラに対し、恵は仕方なしに頷く。その時の力のなさといったらなかった。サラはゆっくりはっきりと声を出し、恵にその言葉の意味を染み込ませるかのように話す。すでに恵は時間の感覚を失っていた。もう1時間は怒られた気分だ。しかし、サラの責めは続く。外堀を埋めた兵は、いよいよ城に向けて進軍を開始する。
「そのリュックの中からとっても香り高い笹の匂いがしますわ……本当に優雅な香り。でも、その笹を手に入れるのはとても困難だと、何かの本に書いてありましたわよ。東京ですと……そうですわね、どのあたりだったかしら……」
「サラ姉、私とその笹との関係はね、話は数日前に遡るんだけど……」
「アルバイトのお金を握り締めて嬉しそうに百貨店に行って、うまいもの物産展の行列に並んだんでしょう。本当に恵さんらしいわ。食べ物に必死になるところはいつも通りですわ……」
「そうそう、その釜飯にその笹が話の中でセットになってて! その匂いが全身に染み付いてるとこういうわけで……」
「そういうことでしたのね。これで話は全部繋がりますわ。」
「ドキっ!?」
サラの言葉に過敏な反応を見せた恵は、今まで決して見なかった彼女の顔を見る。一方のサラは恵をまっすぐに見据えて自分が推測した事実を話し始めた。
「ここ数日は興信所さんが獲得した依頼を解決するためにそこでお世話になってるって聞いてましたけど、まさか泥棒の片棒を担いでいるとは思いませんでしたわ。恵さんが思っている以上にあそこの釜飯は有名で、販売中止はすぐにニュースになって……ちょうどその後かしら、恵さんが嬉しそうにタンスの奥から割烹着を取り出したのは。」
「えっ、えっ……」
「割烹着とサングラスを一度に使ったなら、考えられることは『変装』以外にないですからね。まさかサングラスをして給食のおばさまのアルバイトに行ったとは思えませんし……何よりもお食事を作るところで恵さんが不衛生なサングラスを使うわけがありませんでしょう?」
「そりゃそうだ!!」
「となると、結局は変装してどこかに潜り込んだことになりますわね……」
「……………………」
恵が崇拝する食事の話を持ち出され意気盛んに吠えたまではいいが、すぐさまそれをサラに切り返されてしまう。胸を大きく叩いたポーズのまま固まってしまう恵……左の額から大粒の汗が流れ出す。こうなるとサラは止まらない。兵は城内になだれ込んで行く……サラは真綿で首をしめるがごとく、回りくどい言葉で恵を責め立てる。端正な顔立ちのサラだが、この時ばかりはつんとしていた。
「あのね恵さん、釜飯が食べられなかったからといってそういう安易な行動に出てはいけませんわ。詳しく状況を説明しませんけど、わかっておいででしょう? 特に今回の場合は不法侵入に窃盗、さらに国の機関への侵入ですからスパイ容疑をかけられても仕方がないです……身元引受人になって警察署に出迎えに行く私の身にもなって欲しいの。きっと警官さんはあなたのことを『大食らいの女』とか言い出すに決まってるんですから。そんな恥を私に等しく分け与える行為だけは止めていただきたいですわ。」
「ちょっと待った! サラ姉は私の恥をかぶりたくないからそんなこと言ってるのか?!」
「恵さんの名前はゴシップ紙の三面を飾り、ここの住所がでかでかと掲載され、私は職場で見ず知らずの学生から『大食らい』と罵られるのが怖いの。」
「それは言われないと思うんだけど……」
「でも逮捕は免れないわよ……それにふたり揃って大学もクビになるでしょうし……」
「んがんん。」
ああ言えばこう言うではないが、恵がとんちんかんなサラの言い分に反撃すると、すぐに正論を持ち出され言葉に窮してしまう。こんな感じで延々と説教が続いた……恵が部屋を逃げ出そうとするとサラがそれを追い、トイレに入っても戸口の前で囁くように説教が紡がれる。そんな果てしない時間をふたりで過ごしたのだった……
数時間後……
「恵さん、これに懲りて不条理で困った依頼を受けないように気をつけてくださいね。」
「……………はぁ、はぁ、わ、わかりました……今後は、気を付けます……………」
「素直で結構です。」
舞台は再びリビングに戻っていた。ガラスのテーブルに突っ伏している恵が降参すると、満足そうにサラが頷いた。その言葉を聞いた恵は突然むっくり起き上がり、ぱあっと笑顔になってリュックの中からもうひとつの包みを丁寧に取り出した。それは家に帰るとき持っていた釜飯弁当の包みとまったく同じだった。彼女はサラのためにおみやとしてそれを持って帰っていたのだ。それをそそくさと差し出す恵……
「ところでサラ姉、釜飯食べる?」
「自分で買いに行きましたわよ……親戚の暴挙で食べられたなんて、癪だわ。」
「か、買った!? なんでなんでなんで、百貨店にも売ってないのに……確か今になって作り始めたはずなのに!?」
恵の疑問はサラによってさらに深まってしまう。彼女が自分より身長の低い冷蔵庫の上から持ってきたのは確かにあの釜飯だった。同じ包み、同じ形……恵は開いた口が塞がらなかった。
「あ……あ……お、同じ……同じ釜飯……?」
「さ、一緒に頂きましょうか。恵さんはその盗んできた報酬に頂いた釜飯をたっぷり召し上がれ。」
「あう……」
サラは驚きっぱなしの恵に笑みを送る。そしてこう言った。
「恵さんの気持ちは、ちゃんとありがたく受け取っておきますわよ。ご心配なく。」
「サラ姉……」
「じゃ、頂きましょうか。」
「おお〜!」
サラが見せたやさしさは今度こそ顔中をほころばせていた……それを見た恵は大喜びで釜飯弁当の包みを開ける。恵が自分の心配を素直に受けとめたと確信したサラもそれ以上の小言は止め、楽しく高級弁当を楽しもうと箸を手に持つ。
「いっただきま〜〜〜す! 数時間振りの感動〜〜〜!!」
「お弁当は冷めてもおいしく食べられるかどうかがポイントですけど……これはどうでしょうね。」
サラと恵の楽しい笑い声は夜が明けそうな時間に部屋中で響いた……
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