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<東京怪談ノベル(シングル)>


■水の記憶■

 黄昏時の太陽を遠くに眺めながら、セレスティ・カーニンガムは深い溜息をつく。
 つい先程まで仕事に精を出していたが難航すると分かるや、一旦、休憩を取ることに決めたのだった。この仕事は多分、明け方まで続くだろうか。
 ハッカーによるデータ破壊を許すなど論外だった。
 パスを変えるだけですむような代物ではない事は分かっている。
 となれば、システムを丸ごと変えねばならない。
 財閥の中枢を担う部署で無いから良いものの、それでも支障はあった。
 それよりも当財閥に手を出してくる輩に興味がある。何故そうした無謀な挑戦をしようというのか、前々から聞いてみたかったのだ。
 長い時間を掛けて組み上げた架空のシステムに引っかかってくれるかどうか、今から少々楽しみでもあった。
 冬を迎えた美しい庭に目をやって、眩しい夕日を浴びた。
 海の中にいたときにいた時には見る事も無かった、茜色の色彩。
 何処までも包み込み、何者をも飲み込んでしまう藍色の深海とは全く正反対の存在。

 太陽。

 すべてのモノを愛する。

 唯一の存在。

 汝の名は、太陽。

 私たちの憧れ。

 ぼんやりと眺めてしまったセレスティは目を閉じ、未だ焼きついている残像を振り切るように背を向けた。
 どんなに愛しても、焦がれても、常人と同じ時間眺めている事は出来ない。
 人魚であった頃の名残か、極度の弱視である自分には光に対する痛みと圧迫感という枷がついて回るのだった。

「セレスティ様」
 不意に声が聞こえてセレスティは振り返った。
 光の強い庭を見つめていた所為か、多少は眼振が起きる。瞳の奥に残る疲労は頭痛にも繋がるだろう。
 窓から顔を背け、ゴブラン織りのカーテンを引く。
 そして逸早く、部屋に宵闇が訪れた。
 何度か目を瞬かせ、溜息を吐けば、初老の執事がじっと立ったまま微笑んでいた。
「あぁ……そこにいたのですね?」
「はい、先程から。お疲れのようでしたので、声を掛けるのが躊躇われました」
「余計な気を使わせてしまいましたね」
「いいえ、とんでもございません。よろしければ、湯浴みなどなさってはいかがでしょう? 疲れは早いうちにとってしまった方が良いかと思いますので」
「なるほど…そうですね。随分と根を詰めてしまいましたし、休憩することとしましょう」
「それがよろしいかと存じます」
 そう言って、執事は流れるような所作でドアを開ける。
 セレスティは杖をついて、ゆっくりとバスルームに向かった。


  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  


 ドアを開けると、セレスティはシルクのタイに手を掛けた
 タイが擦れる音が鼓膜を擽る。
 一級品のイタリアンハンドメイドのタイはセレスティの愛用品だった。通常の2倍に布を使うタイは、イタリアのものが殆どで質も違う。
 貝細工のボタンを外し、上質の木綿のシャツを肌蹴た。シルクのクルミボタンのカフスを外し、アクセサリデッシュに置く。
 客人の突然の訪問のためにある程度の身だしなみは整えているが、目が不自由なために時計は着けていない。
 身につけている装飾品といったらそれぐらいのものである。あまり身につけても怪我をするだけで、かえって危なかった。
 その代わりセレスティは服に拘っている。
 財閥の総帥といえども、広告塔である事には代わりが無い。
 服に拘るのは商売柄とも言えた。
 チャコールグレイ地のジャケットを脱ぐと執事に手渡す。無言で執事は受け取った。
 「男のスーツはミリ単位」といったのは、ファビオ・ボレッリだったが、クラシカルなスーツの妙味は、雅にそこに尽きる。
 ミリ単位の中でモダニズムを表現し、また流行に左右されない洗練された、常に新しく美しいプロポーションを保たねばならないのだ。
 それをぴしりとセレスティは着こなす。主人の着替えの度に体躯は思った以上に細いと執事は思うのだった。
 透かし模様の無い無地のシャツに手を掛けて、一つ一つボタンを外していけばまた執事に渡していく。裸体になったところで、執事がバスローブを渡した。
 白い肌は透ける様で、蒼白いような印象も受ける。
 白いバスローブを纏ったセレスティはジャグジーの方へと向かった。
 仕事に疲れることの多いセレスティは長く体力を持たせるために、イギリス建築様式の屋敷の中にそれを作った。
 統一感は保たれているものの、異様に大きいバスルームはジャグジーと言うしかなく、屋敷の者は皆そう呼んでいる。
 毎日ここを掃除するのは大変な苦労があった。
 イズニックのタイル工房に直接指示して作られたジャグジーは、何処かオスマントルコ時代のイメージを醸し出している。喩えて言うならば、ブルーモスク風の個人浴場と言った趣があった。
 幸いにしてこの近辺は都会ながら温泉が湧き出ている。ただし、温度が低すぎるために一回沸かさねばならなかった。そのために地下50M程を掘って水脈を引き込んで使用していた。

 セレスティはバスローブを脱ぐと、藤細工のコーナーソファーにそれを置く。
 薄闇の中に僅かな陽光が差し込んで、白いセレスティの背を茜色に染め上げた。
 青い花模様のタイルが満々と湛えた湯を青く彩る。静かに足を入れれば心地よい温度の湯の感触を感じた。
 瑞穂の国・秋津島と言うだけあって、日本の水は澄んでいて心地が良かった。
 しんと沁みるような湯の美しさを感じながら、湯の中に身を沈めた。
 道徳や精進潔斎が好きな日本民族の神々に守られているだけあって、日本の水は全てを洗い清めるような清らかさがある。
 セレスティは湯を手で掬ってみた。
 太平洋が近い東京の温泉は塩湯だ。…と言っても、然程塩分が強くはないが。
 長い銀髪が湯の中で扇状に広がる。湯に髪を委ねたまま、セレスティは身を沈めて浴槽の中を泳いだ。
 深さも広さもやっと泳げるほどだが、セレスティにとっては何よりの楽しみだった。何もかも解き放って水に体を預ける瞬間は、昔の記憶を思い出させる。
 人魚としての形態を失った今でも、自分の中に刻まれた水の眷属の記憶はこうして蘇っていた。
 遠く波音を聞きながら、月を愛でた幼い自分。月夜に逃げた王女の話を聞いたのも、そんな美しい夜だった。

 七つの海の覇者の妃になった美しい王女の月の歌。
 金色の羽が舞い降りる夢を見た母妃の歌。
 人魚を守った王の物語も……

 水の中をするりと滑るように泳ぐセレスティは、ふと水面から顔を上げた。
 巨大な一枚硝子をはめ込んだ窓の上方に白く切り抜かれたような月が浮かび、今でも水の中を自由に泳ぐセレスティを見ている。
 セレスティは月を見つめ返した。

 体に染み込んだ水の記憶は、幾千の日と夜を越えて来た月の記憶でもあった。

 ■END■